第二百九十五話
零は、目覚まし時計が鳴る前に目を開けた。
布団の中で、右手の指をゆっくりと握ってみる。
開いて、握る。もう一度、開いて、握る。
痛みは、まだ少しだけ残っていた。
だが、指は思った通りに動いた。
肩を回すと、奥のほうで鈍く軋む。それでも、腕は上がった。
(……動く)
一週間ぶりだった。
零は、三角巾を外して、そっと布団から抜け出した。
台所は、まだ暗かった。
明かりをつけると、見慣れた光景が目に入る。
流しの横の水切りかご。壁に掛けた菜箸と玉杓子。冷蔵庫に貼られた、今週の特売のチラシ。
この一週間、ここは母の場所だった。
零は、エプロンを手に取った。
紐を後ろで結ぶ。右手が、少しだけもたつく。
それでも、結べた。
鍋に水を張り、昨夜のうちに母が浸けておいてくれた昆布を入れる。
弱火にかけて、湯が静かに揺れ始めるのを待つ。
その間に、米を研いだ。
右手で研ぐと、肩の奥が鈍く痛む。
だから、左手を添えて、ゆっくりと。
とん、とん、とん。
葱を刻む音が、朝の台所に響いた。
一週間前と同じリズムには、まだ戻らない。少しだけ、遅い。
それでも、自分の手が作る音だった。
鰹節を入れて、火を止める。
布巾で濾して、出汁を取る。
豆腐を賽の目に切り、わかめを戻し、味噌を溶く。
小皿に取って、一口。
(……少し、薄い)
味噌を、ほんの少しだけ足した。
もう一口。
今度は、ちょうどよかった。
「——あら」
背後から、声がした。
振り返ると、パジャマの上にカーディガンを羽織った奈々美が、台所の入り口に立っていた。
四十代の、いつもの母の顔だった。
「……おはよう、母さん」
「おはよう。……腕、大丈夫なの?」
「うん。動くようになった」
零は、右腕を肩の高さまで持ち上げてみせた。
奈々美は、しばらくその腕をじっと見ていた。
それから、ふっと表情を緩めた。
「そう。……よかったわ」
「今日から、俺がやるよ」
「無理はしないのよ」
「しない」
奈々美は、コンロの前まで歩いてきた。
鍋の中を覗き込み、菜箸で味噌汁を小皿に取る。
一口、含んだ。
零は、黙ってその横顔を見ていた。
「……ちょっと、上手になったわね」
「え」
「前より、出汁が丸いわ」
奈々美は、小皿を置いて、少しだけ笑った。
「一週間、お母さんのを食べてたから?」
「……たぶん」
「悔しいわね。あっという間に、追いつかれちゃう」
奈々美は、そう言いながら、嬉しそうだった。
六時半。
三神家の食卓に、久しぶりに零の朝食が並んだ。
焼き鮭。だし巻き卵。ほうれん草のおひたし。豆腐とわかめの味噌汁。
いつもの献立だった。
「……お兄ちゃんのご飯だ」
玲奈が、箸を持ったまま呟いた。
「何だよ、その顔」
「別に」
玲奈は、だし巻きを一切れ口に運んだ。
しばらく噛んで、それから少しだけ目を潤ませた。
「……甘い」
「いつもと同じだろ」
「いつもと同じだから、いいの」
澪は、味噌汁の椀を持ったまま、弟の右腕を横目で見ていた。
「……治ったの」
「だいたい」
「だいたいって何よ」
「まだ少し痛いけど、動く」
「無理して包丁持って、指切ったりしないでよ」
「しないって」
新聞の向こうから、五郎が顔を出した。
「おお、零の飯か」
「おはよう、父さん」
「うむ。……やっぱり、朝はこれだな」
五郎は、焼き鮭をほぐしながら、しみじみと言った。
「母さんの飯も旨いが、零の飯は、なんというか、落ち着く」
「あなた」
奈々美が、湯呑みを置いた。
「一週間、私のご飯を旨い旨いって食べてたのは、どこの誰かしら」
「どっちも旨い。旨いが、種類が違う」
「種類?」
「母さんのは、懐かしい。零のは、落ち着く」
五郎は、味噌汁をすすって、満足そうに頷いた。
「……同じ味なのにな」
奈々美は、呆れたように笑った。
零は、何も言わずに自分の茶碗にご飯をよそった。
同じ日の昼。
勾玉の施設、地下三階。
汐里は、寝台の縁に座って、小さな鞄に荷物を詰めていた。
着替えが三着。洗面用具。それから、勾玉の隊員がくれた文庫本が二冊。
十二年間、教団の白い部屋で暮らしていた人間の荷物としては、あまりにも少なかった。
「……本当に、いいんでしょうか」
汐里は、手を止めて振り返った。
部屋の入り口には、ゴーストが立っていた。
その後ろに、桧山と、八咫の隊員が控えている。
「私が、あの方のお屋敷に」
「ヴィクトリアさんが、自分から言い出したことよ」
ゴーストは、静かに答えた。
魔力パスの有効距離は、およそ三百メートル。
汐里がこの施設にいる限り、母はあの力を使えない。
だが、母の近くに汐里を置けば、母が狙われた時に汐里も巻き込まれる。
円卓の会議で、その問題が議題に上がった時。
最初に手を挙げたのは、ヴィクトリアだった。
——私の家は、三神家の隣よ。距離は、十メートルもないわ。
——星監の人員を、屋敷に常駐させる。水瀬汐里は、私が預かる。
——理由? 隣人の務めよ。
あの人は、それ以上何も言わなかった。
ルディアも、何も聞かなかった。
「……先輩の、お隣」
汐里は、鞄の取っ手を握りしめた。
「なんだか、落ち着きません」
「嫌?」
「いいえ」
汐里は、首を横に振った。
「十二年ぶりなんです。……先輩の近くで暮らすのは」
その横顔が、少しだけ赤くなっていた。
「ただ、一つだけ」
桧山が、静かに口を開いた。
「水瀬さん。有効距離の内側にいるということは、お母様がいつでも力を引き出せるということです」
「……はい」
「お母様が戦われれば、あなたの魔力は三倍の速さで削られます」
「分かっています」
「本当に、よろしいのですね」
汐里は、鞄を肩にかけて、立ち上がった。
「先輩は、滅多に戦いません。……昔から、そういう人です」
汐里の目は、揺れていなかった。
「戦うのは、誰かが本当に危ない時だけ。……だから、私は、その時のためにいたいんです」
桧山は、しばらく汐里を見つめていた。
それから、小さく頷いた。
「……お気をつけて」
「ありがとうございました、桧山さん」
汐里は、深く頭を下げた。
車椅子の椎葉が、部屋の奥から声をかけた。
「……水瀬」
「はい、椎葉先生」
「ちゃんと、飯は食えよ」
汐里は、少しだけ目を丸くした。
それから、右の頬にえくぼを浮かべて笑った。
「……先輩と、同じことを言うんですね」
日曜日の午後三時。
三神家の隣の、白い洋館の前に、一台の小さなトラックが停まった。
荷台から降ろされたのは、段ボール箱が三つだけだった。
星監の隊員が、手際よくそれを屋敷の中へ運び込んでいく。
二階の窓から、その様子を見下ろしている人影があった。
「……お姉ちゃん」
玲奈が、自分の部屋の窓に張りついていた。
「お隣、誰か引っ越してきたみたい」
「ヴィクトリアさんのとこ?」
隣の部屋から、澪が顔を出した。
「うん。トラック来てる」
「親戚とかじゃないの」
「なんか、すごく荷物が少ない」
澪も、玲奈の隣に並んで窓の外を覗き込んだ。
屋敷の門の前に、一人の女性が立っていた。
淡い色のコートに、肩までの黒髪。二十代半ばほど。
小さな鞄を一つだけ肩にかけて、少し緊張した面持ちで屋敷を見上げている。
「……あの人」
澪の目が、細くなった。
どこかで、見た気がした。
いや、見たことはない。
だが、あの人の周りに、ほんの微かに、魔力の気配がある。
水の匂いのする、静かな魔力だった。
「……魔法少女?」
「え?」
「あの人、たぶん魔法少女よ」
「ヴィクトリアさんの知り合いなんだから、そうなんじゃない?」
「……そうね」
澪は、それ以上は言わなかった。
だが、窓枠を握る手に、少しだけ力がこもっていた。
その時、三神家の庭先で、物干し竿に洗濯物を掛けていた奈々美が、手を止めた。
垣根の向こうに、見覚えのある横顔があった。
「……汐里ちゃん」
声は、小さかった。
門の前に立っていた女性が、振り返った。
垣根越しに、二人の目が合う。
「……先輩」
汐里が、慌てて頭を下げた。
鞄が肩から滑り落ちかけて、あたふたとそれを掴み直す。
「あの、今日から、お隣でお世話になることに」
「聞いてるわ」
奈々美は、洗濯ばさみを手にしたまま、垣根の前まで歩いてきた。
「ヴィクトリアさんからね。……顔色、よくなったじゃない」
「はい。……おかげさまで」
「ご飯は」
「食べてます」
「本当に?」
「本当です。……さっき、椎葉先生にも同じことを言われました」
「あら」
奈々美は、くすりと笑った。
「みんな、あなたのことが心配なのよ」
汐里は、少しだけ俯いた。
それから、顔を上げて、垣根越しに先輩の顔をまっすぐに見た。
「……先輩」
「なあに」
「寮の、隣の部屋だった時みたいですね」
奈々美の手が、洗濯ばさみの上で止まった。
二十年前。
寮の二階。一番端の汐里の部屋と、その隣の奈々美の部屋。
薄い壁越しに、夜中に泣いている声が聞こえて、何度も扉を叩いた。
「……そうね」
奈々美は、柔らかく笑った。
「壁が薄かったものね、あの寮」
「先輩のいびきも、聞こえてました」
「かいてないわよ」
「かいてました」
「かいてません」
二人は、垣根を挟んで、少しだけ笑い合った。
二階の窓から、その光景を澪と玲奈が見下ろしていた。
「……お母さん、知り合いみたい」
「昔の後輩、って言ってた人かしら」
澪は、母の横顔を見つめていた。
借り物の力。
昔の後輩に、力を分けてもらった。
あの時、母はそう言っていた。
(……あの人が)
澪は、窓枠から手を離した。
「……お姉ちゃん?」
「なんでもない」
澪は、そのまま自分の部屋に戻っていった。
日曜日の夜、十時。
零は、自室の窓際に座っていた。
窓の外、隣の洋館の二階に、明かりが一つ灯っている。
昨日までは、誰も使っていなかった部屋だった。
その窓の向こうで、人影が一つ、小さく動いていた。
荷解きをしているのだろう。
庭先の垣根の前には、もう一つ人影があった。
奈々美だった。
カーディガンを羽織って、手に湯呑みを二つ持っている。
隣の屋敷の勝手口が開いて、汐里が出てきた。
奈々美は、垣根越しに湯呑みを一つ差し出した。
二人は、垣根を挟んで立ったまま、何かを話していた。
声は、聞こえない。
ただ、時々、母が小さく笑うのが見えた。
汐里が、何度も頷いているのが見えた。
零は、その光景を窓越しに見つめていた。
母が、あんな顔で誰かと話すのを、あまり見たことがなかった。
家族の前での笑顔とも、近所の人と話す時の笑顔とも違う。
少しだけ幼くて、少しだけ肩の力が抜けた顔。
先輩の顔、なのかもしれなかった。
向かいの屋根の上で、赤いリボンと青いリボンの影が、並んで座っていた。
「……ねえ、リリア」
「……ん」
「おにーさんのお母さん、楽しそう」
「……ん。お隣の人と、仲良し」
「いいなあ」
「……ん」
二人は、膝を抱えて、垣根越しの二つの人影を見下ろしていた。
零は、しばらくしてから、そっとカーテンを閉めた。
同じ頃。
都内の、とある古いビルの一室。
明かりのない部屋に、三つの人影が集まっていた。
「……第七が、住処を変えたわ」
肩の上で髪を切り揃えた少女——雨鏡鏡花が、窓際で呟いた。
「奈々美先輩の、隣の家に」
「隣」
細身の女——白峰透が、静かに繰り返した。
その手には、氷のように白い細剣が握られている。
「星監の屋敷ね。……守りは、固いでしょうね」
「固いだけよ」
部屋の隅で、ナイフを弄んでいた金髪の女——疾風早苗が、つまらなそうに言った。
「あの音のない奴から貰った凪を使えば、中の連中は外と連絡が取れなくなる。……あとは、手薄になる夜を待てばいい」
「手薄になる夜なんて、来るの?」
「来させるのよ」
透が、細剣を鞘に収めた。
「別の場所で、騒ぎを起こせばいい。……円卓の連中は、必ずそちらへ人を割く」
鏡花が、窓の外の夜景を見つめた。
「……焔様には」
「言わないわ」
透は、きっぱりと言った。
「あの人は、奈々美のことになると甘くなる。……私たちが、代わりに終わらせるのよ」
部屋に、沈黙が落ちた。
窓の外で、冷たい冬の風が鳴っていた。




