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未登録の魔法少女  作者: 浅川


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第二百九十七話

 三神家の食卓には、いつもの朝食が並んでいた。

 焼き鮭に、だし巻き卵。小松菜のおひたし。豆腐とわかめの味噌汁。

 窓の外はまだ薄暗く、台所の換気扇が低く唸っている。

 冬の朝の、変わらない風景だった。

 ただ、その朝の食卓は、いつもより少しだけ静かだった。


 澪が、黙っていた。


 普段なら、朝から大学の課題の愚痴を言い、玲奈の寝癖をからかい、父の新聞の見出しに口を挟む。

 その澪が、今朝は味噌汁の椀を両手で包んだまま、ほとんど喋らなかった。

 時々、箸を止めて、向かいに座る弟の顔をじっと見る。

 零が視線を上げると、澪はすぐに目を逸らした。


 それが、三度続いた。


「……お姉ちゃん、どうしたの」


 玲奈が、焼き鮭をほぐしながら首を傾げた。


「別に」


「別にって顔じゃないよ。昨日の夜から変だよ」


「考え事してるだけ」


「課題?」


「……まあ、そんなとこ」


 澪は、味噌汁を一口飲んで、また黙った。

 零は、黙ってだし巻きを口に運んだ。

 昨夜、姉は隣家の汐里と、垣根の前で何かを話していた。

 窓から見えたのは、二人の横顔と、姉が長く立ち尽くしている姿だけだった。

 何を話したのかは、分からない。

 ただ、戻ってきた姉の顔が、いつもと違っていたことだけは覚えていた。


 七時半。


 零が玄関で靴を履いていると、背後に足音が近づいてきた。


「……零」


 振り返ると、澪が立っていた。

 大学へ行く支度はもう済んでいて、肩にトートバッグを掛けている。


「なに」


「……あんたさ」


 澪は、言いかけて、少しだけ口ごもった。

 それから、意を決したように、まっすぐに弟を見た。


「ゴーストのこと、どう思ってる?」


 零の手が、靴紐の上で止まった。

 心臓が、一つ大きく跳ねた。

 玄関の空気が、急に冷たくなった気がした。


「……どうって」


 零は、靴紐を結ぶ手を止めないように、指に力を込めた。


「街を守ってる人、だろ」


「付きまとわれて、迷惑じゃないの?」


「……付きまとわれてない」


「本当に?」


「本当に」


 澪は、しばらく弟の横顔を見つめていた。

 何かを確かめるような目だった。

 だが、その先へは踏み込まなかった。


「……そう」


 それだけ言って、澪は零の横をすり抜けて玄関の扉を開けた。

 鈴が三つ鳴り、冬の朝の冷たい空気が流れ込んでくる。


「行ってきます」


 扉が閉まる音が、少しだけ強かった。

 零は、結び終えた靴紐を見下ろしたまま、しばらく動けなかった。


「……澪は、何を悩んでるんだ」


 廊下の奥から、新聞を手にした五郎が顔を出した。

 出勤前のネクタイを、まだ締めきっていない。


「ここ数日、ずっとあの調子だな」


「さあ」


 台所から、奈々美の声が返ってきた。


「年頃なのよ、きっと」


「年頃って、もう大学生だぞ」


「大学生だって、年頃は年頃よ」


 奈々美は、くすくすと笑っていた。

 零は、その笑い声を背中で聞きながら、玄関を出た。

 母は、たぶん、姉が何を悩んでいるのか知っている。

 知っていて、笑っている。


 夕方。


 翼の家の居間には、円卓の面々が集まっていた。

 ゴースト、緋雪、凛花、白鳥。

 星監からはヴィクトリア、福音の鐘からはルディアと真里。

 今日の議題は、隣家に移った汐里の護衛体制と、独断派の動向の確認だった。

 縁側の向こうでは、奈緒と翼の家の少女たちが、庭で洗濯物を取り込んでいた。

 夕暮れの光の中で、笑い声が聞こえる。

 この家に、あの夜の傷跡はもうほとんど残っていなかった。

 丸い看板の下で、日常が静かに回っている。


「では、報告から」


 緋雪が、手元の紙を広げた。

 八咫から届いた報告を、緋雪が円卓向けにまとめ直したものだった。

 ゴーストの「知り合い」が集めた情報。出所は、この場の誰も問わない。


「この数日、翼の家の周辺で、同じ二人組の女性が繰り返し目撃されています」


「二人組」


 凛花が、顔を上げた。


「一人は、大きな盾のようなものを背負っている。もう一人は、腰に何かを下げている。……いずれも、身を隠す様子はないそうです」


「身を、隠さない」


 ヴィクトリアが、指先で膝を叩いた。


「それから」


 緋雪は、紙をめくった。


「同じ期間、三神家の隣……ヴィクトリアさんのお屋敷の周辺でも、気配の薄い人影が何度か確認されています」


「気配の薄い、ね」


「こちらは、姿を捉えきれていません。……近づくと、すぐに消えるそうです」


 居間の空気が、僅かに重くなった。

 しばらくの沈黙の後、ヴィクトリアが口を開いた。


「翼の家に、使徒が二人」


 彼女は、縁側の向こうで洗濯物を抱える奈緒の姿を見た。


「狙いは、奈緒さんね。……海の向こうの連中が、まだ諦めていないのよ」


「器、ですか」


 白鳥が、両手を膝の上で握りしめた。


「ええ。第九使徒が口にした言葉よ。あちらの顧客は、まだ生きているわ」


 ヴィクトリアは、湯呑みを置いた。


「私とルディア・ロンディニウムで、翼の家を固めるわ。……異論は?」


「賛成ですわ」


 ルディアが、即座に頷いた。


「子供たちが八人もいる場所を、手薄にはできません。……奈緒さんも、白鳥さんも」


「ありがとうございます」


 白鳥が、深く頭を下げた。


 ゴーストだけが、黙っていた。

 紙に書かれた報告を、何度も目で追っている。

 翼の家の二人組は、身を隠さない。

 隣家の人影は、姿を捉えさせない。


(……分かりやすすぎる)


 見せたいものを見せて、隠したいものを隠している。

 そういう形に見えた。


「……ゴースト様?」


 ルディアが、首を傾げた。


「何か、ご懸念が」


「……二人組のほうは、見せるために動いてる気がするの」


 ゴーストは、静かに言った。


「翼の家に人手を割かせるための」


「陽動、ということ?」


 ヴィクトリアの目が、細くなった。


「……その可能性は、あるわね」


「でも」


 凛花が、口を挟んだ。


「だからといって、翼の家を手薄にはできません。……二人組が本当に奈緒さんを狙っていたら、取り返しがつかない」


 誰も、それに反論できなかった。

 陽動かもしれない。

 だが、陽動ではないかもしれない。

 どちらにせよ、子供たちが八人いる家を放っておく選択肢はなかった。


「……翼の家は、ヴィクトリアさんとルディアさんにお願いするわ」


 ゴーストは、最終的にそう言った。


「隣家は、私と、星監の常駐の方々と、屋根の上の二人で固める」


「ルカとリリアも、でございますね」


「ええ。……ルカさんとリリアさんには、屋根から離れないように伝えて」


「承知いたしましたわ」


 会議が終わった後、縁側に出たゴーストの隣に、緋雪が並んだ。


「……嫌な予感がする?」


「少しだけ」


「私も、そっちに行きましょうか」


「緋雪さんは、白百合の夜勤でしょう」


「……ええ」


 緋雪は、小さく溜息を吐いた。


「結衣会長に、これ以上の無断欠勤は言い訳が立たないわ」


「うん。だから、いい」


 ゴーストは、夕焼けに染まる空を見上げた。


「家には母さんがいる。隣には汐里さんもいる。……何かあれば、あの二人は自分の身くらい守れるわ」


「それを、あなたが一番望んでないくせに」


 ゴーストは、答えなかった。


 夜、十時。


 住宅街の屋根の上を、漆黒のドレスの少女が音もなく移動していた。

 冷たい夜風が、ドレスの裾を揺らす。

 眼下には、見慣れた町並みが広がっていた。

 商店街の灯りは半分ほど消え、住宅の窓からは、夕飯の後のテレビの光が漏れている。

 遠くで、踏切の警報機が鳴っていた。

 ゴーストは、自宅の周辺を一周するように、屋根から屋根へと跳んでいた。

 三神家の屋根。隣の洋館の屋根。

 向かいの家の屋根の上では、赤いリボンと青いリボンの影が、小さく手を振っていた。

 ゴーストは、軽く頷き返した。

 隣家の二階の窓には、明かりが一つ灯っていた。

 汐里の部屋だった。

 窓辺に、湯呑みを持った人影が見える。まだ起きているらしい。


 異常は、なかった。


 ゴーストは、商店街の方角へ屋根を渡った。

 この数日、気配の薄い人影が目撃されたのは、隣家の周辺と、商店街の裏手の路地だった。

 二つ目の角を曲がった、古いアパートの屋根の上。


 そこに、先客がいた。


「——っ」


 ゴーストの足が、止まった。

 屋根の縁に、一人の少女が立っていた。

 白百合の盾の制服。背中まで届く長い黒髪が、夜風に揺れている。

 手には、炎を纏った長槍が握られている。


 三神澪だった。


 白百合の夜間巡回の途中なのだろう。

 澪もまた、ゴーストの気配に気づいて振り返ったところだった。

 二人の間に、数メートルの距離があった。

 澪の手の中で、炎の長槍が僅かに揺れた。

 いつもなら、ここで穂先が向けられる。

 弟に付きまとうストーカー。何度助けられても、その警戒は変わらなかった。

 だが、今夜は、穂先が上がらなかった。


「……」


「……」


 二人とも、しばらく何も言わなかった。

 冬の夜風が、屋根の上を吹き抜けていく。

 遠くで、また踏切の警報機が鳴った。


「……この前」


 先に口を開いたのは、澪だった。

 声が、いつもより低かった。


「お母さんを、守ってくれたって、聞いた」


 ゴーストの指先が、僅かに動いた。


「水瀬さんから。……隣に越してきた人」


「……」


「怪我、したって」


 澪は、槍を握る手に力を込めた。


「ひどい怪我だったって」


 ゴーストは、しばらく黙っていた。


「……もう、治ったわ」


 静かにそれだけ答えた。


 澪は、ゴーストの顔をじっと見ていた。

 紫水晶の瞳。夜風に揺れる長い黒髪。漆黒のドレス。

 この一年、何度も見てきた姿だった。

 弟の周りに現れるたびに、身構えてきた姿。

 その姿が、母の前に立ち、血を流していた。


 澪は、長く息を吐いた。


 それから、炎の長槍を下ろし、ぎこちなく頭を下げた。


「……ありがとう」


 ゴーストは、動けなかった。


「お母さんを、守ってくれて」


 頭を下げたままの姉の姿が、屋根の上の夜の中で、ひどく小さく見えた。

 ゴーストの喉の奥で、何かが詰まった。

 言葉が、出てこなかった。


 ありがとう、と言われるべきなのは、自分ではない。

 あの日、倒れた自分を守ったのは、母のほうだ。

 それでも、姉は頭を下げている。

 正体も知らない相手に、母を守ってくれたと、礼を言っている。


「……顔を、上げて」


 ようやく、それだけ言えた。

 澪は、ゆっくりと顔を上げた。

 その表情は、もういつもの澪に戻っていた。

 腕を組み、少しだけ顎を上げて、ゴーストを睨んでいる。


「でも」


「……」


「弟には、近づかないで」


 ゴーストは、瞬きをした。


「それとこれとは、話が別だから」


「……善処するわ」


「そこは、否定しなさいよ」


 澪は、呆れたように溜息を吐いた。

 それから、屋根の縁まで歩いていき、隣の屋根へ跳び移ろうとして、ふと足を止めた。

 振り返らずに、小さく言った。


「……あんたも、怪我しないでよ」


 ゴーストが何か言う前に、澪の姿は夜の中へ跳んでいた。

 炎の長槍の残光が、屋根の向こうへ遠ざかっていく。

 ゴーストは、しばらくその場に立ち尽くしていた。

 冷たい夜風が、ドレスの裾を揺らしている。

 胸の奥で、何かが静かに軋んでいた。


 怪我をしないで。

 そう言われたのは、初めてではない。

 母にも、緋雪にも、何度も言われてきた。

 だが、姉に言われたのは、初めてだった。

 しかも、正体を知らないまま。

 弟に付きまとう女だと、まだ思っているはずの相手に向かって。


「……姉ちゃん」


 誰にも聞こえない声で、ゴーストは呟いた。


 深夜、零時を回った頃。


 翼の家の周辺は、静まり返っていた。

 丸い看板の門柱に、街灯の光が落ちている。

 家の中の灯りは、ほとんど消えていた。

 奈緒も、八人の少女たちも、白鳥も、今夜は早めに床についている。

 その門の前の通りに、二つの人影が現れた。


 隠れる気は、なかった。

 街灯の真下を、堂々と歩いてくる。

 一人は、背中に大きな盾を背負った女。

 もう一人は、腰に二丁の拳銃を下げた女。

 柊木静と、永瀬久遠だった。


「……さて」


 久遠が、腰の拳銃に手を添えた。


「派手に行きましょうか、静」


「……ええ」


 静は、背中の大盾を下ろし、地面に突き立てた。

 鈍い音が、夜の住宅街に響く。


 同じ頃。


 翼の家の離れで待機していたヴィクトリアの端末が、短く震えた。

 緋雪経由の、緊急の連絡だった。


『翼の家の正面に、使徒二名。……姿を隠していません』


 ヴィクトリアは、椅子から立ち上がった。


「……来たわね」


 隣の部屋から、ルディアが袖を払いながら出てきた。


「ええ。来ましたわ」


「子供たちは」


「真里が、奥の部屋に集めております」


 二人は、顔を見合わせた。


「……ゴースト様の懸念、当たっているかもしれないわね」


「ええ。……ですが、ここを空けるわけには参りませんわ」


「分かってるわ」


 ヴィクトリアは、コートを羽織った。

 その指先に、紫電が灯る。


「さっさと片付けて、あちらへ向かいましょう」


 そして、三神家の隣の、白い洋館の上空で、音が消え始めていた。

 最初に気づいたのは、向かいの屋根の上にいたルカだった。


「……ねえ、リリア」


「……ん」


「なんか、しずか」


 ルカは、自分の耳を押さえた。

 さっきまで聞こえていた、遠くの車の音がしない。

 風が屋根の瓦を撫でる音も、どこかの家の換気扇の音もしない。


「……ん。音、ない、来たね」


 リリアが、剣の柄に手をかけた。

 静寂が、ゆっくりと広がっていく。

 隣の洋館を中心に、三神家を、向かいの家を、通りを、全て呑み込んでいく。


 凪域だった。


 隣家の二階の窓で、湯呑みを持った人影が、ぴたりと動きを止めた。

 三神家の二階の窓で、カーテンが僅かに揺れた。

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