第二百九十話
勾玉の施設、地下二階の処置室。
台の上に横たえられた漆黒のドレスの少女を、白衣の隊員たちが取り囲んでいた。
「右胸、深達性。……肋骨に達しています」
「変身は、解かせないでください」
処置を指揮する隊員が、鋭く言った。
「この方は、変身中のほうが治りが早い。……今解けば、出血が一気に増します」
ゴーストは、台の上で荒い息を吐いていた。
意識はある。
だが、右腕は指一本動かせず、息を吸うたびに胸の奥が軋んだ。
「……緋雪、さん」
「ここにいるわ」
緋雪が、左手を強く握っていた。
その手が、微かに震えている。
「喋らないで。……お願いだから」
淡い光が、傷口の上に注がれていく。
治癒の術式と、ゴースト自身の魔力が、少しずつ肉を繋いでいった。
二時間後。
ゴーストは、上半身を起こして壁にもたれていた。
右胸の傷は、表面だけは塞がっていた。
変身中の身体は、傷の治りが早い。
夜ごと魔獣と斬り結んできた歳月の中で、それだけは何度も助けられてきた。
「……命に関わる状態は、脱しました」
隊員が、静かに告げた。
「ですが、塞がったのは表面だけです。内側は、あと数日かかります」
「……分かってます」
「右腕は、当分力が入らないとお考えください」
ゴーストは、右手を持ち上げようとした。
肩から先が、鉛のように重い。指先が、僅かに震えるだけだった。
「……包丁も、握れないわね」
「はい?」
「……何でもないわ」
隣の部屋では、桧山と椎葉が汐里の容態を診ていた。
寝台の上の汐里は、目を閉じたまま動かない。
顔色は白く、呼吸だけが浅く続いている。
「……魔力の総量が、三割ほど落ちています」
桧山が、投影図を睨んだまま言った。
「本人の固定術式に影響は出ていません。ですが、分けた分だけ、身体が空になった形です」
「意識は」
「今夜中には戻らんだろうな」
椎葉が、車椅子の上で首を振った。
「無茶をする子だ。……理屈の上では可能だと言っただけなのに」
老人の声は、苦々しかった。
だが、その目は、寝台の少女を見て少しだけ和らいでいた。
「……先輩の背中を押したかった、か」
処置室に戻ってきた緋雪が、ゴーストの隣に腰を下ろした。
「……お母様に、見られたわ」
「うん」
「『どうして、あなたがここに。あの子と、一緒に?』って」
ゴーストは、しばらく天井を見つめていた。
「……なんて答えたの」
「『失礼します』って、逃げたわ」
「……」
「他に、言いようがなかったの」
「うん。……ごめん」
ゴーストは、左手で顔を覆った。
母に見られた。
自分が守られるところを。
緋雪と一緒にいるところを。
「……帰るわ」
「え?」
「今夜、家に帰る」
緋雪の顔色が変わった。
「駄目よ。こんな怪我で」
「帰らないほうが、まずいの」
ゴーストは、壁に手をついて立ち上がった。
「母さんは、今日あんなものを見てる。……そこに息子まで帰らなかったら、絶対に何か勘づく」
「でも」
「それに」
ゴーストは、小さく笑った。
「今夜帰らなかったら、姉ちゃんが警察に電話するわ」
緋雪は、しばらく言葉を探していた。
それから、深く息を吐いた。
「……八咫の方に、送ってもらいましょう」
日曜日の午後六時半。
三神家の台所では、二十歳の顔をした母が味噌汁の味を見ていた。
「……ねえ、玲奈」
台所の入り口で、澪が小声で言った。
「あれ、本当にお母さんだと思う?」
「思いたくない」
「私も思いたくない」
姉妹は、柱の陰から台所を覗き込んでいた。
長い黒髪を後ろで一つに束ね、エプロンをつけた若い女が、鍋の前に立っている。
手つきは、完全に母のものだった。
出汁の味を見て、塩を一つまみ足して、菜箸で鍋を撫でる。
二十年見続けてきた、あの手つき。
「……お母さん」
「なあに」
「その顔で包丁持たないで。怖いから」
「失礼ね」
奈々美は、まな板の上の大根を薄く切りながら答えた。
「顔が若いだけで、中身は同じよ」
「そこが怖いのよ」
玲奈が、こくこくと頷いた。
二人は、魔法少女だった。
だからこそ、はっきりと分かってしまう。
母から、魔力の気配がする。
微かだが、確かに。
荒々しくも優しい魔力だった。
「……お母さん」
澪が、意を決して口を開いた。
「後で、ちゃんと説明してくれるのよね」
「ええ。夕飯の後にね」
その時、玄関の鈴が三つ鳴った。
「ただいま」
零の声だった。
「あ、零。おかえり——」
振り返った澪の言葉が、途中で止まった。
廊下に立つ弟の顔が、真っ白だった。
右腕を、身体に押しつけるようにして庇っている。
「……ちょっと、あんた」
「転んだ」
零は、先回りして言った。
「駅の階段で。……手すりに肩をぶつけた」
「はあ!?」
台所から、奈々美が出てきた。
若い顔のまま、廊下の息子の前に立つ。
「……おかえりなさい、零」
「……ただいま、母さん?」
零は、目の前の母の顔を見た。
中庭で、雷を纏って立っていた背中。
その人が今、エプロンをつけて、自分の前に立っている。
驚いた顔を作らなければ、と思った。
だが、うまくできたかどうかは、分からなかった。
「……母さん。その、顔」
「あら。驚いた?」
「……そりゃあ、驚くよ」
「ちょっとね、昔の知り合いに会って」
奈々美は、あっさりと言った。
「それより、零」
「……なに」
「その手、どうしたの」
奈々美の視線が、零の右腕に落ちた。
零の背筋を、冷たいものが走った。
「……だから、転んだって」
「そう」
奈々美は、それ以上は聞かなかった。
ただ、ほんの一瞬だけ、その目が細くなった。
息子の顔色を、袖の下の腕を、呼吸の浅さを、全部見ているような目だった。
それから、いつもの柔らかい顔に戻った。
「今夜は、お母さんが作るわ」
「……え」
「あなたは、座ってなさい」
「でも、味噌汁なら片手でも」
「零」
奈々美の声は、穏やかだった。
穏やかで、有無を言わせなかった。
「座ってなさい」
「……はい」
零は、素直にリビングへ引き下がった。
その背中を見送りながら、澪が頭を抱えた。
「……ねえ、玲奈」
「なに」
「今日、この家おかしくない?」
「おかしいよ」
「お母さんが二十歳ぐらいで、零が腕を怪我して帰ってきて、お父さんはさっきからずっと笑ってる」
「うん。おかしい」
テレビの前では、五郎が肩を震わせ続けていた。
午後七時半。
三神家の食卓には、大根と豚肉の煮物と、味噌汁と、焼き魚が並んでいた。
作ったのは、二十歳の顔をした母だった。
「……いただきます」
五人が、いつものように手を合わせた。
「……おいしい」
玲奈が、煮物を口に運んで呟いた。
「おいしいけど、状況がおかしい」
「失礼ね」
「だって、目の前に私と同じくらいの歳の人が座ってて、それがお母さんなんだよ」
「玲奈より、ちょっとお姉さんよ」
「そこじゃない!」
五郎だけが、終始上機嫌だった。
「いやあ、久しぶりに母さんの煮物を食ったな」
「あなた、ここ数日ずっと零のご飯だったものね」
「零のも旨い。母さんのも旨い。……今日は、当たりの日だ」
澪が、じっとりと父を睨んだ。
「お父さん。……なんで、そんなに落ち着いてるの」
「落ち着いてるか?」
「落ち着きすぎよ。普通、奥さんが二十歳になって帰ってきたら、もっと慌てるでしょ」
五郎は、味噌汁をすすった。
「門の前で、腹抱えて笑った」
「笑ったんだ」
「笑うだろう、あれは」
零は、その会話を聞きながら、左手で箸を動かしていた。
右手は、膝の上に置いたままだった。
箸が二度ほど滑り、煮物の大根が皿の中で転がった。
誰も、それを指摘しなかった。
澪も、玲奈も、一度だけ弟の手元を見て、何も言わずに視線を戻した。
五郎は、最初から見ていない。
母だけが、零の皿の煮物を、一口大に切り分けて戻してくれた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
それだけの、短いやり取りだった。
夕飯の後、零が食器を下げようとすると、また止められた。
「今日は座ってなさいって言ったでしょう」
「……洗い物くらい」
「お母さんがやるわ」
奈々美は、零の手から皿を取り上げた。
そして、その拍子に、息子の右肩に指先が触れた。
零の身体が、僅かに強張った。
奈々美は、何も言わなかった。
ただ、皿を受け取って、静かに台所へ戻っていった。
深夜。
零は、ベッドに横になって天井を見上げていた。
右胸は、変身中に一度塞がった。
それでも、息を深く吸おうとすると、内側で鈍い痛みが走る。
窓の外を見ると、向かいの屋根に、二つの小さな影があった。
赤いリボンと、青いリボン。
今夜は、二人とも来ているらしい。
こちらを、じっと見ている。
零は、カーテンを少しだけ開けて、左手を振った。
屋根の上で、ルカがぱっと明るい顔になった。
リリアが、ほっとしたように小さく頷いた。
零は、カーテンを閉めて、もう一度天井を見上げた。
中庭で、母が雷を纏って立っていた。
自分の頭の上に振り下ろされようとしていた腕を、あの人が掴んだ。
振り返った背中は、知らない人のものだった。
それでも、その背中が誰なのかは、一目で分かった。
守られた。
守るはずの人に。
零は、左手で目元を覆った。
月曜日の朝、五時半。
台所に降りていくと、すでに明かりが灯っていた。
二十歳の顔をした母が、弁当箱を五つ並べて、卵焼き器の前に立っている。
「……母さん」
「あら、起きたの。まだ寝てていいのよ」
「手伝う」
「駄目」
奈々美は、振り返りもせずに言った。
「そこに座ってなさい」
零は、椅子に腰を下ろした。
母の手つきを、後ろから見る。
卵を巻く角度。菜箸の返し方。火加減の落とし方。
全部、自分の手つきと同じだった。
いや、逆だ。
自分が、この人の手つきを真似したのだ。
「……母さん」
「なあに」
「その姿、いつまで?」
「分からないわ」
奈々美は、卵焼きをまな板に移しながら答えた。
「明日戻るのかもしれないし、一週間続くのかもしれない」
「……病院とか」
「行けるわけないでしょう」
「……そっか」
しばらく、二人とも黙っていた。
卵焼き器が、じゅう、と小さく鳴った。
六時半。
澪と玲奈が、目をこすりながら台所に降りてきた。
そして、母の顔を見て、二人揃って固まった。
「……まだ戻ってない」
「戻ってないね」
「夢だと思ってたのに」
奈々美は、湯呑みにお茶を注ぎながら笑った。
「はいはい。座りなさい。説明するから」
三人の子供が、食卓に並んだ。
五郎は、新聞を広げたまま、黙って茶を飲んでいる。
「あのね」
奈々美は、エプロンの前で手を組んだ。
「お母さん、昔、少しだけ魔法少女だったの」
澪の手から、湯呑みが滑り落ちかけた。
「……は?」
「若い頃の話よ。結婚する前にね」
「ちょっ、ちょっと待って! 魔法少女!?」
「ええ」
「お母さんが!?」
「そんなに驚くこと?」
「驚くわよ!」
澪が、テーブルを叩いた。
「協会の記録は!? 登録番号は!?」
「昔のことだもの。今はもう、記録もどこにあるんだか」
奈々美は、あっさりと流した。
「それで、昔の後輩に会ってね。力を分けてもらったの。……そうしたら、こうなっちゃって」
「そうしたらって」
「しばらくしたら、戻るはずよ。たぶん」
「たぶん!?」
玲奈は、口を開けたまま母を見ていた。
「……お母さん、なんで黙ってたの」
「聞かれなかったからよ」
「聞かないよ、そんなこと!」
三人の騒ぎを、零は黙って聞いていた。
母は、それ以上は話さなかった。
戦姫のことも、後輩の名前も、昨日あの寮で何があったのかも。
語らないことを選んだ人の顔を、零は知っていた。
毎日、鏡で見ている顔だった。
「……ねえ、お母さん」
澪が、少しだけ声を落とした。
「無理、してない?」
奈々美が、顔を上げた。
「身体、どこも痛くないの? その……力を分けてもらったって、危ないことじゃないの?」
奈々美は、しばらく娘の顔を見つめていた。
それから、柔らかく笑った。
「大丈夫よ。……心配してくれて、ありがとう」
澪は、照れくさそうに視線を逸らした。
「別に。……朝ご飯が作れなくなったら困るだけ」
「はいはい」
零は、その光景を見ながら、左手で味噌汁の椀を持ち上げた。
母は、何も言わない。
自分も、何も言わない。
この家の食卓は、そうやって回っていた。
同じ頃。
白い壁と白い床だけの、窓のない礼拝堂。
その扉の前に、人影が一つ立っていた。
片腕がなかった。
肩から先が、紫色の光を滲ませたまま、抉れている。
「……止まりなさい!」
扉の内側で、第二使徒が声を張り上げた。
その手が、震えている。
目の前の存在から、魔力の気配が一切しない。
「何者よ、あなた」
「……取引をしよう」
無響は、扉の向こうへ向かって言った。
温度のない声が、白い壁に反響する。
「あの雷と、黒いドレス」
帳の奥で、燭台の火が揺れた。
「あれを、二度と会わせないほうがいい」




