↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
未登録の魔法少女  作者: 浅川


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
298/380

第二百九十八話

 湯呑みの茶が、少しずつ冷めていった。

 汐里は、屋敷の二階の窓辺に座っていた。

 両手で包んだ湯呑みから、細い湯気が立ち上っている。

 窓の外には、垣根を挟んで三神家の二階が見えた。

 ついさっきまで灯っていた子供部屋の明かりは、もう全て消えている。

 最後まで点いていたのは、玲奈の部屋の窓だった。それも、十分ほど前に暗くなった。

 零の部屋の窓は、今夜は早いうちから暗いままだった。

 汐里は、その暗い窓をぼんやりと眺めていた。

 この屋敷に越してきて、まだ四日しか経っていない。

 それでも、毎晩この窓辺に座るのが癖になっていた。

 隣の家の灯りが一つずつ消えていくのを見ていると、なぜか心が落ち着いた。

 寮にいた頃、先輩の部屋の明かりが消えるのを確かめてから眠っていたのと、同じだった。

 湯呑みを口に運びかけた時、ふと、耳が違和感を拾った。

 遠くで走っていた車の音が、途切れた。


 汐里は、湯呑みを止めた。


 次に消えたのは、隣家の換気扇の低い唸りだった。

 その次は、屋根の上を撫でる風の音。

 遠くの踏切の警報機。電線が鳴る微かな音。

 世界を満たしていた細かな音が、一つ、また一つと、順番に拭い取られていく。

 最後に残ったのは、自分の呼吸と、心臓の鼓動だけだった。


(……凪)


 汐里は、この静けさを知っていた。

 十二年間、教団の白い礼拝堂の奥で過ごした。

 その間に、何度か、この静けさが礼拝堂の外を通り過ぎていくのを感じたことがある。

 あれは、人の形をした何かが連れてくる静けさだった。

 だが、今ここにあるものは、少しだけ質が違う。

 あの存在そのものの凪よりも、どこか硬く、作り物めいている。


 借り物の凪だ。


 汐里は、湯呑みを窓辺に置いた。

 寝台の脇に立てかけてあった錫杖を手に取る。

 金属の環が、微かに触れ合った。凪の中では、その音さえ外へは届かない。


 窓の外を見る。

 垣根の向こうの三神家は、静まり返っていた。

 この静けさの中では、あの家の誰も、異変に気づかないだろう。

 警報も、悲鳴も、何一つ届かない。


「……先輩の家まで」


 汐里は、錫杖の石突きで床を突いた。


「届かせない」


 水が、湧いた。


 汐里の足元から、澄んだ水が静かに溢れ出した。

 床を這い、壁を伝い、窓を抜けて、屋敷の外へ広がっていく。

 庭を包み、塀を越え、屋敷全体を覆う半球の形を成していく。


 水の防壁だった。


 戦姫の防壁班で、泣きながら張り続けた壁。

 先輩の背中を守るために覚えた、唯一の魔法。

 十二年、固定されたまま一度も揺らいだことのない魔力が、今、この屋敷のためだけに注がれていく。


 壁が、完成した。


 汐里は、窓辺に戻って、外の闇を睨んだ。

 庭の土の上に、三つの影が音もなく降り立った。

 凪の中では、着地の音さえしない。

 月明かりが、三人の輪郭を白く浮かび上がらせていた。

 一人は、線の細い体つきの女。

 白い法衣の上に、雪のように白い細剣を下げている。

 一人は、肩の上で髪を切り揃えた少女。

 淡い色のカーディガンを羽織り、その指先に、光の粒が漂っている。

 一人は、黒髪を金色に染めた女。

 根元に覗く地毛の黒。緑の瞳。指先で、刃の短いナイフを弄んでいる。

 白峰透。雨鏡鏡花。疾風早苗。

 屋敷の門の脇には、星監の常駐員が二人控えていた。

 異変に気づいた二人が、同時に身構える。

 だが、その声は凪の中で誰にも届かず、その動きは早苗の目にとって遅すぎた。

 風が、二人の足元を払った。

 体勢を崩した一人の後頭部に、ナイフの柄が叩き込まれる。

 もう一人が振り向いた時には、その顎を、同じ柄が正確に打ち抜いていた。

 二人の常駐員が、音もなく庭の芝生に崩れ落ちた。


「……殺さないのね」


 鏡花が、倒れた二人を見下ろして言った。


「殺したら、焔様に怒られるもの」


 早苗は、つまらなそうにナイフを回した。


「それに、今日の目当てはこっちじゃない」


 三人の視線が、屋敷を包む水の防壁へ向いた。

 月明かりを受けて、半球の壁が青白く揺らめいている。

 薄く、透き通っていて、それでいて、どんな刃も通さない硬さを持っていた。


「……第七らしいわね」


 透が、細剣を抜いた。


 白い刃の切っ先を、そっと水の壁に当てる。

 触れた一点から、壁が白く濁り始めた。

 薄氷が、水面を這うように広がっていく。

 澄んでいた水が、音もなく凍りついていく。


「水は、凍らせれば、ただの板よ」


 透が、細剣を僅かに押し込んだ。


 ——ピシッ。


 凍りついた壁に、細いひびが走った。

 屋敷の二階で、汐里が錫杖を握りしめた。


 壁が、凍っていく。

 凍った部分から、水の流れが止まり、魔力の巡りが途切れていく。

 汐里は、途切れた部分に新しい水を送り込んだ。

 凍る。送り込む。凍る。送り込む。


 額に、汗が滲み始めた。


(……この人の氷は、硬い)


 白峰透。

 戦姫にいた頃、先輩の、さらに先輩だった人。

 汐里が見習いとして寮に入った時、すでに前線の中核にいた人だった。

 向かいの家の屋根の上で、二つの小さな影が動いた。


「——リリア!」


「……ん。見えてる」


 ルカとリリアだった。


 凪の中で、互いの声さえ届きにくい。

 それでも、二人は視線だけで意思を通わせ、同時に屋根を蹴った。

 赤いリボンが、夜空に弧を描いた。

 ルカの大鎌が、庭の早苗に向かって振り下ろされた。

 刃が、月光を受けて黒く閃く。

 だが、早苗の姿は、そこになかった。


「——遅い」


 風が、ルカの背後で鳴った。

 振り向いた時には、早苗のナイフがルカの首筋のすぐ脇を掠めていた。

 ルカは、咄嗟に大鎌の柄でそれを弾いた。


「……っ!」


「へえ。反応は、悪くないじゃない」


 早苗は、ナイフを逆手に持ち替えて、楽しそうに笑った。

 同じ瞬間、リリアの双剣が鏡花を捉えていた。


 一直線の突き。

 無駄のない、処刑人の剣筋だった。

 だが、剣先が鏡花の胸に届く寸前、その姿が光になって割れた。

 二人の鏡花が、リリアの左右に立っていた。


「……分身」


「福音の鐘の双子ね」


 左右の鏡花が、同時に光の短剣を抜いた。


「可愛い子たち。……でも、今夜は相手をしてあげる暇がないの」


 二つの刃が、左右からリリアを挟み込んだ。

 リリアは、右の剣で一方を弾き、身体をひねって他方を左の剣で受け流した。

 着地と同時に、再び踏み込む。

 凪の中で、刃と刃がぶつかり合う火花だけが、無音のまま散っていった。

 双子は、屋根と庭の間を跳び回りながら、早苗と鏡花を相手に一歩も引かなかった。

 だが、引かないことと、押し返すことは違った。

 二人は、目の前の相手に足止めされている。

 汐里の防壁の前に立つ透には、手が届かなかった。

 三神家の寝室で、奈々美が目を開けた。

 夢を見ていたわけではなかった。

 眠りの底から、何かに引きずり上げられたような目覚めだった。


 胸の奥が、軋んでいた。


 汐里との間に通った、細い水路のようなもの。

 普段は、そこにあることさえ忘れるほど静かな道。

 それが今、激しく脈打っていた。

 水が、ものすごい勢いで、向こう側から汲み出されている。


(……汐里ちゃん)


 奈々美は、布団から身体を起こした。


「……どうした」


 隣で寝ていた五郎が、妻の気配に気づいて目を開けた。


「……分からないわ」


 奈々美は、窓の外を見た。


 カーテンの隙間から見える夜は、いつもと変わらないように見えた。

 だが、静かすぎた。

 冬の夜でも、この町には必ず何かの音がある。

 遠くの国道を走るトラックの音。どこかの家の室外機の音。

 それが、一つも聞こえない。


「……静かすぎる」


 五郎も、同じことに気づいたようだった。


「なあ、奈々美」


「……しっ」


 奈々美は、夫の口元に指を当てた。

 廊下の向こう、玲奈の部屋からは、規則正しい寝息が聞こえていた。

 澪は、白百合の夜間巡回でまだ帰っていない。

 零の部屋は、静かだった。


 奈々美は、窓の外の、隣家の方角を見つめた。

 その目は、もう四十代の母親のものではなかった。

 屋敷の庭で、水の防壁のひびが、蜘蛛の巣のように広がっていた。

 透は、細剣を押し込み続けていた。

 凍りついた壁が、少しずつ、確実に割れていく。


「汐里」


 透が、防壁の向こうの窓辺に立つ汐里を見上げた。


「あなたが、いなければ」


「……」


「奈々美は、戦わなくて済むのよ」


 汐里は、錫杖を握る手に力を込めた。


「……透様」


「あの子に、また剣を握らせる気? 四十を過ぎて、子供が三人もいる女に」


 透の声は、静かだった。

 怒りよりも、どこか哀しみに近い響きを帯びていた。


「私たちは、あの子を置いて先へ進んだ。……だから、せめて、あの子が戦わなくていい場所を守りたいの」


「……」


「あなたが、その邪魔をしているのよ」


 ——ピシィッ!


 防壁のひびが、また大きく広がった。

 汐里は、歯を食いしばった。


 凍っていく。

 送り込む水が、送り込んだそばから凍りついていく。

 この人の氷は、自分の水よりも、強い。


 あと、数十秒。


 その時、屋敷の庭の影が、揺れた。

 月明かりが作る、塀の影。庭木の影。

 その全てが、一斉にざわめいた。

 影の中から、漆黒のドレスの少女がせり上がった。


 ——ギィンッ!


 透の細剣が、弾かれた。


 凍りかけた防壁の前に、大剣を構えたゴーストが立っていた。


「……っ」


 透が、数歩後ろへ滑った。

 細剣を握り直し、目の前の少女を見つめる。


「……黒いドレスの子ね」


「その壁から、離れて」


 ゴーストの声は、低かった。


 巡回から戻る途中だった。

 住宅街の外れで、音が消えていることに気づいた。

 凪域の外縁。その中心が、自分の家の隣だと分かった瞬間、全ての影を踏み越えてここへ跳んでいた。


「……なるほど」


 透は、細剣の切っ先をゴーストに向けた。


「焔様が言っていた子。……焔様に、傷をつけた子」


「……」


「鏡花」


 透が、名を呼んだ。


 屋根の上でリリアと斬り結んでいた鏡花の分身の一体が、光の粒になって消えた。

 次の瞬間、ゴーストの左右に、二人の鏡花が現れていた。


「……っ!」


「ごめんなさいね、双子ちゃん。……こっちのほうが、優先なの」


 屋根の上に残った鏡花の本体が、リリアに向かって微笑んだ。

 庭の中央で、ゴーストは三人に囲まれていた。


 正面に、透。

 左右に、鏡花の分身。


 透の細剣が、正面から奔った。

 ゴーストは、それを大剣で受け止めた。

 刃と刃が触れた瞬間、冷気が大剣を伝って這い上がってくる。

 闇は、凍らない。

 だが、足元の芝生が、みるみる白く凍りついていく。


「……足場を」


「ええ。あなたの闇は、凍らせられない。……でも、あなたが立っている場所は、凍らせられるわ」


 ゴーストの足が、凍った芝生の上で僅かに滑った。

 その一瞬に、左右の鏡花が同時に光の刃を振るった。


 ゴーストは、影に沈んだ。

 凍った地面から、塀の影へ。

 光の刃が、空を切る。


 だが、塀の影から浮上した瞬間、そこにも薄い氷が張っていた。


「……っ」


「影から出てくる場所は、影がある場所だけ」


 透が、静かに言った。


「焔様から、聞いているわ。……だから、先に凍らせておいたの」


 ゴーストは、奥歯を噛んだ。


 右胸が、軋んだ。

 傷は塞がっている。だが、その内側には、まだ鈍い痛みが残っていた。

 踏み込むたびに、呼吸を深く吸うたびに、胸の奥で何かが引き攣れる。


 左右から、光の刃が迫る。

 正面から、氷の細剣が迫る。

 ゴーストは、闇を盾に変えて左の刃を受け、大剣で右の刃を弾いた。

 その隙に、正面の細剣が肩を浅く裂いた。


「……っ、く」


「一人で、よく持ちこたえるわね」


 透は、表情を変えずに言った。


「でも、無理よ。……あなたは、まだ本調子じゃない」


 透の視線が、ゴーストの右胸へ落ちた。


「そこ。……庇ってるでしょう」


 ゴーストは、答えなかった。

 背後の防壁の向こうで、汐里が錫杖を握りしめている。

 壁のひびは、ゴーストが割って入ったことで、辛うじて広がりを止めていた。

 だが、汐里の顔は、真っ白だった。

 この壁を張り続ける限り、汐里の魔力は削れていく。

 そして、もし母が今、変身すれば——

 汐里の中から、三倍の速さで魔力が消えていく。


(……それだけは、させない)


 ゴーストは、大剣を構え直した。


 透の細剣が、再び奔った。


 ゴーストは、それを受け止めた。

 だが、受け止めた瞬間、凍った足元が滑った。

 体勢が、崩れる。


 左右の鏡花が、同時に踏み込んだ。

 光の刃が、ゴーストの大剣を上から叩き落とした。

 漆黒の刃が、凍った芝生の上に突き刺さる。

 透の細剣が、ゴーストの喉元へ伸びた。

 白い切っ先が、月明かりの中で冷たく光る。

 ——時間が、止まったように感じられた。


 その刹那。


 凪域の中の空気が、一変した。


 冷気が、消えた。

 凍りついていた芝生から、白い湯気が立ち上った。

 夜の庭が、真夏の昼のような熱気に呑み込まれていく。


 ——ガキィィンッ!


 透の細剣が、ゴーストの喉元の寸前で止まっていた。

 その刃を、横から伸びた炎の薙刀が受け止めていた。

 紅蓮の刃が、白い細剣を焼いている。

 氷の刃から、音もなく蒸気が噴き上がった。


 透が、目を見開いた。


 薙刀の柄を握っていたのは、長い髪を緩くまとめた、二十三歳ほどの美しい女だった。

 白いセーターの上に、コートを羽織っている。

 その周りだけ、凍てついた夜の空気が、陽炎のように揺らいでいた。


 天城焔だった。


「……焔、様」


 透の唇から、掠れた声が漏れた。


 焔は、答えなかった。

 ゆっくりと、透の顔を見た。

 それから、左右に立つ鏡花の分身を見た。

 庭に倒れた星監の常駐員を見た。

 ひびの入った水の防壁と、その向こうで真っ白な顔をしている汐里を見た。


 最後に、ゴーストを見た。


「……私の許しなく」


 焔の声は、驚くほど静かだった。

 静かすぎて、庭の空気が、それだけで焼けるように熱くなった。


「奈々美の傍で、刃を抜いたわね」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。