第二百九十二話
学校を出た零を、無印の黒塗りの車が待っていた。
後部座席に乗り込むと、運転席の八咫の隊員が小さく会釈した。
右腕は、制服の下で三角巾に吊ったままだった。乗り降りのたびに、左手だけで身体を支えることになる。
「水瀬様は、本日午前から起き上がっておられます」
「……よかった」
「ただ、しばらくは安静が必要かと」
車は、いつものように遠回りをしながら、都内某所の施設へ向かった。
勾玉の施設、地下三階。
汐里は、寝台の縁に腰かけていた。
顔色は、まだ白い。
だが、あの日曜日の、紙のような色ではなくなっていた。
「三神くん」
零を見て、汐里は少しだけ驚いた顔をした。
それから、慌てて言い直した。
「……いえ、その。三神様、でしょうか」
「零でいいです」
零は、寝台の脇の椅子に腰を下ろした。
「あの日は、ありがとうございました」
「私のほうこそ。……ご心配を、おかけしました」
汐里は、深く頭を下げた。
そして、顔を上げると、少しだけ笑った。
「思ったより、身体が軽いんです」
「軽い?」
「ええ。……十二年ぶりに、身体の中に隙間ができた気がして」
汐里は、自分の掌を見下ろした。
固定された魔力は、減らない代わりに動かない。
十二年、その重さと一緒に生きてきた。
三割を失った今、その重さが少しだけ軽くなっている。
「桧山さんが言うには、いずれ元に戻るそうです」
「……無茶は、しないでください」
零は、静かに言った。
「あの時のあなたは、顔が真っ白でした。……一歩間違えたら、どうなっていたか」
「分かっています」
汐里は、頷いた。
それから、まっすぐに零を見た。
「でも、次も同じことをします」
「……」
「先輩のためですから」
零は、何も言えなかった。
その言い方が、あまりにも自分の知っている誰かに似ていたからだ。
「——お二人とも、無茶をなさる顔をしておられますね」
解析室の扉が開き、白衣の桧山が顔を出した。
「ご説明したいことがございます。……少し、驚かれるかもしれません」
解析室の中央に、立体映像が浮かんでいた。
二つの光点が、宙に並んでいる。
左が汐里、右が奈々美を示していた。
その二つの間に、細い糸のような線が一本、繋がっていた。
「……これは」
「魔力の、通り道です」
桧山が、眼鏡を押し上げた。
「あの日、水瀬さんは魔力を一度、お母様へ流しました。……その時に通した道が、消えずに残っています」
「消えずに?」
「はい。一度きりの受け渡しなら、道は自然に閉じるはずでした。……ですが、閉じていません」
車椅子の椎葉が、低い声で補足した。
「一度掘った水路のようなものだ」
老人は、投影された細い線を指差した。
「水を流すのをやめても、溝は残る。……そこに水を注げば、また同じところを流れる」
「つまり」
零は、身を乗り出した。
「今も、繋がってるってことですか」
「左様です」
桧山は、投影図の縮尺を変えた。
二つの光点が離れていくと、間の線が細くなっていく。
「距離が近いほど、道は太い。離れるほど細くなります」
「限界は」
「おおよそ、数百メートルかと」
桧山は、線が途切れる位置を示した。
「これ以上離れると、供給が届きません。……検証は、これから行います」
「それで」
零は、喉に何かが詰まったような感覚を覚えていた。
「母……お母様は、自分で変身できるんですか」
「できます」
桧山は、頷いた。
「水瀬さんが有効距離内にいる限り、お母様は自分の意思で変身と解除ができます。……先日のように、水瀬さんが意識して流し込む必要はありません」
零は、息を吐いた。
母が、自分の意思で全盛期の力を使える。
それは、心強いことのはずだった。
だが、桧山の顔は晴れていなかった。
「……ただし」
白衣の男は、投影図をもう一度切り替えた。
「一つ、看過できない問題があります」
二つの光点の間で、細い線が脈打ち始めた。
奈々美側の光点が強く輝くたびに、汐里側の光点が急速に暗くなっていく。
「お母様が戦闘で力を使われると、供給元である水瀬さんの魔力消費が跳ね上がります」
「……どのくらい」
「およそ、三倍です」
室内が、静まり返った。
「お母様が一の力を使うたびに、水瀬さんの中から三が消える」
桧山は、感情を抑えた声で続けた。
「水瀬さん自身の戦闘能力は、変わりません。……ですが、お母様に供給しながらご自分も戦えば、消耗は加速します」
「つまり」
零は、拳を握りしめた。
「母さんが戦うほど、二人合わせた戦力は減っていく」
「……その通りです」
零は、投影された二つの光点を見つめた。
母が雷を纏って立っていた背中。
あの力は、無響を三撃で退けた。
だが、その一撃ごとに、この人の中から三倍の何かが失われていた。
零の視線に気づいて、汐里が小さく笑った。
「……そんな顔をしないでください」
「でも」
「先輩が戦えることのほうが、大事です」
「あなたが倒れたら、母さんが一番悲しみます」
零は、そう言ってから、口を噤んだ。
母さん、と言ってしまった。
だが、汐里は何も言わなかった。
ただ、ほんの一瞬だけ、目を伏せただけだった。
同じ日の夕方。
施設の一室に、奈々美が通された。
八咫の車で送迎されたが、行き先も、施設の名前も知らされていない。
それでも、この人は何も聞かなかった。
「汐里ちゃん、大丈夫なの?」
部屋に入るなり、奈々美はそう言った。
「先輩」
汐里が、寝台から立ち上がろうとする。
「いいから、座ってなさい」
奈々美は、後輩の肩を押さえて座らせた。
そして、その顔色をしばらく覗き込んでいた。
「……ちゃんと、ご飯は食べてる?」
「食べてます」
「本当に?」
「本当です。……ここ、ご飯がおいしいんです」
白衣の隊員たちが、少しだけ誇らしげな顔をした。
「では、検証を始めさせていただきます」
桧山が、二人に説明した。
魔力パスのこと。距離のこと。制御のこと。
そして、消費が三倍になることも、隠さずに伝えた。
奈々美は、黙って最後まで聞いていた。
「……つまり、私が戦うと、汐里ちゃんが削れるのね」
「左様です」
「なら、やめておくわ」
奈々美は、即座に言った。
「先輩!?」
汐里が、声を上げた。
「駄目です! せっかく通った道なのに!」
「だって、あなたが減るんでしょう」
「減っても、戻ります! 時間はかかりますけど!」
「戻る保証は?」
奈々美が、桧山を見た。
桧山は、正直に答えた。
「……確実とは、申し上げられません」
「ほら」
「先輩」
汐里は、寝台の上で背筋を伸ばした。
「私、十二年間、一度も減らない魔力を抱えて生きてきました」
「……」
「減らないって、便利だと思ってました。……でも、あの日、初めて減って、分かったんです」
汐里の目が、揺れなかった。
「誰かのために減るなら、それは、減ってるんじゃないって」
奈々美は、何も言い返せなかった。
長い沈黙の後、奈々美は小さく息を吐いた。
「……検証だけは、やるわ」
「先輩!」
「でも、使うかどうかは、私が決めます」
奈々美は、後輩の頭に手を置いた。
「あなたを削って戦うのは、最後の最後よ。……分かった?」
「……はい」
検証は、三段階で行われた。
一度目。
汐里が、奈々美の手を握った状態。
奈々美が目を閉じると、その身体を青白い光が包んだ。
一秒とかからなかった。
光が収まった時、二十歳の姿の奈々美が立っていた。
「……あら。思ったより、簡単ね」
「道が、太いですから」
桧山が、投影図を見ながら言った。
二度目。
汐里が、部屋の反対側の隅に立った状態。
奈々美は、三秒ほど目を閉じていた。
それから、同じように光を纏った。
「少し、時間がかかったわ」
「線が、細くなっております」
三度目。
汐里が、別の階へ移動した状態。
奈々美は、目を閉じたまま動かなかった。
青白い光が、一度だけ身体を覆いかけ——そのまま、霧のように散った。
「……駄目ね」
奈々美は、目を開けた。
元の姿のままだった。
「距離が、離れすぎました」
通信機越しに、桧山が階下へ指示を出した。
汐里を一階ずつ上げていき、変身が成立する境界を測っていく。
最終的な結論は、こうだった。
「およそ、三百メートル」
桧山は、記録を読み上げた。
「これ以内であれば、確実に。四百を超えると、不安定になります」
奈々美は、自分の掌を見下ろした。
変身の解けた、元の手だった。
「……本当に、借り物なのね」
「借り物じゃありません」
汐里の声が、通信機から届いた。
「私が、渡したんです」
奈々美は、少しだけ笑った。
「そうね。……ありがとう」
検証が終わった頃、廊下は静まり返っていた。
零は、待合の椅子に座っていた。
ゴーストとして立ち会うことはできない。
母がいる場所に、あの姿では行けない。
だから、ただの息子として、廊下で待っていた。
扉が開いて、奈々美が出てきた。
「……あら」
目が、合った。
「零。どうして、ここに」
「……宮内庁の、検査の続きで」
零は、そう答えた。
「肩の怪我、診てもらってた」
「そう」
奈々美は、頷いた。
それ以上は、聞かなかった。
互いに、嘘をついている。
そのことを、互いに知っている。
それでも、どちらも踏み込まなかった。
「……一緒に帰る?」
「うん」
帰りの車の中で、二人は並んで座っていた。
窓の外を、夕暮れの街が流れていく。
運転席の八咫の隊員は、何も言わない。
「……ねえ、零」
「なに」
「今夜、何がいい?」
零は、少しだけ考えた。
「……母さんの、肉じゃが」
「あら、珍しい」
奈々美は、驚いたように笑った。
「あなた、自分で作るほうが好きでしょう」
「今日は、母さんのがいい」
「……そう」
奈々美は、それ以上は何も言わなかった。
ただ、窓の外を見たまま、小さく頷いた。
「じゃあ、帰りにお肉買わなきゃ」
同じ日の夜。
翼の家の居間で、緋雪が円卓の面々に報告していた。
魔力パスのこと。三百メートルという有効距離。
そして、消費が三倍になること。
「……なるほどね」
ヴィクトリアが、指先で膝を叩いた。
「つまり、敵にとって一番効率のいい手は」
彼女は、あっさりと言い切った。
「水瀬汐里を潰すことね」
居間の空気が、冷えた。
「……それは」
「隠しても仕方ないでしょう」
ヴィクトリアは、紅茶を口に運んだ。
「雷は強い。だが、その雷は、一人の女の中の水を汲み上げて燃えている。……水の桶を割れば、雷は落ちない」
「ですが」
ルディアが、口元から袖を下ろした。
「あちらが、そこまで把握しているとは限りませんわ」
「把握している者が、一人いるわ」
ヴィクトリアの目が、鋭くなった。
「音を消して歩く、あれよ」
零——ゴーストは、黙って聞いていた。
——器を得るには、まず、これを消す。
寮跡の中庭で、倒れた自分の頭上から降ってきた声が、まだ耳の奥に残っていた。
あの存在は、波形を聴く。
二人の間に通った道も、聴き取っているかもしれない。
「水瀬汐里の護衛を、最優先で組むわ」
ヴィクトリアが、断言した。
「異論は?」
「ございませんわ」
ルディアが、深く頷いた。
同じ頃。
白い壁と白い床だけの、窓のない礼拝堂。
帳の前に、人の形をした何かが立っていた。
片腕のない、温度のない存在。
「……返事を聞こう」
無響の声が、白い壁に反響した。
「凪の術式を渡す。その代わり、あの雷と黒いドレスを、二度と会わせない」
帳の向こうで、しばらく沈黙があった。
やがて、静かな声が響いた。
「……お断りするわ」
焔の声だった。
「あなたの言う『会わせない』は、殺すという意味でしょう」
「効率の話だ」
「効率で、後輩を殺す気はないの」
帳が、僅かに揺れた。
「奈々美にも、あの子にも。……指一本、触れさせないわ」
無響は、しばらく黙っていた。
「……そうか」
それだけ言って、その姿は闇に溶けた。
礼拝堂に、静けさが戻る。
跪いていた二人の使徒——第二使徒と第六使徒が、ゆっくりと顔を上げた。
二人の視線が、帳の向こうではなく、互いの顔へと向いた。
何も言わなかった。
ただ、目が合った。
それだけだった。




