第二百九十四話
三神家の玄関で、鈴が三つ鳴った。
「おはようございます」
玄関先に立っていたのは、私服の緋雪だった。
手には、紙袋を一つ提げている。
「あら、緋雪ちゃん。いらっしゃい」
出迎えたのは、エプロン姿の奈々美だった。
四十代の、いつもの顔に戻っている。
汐里の傍でなら変身も解除も自分で選べると分かった日に、奈々美は迷わず元の姿へ戻った。台所には、この手のほうが慣れている、と言って。
「零くんの、お見舞いに。……果物です」
「まあ、わざわざありがとう。零なら、二階で寝てるわよ」
「いえ、あの」
緋雪は、少しだけ言い淀んだ。
「その前に、お母様に少しだけ、お話が」
奈々美は、ほんの一瞬だけ緋雪の顔を見つめた。
それから、いつもの柔らかい笑顔に戻った。
「台所でいいかしら。お味噌汁、火にかけてるの」
台所には、出汁の匂いが立ち込めていた。
奈々美は、鍋の前に立ったまま、玉杓子で味噌を溶いていた。
緋雪は、その背中の少し後ろに立っていた。
「……昨日、河川敷で魔獣が出ました」
「ええ。ニュースで見たわ。怪我人は出なかったって」
「私と、協会の周防さんと、奈緒さんで、対処しました」
「そう。……お疲れさま」
奈々美は、振り返らなかった。
「その後で、一人の使徒と会いました」
玉杓子を回す手が、僅かに遅くなった。
「雨鏡鏡花さん、という方です」
手が、止まった。
鍋の中で、溶けかけた味噌が、ゆっくりと沈んでいく。
「……伝言を、預かっています」
緋雪は、静かに続けた。
「『奈々美先輩に、よろしく伝えて。寮の廊下で、一緒に蛍を見た鏡花です』と」
台所に、湯の沸く音だけが響いていた。
奈々美は、しばらく動かなかった。
背中越しでも、その肩が一度だけ小さく震えたのが分かった。
「……鏡花ちゃん」
声は、ほとんど囁きだった。
緋雪は、何も言わなかった。
奈々美が、何を思い出しているのかは分からない。
ただ、その名前を呼んだ声の温度だけで、二人の間にあったものが、少しだけ見えた気がした。
「……あの子ね」
奈々美は、玉杓子を鍋の縁に置いた。
「寮に入ったばかりの頃、夜中に廊下で泣いてたの。家が恋しいって」
「……」
「だから、窓を開けて見せてあげたのよ。……寮の裏の小川に、蛍がたくさん飛んでて」
奈々美は、窓の外に目を向けた。
冬の朝の、白い空が見えるだけだった。
「それから、毎朝、私のところに髪を結んでもらいに来るようになって。……長い髪でね。自分じゃ上手に結べなかったの」
緋雪は、昨日の夕暮れの土手を思い出していた。
肩の上で切り揃えた髪。
夕日を受けて、金色に光っていた。
「……元気そうだった?」
奈々美が、振り返らずに問うた。
緋雪は、少しだけ言葉を選んだ。
「……髪を、短く切っていました」
奈々美は、何も答えなかった。
しばらくして、コンロの火を止める音がした。
それから、いつもの穏やかな声が戻ってきた。
「教えてくれて、ありがとう。緋雪ちゃん」
「いえ」
「……お茶、飲んでいって。零、たぶんもうすぐ起きてくるから」
奈々美は、湯呑みを二つ取り出した。
その手つきは、いつもと何も変わらなかった。
ただ、湯を注ぐ時、ほんの少しだけ湯呑みの縁から零れた。
同じ日の昼過ぎ。
零のスマートフォンに、一件のメッセージが届いた。
『本日午後三時。翼の家の離れにて。
円卓の会議ではありません。お一人でお越しください。
——V. R.』
その下に、もう一行添えられていた。
『同席者:R. L.』
ヴィクトリア・ローゼンベルグと、ルディア・ロンディニウム。
零は、画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
円卓の会議ではなく、二人だけ。
緋雪も、凛花も、白鳥もいない。
呼び出される理由は、一つしか思いつかなかった。
午後三時。
翼の家の離れは、母屋から少し離れた小さな和室だった。
障子越しに、冬の午後の光が柔らかく差し込んでいる。
畳の上に置かれた卓の上には、湯気の立つ紅茶が三つ並んでいた。
ゴーストが障子を開けると、二人はすでに座っていた。
卓の奥に、ヴィクトリア。
その隣に、ルディア。
「来てくれたのね」
ヴィクトリアが、静かに言った。
「座って」
ゴーストは、二人の向かいに腰を下ろした。
右腕は、まだ思うように動かない。変身中でも、肩から先が鈍く重かった。
「……怪我は、どう?」
「平気よ」
「そう」
ヴィクトリアは、それ以上は追及しなかった。
代わりに、紅茶を一口含んで、カップを置いた。
「今日は、聞きたいことがあるの」
「……」
「円卓の会議では聞けないこと。……だから、この三人だけにしたわ」
ゴーストは、黙って待った。
「わたくしから、よろしいかしら」
ルディアが、口を開いた。
いつもは口元へやる袖を、今日は膝の上で揃えたままだった。
その顔に、店員の笑顔も、狂信者の恍惚もなかった。
ただ、静かに相手を見る目があった。
「少し前に、三神くんが四週間、お姿を見せなかった時期がございましたわね」
「……」
「宮内庁の研修、と伺っておりました。……その四週間、ゴースト様もまた、一度もお姿を見せませんでした」
ゴーストの指先が、膝の上で僅かに動いた。
「河原のバーベキュー」
ルディアは、淡々と続けた。
「あの後、白い衣の者たちが、河原の周りを嗅ぎ回っておりました。……そしてゴースト様は、あの河原にいた『一般の方々』を守ってほしいと、わたくしどもに頼まれましたわね」
「……」
「あの日、コンロの前で肉を焼いておられたのは、三神家のご長男でございました」
「……」
「ヤオヨシの鮮魚台の前で、第一使徒は、三神くんの目を長く見つめておりました。……まるで、どこかで見た目を探すように」
ルディアは、そこで一度言葉を切った。
「そして、先日」
ゴーストの呼吸が、止まった。
「三神くんが、ヤオヨシにお越しになりましたわ。……学校帰りに、お一人で」
「……」
「買い物籠を、左手だけで提げておられました」
ルディアは、ゴーストの右腕を見た。
ドレスの袖の中で、だらりと垂れ下がったままの腕を。
「右腕は、一度も使われませんでした。……お会計の時も、袋に詰める時も」
障子の向こうで、冬の風が鳴った。
「わたくしからも、いいかしら」
ヴィクトリアが、ルディアの言葉を引き取った。
「私は、零くんの家の隣に住んでいるの」
「……知ってるわ」
「ええ。だから、見ていたわ」
ヴィクトリアは、カップの縁を指でなぞった。
「零くんは、時々、学校の中で消えるの。……入った記録はあるのに、出た記録がない」
「……」
「宮内庁の車に乗ると、必ず監視が撒かれる。……それも、星監の監視班が、一度も追いきれないほどの手際で」
ヴィクトリアの目が、ゴーストの顔から離れなかった。
「そして、この前の日曜日」
その声が、僅かに低くなった。
「あなたは、寮跡の中庭で、右胸を抉られたわね。……右腕が、使えなくなるほどに」
「……」
「その日の夕方、隣の家の少年が、右腕を庇って帰ってきたわ」
ゴーストは、何も言わなかった。
「翌日から、彼は数日間、ゴミ出しを左手でしていた。自転車も、片手で押して歩いていた。……洗濯物を干すのも、左手だけ」
ヴィクトリアは、静かにカップを置いた。
「右胸と、右腕。……同じ日に、同じ場所を」
卓の上で、紅茶の湯気がゆっくりと揺れていた。
「……もう、偶然では説明できないの」
ヴィクトリアの声は、責めるものではなかった。
ただ、事実を並べ終えた人間の、静かな疲労があった。
「ゴースト様」
ルディアが、姿勢を正した。
「……いいえ。この際、はっきりと伺いますわ」
黄金の髪の女は、膝の上で両手を重ねた。
「あなたは」
ゴーストは、目を閉じた。
瞼の裏に、いくつもの顔が浮かんだ。
台所で味噌汁の鍋をかき回す母。
新聞の陰でむせる父。
「ちゃんと帰ってきなさいよ」と玄関で腕を組む姉。
「お兄ちゃん」と袖を引く妹。
そして、正体を知ったあの日から、ずっと隣で嘘を背負い続けている、銀髪の少女の顔。
知る者が増えれば、漏れる危険も増える。
それは、分かっている。
だが、目の前の二人を、疑ってはいなかった。
この二人は、何も頼まれないうちに、河川敷へ車を出した。
翼の家を守ると言った時、理由も聞かずに頷いた。
一般の家族を守ってほしいと頼んだ時、誰の家族かも聞かずに引き受けた。
ゴーストは、ゆっくりと目を開けた。
「……聞かないで」
声は、掠れていた。
肯定もしなかった。
否定もしなかった。
それが、今の自分に言える、精一杯だった。
離れの中に、長い沈黙が落ちた。
ヴィクトリアは、しばらくゴーストの顔を見つめていた。
それから、静かにカップを持ち上げ、紅茶を一口含んだ。
「……分かったわ」
ルディアが、深く頭を下げた。
額が、卓に触れそうなほどに。
「……承知いたしました」
それで、終わりだった。
二人とも、それ以上は何も聞かなかった。
答えを聞かなかったのではない。
聞かなくていい答えを、受け取ったのだ。
「……一つだけ、いいかしら」
ヴィクトリアが、カップを置いた。
「怪我は、ちゃんと治しなさい」
「……」
「誰であっても」
その言葉に、ゴーストは何も言えなかった。
「わたくしからも」
ルディアが、顔を上げた。
「お食事は、きちんと召し上がってくださいませ」
黄金の髪の女は、少しだけ微笑んだ。
「……どちらのお姿でも」
ゴーストは、深く頭を下げた。
言葉は、出てこなかった。
ただ、膝の上で握りしめた左手が、小さく震えていた。
夕方。
翼の家からの帰り道、零は緋雪と並んで歩いていた。
変身は、とっくに解いている。
右腕は、三角巾の中で重く垂れ下がっていた。
「……二人に、気づかれた」
零は、前を向いたまま言った。
緋雪の足が、一瞬だけ止まった。
「……ヴィクトリアさんと、ルディアさん?」
「うん」
「それで」
「聞かないで、って言った」
緋雪は、しばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐いた。
「……聞かないで、で済ませてくれたのね」
「うん」
「あの二人なら、大丈夫よ」
緋雪は、零の左手をそっと握った。
「たぶん、私よりずっと先に、気づいてたわ」
「……そうかな」
「そうよ。……気づいていて、ずっと待っててくれたのよ。あなたが、何か言うのを」
零は、答えなかった。
夕暮れの道を、二人は並んで歩き続けた。
同じ頃。
湾岸へ向かう高速道路を、星監の車が走っていた。
後部座席で、ヴィクトリアは窓の外を眺めていた。
「……シルヴィア」
「はい」
「隣の家の警備を、二段階上げて」
運転席のシルヴィアが、ルームミラー越しに主の顔を見た。
「二段階、ですか」
「ええ」
「……理由を、伺っても」
「隣人の務めよ」
ヴィクトリアは、それだけ答えた。
窓の外を、冬の夕日が流れていく。
その横顔は、どこか穏やかだった。
同じ頃。
スーパー「ヤオヨシ」の裏口。
搬入口の段ボールを片付けていた真里の前に、ルディアが現れた。
「真里」
「はい、ルディア様」
「三神くんのお買い物には、これからも良いものを回して差し上げて」
真里の手が、止まった。
「……これからも、ですか」
「ええ。鮮魚も、お肉も。……特売の日は、あらかじめ取り置きを」
「承知いたしました」
真里は、それ以上何も聞かなかった。
ルディアは、裏口の扉を開けて、夕暮れの空を見上げた。
「……神は」
小さく、誰にも聞こえない声で呟いた。
「神使として、わたくしたちの前においでになっていたのですわね」
その口元には、恍惚ではなく、静かな笑みが浮かんでいた。




