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未登録の魔法少女  作者: 浅川


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第二百八十八話

 焔の拳の中で、炎が花のように開いた。


 熱くはなかった。

 揺らめく赤い光が、椅子に座ったままの奈々美の周りを、柔らかく包み込んでいく。

 肌を焼くためのものではない。ここから連れ出すための、檻だった。


「……先輩」


 奈々美は、椅子から立ち上がらなかった。


「そういうところも、変わらないのね」


「どういうところ?」


「力ずくの時まで、優しいところ」


 焔は、小さく笑った。


「褒め言葉として受け取っておくわ」


 その時。


 食堂の床に落ちた影が、揺れた。

 テーブルの影。椅子の影。割れた窓枠が作る、細い格子の影。

 その全てが、一斉にざわめいた。

 影の中から、漆黒のドレスの少女がせり上がった。


「——その人から、離れて」


 焔の目が、細められた。


「……あなたが、黒いドレスの子ね」


 焔は、ゆっくりと振り返った。


「第五の報告どおり。……公園で、奈々美を守った子」


 ゴーストは、答えなかった。

 視線だけが、炎の檻の中の母へ向いている。

 母は、驚いてはいなかった。

 ただ、ほんの少しだけ、困ったように眉を下げていた。

 ここで戦えば、母を巻き込む。

 ゴーストは、一歩踏み込んだ。

 焔の足元の影が、足首を掴むように絡みつく。


「——っ」


 次の瞬間、二人の姿が食堂から消えた。


 影から影へ。

 ゴーストは、焔ごと自分の影に引きずり込み、寮舎の中庭へと跳び出していた。

 冬枯れの中庭に、二つの影が着地した。

 かつては花壇だった場所に、雑草が伸び放題になっている。

 中央には、水の止まった古い噴水。

 周囲を、二階建ての寮舎の壁が囲んでいる。


「……強引ね」


 焔は、コートの裾を払いながら、中庭を見渡した。


「でも、いい判断よ。あそこで始めていたら、奈々美に火の粉がかかっていたわ」


「分かってるなら、最初から離れていて」


「それはできないわ」


 焔は、右手を横に伸ばした。


 掌から、炎が伸びた。

 一本の長い棒のように。

 その先端が、弧を描いて刃の形を取る。


 紅蓮の薙刀だった。


 柄も、刃も、全てが炎でできている。

 それでいて、形は揺らがない。

 十二年、一度も消えなかった炎が、一振りの武器として固定されていた。


「今日は、迎えに来たのだもの」


 焔は、薙刀を構えた。


「邪魔をするなら、あなたから退けるわ」


 ゴーストは、右手に闇を集めた。

 漆黒の大剣が、その手に形を成す。

 中庭の空気が、二色に割れた。

 最初の一合は、正面からだった。


 ——ガキィィンッ!


 大剣と薙刀が、中庭の真ん中でぶつかり合った。

 衝撃で、足元の枯れ草が円形に薙ぎ倒される。

 ゴーストの腕に、重い痺れが走った。


(……重い)


 細身の女が振るっているとは思えない一撃だった。

 薙刀の刃が触れた大剣の表面から、黒い煙が上がっている。

 闇が、焼けていた。


「いい腕ね」


 焔は、刃を引いて半歩下がった。

 その動きに、無駄が一切ない。


「でも、軽いわ」


 薙刀が、横薙ぎに振るわれた。


 ゴーストは、影へ沈んだ。

 刃が空を切り、その軌跡に沿って炎の帯が残る。

 帯は消えずに、しばらく空中で燃え続けていた。

 ゴーストは、焔の右後方の影から浮上した。

 大剣を振り下ろす。


 ——ギィンッ!


 薙刀の柄が、背中越しに大剣を受け止めていた。


「……っ」


「右後ろ。そこから来ると思ったわ」


 焔は、振り返りもせずに言った。


「影から出てくる場所は、影がある場所だけ。……この中庭で、あなたが出てこられる影は、数えるほどしかないの」


 焔は、柄を回して大剣を弾いた。

 ゴーストは、弾かれた勢いのまま後ろへ跳び、距離を取った。


 焔の言う通りだった。


 冬の午後の日差しは低く、中庭に落ちる影は長い。

 だが、その数は限られている。

 噴水の影。寮舎の壁の影。枯れ木の影。

 十二年、前線に立ち続けた魔法少女は、その全てを一瞬で読み取っていた。

 ゴーストは、左手を突き出した。

 白い冷気が、焔へ向かって奔る。

 だが、冷気は焔に届かなかった。

 女の周囲、一メートルほどのところで、音もなく白い蒸気に変わって消えた。


「氷? ……珍しいものを持っているのね」


 焔は、首を傾げた。


「でも、私の周りでは、氷は氷でいられないわ」


「……なら」


 ゴーストは、冷気を放ち続けた。

 蒸発する。蒸発する。蒸発する。

 焔の周囲に、白い蒸気が溜まっていく。

 やがて、中庭の半分が、濃い霧に沈んだ。


 視界が、白く閉ざされる。


 ゴーストは、霧の中の影に沈んだ。

 第九使徒を崩した時と、同じ手だった。

 だが、霧の向こうで、焔の声が笑った。


「その手は、第九の報告書で読んだわ」


 次の瞬間、中庭の温度が跳ね上がった。


 ——ボッ!


 霧が、内側から燃えた。


 水蒸気が、更に熱せられて弾け飛ぶ。

 白い霧は、一瞬で透明な熱気へと変わり、中庭の空気が陽炎のように揺らいだ。


「同じ手は、効かないわ」


 霧が消えた中庭の真ん中に、焔が立っていた。

 薙刀を肩に担ぎ、汗一つかいていない。


「読むのは得意なの。……十二年、報告書ばかり読んで暮らしていたから」


 ゴーストは、奥歯を噛んだ。


 氷は、届かない。

 霧は、焼き払われる。

 闇の刃は、熱に削られる。


(……なら)


 ゴーストは、大剣を地面に突き立てた。

 両手を広げる。


 足元から、闇が溢れ出した。


「『深淵の帳』」


 闇が、中庭を這った。


 枯れ草を呑み込み、噴水を呑み込み、焔の足元へと迫る。

 そして、女の身体を、足元から包み込むように覆い始めた。


「……あら」


 焔の周りの炎が、揺らいだ。

 闇の帳の内側で、空気が薄くなっていく。

 炎が燃えるための何かが、闇に吸い取られていく。

 女の纏う熱が、少しずつ、確かに小さくなっていった。


「闇で、息を止めるのね」


 焔の声に、初めて感心したような響きが混じった。


「面白いわ。……炎を消そうとした子は、何人もいたけれど」


 闇の繭の中で、焔は薙刀を握り直した。


「炎の息を止めようとしたのは、あなたが初めてよ」


 ——ドォンッ!


 闇の帳が、内側から爆ぜた。

 焔の身体そのものから、炎が噴き上がっていた。

 外から空気を奪われても、関係がない。

 十二年分、身体の内側に溜め込んだ魔力を、直接炎に変えて吐き出している。

 闇の欠片が、火の粉と一緒に中庭に散った。


「……っ」


 ゴーストは、爆風に押されて後ろへ滑った。

 ドレスの裾が、焦げていた。


 焔は、疲れていなかった。


 息一つ乱れていない。

 額に汗も浮かんでいない。

 十二年、一度も変身を解いていない身体は、魔力が減らない。

 どれだけ炎を撃っても、次の炎がすぐに湧き上がってくる。

 一方、ゴーストの呼吸は、明らかに上がり始めていた。

 左の前腕に、赤い火傷が走っている。

 大剣を握る指先が、痺れている。


「そろそろ、終わりにしましょうか」


 焔は、薙刀を天へ掲げた。


 穂先に、炎が集まっていく。

 渦を巻き、凝縮され、膨れ上がり——

 中庭の上空に、小さな太陽が生まれた。


「……っ」


 直径は、三メートルほど。

 白く輝く火球が、冬の空を照らしている。

 その熱だけで、中庭の枯れ草が一斉に燻り始めた。


「大丈夫よ。死なない程度に、加減するから」


 焔は、穏やかに言った。


「少し、眠っていてもらうだけ」


 火球が、落ちてきた。


 ゴーストは、両手を真上に突き上げた。


「『深淵の重圧』——!」


 闇が、質量を持って天へ向かった。

 落ちてくる火球を、下から押し返す。


 ——ゴォォォォォッ!


 闇と炎が、中庭の上空で激突した。


 押される。

 重圧で押し潰しているはずの火球が、闇を焼きながら、じりじりと降りてくる。


「……ぐ、っ……!」


 ゴーストの膝が、地面にめり込んだ。

 腕が、震える。

 視界の端が、白く明滅する。


 それでも、押し戻した。


 ——ドォォォンッ!


 火球が、空中で潰れて弾けた。

 衝撃波が、中庭を薙ぎ払った。

 ゴーストの身体が、木の葉のように吹き飛ばされる。

 寮舎の外壁に叩きつけられ、そのまま地面に崩れ落ちた。

 外壁の一部が、熱で溶けて垂れ落ちていた。


「……あら」


 焔は、薙刀を下ろした。


「押し返したの。……あれを」


 女の目に、驚きが浮かんでいた。


「第九なら、あれで終わっていたわ」


 ゴーストは、瓦礫の中から身体を起こした。


 全身が痛い。

 息が、うまく吸えない。

 焼けたドレスの袖から、煙が上がっている。


 それでも、立った。


(……このままじゃ、勝てない)


 真正面からの力比べでは、どうやっても押し負ける。

 あの女は疲れない。自分は疲れる。

 時間が経つほど、差は開いていく。

 なら、次の一手で、決めるしかない。

 ゴーストは、左手に冷気を、右手に熱を集めた。


「……まだやるの?」


「やるわ」


「どうして、そこまで」


 ゴーストは、答えなかった。

 代わりに、左手を地面に叩きつけた。


 ——パキィンッ!


 氷が、焔の足元へ走った。

 届く前に溶ける。それは分かっている。

 だが、溶けるまでの、ほんの一瞬。

 その一瞬だけ、焔の足元が滑った。


「——っ」


 焔の重心が、僅かにぶれた。

 同時に、ゴーストは右手の熱を、自分の周囲に撒いた。

 自分の身体を包むように、薄い炎の膜を張る。


 焔の目が、見開かれた。


(……炎?)


 焔は、中庭の熱の揺らぎで、相手の位置を読んでいた。

 闇は冷たい。だから、熱の中で浮き上がる。

 だが、今、その闇が、自分と同じ熱を纏っている。


 熱の揺らぎが、読めない。

 その瞬間、ゴーストの姿が影に沈んだ。

 焔の背後。

 溶け落ちた外壁が作った、真新しい影。

 焔の知らない、たった今生まれたばかりの影から、漆黒の刃が跳ね上がった。


 ——ザシュッ!


 闇の刃が、焔の脇腹を浅く裂いた。

 白いセーターが、赤く染まる。

 焔は、その場で動きを止めた。

 ゆっくりと、自分の脇腹に手を当てる。

 指先についた赤いものを、目の前に掲げて見つめる。


 そして、笑い出した。


「……ふ、ふふ」


 声を上げて、心の底から愉快そうに。


「十二年ぶりよ」


「……」


「私に、傷をつけたのは」


 焔は、血のついた指先を握りしめた。

 その目が、初めて、目の前の少女を「敵」ではない何かとして見ていた。


「あなた、名前は?」


「……ゴースト」


「そういう意味じゃないわ」


 次の瞬間、薙刀と大剣が、至近距離で噛み合った。

 ——ギリッ、ギリギリッ……!


 鍔迫り合いだった。

 炎の刃と闇の刃が、火花を散らしながら押し合う。

 二人の顔が、息がかかるほどの距離まで近づいた。


「……あなた、奈々美の何?」


 焔が、低い声で問うた。


「……ただの、知り合いよ」


「嘘ね」


 焔は、即座に切り捨てた。


「知り合いのために、ここまで必死になる子はいないわ」


 ゴーストは、答えなかった。

 焔の目が、ゴーストの目を覗き込んだ。

 紫水晶の瞳。

 その奥にある、何かを探すように。

 ——いい目をしてるわね。お母さんに、似てるわ。

 ヤオヨシの鮮魚台の前で、あの少年に言った言葉が、焔の頭をよぎった。


「……いい目ね」


 焔は、呟いた。


「奈々美の周りには、昔から、こういう子が集まるのよ」


 薙刀の炎が、ほんの僅かに緩んだ。


 中庭の端。

 食堂から出てきた奈々美の前に、水の防壁が立ち上がっていた。


 汐里だった。

 その隣で、緋雪が太刀を構えている。

 焔の視線が、一瞬だけそちらへ向いた。

 泣き虫だった後輩が、先輩の前に立って、壁を張っている。


「……前に立つように、なったのね」


 焔は、誰にも聞こえない声で呟いた。


 同じ頃。


 寮跡の門の前。

 五郎は、門柱から手を離していた。

 坂の上から、爆音と熱風が降ってくる。

 冬なのに、額に汗が浮かんでいた。

 五郎は、一歩、門の内側へ足を踏み出した。


「——お約束でしょう」


 背後から、静かな声がした。

 振り返ると、見知らぬ女性が立っていた。

 地味なコートを着た、どこにでもいそうな中年の女性。

 その手が、五郎の腕にそっと添えられている。


「奥様は、必ずお戻りになります」


「……あんたは」


「通りすがりの者です」


 五郎は、女性の顔をしばらく見つめていた。

 それから、踏み出した足を、ゆっくりと門の外へ戻した。

 中庭に、一瞬の静寂が落ちた。

 鍔迫り合いが解け、ゴーストと焔が、互いに距離を取る。

 どちらも、次の一手を探していた。

 その静寂が、終わらなかった。

 風の音が、消えた。

 炎の爆ぜる音が、消えた。

 遠くの山で鳴いていた鳥の声が、消えた。

 汐里の防壁の水面から、波紋が一つ残らず消えた。

 緋雪の吐く白い息が、揺れずに宙で止まったように見えた。


「……何、これ」


 焔が、眉を寄せた。


 ゴーストだけが、その意味を知っていた。


 凪域。

 背筋を、冷たいものが走った。

 次の瞬間、ゴーストの背後で、影が揺れた。

 何の予兆もなく。

 何の音もなく。

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