第二百九十三話
零は、自室の机に向かっていた。
左手で鉛筆を握り、英語の課題のプリントに単語を書き込んでいく。
相変わらず、字が歪む。
「necessary」の「s」が二つとも、ミミズのようにのたうっていた。
その時、スマートフォンが震えた。
画面には、見慣れた番号が表示されている。
八咫の緊急連絡用の回線だった。
「……はい」
『三神様。翼の家の北、約二キロの河川敷にて、魔獣の群れが発生しました』
零の手から、鉛筆が落ちた。
「規模は」
『狼型と猪型、合わせて十数体。……黒い結晶の反応は、ございません』
「自然発生、ですか」
『その可能性が高いかと。ただし、数が多すぎます。この地域で、一度にこれだけの群れが出るのは珍しい』
零は、立ち上がりかけた。
右肩に、鈍い痛みが走った。
三角巾の中で、腕がまだ思うように動かない。
『三神様』
隊員の声が、零の動きを制した。
『出動は、お控えください。……現在、羽衣様と周防様、それから翼の家の奈緒様が、現場へ向かっておられます』
「奈緒も?」
『白鳥様が止めようとされたそうですが、間に合わなかったと』
零は、椅子に座り直した。
左手を、強く握りしめる。
右腕が動かない。
変身すれば、あの子たちの隣に立てるかもしれない。だが、今の身体でそれをすれば、足手まといになるだけだ。
「……状況は、逐一教えてください」
『承知いたしました』
通話を切った後も、零はしばらくスマートフォンを握っていた。
窓の外では、冬の夕日が沈みかけていた。
同じ頃。
郊外の河川敷。
枯れ草に覆われた土手の下で、獣の唸り声が響いていた。
狼型が八体。猪型が五体。
群れを成して、ゆっくりと上流へ進んでいる。
その先には、住宅地がある。
「……多いわね」
土手の上に、銀髪の少女が降り立った。
白百合の制服の上にコートを羽織った、羽衣緋雪だった。
「翼の家から、二キロ」
その隣に、光の剣を携えた周防凛花が並ぶ。
「このまま進ませたら、住宅地に入ります」
「止めましょう」
二人の背後から、足音が駆け上がってきた。
「わたしも!」
黒髪の少女が、息を切らして土手の上に立った。
身長百四十五センチほどの小柄な身体。紅色の瞳が、河川敷の群れを睨んでいる。
「奈緒さん」
凛花が、困ったように眉を下げた。
「白鳥さんが、止めていたでしょう」
「とめられた。でも、きた」
「……」
「ここ、翼の家のちかく」
奈緒は、両手を広げた。
左手に白い冷気。右手に紅蓮の炎。
「みんなのおうち、まもる」
緋雪と凛花は、顔を見合わせた。
それから、同時に小さく息を吐いた。
「……無茶は、しないこと」
「うん」
「私たちの傍から、離れないこと」
「うん」
「では」
凛花が、光の剣を構えた。
「行きましょう」
最初に動いたのは、緋雪だった。
太刀を抜き放ち、土手の斜面に向かって振り下ろす。
白い冷気が、枯れ草の上を這うように走った。
——パキパキパキッ!
先頭を進んでいた狼型三体の足が、地面ごと凍りついた。
後続の群れが、それに躓いて団子になる。
「——はあっ!」
その隙に、凛花が斜面を駆け下りた。
光の剣が、夕闇の中に白い軌跡を描く。
凍りついた狼型の一体が、首から両断された。
返す刃で、二体目。
「凛花さん、右!」
「分かってます!」
横合いから飛びかかってきた狼型を、凛花は身体をひねって躱した。
着地と同時に、光の刃を下から振り上げる。
獣の悲鳴が、河川敷に響いた。
後方では、猪型の群れが体勢を立て直していた。
五体が、横一列に並んで突進してくる。
地面を揺らす蹄の音。
まともに受ければ、人間の身体など簡単に吹き飛ぶ質量だった。
「——奈緒さん!」
凛花が振り返った時には、もう奈緒が動いていた。
土手の斜面を、小さな身体が滑り降りていく。
猪型の群れの正面に、真っ直ぐ立ちはだかった。
「——いって」
奈緒の左手から、冷気が奔った。
猪型の群れの前に、氷の壁が一瞬で立ち上がる。
先頭の二体が、壁に激突して動きを止めた。
その壁の向こうへ、奈緒は右手を突き出した。
「——もえて」
炎が、氷の壁ごと猪型を呑み込んだ。
——ドォォンッ!
氷が瞬時に蒸発し、爆発的な水蒸気が猪型の群れを吹き飛ばした。
五体のうち、三体が河原に叩きつけられて動かなくなる。
「……すごい」
緋雪が、思わず呟いた。
先日の河川敷で、初めて凛花と奈緒が並んで戦った時。
あの時の奈緒は、力任せに魔獣を凍らせるだけだった。
今は違う。
氷で止めて、炎で砕く。二つの属性を、一つの技として使い分けている。
「凛花さん、残り、二体!」
「右、任せます!」
「うん!」
凛花が左の猪型へ、奈緒が右の猪型へ、同時に駆けた。
光の剣が、猪型の眉間を貫く。
奈緒の炎の拳が、もう一体の横腹を焼き抉る。
二体の巨体が、ほぼ同時に地面に崩れ落ちた。
残っていた狼型の最後の二体を、緋雪の氷の鎖が絡め取った。
凍りついた獣を、凛花が一閃で砕く。
十分ほどで、河川敷は静かになっていた。
「……おわった?」
奈緒が、振り返った。
頬に煤をつけたまま、首を傾げている。
「ええ。終わったわ」
緋雪が、太刀を納めた。
凛花は、奈緒の頬の煤を、ハンカチでそっと拭った。
「……本当に、強くなりましたね」
「りんかさんと、れんしゅうした」
「練習?」
「えのなかで」
「……絵本の中で?」
「うん。りんかさん、いつも、みぎからくる」
凛花は、少しだけ目を丸くした。
それから、困ったように笑った。
「……次から、左から行くようにします」
その時。
土手の上から、拍手の音が聞こえた。
ぱち、ぱち、ぱち。
三人が、同時に振り返った。
夕闇に沈みかけた土手の上に、一人の少女が座っていた。
十代後半ほどの外見。
白い法衣の上に、淡い色のカーディガンを羽織っている。
肩の上で切り揃えた髪が、夕日を受けて金色に光っていた。
膝を抱えて、楽しそうに三人を見下ろしている。
「いい連携ね」
少女は、手を叩くのをやめた。
「特に、そこの紅い目の子。……氷と炎を同時に使える子なんて、初めて見たわ」
緋雪が、即座に太刀を抜き直した。
凛花が、奈緒の前に立つ。
「……誰」
「雨鏡鏡花」
少女は、あっさりと名乗った。
「第六使徒、って言ったほうが、話が早いかしら」
河川敷の空気が、凍りついた。
「……この魔獣の群れは」
凛花が、低い声で問うた。
「あなたが、誘導したんですか」
「ええ」
鏡花は、悪びれもせずに頷いた。
「あなたたちの戦い方を、見ておきたかったの。……結晶を使うと、音のない方に気づかれるから。自然に集めるのは、少し手間だったけど」
「目的は」
緋雪が、太刀の切っ先を向けた。
「水瀬汐里が、どこにいるか知りたいの」
鏡花は、あっさりと答えた。
緋雪の表情が、僅かに変わった。
「……天城焔の指示?」
「さあ、どうかしら」
鏡花は、立ち上がった。
カーディガンの裾を払い、土手の斜面をゆっくりと降りてくる。
「焔様は、優しすぎるのよ。……あの子を、潰す気がない」
「潰す?」
「あの子がいなければ、奈々美先輩は戦えない。……そうでしょう?」
鏡花の目が、笑っていなかった。
「先輩が戦わなくて済むなら、それが一番いいの。……先輩の手を、もう血で汚させたくないの」
「……それで、汐里さんを」
「潰すとは言ってないわ」
鏡花は、首を傾げた。
「居場所を、知りたいだけ」
次の瞬間、少女の身体が、光に包まれた。
光が、三つに割れた。
「——っ!」
緋雪の前に、一人。
凛花の前に、一人。
奈緒の前に、一人。
同じ顔、同じ服、同じ笑み。
三人の雨鏡鏡花が、三人の魔法少女の前に、それぞれ立っていた。
「分身……!?」
「三対三。これで、公平でしょう?」
三つの声が、重なって響いた。
緋雪の前の鏡花が、光の刃を掌に生んだ。
——ギンッ!
太刀と光の刃が、正面からぶつかる。
緋雪の腕に、重い衝撃が走った。
(……重い)
三分の一の力のはずだった。
だが、使徒の三分の一は、並の魔法少女一人分に匹敵する。
「羽衣さん!」
「こっちは、大丈夫!」
凛花の前でも、光と光がぶつかり合っていた。
同じ光属性。刃と刃が触れるたびに、白い火花が夕闇を照らす。
「……同じ光ね」
鏡花が、凛花の顔を覗き込んだ。
「でも、あなたの光は、真っ直ぐすぎる。……鏡に映したら、すぐに読めるわ」
凛花の剣筋が、完全に読まれていた。
三人は、それぞれの相手に足止めされていた。
連携が、断ち切られている。
互いの背中が見えるのに、手が届かない。
「——はなれて!」
奈緒の叫びが、河川敷に響いた。
氷と炎が、同時に奈緒の前の鏡花へ叩き込まれる。
分身が、大きくよろめいた。
光の輪郭が、揺らぐ。
「……あら」
奈緒の前の分身が、崩れかけた。
その瞬間、三体の鏡花が、同時に動きを止めた。
一拍。
ほんの一瞬、三人全員が、まるで糸の切れた人形のように静止する。
そして、奈緒の前の分身が、光の粒になって消えた。
「え——」
奈緒の炎が、空を切った。
同時に、緋雪と凛花の前の鏡花の輪郭が、一回り濃くなった。
「——っ、ぐ……!」
凛花の腕が、押し込まれた。
さっきまでの倍の重さが、光の刃にかかっている。
「三つが、二つになったら」
凛花の前の鏡花が、微笑んだ。
「一つあたりの光は、半分ずつ強くなるの」
「凛花さん!」
奈緒が、凛花のほうへ駆け出した。
「駄目、奈緒さん! 前に出ないで!」
凛花の制止よりも早く、奈緒が鏡花の懐に飛び込んでいた。
炎の拳が、突き出される。
鏡花は、それを軽々と躱した。
そして、がら空きになった奈緒の脇腹へ、光の刃を振り下ろした——
——ギィンッ!
光の剣が、その刃を受け止めた。
凛花が、奈緒の前に割り込んでいた。
体勢を崩しながら、辛うじて刃を受け止めている。
「……りんかさん」
「言ったでしょう。前に出ないでって」
凛花の声は、震えていなかった。
「あなたの前には、私が立ちます」
奈緒は、唇を噛んで、凛花の背中を見上げた。
緋雪は、太刀を構えたまま、じっと鏡花の動きを見ていた。
(……今の)
分身が三つから二つに減った時。
ほんの一瞬、全ての鏡花の動きが揃って止まった。
光を、配り直していたのだ。
三つに分けていた力を、二つに分け直す。その切り替えの一瞬だけ、全ての分身が無防備になる。
「……凛花さん」
緋雪が、小さく声をかけた。
「次に、あの子が数を変えたら」
「……はい」
「その瞬間に、叩いて」
凛花が、僅かに頷いた。
鏡花は、それに気づいていなかった。
凛花と奈緒の前に立つ分身が、光の刃を振り上げる。
「そろそろ、終わりにしましょうか」
鏡花の身体が、再び光を放った。
二つが、四つに。
「——今!」
緋雪が、叫んだ。
四体に分かれようとした鏡花の全てが、一瞬だけ動きを止めた。
その一瞬に、緋雪の太刀が奔った。
——パキィィンッ!
緋雪の前の分身が、足元から凍りついた。
光の輪郭が、氷の中で砕け散る。
同時に、凛花の光の剣が、別の分身の胸を貫いた。
「……っ!」
鏡花の表情が、初めて変わった。
残った分身が、後ろへ大きく跳び退る。
その数は、二つにまで減っていた。
「……気づくの、早いわね」
鏡花は、残った二体を一つに重ねた。
光が、一点に収束する。
分身を全て解き、本体に全ての力を集めた状態だった。
「一つに戻れば、切り替えの隙はないわ」
「なら」
緋雪が、太刀を構え直した。
「三対一よ」
「そうね」
鏡花は、光の刃を両手に生んだ。
「使徒の全力と、魔法少女三人。……どっちが強いか、試してみましょうか」
それからの数分間は、拮抗だった。
緋雪の氷が鏡花の足を止め、凛花の光が正面から斬り込み、奈緒の炎が側面を焼く。
鏡花は、その全てを受け止め、躱し、返した。
光の刃が、緋雪の肩を浅く裂いた。
氷の鎖が、鏡花の足首を一瞬だけ捕らえた。
凛花の剣が、鏡花の頬を掠めた。
鏡花の光が、奈緒を土手まで吹き飛ばした。
どちらも、決定打を入れられなかった。
三人は、息を切らしていた。
鏡花もまた、額に汗を浮かべていた。
「……はあ」
鏡花が、光の刃を下ろした。
「思ったより、手強いわね」
「……まだ、やる?」
緋雪が、太刀を構えたまま問うた。
「いいえ」
鏡花は、肩をすくめた。
「今日は、顔見せ。……あなたたちが三人がかりで、私一人を崩せなかった。それが分かっただけで、上出来よ」
「水瀬さんの居場所は、教えないわよ」
「知ってるわ」
鏡花は、土手の上へと跳び上がった。
そこから、三人を見下ろす。
「でも、一つだけ伝えておいて」
「……何を」
「奈々美先輩に」
緋雪の手が、太刀の柄の上で止まった。
「よろしく伝えて。……鏡花が、会いたがってたって」
夕日の最後の光が、少女の髪を金色に染めていた。
「昔、寮の廊下で、一緒に蛍を見た鏡花です、って言えば、分かると思うわ」
「……あなた、奈々美さんの」
「後輩よ」
鏡花は、あっさりと答えた。
「四つ下の。……先輩は、私の髪をいつも結んでくれた」
それだけ言って、少女の姿は光の中に溶けて消えた。
河川敷に、夕闇が落ちてきた。
三人は、しばらく土手を見上げたまま動かなかった。
「……奈々美さんの、後輩」
凛花が、小さく呟いた。
「三神さんの、お母様の」
緋雪は、何も答えなかった。
ただ、太刀を握る手に、少しだけ力がこもっていた。
「……ひゆきさん」
奈緒が、緋雪の袖を引いた。
「あのひと、わるいひと?」
緋雪は、しばらく考えてから答えた。
「……分からないわ」
「わからない?」
「悪い人は、あんな顔で、誰かの髪を結んでもらった話をしないもの」
夜。
郊外の、街灯の少ない道。
雨鏡鏡花は、一人で歩いていた。
法衣の上のカーディガンの前を合わせ、冷たい夜風に首をすくめる。
懐から、端末を取り出した。
短い呼び出し音の後、相手が出た。
『……どうだった』
第二使徒の声だった。
「会ってきたわ」
鏡花は、夜空を見上げながら答えた。
「あの三人、崩せなかったわ。……向こうも、私を崩せなかったけど」
『……そう』
「水瀬汐里の居場所は、まだ。……でも、あの紅い目の子の癖は覚えたわ。前に出たがる。守られると、足が止まる」
『焔様には?』
鏡花は、答えなかった。
『……鏡花』
「焔様は、優しすぎるのよ」
鏡花は、端末を耳から離した。
「私たちは、先輩が戦わなくていい世界を作るの。……それが、あの人を置いていった私たちにできる、唯一のことでしょう」
通話の向こうで、第二使徒が何か言いかけた。
鏡花は、それを聞かずに端末を閉じた。
夜風が、少女の髪を揺らした。
肩の上で切り揃えた髪。
昔は、長かった。
先輩が、毎朝、器用な指で結んでくれていた。
あの人が辞めた日に、自分で切った。




