第二百八十九話
音が、消えていた。
風も、炎の爆ぜる音も、遠くの鳥の声も。
世界から、あらゆる揺らぎが拭い取られていた。
凪域の中では、周りの音が消える。
気配も、魔力の揺らぎも、何も感じ取れない。
だからこそ、そこから来るものには、予兆がない。
それでも。
ゴーストの首筋に、言葉にならない寒気が走った。
理由はなかった。
音も、気配も、魔力の揺らぎもない。
ただ、夜ごと命のやり取りを重ねてきた身体だけが、何かを告げていた。
(——後ろ)
振り返るより先に、身体が動いた。
腰をひねり、重心を左へ流す。
——ズッ。
鈍い音が、身体の内側から響いた。
背後の影から突き出した長い指が、ゴーストの右胸を抉っていた。
心臓を狙った一撃だった。
身体をひねったことで、急所は逸れた。
だが、完全には避けきれなかった。
「——か、っ……」
息が、止まった。
ゴーストの身体が、焼け焦げた枯れ草の上に叩きつけられた。
右胸から、闇の魔力が制御を失って漏れ出していく。
息を吸おうとするたびに、胸の奥が軋んだ。
右腕に、力が入らない。
大剣を握る指が、勝手に震えている。
視界の端が、白く明滅していた。
「……躱したか」
頭上から、温度のない声が降ってきた。
人の形をした何かが、ゴーストを見下ろしていた。
白い肌。長い指。整いすぎた顔。
その指先から、闇の魔力の欠片が、ぽたりと地面に落ちた。
「やはり、お前だったな」
無響は、首を僅かに傾げた。
「あの少年と、同じ波形」
ゴーストは、答えられなかった。
声を出そうとすると、胸の傷が裂けるように痛んだ。
「——私の相手に」
横合いから、紅蓮の薙刀が奔った。
「横から手を出さないで」
焔の一閃が、無響の胴を薙いだ。
無響は、紙一重でそれを躱し、数歩後ろへ滑る。
「……炎の使徒」
「誰だか知らないけど、礼儀のなってない子ね」
焔は、脇腹の傷を押さえながら、薙刀を構え直した。
その目に、先ほどまでの愉快そうな色はなかった。
「この子は、今、私と話していたのよ」
「話の途中だったのは、こちらも同じだ」
無響は、焔には目もくれなかった。
その視線は、地面に倒れたゴーストだけを見ていた。
「器の傍に、ずっとこの波形があった。……器を得るには、まず、これを消す」
無響の姿が、消えた。
次の瞬間、ゴーストの頭上に、長い指が振り上げられていた。
「——ゴースト!」
緋雪の叫びが、中庭の端から響いた。
太刀を抜いて駆け出す。
だが、距離がありすぎた。
どれだけ速く走っても、あの指が振り下ろされるほうが先だった。
焔の薙刀も、間に合わない。
無響は、焔の間合いのぎりぎり外に立っていた。
ゴーストは、震える左手で大剣を持ち上げようとした。
持ち上がらなかった。
(……動け)
右胸の傷口から、また闇が漏れた。
防壁の内側で、奈々美が息を呑んだ。
倒れている。
あの子が、倒れている。
公園で自分を守ってくれた子が。
汐里を預かってくれた子が。
うちでお饅頭を二つ食べていった、あの子が。
奈々美は、防壁の外へ飛び出そうとした。
その手首を、汐里が掴んだ。
「先輩」
「離して、汐里ちゃん!」
「先輩が行っても、間に合いません」
汐里の声は、震えていなかった。
「今の先輩には、あの人を止める力がない。……分かってるでしょう」
「……っ」
「だから」
汐里は、奈々美の手を、両手で包み込んだ。
「私の中にあるもの、使ってください」
奈々美の目が、見開かれた。
「汐里ちゃん、あなた」
「椎葉先生は、理屈の上ではできるって言ってました。……試したことは、ないけれど」
汐里は、小さく笑った。
右の頬に、えくぼが浮かんだ。
「でも、できる気がするんです」
「駄目よ、そんな」
「先輩」
汐里は、奈々美の目をまっすぐに見た。
「昔、私が泣いていた時、先輩はいつも背中を押してくれました」
「……」
「今度は、私が先輩の背中を押す番です」
汐里の掌から、何かが流れ込んできた。
冷たい水のようだった。
凪いだ湖の底から、ゆっくりと汲み上げられた水。
十二年間、一度も揺れたことのない、静かな魔力。
それが、奈々美の腕を伝い、胸の奥へと沈んでいく。
胸の奥。
二十年前に置いてきたはずの場所。
とうに燃え尽きて、灰になったと思っていた場所に。
小さな火花が、一つだけ残っていた。
汐里の水が、その火花に触れた。
——パチッ。
音が、した。
凪域の中で、音が。
奈々美の指先から、青白い光が迸った。
雷光が、中庭を真っ白に染めた。
凪域の中に、音が戻ってきた。
いや、戻ってきたのではない。
あまりにも強い雷鳴が、凪の静寂を内側から引き裂いていた。
——バリバリバリバリッ!
無響の腕が、振り下ろされる寸前で止まった。
その手首を、誰かの手が掴んでいた。
若い女の手だった。
白い指。細い手首。
だが、その手から、雷が絶え間なく迸り、無響の腕を焼いていた。
「……何だ」
無響が、初めて声に揺らぎを見せた。
光が、収まっていく。
ゴーストの頭上に、一人の女が立っていた。
二十歳前後の姿。
深い藍色の戦闘服。肩から背中にかけて、稲妻の紋が刻まれている。
長い黒髪を、後ろで一つに高く束ねていた。
その髪の一房一房に、青白い電光が走っている。
ゴーストは、倒れたまま、その背中を見上げていた。
知っている顔だった。
知らない顔だった。
家の台所で、毎朝味噌汁の鍋をかき回している人の顔。
その顔から、二十年分の歳月を取り去ったら、きっとこうなるのだろう。
「……奈々美」
焔が、薙刀を下ろして呟いた。
その声は、掠れていた。
「その子から」
奈々美は、無響の手首を掴んだまま、静かに言った。
「手を、離しなさい」
——ドンッ!
雷が、無響の腕を根元から吹き飛ばした。
人の形をした何かが、よろめいて後ろへ下がる。
腕のあった場所から、紫色の光が漏れ出していた。
「……っ」
無響が、残った腕を振るった。
予兆のない一撃。凪の中から放たれる、音のない刃。
だが、奈々美はもうそこにいなかった。
雷は、速い。
凪が揺らぎを消しても、その揺らぎを読み取るより先に、雷は届く。
無響の背後に、青白い光が瞬いた。
「遅いわ」
——ズドォンッ!
二撃目。
雷をまとった掌打が、無響の胴体に叩き込まれた。
人の形をした何かが、中庭を一直線に吹き飛び、寮舎の外壁に激突する。
壁が崩れ、瓦礫が雪崩れ落ちた。
静寂。
瓦礫の中から、無響がゆっくりと身体を起こした。
片腕を失い、胴体に焼け焦げた穴が開いている。
それでも、その顔には表情がなかった。
「……これが」
無響は、奈々美を見た。
「これが、消えかけていた波形か」
「消えかけてなんか、いないわ」
奈々美は、右手を掲げた。
掌の上に、雷が集まっていく。
凝縮され、渦を巻き、中庭の空気がびりびりと震える。
「二十年、しまっておいただけよ」
三撃目。
奈々美が腕を振り下ろす直前、無響の姿が闇に溶けた。
雷が、無響のいた場所を貫いた。
瓦礫が吹き飛び、地面が抉れる。
だが、そこにはもう、何もいなかった。
凪域が、解けていった。
風の音が、戻ってきた。
炎の爆ぜる音が、戻ってきた。
遠くの山で、鳥が一声鳴いた。
奈々美は、掲げた手をゆっくりと下ろした。
「……逃げたわね」
中庭に、焔が立っていた。
薙刀を下ろし、脇腹の傷を押さえたまま、奈々美の姿を見つめている。
その目に、戦意はなかった。
「……やっぱり、あなたは強いわね」
焔の声は、どこか懐かしそうだった。
「先輩」
奈々美は、焔に向き直った。
雷をまとった髪が、風に揺れている。
「今日は、帰って」
「……」
「お願い」
焔は、しばらく奈々美を見つめていた。
二十年前、前線で並んで戦った後輩。
自分の炎の隣で、いつも雷を落としていた子。
その姿が、今、目の前にあった。
焔は、ゆっくりと頷いた。
「……分かったわ」
薙刀が、炎の粒になって散った。
焔は、奈々美に背を向けて、中庭の出口へ歩き出した。
途中で一度だけ足を止め、振り返らずに言った。
「……二十年ぶりに、見られてよかったわ」
「……」
「その雷」
女の姿が、陽炎の中に溶けて消えた。
奈々美は、振り返った。
「あなた、大丈夫——」
ゴーストは、すでに立ち上がっていた。
寮舎の壁に左手をつき、身体を支えている。
右腕は、だらりと垂れ下がったまま動かない。
右胸の傷口を、ドレスの布地ごと押さえていた。
息が浅い。吸うたびに、肩が小さく震えている。
「動いちゃだめ」
奈々美が、駆け寄ろうとした。
「今、手当てを」
「……大丈夫」
ゴーストは、壁から手を離さずに言った。
声が、掠れていた。
「……自分で、戻れるわ」
「そんな怪我で、どこに」
「……大丈夫、だから」
ゴーストは、奈々美の顔を見なかった。
見られなかった。
手当てを受ければ、この人の手が自分に触れる。
魔力が乱れている今、変身がどこまで保つか分からない。
母の目の前で、この姿が解けてしまったら——
「……ありがとう」
ゴーストは、それだけ言った。
「助けて、くれて」
奈々美は、何か言いかけた。
だが、その前に、ゴーストの足元の影が広がった。
漆黒のドレスの少女は、壁に手をついたまま、影の中へ沈んでいった。
「あ……!」
奈々美の伸ばした手が、空を切った。
中庭の端から、緋雪が駆け寄ってきた。
奈々美の前で足を止め、深く頭を下げる。
「……助けていただいて、ありがとうございました」
「緋雪ちゃん……?」
奈々美の目が、丸くなった。
「どうして、あなたがここに。……あの子と、一緒に?」
「……失礼します」
緋雪は、それ以上何も言わずに、ゴーストの消えた影の方角へ走り去った。
奈々美は、一人、中庭に取り残された。
雷をまとった自分の手を見下ろす。
白くて、細くて、染み一つない手。
二十年前の、自分の手だった。
「……先輩」
背後で、か細い声がした。
振り返ると、汐里が地面に座り込んでいた。
顔色が、真っ白だった。
八咫の隊員が、その身体を後ろから支えている。
「汐里ちゃん!」
奈々美は、駆け寄って膝をついた。
「大丈夫? どこか痛いの?」
「……少し、疲れただけです」
汐里は、弱々しく笑った。
それから、奈々美の顔を見上げた。
全盛期の先輩の姿を、目に焼きつけるように。
「……先輩」
「なあに」
「やっぱり、その姿のほうが」
汐里は、そこで言葉を止めた。
少しだけ考えてから、首を横に振る。
「……いいえ。どっちも、先輩です」
汐里の目から、涙が一粒零れた。
奈々美は、何も言わずに、後輩の頭を撫でた。
二十年前、泣いていたこの子に、そうしていたように。
寮跡の門の前。
五郎は、坂の上を見上げたまま、立ち尽くしていた。
さっきまで、雷鳴が轟いていた。
冬なのに、何度も空が白く光った。
あれは、見覚えのある光だった。
二十年前、瓦礫の下から見上げた時と、同じ光。
坂の上から、足音が降りてきた。
五郎は、顔を上げた。
淡い色のブラウスを着た女が、坂を下りてくる。
今朝、妻が着て出かけたブラウスだった。
だが、それを着ている顔は、二十歳前後の娘のものだった。
五郎は、固まった。
女は、門の前で足を止めた。
気まずそうに、ブラウスの裾を指でつまんでいる。
「……ただいま、あなた」
五郎は、しばらく何も言えなかった。
それから、肩が震え始めた。
「……ぶ、っ」
「笑わないで」
「く、くくっ……!」
「笑わないでって言ってるでしょう!」
五郎は、腹を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
「お、お前……なんだ、その格好……!」
「知らないわよ! 汐里ちゃんが力を分けてくれたら、こうなったの!」
「いや、懐かしくてな……!」
五郎は、涙を拭いながら笑い続けた。
「瓦礫の下から俺を引っ張り出した時と、まったく同じ顔だ……!」
「……もう」
奈々美は、頬を膨らませてそっぽを向いた。
その仕草まで、二十年前と同じだった。
五郎は、ようやく笑いを収めて立ち上がった。
それから、若い姿の妻の手を、しっかりと握った。
「……ちゃんと、帰ってきたな」
奈々美は、夫の手を握り返した。
「ええ。……ただいま」
二人は、しばらく門の前で、そうして立っていた。
「……で、どうする」
「どうするって」
「その格好で、家に帰るのか」
奈々美は、自分の手を見下ろした。
雷は、もう消えている。
だが、手の形は、若いままだった。
「……少し、待てば戻るんじゃないかしら」
「少しって、どのくらいだ」
「分からないわよ、初めてなんだから」
二人は、近くの喫茶店で一時間待った。
戻らなかった。
公園のベンチで、もう一時間待った。
戻らなかった。
日が、傾き始めていた。
冬の夕暮れは、早い。
「……ねえ、あなた」
「うん」
「これ、戻るのかしら」
「……分からん」
奈々美は、腕時計を見た。
午後五時。
そろそろ、夕飯の支度を始めなければならない時間だった。
「……帰るわ」
「その格好でか」
「晩ご飯の支度が、あるもの」
奈々美は、ベンチから立ち上がった。
その横顔は、腹を括った母親のものだった。
顔は、二十歳だったが。
午後六時。
三神家の玄関で、鈴が三つ鳴った。
「おかえり、お母さ——」
リビングから顔を出した澪の言葉が、途中で止まった。
その後ろから、玲奈がひょいと顔を覗かせる。
「……え?」
玄関に、見知らぬ女が立っていた。
二十歳前後の、目を引くほどの美人。
長い黒髪を、後ろで一つに束ねている。
着ているのは、今朝、母が着て出かけた淡い色のブラウスだった。
その後ろで、父が必死に笑いを堪えている。
「……だ、誰?」
澪が、掠れた声で言った。
「お母さんよ」
女は、いつもの母の声で、あっさりと答えた。
「……」
「……」
澪と玲奈が、完全に固まった。
玲奈の手から、テレビのリモコンが滑り落ちた。
カツン、と廊下に乾いた音が響く。
「ちょ、ちょっと待って」
澪が、額を押さえた。
「お母さん……? お母さんって、あの、うちの?」
「他に、どこのお母さんがいるのよ」
「だって、顔が……!」
「後で説明するわ」
奈々美は、靴を脱いで廊下に上がった。
澪と玲奈の間を、何事もなかったかのように通り抜けていく。
台所の入り口で、壁に掛けてあったエプロンを手に取った。
いつものように、首にかけて、紐を後ろで結ぶ。
「さ、晩ご飯にしましょう」
二十歳の顔をした母は、振り返って微笑んだ。
「冷凍庫に、鮭が残ってたわよね」
澪と玲奈は、玄関に立ち尽くしたまま、互いの顔を見合わせた。
五郎は、玄関の上がり框に座り込んで、声を殺して笑い続けていた。




