第二百九十一話
教室に入った零は、鞄を左手で机に下ろした。
その動作を、隣の席の稔がじっと見ていた。
「……おい、零」
「なに」
「お前、また怪我してるじゃねえか」
零は、答えずに椅子に座った。
右腕は、机の上に置いたまま動かせない。
朝、制服の袖に腕を通すだけで五分かかった。ボタンを留めるのに、さらに三分。
この数日で、自分の身体が右腕にどれだけ頼って回っていたのかを、嫌というほど思い知らされていた。
「どこだ。肩か? 腕か?」
「肩。階段で転んだ」
「またかよ」
稔は、大げさに天を仰いだ。
「この前は頬に絆創膏、四週間の謎の研修、今度は肩。……お前、呪われてんのか」
「そうかもな」
「なあ、正直に言えよ」
稔が、声を落として身を乗り出した。
「彼女の家、やっぱり危ないことしてるんじゃないのか」
「……は?」
「四週間も連れ回されて、帰ってきたら傷だらけで、今度は腕をやられてる」
稔の目は、真剣だった。
「俺は、お前の友達だからな。……何かあったら、言えよ」
零は、しばらく黙っていた。
この男には、何一つ言えない。
言えば、確実に巻き込む。魔獣も、使徒も、凪域も、この教室の空気には何一つ馴染まない。
本当のことは、何一つ言えない。
言ったところで、信じてもらえるはずもない。
それでも、この男が本気で心配していることだけは、痛いほど伝わってきた。
「……ありがとな」
「おう」
「でも、本当に転んだだけだから」
「嘘つけ」
一時間目は、数学だった。
板書を写そうとして、零は苦戦した。
左手で鉛筆を握ると、線がまっすぐ引けない。
数式が、ミミズの這ったような形に崩れていく。
「三神。あとでノート、見せてやろうか」
稔が、呆れた顔で自分のノートを差し出した。
「……頼む」
零は、素直に頭を下げた。
ノートを写させてもらうのは、入学以来初めてだった。
いつもは逆で、部活で寝落ちした稔の分を、零が黙って写させてやる側だった。
立場が入れ替わるだけで、こんなにも落ち着かないものかと思う。
月曜日の夕方。
玄関の鈴を三つ鳴らして家に入った瞬間、零の足は台所へ向かっていた。
習慣だった。
帰ったら手を洗い、エプロンをつけて、冷蔵庫の中身を確認する。
この三年、ほとんど毎日そうしてきた。
「零」
台所の入り口に立った瞬間、背中から声が飛んできた。
「座ってなさい」
二十歳の顔をした母が、菜箸を持ったまま振り返っていた。
「……せめて、野菜だけでも切る」
「駄目」
「片手でも、キャベツくらいなら」
「片手で包丁を持つなんて、お母さんが許しません」
奈々美は、きっぱりと言い切った。
「そこに座って、テレビでも見てなさい」
零は、リビングの椅子に座らされた。
台所からは、包丁がまな板を叩く音が聞こえてくる。
とん、とん、とん。
リズムが、少しだけ自分と違う。母のほうが、僅かに速い。
水を出す時間も短い。鍋を火にかける順番も違う。
同じ台所で、同じ道具を使っているのに、立つ人間が変われば家の音まで変わってしまう。
自分がこの三年で作ってきた音を、今日は外から聞いている。
零は、その音を聞きながら、膝の上で左手を握ったり開いたりしていた。
「……お兄ちゃん」
向かいのソファで、玲奈がスマートフォンから顔を上げた。
「そわそわしすぎ」
「……してない」
「してるよ。さっきから三回、台所のほう見てる」
「見てない」
「四回目」
零は、視線を天井に移した。
「あんた、手が動かないと死ぬの?」
澪が、大学の課題を広げたまま呆れ顔で言った。
「別に、死なないけど」
「じゃあ、休みなさいよ。せっかくお母さんが作ってくれてるんだから」
「……うん」
その夜の夕飯は、鶏の照り焼きと、ほうれん草のおひたしと、豆腐の味噌汁だった。
零は、左手で箸を持って、ゆっくりと食べた。
味噌汁を一口すすって、少しだけ驚いた。
(……出汁の味が、俺のと違う)
同じ昆布と鰹節を使っているはずだった。
同じ鍋で、同じ分量で作っているはずだった。
それでも、母の味噌汁のほうが、ほんの少しだけ丸い。
自分は、この味を真似してきた。
最初の一年は、味噌の量すら分からなかった。二年目に、ようやく家族が「おいしい」と言うようになった。
三年目の今、近づいたつもりでいた。
だが、並べてみれば、まだ届いていない。
悔しさと、どこか安心したような気持ちが、同時に胸の底に沈んでいった。
「……どうしたの、零」
「……いや」
零は、首を振った。
「おいしい」
「あら。ありがとう」
奈々美は、嬉しそうに笑った。
火曜日の午前。
三神家の玄関で、奈々美は帽子を深くかぶっていた。
「……行ってくるわね」
「その格好で、大丈夫か」
新聞を読んでいた五郎が、顔を上げた。
今日は、代休で家にいる。
「大丈夫よ。買い物くらい」
奈々美は、エコバッグを手に出ていった。
結果から言えば、大丈夫ではなかった。
この町の商店街は、顔と顔で回っている。
二十年、同じ八百屋で野菜を買い、同じ魚屋で刺身を選んできた人間が、別人の顔で歩けるはずもなかった。
「あら、三神さんの……娘さん?」
商店街に入って三分で、町内会の顔見知りに捕まった。
「い、いえ。……姪です」
「まあ、姪御さん。お母様によく似てるわねえ」
「……よく言われます」
「奈々美さん、お元気?」
「……ええ、元気です。風邪を引いて、寝込んでますけど」
「元気なの、寝込んでるの、どっち?」
「……寝込みながら、元気です」
その後、八百屋で二回、魚屋で一回、同じやり取りを繰り返した。
止めとばかりに、スーパー「ヤオヨシ」だった。
自動ドアをくぐった瞬間、レジのルディアが固まった。
黄金の髪の店員は、バーコードリーダーを持ったまま、三秒ほど動きを止めた。
それから、完璧な営業スマイルを顔に貼りつけた。
「……いらっしゃいませ」
「こんにちは」
「本日は、鮮魚が特売ですわ」
「あら、嬉しい」
鮮魚コーナーでは、真里が包丁を持ったまま、危うく落としかけていた。
会計の時、ルディアは一度だけ小さく囁いた。
「えっと……お変わりなく、何よりですわ」
「ありがとう」
奈々美は、それ以上は何も言わずに店を出た。
ルディアは、その背中を見送りながら、レジの台を静かに拭いていた。
河原で肉を取り分けてくれた人。ゴーストが「知り合いのお母様」と呼ぶ人。
その人が、二十歳の顔で買い物籠を提げて現れた。
それが何を意味するのか、この店の者たちは、誰も口にしなかった。
火曜日の午後。
食卓の上に、一枚の紙が置かれていた。
『三者面談のご案内』
「……これ」
奈々美が、その紙を摘み上げた。
「来週の火曜日って、書いてあるわ」
「零のか」
「ええ」
五郎が、茶をすすりながら紙を覗き込んだ。
「……この顔で、行くのか」
「無理よ」
「無理だろうな」
「絶対に無理」
奈々美は、紙を食卓に置いた。
「担任の先生、私の顔を知ってるもの。去年の面談で会ってるわ」
「若返った理由を聞かれるな」
「答えられるわけないでしょう」
二人は、しばらく腕を組んで唸っていた。
魔獣も、使徒も、この夫婦の日常を崩せなかった。
だが、一枚の面談の案内は、確実に食卓の空気を重くしていた。
「……来週までに戻らなかったら、あなたが行って」
「俺が?」
「他に誰が行くのよ」
「いや、しかしな。……父さんは、面談というやつが苦手だ」
「私だって苦手よ」
「先生と何を話せばいいんだ」
「息子の話をすればいいでしょう」
夕飯の席で、その話を聞いた零は、静かに味噌汁を飲んでいた。
「……俺、一人で行く」
「三者面談って、名前だけで二人でもいいんじゃ」
「三者って書いてあるでしょう」
「……はい」
玲奈が、くすくす笑っていた。
火曜日の夜。
風呂上がりの奈々美が、居間のソファに座った瞬間だった。
左右から、娘二人が挟み込むように腰を下ろした。
「……何?」
「お母さん」
澪が、真剣な顔で言った。
「属性は?」
「雷よ」
「等級は?」
「昔の制度だから、今のとは違うの」
「換算すると?」
「……さあ、どうかしら」
「ごまかした」
玲奈が、身を乗り出した。
「どこの所属だったの?」
「……昔の話よ」
「またごまかした!」
「ごまかしてないわ。本当に昔なんだもの」
奈々美は、あっさりと笑って流した。
その笑い方が、いつもの母のものだったので、娘たちはそれ以上踏み込めなかった。
顔は二十歳でも、かわし方は四十年分だった。
こうなった母に何を聞いても無駄なことを、姉妹は経験で知っていた。
「……ねえ、お母さん」
澪が、少しだけ声を落とした。
「一個だけ、聞いていい?」
「どうぞ」
「その力、今も使えるの?」
奈々美は、しばらく黙っていた。
「……使えるわ」
「どのくらい?」
「昔と、同じくらい」
姉妹の顔が、強張った。
奈々美は、自分の掌を見下ろした。
「でもね。これは、私の力じゃないの。……借り物よ」
「借り物?」
「ええ」
奈々美は、それ以上は説明しなかった。
その夜、風呂上がりの澪は、自室でスマートフォンを握りしめていた。
画面には、白百合の盾の内部連絡アプリが開かれている。
母は、元魔法少女だった。
そして今、魔力を取り戻している。
本来なら、報告義務がある。
魔力保有者を発見した場合は、速やかに報告すること。
協会の入隊の時、そう教わった。
澪の指が、画面の上で止まっていた。
報告すれば、白百合だけでなく協会にも情報が回る。
魔力保有者。しかも、四十を過ぎて力を取り戻した前例のない事例。
あの人たちが、母を「対象」としてどう扱うか。
弟が四週間消えた時のことが、嫌でも頭をよぎった。
「……」
長い間、そうしていた。
やがて、澪はアプリを閉じた。
スマートフォンを枕元に放り、布団に潜り込む。
「……家族のことだもの」
誰にともなく、そう呟いた。
その独り言を、部屋の前を通りかかった玲奈だけが聞いていた。
玲奈は、何も言わずに自分の部屋へ戻った。
水曜日の夕方。
下校途中の大通りで、零の隣に人が並んだ。
「——三神様」
八咫の隊員だった。今日は、買い物帰りの主婦の姿をしている。
「水瀬様が、お目覚めになりました」
零の足が、一瞬止まりかけた。
「……無事ですか」
「意識は明瞭です。魔力も、少しずつ戻り始めております」
「よかった」
「ただ」
隊員は、前を向いたまま続けた。
「勾玉より、ご報告が一つ。……妙なものが、見つかったそうです」
「妙なもの?」
「水瀬様と、お母様の間に。……何か、繋がりのようなものが残っていると」
零は、眉を寄せた。
「繋がり」
「詳細は、施設でご説明いたします。……明日、お時間はございますか」
「行きます」
零は、即答した。
水曜日の深夜。
三神家の廊下を、奈々美が静かに歩いていた。
喉が渇いて、水を飲みに下りたところだった。
若返ったせいなのか、最近はよく眠れない。
息子の部屋の前で、足が止まった。
扉の向こうから、寝息が聞こえる。
少しだけ、浅い。
あの子は、寝返りを打つたびに小さく呻く。
右肩を下にすると痛むのだろう。
奈々美は、扉の前でしばらく立っていた。
この部屋は、昔は子供部屋だった。
小学生の零が、風邪を引くたびにこの扉の向こうで寝ていた。
あの頃は、何も聞かなくても、全部話してくれた。
日曜日の夕方、玄関に立った息子の顔。
真っ白で、脂汗が浮いていて、それでも「転んだ」と言った顔。
あの日、中庭で倒れていた黒いドレスの少女の顔。
二つの顔が、頭の中で何度も重なる。
重なりかけては、離れていく。
奈々美は、ゆっくりと息を吐いた。
扉には、触れなかった。
聞けば、答えてくれるかもしれない。
だが、聞いてしまえば、あの子は嘘をつくか、黙るかのどちらかだ。
どちらも、あの子を傷つける。
(……待つわ)
奈々美は、扉に背を向けた。
あなたが話したくなった時に、話しなさい。
それまで、お母さんは、ご飯を作って待ってるから。
廊下の先で、寝室の明かりが漏れていた。
夫が、まだ起きているらしい。
奈々美は、少しだけ足を速めた。




