第二百九十九話
大盾の縁が、アスファルトに突き立った。
鈍い音が、真夜中の住宅街に響いた。
盾を中心に地面がひび割れ、割れ目から土が盛り上がって、翼の家の前の通りを横切るように低い土塁が立ち上がる。
通りの両端が、塞がれた。
逃げ道を断つための壁ではない。援軍を入れないための壁だった。
「……派手ね、静」
永瀬久遠が、腰の拳銃を二丁とも抜いた。
「派手にやれって言ったのは、あなたでしょう」
柊木静は、盾の陰から翼の家の門を見据えた。
丸い看板が、街灯の光を受けて静かに揺れている。奈緒が小さな翼を描き足した、少しいびつな看板だった。
静は、そこから目を逸らした。
「私たちの仕事は、騒ぐことよ。……壊すことじゃない」
久遠は肩をすくめ、夜空に銃口を向けた。
撃ち出されたのは、弾丸ではなかった。炎の塊が花火のように真上へ昇り、真夜中の空を一瞬だけ赤く染める。この辺り一帯の、どこからでも見える光だった。
「さあ、来なさい。……器を、迎えに来たわよ」
玄関の戸が、静かに開いた。
白の礼装を纏った黄金の髪の女と、黒いコートの襟を立てたプラチナブロンドの女が、並んで門の前に出てくる。
「花火を上げるなら、せめて夏にしなさい」
ヴィクトリアの指先で、紫電が灯った。
「この家には、子供たちが眠っておりますの。……夜更かしは、身体に毒ですわ」
ルディアが、穏やかに微笑んだ。
「器を渡してくれたら、すぐに帰るわ」
「お断りいたしますわ」
ルディアの即答に、久遠が吹き出した。
「気持ちいいくらいの即答ね」
「あの子は、器ではございません。……奈緒さんという名前がございますの」
家の奥では、須藤真里や堀宮子、レイラ、シルヴィアが子供たちを一番奥の部屋に集めていた。
八人の少女たちが、寝間着のまま身を寄せ合っている。詩織が、まひろの手を握りしめていた。
白鳥が、全員の前に立って両手を広げている。
「大丈夫。……外には、強い人たちがいるから」
白鳥の声は、震えていなかった。
同じ頃。
三神家の隣の庭では、凍りついていた芝生から、白い湯気が立ち上っていた。
ついさっきまで、庭は冬の夜よりも冷たかった。透の細剣が触れた場所から霜が這い、塀の影も庭木の根元も、薄い氷に覆われていた。
それが今、焔が一歩踏み込んだだけで、端から溶けていく。
凪の中では、その音さえ外へは届かない。月明かりの下で、白い湯気だけが、音もなく夜空へ昇っていった。
ゴーストの喉元から、細剣の切っ先がゆっくりと離れていく。
炎の薙刀に押し返された白い刃から、細い蒸気が糸を引いていた。
透は細剣を引いた。だが、下ろしはしなかった。
「……焔様。なぜ、ここに」
「汐里の魔力が、急に削れたのよ」
焔は、薙刀を片手で下げたまま答えた。
「寮跡で、あの子が奈々美に力を流すのを見たもの。……あの道が夜中にあんなに暴れれば、嫌でも分かるわ」
屋根の上で双子と斬り結んでいた鏡花と早苗も、動きを止めていた。
「透。説明しなさい」
「……奈々美を、戦わせないためです」
透は、細剣の柄を握り直した。
「汐里がいる限り、あの子はいつでも昔の姿に戻れる。戻れるなら、いつか必ず戦う。……焔様も、ご存じでしょう」
「ええ。だから、汐里を潰すの?」
焔の声は静かだった。静かなまま、庭の空気がまた一段、熱を帯びた。
「汐里は、泣きながら防壁を張り続けて、あの子の背中を守ってきた子よ。その子を潰して守った平穏を、奈々美が喜ぶと思う?」
「……それでも、私は」
透の目に、淡い光が宿った。
「あの子を、もう一度戦場に立たせたくない。……二十年前、あの子を送り出した時に、そう決めたんです」
「そう。……なら、仕方ないわね」
薙刀の穂先が、ゆっくりと持ち上がった。
「それを決めるのは、あの子よ。あなたでも、私でもない」
次の瞬間、透の細剣が奔った。
狙いは焔ではなかった。その脇をすり抜けて、背後の防壁の、ひびの一番深いところへ。
ゴーストが、動いた。
焔の熱が、庭中の氷を溶かし尽くしていた。塀の影も庭木の影も、元の黒さを取り戻している。
影に沈み、次に浮上したのは、防壁の真正面だった。
——ギィンッ!
漆黒の大剣が、白い細剣を横から叩き落とした。
「……影が、戻って」
「あなたの氷は、私の前では長く保たないのよ。……昔から、そうだったでしょう」
焔の薙刀が、いつの間にか透の背後に回り込んでいた。
ゴーストは、大剣を構え直しながら、焔の横に並んだ。
右胸の奥が、鈍く軋んでいる。まだ完全には塞がりきっていない傷が、息を吸うたびに内側から引き攣れた。
それでも、今夜は一人ではなかった。
寮跡の中庭であれほど重い一撃を浴びせてきた相手が、今は同じ方向を向いて立っている。
「……手伝ってくれるの」
「勘違いしないで。私は、奈々美の庭を荒らされたくないだけよ。……あなたのためじゃないわ」
「……それで、結構よ」
焔は、前を向いたまま、ほんの僅かに口の端を上げた。
「透は私がやるわ。あなたは、鏡花をお願い」
翼の家の前の通りでは、炎の弾丸が雨のように降り注いでいた。
久遠の二丁拳銃が、途切れることなく火を噴く。一発一発が拳ほどの火球で、当たれば骨まで焼ける。
ルディアが片手をかざすと、光が壁となって広がった。炎の弾丸は、光の壁に触れた瞬間に火花を散らして弾かれていく。
「……硬いわね」
「わたくしの光は、神使様の御心を守るためのものですもの。この程度で、揺らぐはずがございませんわ」
その隙に、ヴィクトリアの紫電が地面を這い、盾の陰の静を撃った。
だが、何も起きなかった。
紫電は盾の表面を這い、盾を伝って地面へと流れ込み、そのまま土の中へ消えていった。
「……土、ね」
「あなたの雷は、私の盾を通って地面に逃げるわ。何度撃っても、同じよ」
静の声に、ほんの僅かな懐かしさが混じった。
「雷使いの同期がいたの。……あの子の雷も、私の盾だけは通らなかった」
ヴィクトリアは、何も言わなかった。静が誰のことを話しているのか、分かっていた。
光の壁と炎の雨。雷と土の盾。
通りの真ん中で、四人は一歩も譲らなかった。
その均衡を破ったのは、玄関の方角から吹いてきた、冷たい風だった。
「——だめ」
丸い看板の下に、寝間着のまま裸足の少女が立っていた。
紅色の瞳が、二人の使徒をまっすぐに睨んでいる。
奥の部屋では、白鳥が一つだけ空になった布団に気づいて、声を上げたところだった。
「奈緒さん!?」
ルディアの声が、初めて乱れた。
奈緒は、両手を広げた。左手に白い冷気。右手に紅蓮の炎。
「ここ、みんなのおうち。こわしちゃ、だめ」
久遠の銃口が、奈緒へ向いた。
放たれた炎の弾丸の前に、氷の壁が一瞬で立ち上がる。突き刺さった弾が壁を溶かし、溶けた先からまた凍る。その壁ごと、奈緒の炎が弾丸を呑み込んだ。
氷が瞬時に蒸発し、爆発的な水蒸気が通りを覆った。
霧が晴れた時、久遠の二丁拳銃の銃身は、白く凍りついていた。
「……撃てない。銃身が、凍って……!」
「久遠、下がって」
静が、盾を前に押し出して踏み込んだ。土の壁そのものが歩いてくるような、重い突進だった。
奈緒は、それを正面から迎えた。
盾の中心の一点に、冷気を叩きつける。間髪入れずに、同じ場所へ炎を叩きつける。
凍らせて、焼く。焼いて、凍らせる。
三度目で、土の盾に蜘蛛の巣のようなひびが広がった。
「石も、こおらせて、もやしたら、われる。……りんかさんが、おしえてくれた」
四度目の冷気で、大盾が真っ二つに割れた。
「——今よ、ルディア・ロンディニウム」
「ええ、ヴィクトリア・ローゼンベルグ」
盾を失った静の身体に、今度こそ紫電が直撃した。土に逃げる道は、もうなかった。
同時に、ルディアの光の奔流が、凍った銃を握ったまま立ち上がろうとしていた久遠を包み込む。
それでも、三人は止まらなかった。
雷がもう一度静を打ち、光がもう一度久遠を包み、奈緒の氷が二人の足首を地面ごと凍りつかせた。
「……まだ、やるの。もう、動けないわよ、こっちは……」
倒れたまま、久遠が掠れた声で言った。
「使徒の『動けない』は、信用しないことにしているの」
「……ひどい、女」
「褒め言葉として、受け取っておくわ」
ルディアが、凍りついた二丁の拳銃を、久遠の手から丁寧に取り上げた。
「子供たちの眠る家の前で、銃を抜いたのですもの。……このくらいで済んで、幸運だと思っていただきたいですわ」
ルディアの微笑みは優しいまま、目だけが冷えていた。
隣家の庭でも、決着が近づいていた。
三体に分かれた鏡花が、ゴーストを三方から囲んでいた。
「焔様の前で、こういうことはしたくなかったんだけど。……先輩のこと、守れなくなるから」
「……あなたも、あの人の後輩なのね」
「四つ下の。……毎朝、髪を結んでもらってたの」
三方から、光の短剣が迫る。
ゴーストは影に沈まず、正面の刃を大剣で受け、右の刃を闇の盾で弾いた。左の刃が脇腹を浅く掠めていく。
痛みは、無視した。
見ていたのは刃ではなく、三体の足の運びだった。
河川敷の報告を、緋雪から聞いている。分身の数を変える瞬間、全ての鏡花が一拍だけ動きを止める。
なら、数を変えさせればいい。
正面の分身に、闇を一気に叩き込んだ。光の輪郭が崩れかけ、三体が二体に変わる。
その瞬間、全ての鏡花がぴたりと動きを止めた。
ゴーストは、一番輪郭の濃い一体の背後の影から浮上し、大剣の腹でその背中を打ち据えた。
鏡花の本体が芝生の上を転がり、残っていた分身が光の粒になって消えた。
「……いった、ぁ……。どうして、本体が分かったの」
「切り替えの一拍だけ、光を配る側のあなたが一番濃くなるの」
鏡花は、力なく笑った。
「……河川敷で、あの銀髪の子に見抜かれたのと、同じね」
庭の反対側では、早苗が風のように双子の間を縫っていた。
ルカの大鎌が空を切り、リリアの双剣が残像を斬る。
早苗がリリアの頭上を越えて着地しようとした芝生に、ゴーストの足元から伸びた闇が、一瞬だけ黒い足場を作った。
踏んだ瞬間、足元が沈む。
「——いまっ!」
ルカの大鎌の柄が、横薙ぎに早苗の脇腹へめり込んだ。倒れた肩を、リリアの双剣の鍔が押さえつける。
「……ん。おしまい」
「ゴースト様、ありがとー!」
ルカが、ぶんぶんと手を振った。ゴーストは、小さく頷き返した。
庭の中央では、透の細剣が何度も焔へ奔り、そのたびに刃が触れる前に蒸気へと変わっていた。
焔は、一度も反撃しなかった。
やがて、透の細剣を素手で掴んだ。白い刃が掌の中で赤く染まり、先端から溶け落ちていく。
「透。奈々美はね、戦わない子じゃないの。戦うかどうかを、自分で決める子なのよ。……二十年前、辞表を出した時も。寮跡で雷を落とした時も」
透の手から、力が抜けた。
「それを、私たちが勝手に決めちゃ駄目なの」
焔は、透の頭に拳を一つ落とした。
鈍い音は、凪の中で誰にも届かなかった。
「……痛い、です」
「痛くしたのよ」
鏡花にも、同じように一つ。早苗にも、一つ。
「焔様、私、面識ないのに……!」
「関係ないわ。凪を持ち込んだのは、あなたでしょう」
焔は、早苗の懐から黒い石片を取り出した。表面に、細い紫色の筋が脈打っている。
「……あの、音のない子の魔力の気配がする」
掌の炎の中で、石片が粉々に砕け散った。
音が、戻ってきた。
遠くの国道のトラックの音。どこかの家の室外機の唸り。瓦を撫でる冬の夜風。
屋敷の二階の窓辺で、汐里が錫杖に縋ったまま床に座り込み、凍りかけていた防壁がただの水に戻って、芝生へ雨のように降り注いだ。
窓辺の汐里は、真っ白な顔で、小さく手を振った。
三神家の寝室では、奈々美が窓辺に立っていた。
胸の奥の水路が、ずっと脈打っていた。目を閉じて道の向こうから水を汲み上げれば、あの頃の身体で庭に降りていける。
だが、そうすれば、汐里の中から三倍の速さで水が消えていく。
奈々美は窓枠を握りしめたまま、動かなかった。
音のない夜の中で、白い湯気と、紅蓮の炎と、漆黒の影だけが動いている。
あの中に飛び込んでいきたい気持ちを、指先ごと窓枠に押しつけていた。
「……行かないのか」
「今、私が行ったら、汐里ちゃんが倒れちゃう。……それに、あの子たちが守ってくれてる」
五郎は黙って妻の隣に立ち、その肩に手を回した。
音が戻った時、奈々美はようやく、長く息を吐いた。
隣家の庭で、焔が顔を上げた。カーテンの隙間の人影と、目が合う。焔はほんの僅かに頭を下げ、窓辺の人影も、同じように小さく頭を下げた。
「この三人は、私が連れて帰るわ。……うちの子たちの始末は、うちでつける」
焔は、薙刀を炎の粒に変えて散らしながら、ゴーストに言った。
「次は、あの子と私の話よ。口を出さないで」
「……約束はできないわ」
「そう言うと思った」
陽炎の中に、焔と三人の姿が溶けて消えた。
翼の家の前では、光の枷で手首を縛られた二人の使徒が、通りの真ん中に座らされていた。
白鳥が裸足の奈緒を抱きしめ、真里がルディアの傍らに膝をついている。
「……海の向こうの研究機関よ。器を欲しがってる連中」
久遠が、観念したように言った。
「でも、本当の目的はそっちじゃない。……陽動よ。本命は、今頃あっち。汐里がいる、あなたの屋敷」
ヴィクトリアの指先の紫電が、激しく揺れた。
走り出そうとした彼女を、静の声が止めた。
「……私たちが、どうしてこっちに来たか、分かる? 奈々美の家には、行けなかったのよ」
静は、割れた自分の盾を見下ろした。
「同期なの。私も、久遠も。同じ年に戦姫に入って、同じ寮で、三年間、同じ釜の飯を食べた。……あの子の顔を、正面から見られる自信がなかった」
静の声は、静かだった。
「透たちは、見られるのよ。……置いていかれた側じゃなくて、先に進んでしまった側だから」
その時、ヴィクトリアのコートの中で、端末が震えた。
凪が解けて、屋敷の常駐員からの連絡が、ようやく届いたのだった。
画面の短い報告を読んで、ヴィクトリアの肩から力が抜けた。
『使徒三名が侵入。第一使徒が介入し、三名を連れて撤収。水瀬汐里、無事』
「……天城焔が、動いたのね」
ヴィクトリアは、端末を閉じた。
隣家の庭では、屋根から降りてきたリリアが、ゴーストの袖を小さく引いていた。
「……ん。肩、血、出てる」
「浅いわ。大丈夫」
「おにーさんのお母さん、ずっと窓のとこにいたよ」
ルカが、三神家の二階を指さした。
カーテンは、もう閉じられていた。その向こうの明かりも、静かに消えていた。
冬の夜風が、濡れた庭を吹き抜けていった。




