第二百九十六話
冬の朝の教室は、暖房がまだ効ききっておらず、窓際の席では吐く息がうっすらと白かった。
登校してきた生徒たちが、コートを椅子の背に掛けながら、昨夜のテレビや週末の予定の話をしている。
教室に入った零を見て、稔が椅子から立ち上がった。
「おっ」
「……おはよう」
「三角巾、取れてるじゃねえか」
稔は、零の右腕を上から下まで眺め回した。
それから、わざとらしく胸を撫で下ろす。
「やっと両手が使えるようになったか」
「おかげさまで」
「ノート代、飯一回な」
「……安いな」
「学食の、一番高いやつだぞ」
「カツ丼か」
「大盛りでな」
零は、小さく笑って自分の席に座った。
右手で鞄を開け、右手で教科書を取り出す。
当たり前の動作が、当たり前にできることが、少しだけ嬉しかった。
肩の奥には、まだ鈍い痛みが残っている。重いものを持ち上げれば、胸の内側が軋む。
それでも、ペンを握り、ページをめくり、箸を持つことはできる。
一週間前には、そのどれもが当たり前ではなかった。
「で、今日だっけ。三者面談」
「……うん。放課後」
「お前の母ちゃん、来るのか」
「来る」
「あの、若い美人の姪っ子じゃなくて?」
零の手が、止まった。
「……なんで知ってる」
「近所で噂になってたぞ。三神さんちに、奥さんそっくりの若い姪っ子が来てるって」
「……帰った」
「帰ったのか」
「実家に」
「そっか。残念だなぁ、わんちゃんお付き合いさせてもらえないか聞こうと思ってたのに」
稔は、心底残念そうに腕を組んだ。
零は、机に突っ伏した。
火曜日の午後、四時。
放課後の教室は、昼間とは別の場所のように静かだった。
廊下には、面談の順番を待つ保護者と生徒が、パイプ椅子に並んで座っている。
誰もが少しずつ緊張した顔をしていて、話し声も自然と小さくなっていた。
教室の机が四つ、向かい合わせに並べられていた。
片側に、担任の教師。
反対側に、零と、奈々美。
奈々美は、淡い色のジャケットにスカートという、よそ行きの格好をしていた。
四十代の、いつもの顔だった。
今朝、鏡の前で「ちゃんと戻ってるわよね」と三回確かめていたことを、零は知っている。
「本日は、お忙しいところありがとうございます」
「いえいえ。いつも息子がお世話になっております」
奈々美は、丁寧に頭を下げた。
担任は、手元の資料を開いた。
「早速ですが……三神くんは、先日まで四週間ほど、宮内庁の研修で欠席されていましたね」
「はい。ご迷惑をおかけしました」
「いえ、公的な理由ですから、それ自体は問題ありません。ただ」
担任は、資料の一枚を奈々美の前に滑らせた。
前回の定期試験の成績表だった。
「全体的に、少し落ちています。特に、数学と英語が」
零は、窓の外に目を逸らした。
グラウンドでは、運動部が冬の練習をしている。掛け声が、窓ガラス越しにくぐもって聞こえた。
四週間の空白。
その後の、右腕の怪我。
ノートは稔のものを写させてもらったが、授業の中身が頭に入っていたとは言い難い。
「研修の影響もあるかと思いますが、このままですと、次の試験が少し心配です」
「そうですか」
奈々美は、成績表をじっと見ていた。
それから、穏やかに顔を上げた。
「先生」
「はい」
「この子、毎朝、五人分のお弁当を作ってくれてるんです」
担任が、ぽかんと口を開けた。
「……はい?」
「朝五時に起きて、お味噌汁を作って、卵焼きを焼いて、五人分のお弁当を詰めて。それから学校に来てるんです」
「……は、はあ」
「母さん」
零が、小声で制止した。
奈々美は、聞いていなかった。
「先週、この子が腕を怪我して、一週間お弁当が作れなかったんです」
「……それは、大変でしたね」
「そうしたら、家族全員、元気がなくなっちゃって」
奈々美は、少しだけ笑った。
「主人なんて、毎朝『今日も零の弁当じゃないのか』って、しょんぼりして出勤していくんですよ」
「……母さん」
零は、両手で顔を覆った。
担任は、困ったように眼鏡を押し上げた。
「その……家庭でのお手伝いは、大変立派なことだと思います。ただ、成績のほうも」
「ええ、分かっています」
奈々美の声が、少しだけ真面目になった。
「成績のことは、ご心配をおかけして申し訳ありません」
奈々美は、成績表を丁寧に揃えて、担任のほうへ戻した。
「でも、先生。成績は、本人が取り戻します」
「……」
「そういう子ですから」
奈々美は、隣に座る息子の横顔をちらりと見た。
「この子は、自分で決めたことは、必ずやり遂げる子なんです。……料理も、最初は卵一つ満足に割れなかったんですよ」
担任は、しばらく奈々美の顔を見つめていた。
それから、ふっと表情を緩めた。
「……分かりました。三神くん、次の試験、期待しています」
「……はい」
零は、顔を覆ったまま答えた。
面談が終わり、廊下を二人で歩いた。
「……母さん」
「なあに」
「弁当の話、必要だった?」
「必要よ」
奈々美は、あっさりと答えた。
「先生には、あなたが成績だけの子じゃないって、知っておいてもらいたかったの」
「……」
「それに、本当のことだもの」
校門を出て、夕暮れの坂道を並んで下っていく。
冬の日は短い。空の端が、もう橙色に染まり始めていた。
下校する生徒たちが、自転車で二人を追い越していく。
母と並んで歩くのは、いつ以来だろう。
小学生の頃は、毎日のように手を引かれて、この坂の下の商店街まで買い物に付き合わされていた。
いつの間にか、自分のほうが背が高くなっていた。
「……ねえ、零」
「なに」
「学校、楽しい?」
零は、少しだけ考えた。
「……普通」
「普通って、いいわね」
奈々美は、満足そうに頷いた。
「それで、緋雪ちゃんとは、うまくいってるの?」
零の足が、一瞬止まった。
「……それ、今聞く?」
「今聞かないで、いつ聞くのよ」
「家で聞けばいいだろ」
「家だと、澪と玲奈が聞き耳を立てるでしょう」
零は、答えずに歩き続けた。
奈々美は、くすくすと笑っていた。
この人は、肝心なことは何も聞かない。
右腕の怪我も、宮内庁の検査も、夜中にいなくなる理由も。
そのくせ、こういうことだけは、遠慮なく聞いてくる。
零は、それが少しだけ、ありがたかった。
「……うまくいってるよ」
「あら」
「それだけ」
「それだけで、十分よ」
奈々美は、息子の背中を軽く叩いた。
火曜日の夕方、六時。
三神家の玄関の鈴が、三つ鳴った。
「……お、お邪魔します」
三和土に立っていたのは、汐里だった。
隣の屋敷から、わずか十数歩の距離を歩いてきただけなのに、息が少し上がっていた。
淡い色のカーディガンに、スカート。
手には、小さな菓子折りの箱を抱えている。
顔が、ひどく緊張していた。
「いらっしゃい、汐里ちゃん。上がって」
エプロン姿の奈々美が、奥から出迎えた。
「あの、先輩、本当によろしいんでしょうか。……ご家族の、お食事に」
「いいのよ。一人でご飯なんて、寂しいでしょう」
「でも」
「隣に引っ越してきたんだから、ご近所付き合いよ」
奈々美は、汐里の背中を押してリビングへ連れていった。
リビングには、夕飯の匂いが満ちていた。
味噌の甘い香りと、焼き魚の香ばしさ。テレビからは、夕方のニュースが小さな音で流れている。
食卓には、すでに家族が揃っていた。
新聞を畳んでいた五郎。
スマートフォンから顔を上げた玲奈。
大学の課題を広げたまま、じっと客人を見る澪。
そして、台所で鍋の火加減を見ている零。
「みんな、お隣に引っ越してきた、水瀬汐里さん。……お母さんの、昔の後輩よ」
「み、水瀬です。……よろしくお願いします」
汐里は、深々と頭を下げた。
菓子折りの箱が、胸の前で小さく震えていた。
「いらっしゃい」
五郎が、にこやかに手を上げた。
それから、汐里の顔をじっと見て、首を傾げた。
「……ん?」
「あの……?」
「どこかで、会ったことが」
五郎は、しばらく考え込んでいた。
それから、ぽんと手を打った。
「……あ。結婚式の二次会で、一人だけ泣いてた子か」
汐里の顔が、一瞬で真っ赤になった。
「お、覚えて……!」
「いやあ、覚えてるとも。わんわん泣いてたからなあ。『先輩を返してください』って、俺に向かって」
「あなた」
奈々美が、夫の腕を肘で小突いた。
「そういうことは、覚えてなくていいの」
「いや、しかし印象的でな」
「……お、お恥ずかしい限りです」
汐里は、菓子折りの箱で顔を隠した。
玲奈が、ソファから身を乗り出した。
「汐里さん、お母さんの後輩なんですか!?」
「は、はい」
「昔のお母さんって、どんな人だったんですか!?」
「え、ええと……」
「玲奈。お客様を質問攻めにしないの」
「えー」
澪は、何も言わずに汐里を見ていた。
母が「昔の後輩」と紹介した人。
母の「借り物の力」の話を聞いた数日後に、隣へ越してきた人。
偶然にしては、出来すぎていた。
水の匂いのする、静かな魔力。
一昨日、窓から見た時と同じ気配が、この人の周りに漂っている。
澪の視線に気づいて、汐里が少しだけ身を固くした。
「はい、みんな座って。ご飯よ」
奈々美の声で、全員が食卓についた。
その夜の夕飯は、零が作ったものだった。
鯖の味噌煮。ひじきの煮物。ほうれん草の胡麻和え。豆腐とわかめの味噌汁。
そして、小さな皿に、鮭の混ぜご飯のおにぎりが一つずつ添えられていた。
「いただきます」
六人の声が、重なった。
汐里は、箸を持ったまま、しばらく食卓を眺めていた。
五人家族の、賑やかな食卓。
父親が娘の課題の話に口を挟み、妹が姉の皿のひじきをつまみ、母親が息子の茶碗にお茶を注ぎ足している。
誰も、それを特別なことだとは思っていない。
十二年間、白い部屋で一人で食べていた食事とは、何もかもが違っていた。
教団の食事は、決まった時間に、決まった量が運ばれてきた。味の感想を口にする者は、誰もいなかった。
汐里は、おにぎりを手に取った。
一口、齧る。
動きが、止まった。
「……塩加減」
汐里の声が、僅かに震えた。
「ちょうど、いいです」
公園のブランコで、先輩から受け取ったおにぎり。
——うちの子が握ったのよ。
あの時、先輩はそう言っていた。
汐里は、台所に立つ零の背中を見た。
この家の、息子が。
あの夜、自分に鮭のおにぎりを勧めてくれた少年が。
「……零くん、でしたね」
「はい」
零が、振り返った。
「……このおにぎり、零くんが?」
「はい」
「……そうですか」
汐里は、それ以上は何も言わなかった。
ただ、おにぎりを両手で包んで、ゆっくりと食べ続けた。
零は、何も言わずに、汐里の茶碗にご飯のおかわりをよそった。
「……ありがとう、ございます」
「いえ」
五郎が、味噌煮を頬張りながら上機嫌に言った。
「うちの息子の飯は旨いだろう。母さん譲りだ」
「……はい。とても」
汐里は、少しだけ笑った。
右の頬に、えくぼが浮かんだ。
午後九時。
汐里が、玄関で靴を履いていた。
「本日は、本当にありがとうございました」
「また来なさいね。いつでも」
「……はい」
汐里は、深く頭を下げて、玄関を出た。
鈴が三つ鳴り、冬の夜の冷たい空気が流れ込んでくる。
三神家の玄関から隣の屋敷の門までは、垣根一つ分の距離しかない。
二階の窓からは、屋敷の窓の灯りがよく見える。
汐里が垣根の前まで来た時、背後から声がした。
「——水瀬さん」
振り返ると、澪が立っていた。
パーカーを羽織っただけの格好で、腕を組んでいる。
その目は、真剣だった。
「……澪さん」
「少しだけ、いいですか」
「はい」
澪は、垣根の前まで歩いてきた。
しばらく、言葉を選ぶように黙っていた。
それから、まっすぐに汐里を見た。
「……お母さんに、力を貸したのは、あなたですか」
汐里は、少しだけ目を見開いた。
それから、静かに頷いた。
「……はい」
「やっぱり」
澪は、小さく息を吐いた。
「魔力の気配で、分かりました。……お母さんから感じたのと、同じ匂いがしたから」
「……」
「一つだけ、お願いがあります」
澪は、両手を握りしめた。
「お母さんを、戦わせないでください」
汐里は、何も言わずに澪を見つめていた。
「母は、ずっと普通の主婦だったんです。……私たちには、何も言わずに」
「……」
「それが急に、昔は魔法少女だったとか、力を借りたとか。……正直、まだ頭が追いついてません」
澪の声が、少しだけ揺れた。
「でも、一つだけ分かるんです。……母が戦うってことは、それだけ危ないことが起きてるってことでしょう」
汐里は、しばらく黙っていた。
それから、静かに答えた。
「……先輩は、滅多に戦いません」
「……」
「昔から、そうでした。戦うのは、誰かが本当に危ない時だけ。……自分のためには、一度も戦ったことがない人です」
汐里は、夜空を見上げた。
「この前もそうでした。先輩が力を使ったのは、目の前で誰かが倒れていたからです」
「……誰か?」
「黒いドレスの方です」
澪の表情が、固まった。
「……黒いドレス」
「ええ。ゴースト、と呼ばれている方」
汐里は、澪の顔色の変化に気づかないまま続けた。
「あの方は、先輩を守るために、ひどい怪我を負っても立っていました。……先輩は、その方を守るために、力を使ったんです」
「……ちょっと、待ってください」
澪の声が、掠れた。
「あの、ストーカーが?」
汐里が、きょとんとした顔をした。
「……ストーカー?」
「弟に、付きまとってる女です。……前から、うちの周りにばかり現れて」
「いいえ」
汐里は、首を横に振った。
「私には、そうは見えませんでした」
「……」
「あの方は、先輩のために、自分の身体を投げ出していました。……ストーカーなら、そんなことはしません」
澪は、何も言えなくなった。
弟に付きまとう、正体不明の女。
この一年、ずっとそう思っていた。
何度も助けられていても、警戒を解かなかった。
その女が、母を守って、血を流していた。
「……」
澪は、しばらく垣根の前に立ち尽くしていた。
「……ありがとうございました、水瀬さん」
ようやく、それだけ言った。
「お休みなさい」
「……お休みなさい、澪さん」
汐里は、少しだけ不思議そうな顔で、隣の屋敷へ戻っていった。
澪は、一人で夜空を見上げていた。
冬の星が、冷たく光っている。
これまで、あの女を見るたびに、弟の身に何か起きるのではないかと身構えてきた。
家の近くに現れれば警戒し、弟の帰りが遅ければ、あの女のせいではないかと疑った。
その像が、たった今、揺らいでいた。
母を守って傷ついた女。
その女のことを、自分は何も知らない。
「……なんなのよ、あいつ」
その呟きは、誰にも聞こえなかった。
同じ頃。
翼の家から、五百メートルほど離れた住宅街の路地。
古い一軒家が並ぶ、細い坂道だった。
街灯は二本だけで、そのうち一本は電球が切れかけて、不規則に明滅している。
街灯の届かない暗がりに、二つの人影が立っていた。
一人は、大きな盾を背負った、落ち着いた雰囲気の女。
もう一人は、腰に二丁の拳銃を下げた、快活そうな女。
「……灯りが、ついてるわね」
第四使徒——柊木静が、翼の家の窓を見つめて呟いた。
「八人と、白鳥と、それから器の子」
「あの紅い目の子ね」
第十二使徒——永瀬久遠が、腰の拳銃を指で撫でた。
その時、久遠の懐で端末が震えた。
画面を見て、久遠の表情が僅かに引き締まる。
「……海の向こうから」
「なんて?」
「『器の受け渡しは、予定通りに』」
静は、しばらく黙っていた。
「……奈々美の家には、行かないのね」
「行かないわ」
久遠は、端末を懐に戻した。
「私たちの役目は、ここで騒ぎを起こすこと。円卓の人手を、こっちに引きつけるの」
「……」
「あちらは、透たちの仕事よ」
静は、翼の家の灯りを見つめたまま、盾の縁を強く握りしめた。
「……奈々美の同期が、二人揃って陽動なんてね」
「同期だからよ」
久遠は、夜空を見上げた。
「あの子の顔を、正面から見られる自信がないもの」
冬の風が、二人の髪を揺らしていった。




