第三百話
白い床の上に、三つの頭が並んでいた。
窓のない礼拝堂の中央。
燭台の火が、白い壁に揺れる影を落としている。
その真ん中で、白峰透、雨鏡鏡花、疾風早苗の三人が、揃って正座させられていた。
三人とも、頭のてっぺんに、見事なたんこぶを一つずつ作っていた。
帳の奥の玉座は、空だった。
代わりに、三人の正面に、一脚の木の椅子が置かれている。
そこに、天城焔が脚を組んで座っていた。
白いセーター姿のまま、法衣も纏っていない。
右の掌には、透の細剣を握り潰した時の火傷の痕が、薄く赤く残っていた。
「……いつまで、こうしていればいいんですか」
早苗が、正座した膝をもぞもぞと動かした。
金色に染めた髪の根元で、黒い地毛が乱れている。
「足、痺れてきたんですけど」
「朝まで」
「朝まで!?」
「正座は、戦姫の寮の伝統よ」
焔は、表情一つ変えずに言った。
「門限を破った子は、朝まで食堂で正座。……あなたは寮にいなかったから知らないでしょうけど」
「知らないですよ、そんな伝統……!」
早苗の抗議を、焔は聞き流した。
隣で、鏡花が小さく肩を震わせていた。
笑いを堪えているのか、痛みを堪えているのか、判別がつかなかった。
「……懐かしいですね」
鏡花が、ぽつりと言った。
「私、一度だけやりました。奈々美先輩と一緒に」
「覚えてるわ」
焔は、少しだけ目を細めた。
「窓から見るだけじゃ足りないって、寮の裏の小川まで蛍を見に抜け出した夜でしょう。……あの子が、泣いてるあなたを連れ出したのよ」
「……はい」
「朝まで、二人並んで正座してたわね。……あの子、途中で寝てたけど」
鏡花は、俯いて笑った。
肩の上で切り揃えた髪が、小さく揺れた。
透だけが、黙っていた。
背筋を伸ばし、両手を膝の上に揃えて、まっすぐに前を見ている。
溶け落ちた細剣の柄だけが、その膝の脇に置かれていた。
「……処分を、言い渡すわ」
焔は、椅子の背にもたれた。
三人の背筋が、同時に伸びた。
「一つ。あの音のない子との取引は、今日で終わり。凪の術式は、二度と使わせない」
「……はい」
「二つ。三人とも、当面はここから出ることを禁じる。……外の空気が吸いたければ、中庭までよ」
「……はい」
「三つ」
焔は、三人の顔を順番に見た。
「汐里に、手紙を書きなさい。……一人一通。謝罪の手紙よ」
早苗が、顔を上げた。
「私、第七とはほとんど話したことないんですけど」
「だから書くのよ」
焔の声は、静かだった。
「顔も知らない相手を、潰しに行ったんでしょう。……なら、せめて、名前くらい覚えなさい」
早苗は、何も言い返せなかった。
「以上よ」
焔が、椅子から立ち上がりかけた時。
「……焔様」
透が、口を開いた。
「一つだけ、伺ってもよろしいでしょうか」
「なに」
「奈々美を、どうなさるおつもりですか」
礼拝堂の空気が、僅かに張り詰めた。
焔は、しばらく透の顔を見下ろしていた。
それから、ゆっくりと椅子に座り直した。
「……決着をつけるわ」
「決着」
「ええ。あの子と、私で」
焔は、自分の掌の火傷の痕を見下ろした。
「迎えに行くのは、やめる。……代わりに、ちゃんと向き合うの。二十年分、まとめて」
透は、しばらく黙っていた。
「……勝てるとお思いですか」
「分からないわ」
焔は、正直に答えた。
「寮跡で、あの子の雷を見たでしょう。……二十年のブランクなんて、なかったみたいだったわ」
「……」
「でも、それでいいの。勝ち負けじゃないのよ、これは」
鏡花が、小さく手を挙げた。
「……あの、焔様」
「なに」
「先輩、たぶんフライパンで来ますよ」
焔が、目を瞬いた。
「……は?」
「寮にいた頃、先輩、夜食を作ってる時に魔獣警報が鳴ったら、フライパン持ったまま出撃してましたもん」
焔は、しばらく鏡花の顔を見つめていた。
それから、吹き出した。
「……まさか」
「本当ですよ。三回見ました」
「決闘に、フライパンで来る人がどこにいるのよ」
「先輩なら、来ます」
鏡花は、たんこぶをさすりながら、少しだけ得意げに言った。
「……あの人、そういう人ですから」
焔は、何も答えずに笑っていた。
その笑い声が、白い礼拝堂の壁に、久しぶりに響いていた。
夜明けの住宅街に、薄い霧が立ち込めていた。
三神澪は、白百合の夜間巡回を終えて、自宅への道を歩いていた。
背中まで届く長い黒髪が、朝の湿った空気を吸って重くなっている。
一晩中、別の地区を回っていた。
目の奥が、じんと痛んだ。
家の近くの角を曲がった時、近所の老婦人が、ゴミ出しの袋を手に立ち話をしていた。
「……夜中にねえ、お隣の洋館のあたりで、何か光ってたのよ」
「光って?」
「赤いのが、ぼうっと。火事かと思って窓を開けたら、何も聞こえなくてねえ」
「寝ぼけてたんじゃないの」
「そうかしら」
澪の足が、止まった。
赤い光。何も聞こえない。
その二つが、頭の中で嫌な形に結びついた。
澪は、早足で家に向かった。
玄関の鈴が、三つ鳴った。
「お母さん」
台所の暖簾の向こうから、奈々美が顔を出した。
エプロン姿で、手には布巾を持っている。
いつもの、朝の母の顔だった。
「あら、おかえりなさい。お疲れさま」
「昨日の夜、何かあった?」
澪は、靴を脱ぎながら、単刀直入に聞いた。
「近所で、隣の屋敷のあたりが光ってたって話になってる」
「そうなの?」
奈々美は、首を傾げた。
「……ちょっと、お隣でお客様がいらしてたみたいね。夜遅くまで賑やかだったわ」
「賑やか? 何も聞こえなかったって、言ってたけど」
「あら。じゃあ、静かなお客様だったのね」
奈々美は、あっさりとそう言って、台所に戻っていった。
澪は、廊下に立ち尽くしたまま、母の背中を見ていた。
何かを隠している。
それは、分かった。
だが、この人が隠そうと決めたことを、正面から聞き出せたためしは、これまで一度もなかった。
台所の奥では、零が流しに向かっていた。
長袖のシャツの袖を、手首まできっちりと下ろしている。
冬の台所では、珍しいことではない。
だが、澪は、弟が鍋を持ち上げる時、ほんの一瞬だけ左肩を庇ったのを見逃さなかった。
「……零」
「おかえり、姉ちゃん」
「肩、どうしたの」
零の手が、一瞬だけ止まった。
「……寝違えた」
「また?」
「また」
居間から、寝癖のついた玲奈が顔を出した。
「お兄ちゃん、また怪我? この前の右腕、治ったばっかりじゃん」
「今度は左」
「……何やってるの、ほんとに」
玲奈は、呆れたように溜息を吐いて、洗面所へ向かった。
居間のソファでは、五郎が新聞を広げていた。
出勤前のネクタイを、まだ締めていない。
その目は、紙面ではなく、新聞の縁の上から、台所の妻と息子の背中を交互に見ていた。
五郎は、何も言わなかった。
昨夜、妻と並んで窓辺に立っていた。
音のない夜の中で、隣家の庭に紅蓮の炎と漆黒の影が揺れていたのを、見ていた。
そして、夜明け前に、息子の部屋の窓が小さく軋む音を、布団の中で聞いていた。
五郎は、新聞を一枚めくった。
見出しの文字は、一つも頭に入ってこなかった。
同じ日の夕方。
翼の家の居間には、円卓の面々が集まっていた。
ゴースト、緋雪、凛花、白鳥。
ヴィクトリアとルディア、それから真里。
縁側の向こうでは、奈緒が翼の家の少女たちと一緒に、庭に落ちた土塁の欠片を片付けていた。
通りを塞いでいた土の壁は、昼のうちに星監の作業員が撤去していた。
門柱の丸い看板だけは、傷一つついていなかった。
「まず、捕縛した二名について」
ヴィクトリアが、手元の資料を置いた。
「第四使徒・柊木静と、第十二使徒・永瀬久遠。……二人とも、今は星監の施設で拘束しているわ」
「身柄は、どちらで預かりますか」
凛花が、静かに問うた。
「研究機関の情報を持っている以上、聴取が必要ね。……ゴースト様の『知り合い』のところが、一番安全だと思うけれど」
ヴィクトリアは、意味ありげにゴーストを見た。
ゴーストは、短く頷いた。
「……そちらに、預けるわ。第三使徒や、第九使徒と同じところに」
「異論は?」
「ございませんわ」
ルディアが頷いた。
「久遠さんの話では、海の向こうの研究機関は、第九使徒の代わりに新しい窓口を探しているそうです」
真里が、報告を補足した。
「器……奈緒さんを、まだ諦めていないと」
居間の空気が、僅かに重くなった。
縁側の向こうで、奈緒が土の欠片を両手に抱えて笑っていた。
隣の少女に何か話しかけられて、こくこくと頷いている。
「……研究機関のほうは、星監で追うわ」
ヴィクトリアが、静かに言った。
「海の向こうのことなら、私たちのほうが慣れているもの」
「お願いするわ」
ゴーストが、頭を下げた。
「それと」
ルディアが、袖を口元に当てて、凛花のほうを見た。
「奈緒さんが、昨夜、見事な技をお使いになりましたわね」
「……え?」
「凍らせて、燃やして、また凍らせる。……柊木静の大盾を、真っ二つに割りましたわ」
凛花の顔が、みるみる赤くなった。
「そ、それは」
「奈緒さんは、『りんかさんが、おしえてくれた』と仰っていましたわ」
「……あ、あれは」
凛花は、両手で顔を覆った。
「河川敷で、魔獣を片付けた後に、雑談のように話しただけで……。石は、急に冷やして急に熱すると割れやすいって、理科の話を……」
「理科の話で、使徒の盾が割れましたのね」
「……っ」
凛花の耳まで、真っ赤になっていた。
緋雪が、隣で小さく吹き出した。
白鳥も、縁側の奈緒を見ながら、くすくすと笑っていた。
その笑いが収まった頃、ヴィクトリアとルディアの視線が、一瞬だけゴーストの左肩に落ちた。
ドレスの布地の下に、昨夜の浅い傷がある。
ゴーストは、何も言わなかった。
二人も、何も言わなかった。
ただ、会議が終わって席を立つ時、ヴィクトリアがすれ違いざまに、小さな紙袋をゴーストの手に押しつけた。
中身は、星監の医療班が使う、傷用の軟膏だった。
同じ日の、日が傾き始めた頃。
三神家の庭で、奈々美が洗濯物を取り込んでいた。
冬の洗濯物は、昼を過ぎるとすぐに冷たくなる。
奈々美は、乾ききったタオルを一枚ずつ畳みながら、籠に入れていった。
夕焼けが、垣根の上を橙色に染めている。
その垣根の向こうに、人影が立った。
奈々美の手が、止まった。
長い髪を緩くまとめた、二十三歳ほどの美しい女だった。
白いセーターの上に、落ち着いた色のコートを羽織っている。
法衣も、薙刀もない。ただの、私服の若い女に見えた。
天城焔だった。
「……先輩」
「こんばんは、奈々美」
焔は、垣根越しに軽く手を上げた。
「洗濯物の途中だった?」
「ええ。……もうすぐ、終わるわ」
隣の屋敷の二階の窓で、カーテンが僅かに揺れた。
汐里が、錫杖を抱えたまま、窓辺から二人を見下ろしていた。
昨夜の消耗から、まだ顔色が戻りきっていない。
焔は、その窓を見上げた。
「……汐里」
窓越しに、焔が小さく頭を下げた。
汐里は、少しだけ目を見開いた。
それから、同じように、窓の向こうで深く頭を下げた。
焔は、奈々美に向き直った。
「昨夜は、うちの子たちが迷惑をかけたわね」
「……」
「透も、鏡花も、早苗も。それから、静と久遠も」
焔は、垣根に手をかけた。
「全員、私の監督不行き届きよ。……ごめんなさい」
奈々美は、畳みかけのタオルを胸に抱えたまま、しばらく先輩の顔を見つめていた。
「……静ちゃんと、久遠ちゃんも」
「ええ。あの二人は、あなたの子たちの仲間に捕まったわ」
「……そう」
奈々美は、少しだけ目を伏せた。
「二人とも、元気だった?」
「元気よ。……あなたの顔を見られないって、泣き言を言ってたそうだけど」
奈々美は、何も答えなかった。
ただ、タオルを抱える指に、少しだけ力がこもった。
「それでね、奈々美」
焔の声が、少しだけ改まった。
「今日は、申し入れに来たの」
「……申し入れ」
「決着をつけましょう」
夕焼けの光が、焔の横顔を赤く染めていた。
「あの寮で。……あなたと、私で」
奈々美は、黙っていた。
「迎えに行くのは、やめるわ。もう、あなたを連れていこうとはしない」
「……」
「代わりに、一度だけ、ちゃんと向き合いたいの。……二十年前、私は、辞めていくあなたに何も言えなかったから」
焔は、垣根の上に両手を置いた。
「あなたが勝ったら、聖薬の扱いは、あなたの言うとおりにするわ」
「私が負けたら?」
「何もしないわ」
焔は、あっさりと言った。
「あなたの家族にも、汐里にも、もう手は出さない。……ただ、私が、あなたに勝ったという事実だけが残る」
「……それだけ?」
「それだけで、十分なのよ」
焔は、少しだけ寂しそうに笑った。
「二十年、あなたの背中を追いかけてきたんだもの。……一度くらい、追いつきたいじゃない」
奈々美は、長い間、何も言わなかった。
夕焼けが、少しずつ色を失っていく。
垣根の向こうで、焔は黙って答えを待っていた。
奈々美は、胸に抱えていたタオルを、洗濯籠の中にそっと置いた。
それから、顔を上げた。
「……晩ご飯までには、帰るわよ」
焔が、目を瞬いた。
一拍の後、焔は声を上げて笑い出した。
垣根に手をついて、肩を震わせて、心の底から可笑しそうに。
「……ええ、ええ。そうね」
焔は、目尻の涙を指で拭った。
「晩ご飯までに、決着をつけましょう」
「日は、いつ?」
「あなたの都合に合わせるわ。……献立を決めてから、教えて」
焔は、垣根から手を離した。
「それじゃあ、また」
「……先輩」
背を向けかけた焔を、奈々美が呼び止めた。
「右手」
「……」
「火傷してるでしょう。……ちゃんと、冷やしなさいね」
焔は、振り返らなかった。
ただ、右手を軽く上げて、夕闇の中へ歩いていった。
三神家の二階。
零は、自室の窓の陰から、垣根越しの二人を見下ろしていた。
声は、ほとんど聞こえなかった。
だが、母が洗濯籠にタオルを置いた仕草と、焔が声を上げて笑った姿で、何が決まったのかは分かった。
——次は、あの子と私の話よ。口を出さないで。
昨夜、陽炎の中に消える前に、焔はそう言った。
零は、窓枠を握りしめた。
口を出すな、と言われた。
だが、母が戦う場所に、行かないという選択肢は、最初からなかった。
窓の外で、夕焼けの最後の光が消えていく。
同じ頃。
郊外の山の麓。
蔦に覆われた戦姫の旧寮舎の、崩れかけた門の前。
その一角だけ、夕暮れの音が消えていた。
虫の声も、風に揺れる枯れ枝の音も、遠くの車の音も。
半径数メートルの、小さな凪。
人の形をした何かが、錆びた門柱に長い指を触れていた。
失われた片腕の跡から、紫色の光が微かに漏れている。
「……炎と、雷」
温度のない声が、夕闇に溶けた。
「もう一度、ここで」
凪が、静かに解けていった。




