第二百八十七話
湯呑みを両手で包むと、指先にじんわりと熱が伝わってきた。
奈々美は、一口だけほうじ茶を含んだ。
香ばしい匂いが、鼻の奥に広がる。
少しだけ濃い。茶葉を多めに入れて、熱湯で一気に淹れる。二十年前と、同じ淹れ方だった。
「……変わらないのね、先輩のお茶」
「あなたが、変わらないって言ってくれるなら、嬉しいわ」
焔は、自分の湯呑みを傾けた。
廃墟の食堂に、二人だけの湯気が立ち上っていた。
割れた窓から冬の風が吹き込むはずなのに、この一角だけは、春先のように暖かい。
焔の周りの空気が、ずっと微かな熱を帯びている。
「寒くない?」
「ええ。先輩のおかげで」
「便利でしょう、炎って」
焔は、少しだけ得意げに笑った。
その笑い方も、二十年前と同じだった。
しばらく、二人とも黙っていた。
湯呑みを傾ける音と、風が壁の隙間を抜ける音だけが、食堂に響いている。
「……門の前に、男の人が座ってたわね」
焔が、ふと口を開いた。
「坂を登ってくる途中で、見えたわ。缶コーヒーを握りしめて、一歩も動かない人」
「主人よ」
「……あの時の?」
「ええ。あの時の」
焔は、湯呑みを置いて、ゆっくりと息を吐いた。
「瓦礫の下から、あなたが引きずり出した人ね。……泥だらけで、腕の骨が折れてて、それでもあなたに『ありがとう』って言い続けてた」
「覚えてるの」
「忘れないわ。……あの日、あなたの顔が変わったから」
奈々美は、何も言わなかった。
「あれから半年で、あなたは辞表を出した」
焔の声は、責めるものではなかった。
ただ、事実を確かめるように、静かだった。
「私は、止めなかったわね」
「ええ」
「止めればよかったって、何度も思ったわ」
焔は、窓の外を見た。
割れたガラスの向こうに、冬枯れの山が見える。
「あなたが辞めて、八年後。……あの厄災が来たの」
奈々美の手が、湯呑みの上で止まった。
「十二年前ね」
「ええ」
焔は、窓の外を見たまま続けた。
「戦姫は、総出で前線に出た。あなたの同期も、後輩も、先輩も。……みんな」
「……」
「最初に倒れたのは、年長の子たちからだった。三十を過ぎて、力が薄れ始めていた子たち」
焔の指が、テーブルの縁を撫でた。
「経験は誰よりもあった。判断も、指揮も、一番確かだった。……でも、魔力が続かなかった」
「……」
「若い子たちを庇って、前に出て。魔力が尽きた瞬間に、魔獣の群れに呑まれた」
食堂の空気が、少しだけ熱くなった。
焔の感情に、周囲の熱が反応している。
「私の同期は、四人いたわ。……三人が、あの夜に」
奈々美は、湯呑みを置いた。
知っていた。
新聞で、ニュースで、厄災の死者の数を見た。
その中に、見覚えのある名前がいくつも並んでいた。
葬儀には、行かなかった。行けなかった。
辞めた人間が、どんな顔で遺族の前に立てばいいのか、分からなかった。
あの夜のことは、今でもうまく思い出せない。
五歳の零が、魔獣に腕を裂かれて病院へ運ばれた夜だった。
奈々美は、一晩中、小さな手を握って枕元に座っていた。
新聞に並んだ名前を見たのは、息子の熱が下がった数日後のことだ。
台所で夕飯の支度をしながら、奈々美は一度だけ手を止めた。
居間から、退院したばかりの零と、小学生の澪の笑い声が聞こえていた。玲奈は、まだ三つになったばかりだった。
その声を背中で聞きながら、鍋の火を見つめて、ただ黙って泣いた。
五郎だけが、何も聞かずに、その背中をさすってくれた。
「……私も、名前は見たわ」
「そう」
「行けなくて、ごめんなさい」
「謝らないで」
焔は、ようやく奈々美のほうへ向き直った。
「あなたが来なくて、よかったと思ってるの。……あの場に、あなたまでいたら」
その先は、言わなかった。
「厄災が終わった後、戦姫は解体されたわ」
焔は、話を続けた。
「協会に吸収されて、名前も、記録も、ほとんどが消された。……生き残った子たちは、ばらばらになった」
「汐里ちゃんから、少しだけ聞いたわ」
「あの子は、泣き虫のままだったでしょう」
「ええ。……でも、強くなってた」
焔は、小さく笑った。
「解体の日に、私は決めたの」
焔の声が、低くなった。
「もう二度と、あんな夜を見たくない。……誰も、衰えなければいい。誰も、力を失わなければいい」
「……」
「年を取るから、魔力が薄れる。魔力が薄れるから、前線で倒れる。……なら、止めてしまえばいい」
焔は、自分の掌を見下ろした。
白い指の先に、小さな火が一つ灯り、すぐに消えた。
「戦姫の地下に、封印された研究があった。変身を安定させる、未完成の術式。……それを、生き残った研究者から手に入れたの」
「……聖薬」
「ええ」
焔は、頷いた。
「生き残った十一人に声をかけた。みんな、同じ夜を見た子たちだった。……誰も、断らなかったわ」
奈々美は、しばらく焔の顔を見つめていた。
二十三歳ほどの、美しい顔。
二十年前、自分が新人だった頃の先輩は、もう少しだけ年上に見えた。
この人は、若返ったのではない。
あの夜の直前で、自分の時計を止めてしまったのだ。
「十二年、一度も変身を解いてないの?」
「ええ。一度も」
「疲れない?」
「疲れないわ。身体はね」
焔は、湯呑みを手に取った。
もう冷めているはずのお茶から、また湯気が立ち上った。
「誰も年を取らない。誰も衰えない。誰も、置いていかれない。……あの夜から、誰一人欠けていないのよ」
「……」
「汐里が抜けるまでは、ね」
焔の声に、初めて僅かな寂しさが混じった。
「奈々美」
「……なあに」
「あなたも、来ない?」
焔は、まっすぐに奈々美の目を見た。
「今のあなたは、四十を過ぎて、魔力もほとんど残ってない。……このまま年を取れば、あなたもいずれ、あの夜の先輩たちと同じになる」
「……」
「娘さんたちも、そうよ。今は強くても、いずれ薄れる。……その時、誰かを庇って前に出て」
「先輩」
奈々美は、静かに遮った。
「私ね、年を取るほうを選んだの」
焔の手が、止まった。
「二十年前に。……この坂を下りた日に」
奈々美は、湯呑みを両手で包み直した。
「主人と結婚して、子供が三人生まれて。上の子は、もう大学生なの」
「……」
「毎朝、お弁当を作って。……今は、息子のほうが上手になっちゃったけど」
奈々美は、少しだけ笑った。
「朝ご飯の支度をしながら、白髪が一本増えたのに気づいたり。膝が痛くなって、階段がきつくなったり。……そういうのを、全部選んだの」
「……それは、あなたが戦わなくなったからよ」
「そうね」
奈々美は、否定しなかった。
「私は、戦うのをやめて、代わりに年を取ることにしたの。……先輩たちは、戦い続けるために、年を取るのをやめた」
「……」
「どっちが正しいかなんて、私には分からないわ」
奈々美は、焔の目をまっすぐに見返した。
「先輩が、あの夜にどれだけ辛かったか。……私は、その場にいなかったもの。何も言えない」
「……奈々美」
「でもね」
奈々美の声は、穏やかだった。
だが、その奥に、焔が二十年前に何度も見た硬さがあった。
前線に立つ直前、新人の奈々美が見せていた、あの顔。
「私の子供たちに、それを選ばせないで」
焔の周りの空気が、揺れた。
「あの子たちが年を取るのか、止めるのか。……それは、あの子たちが自分で選ぶことよ」
「……あなたは、甘いのよ」
「昔から、先輩にそう言われてたわね」
「今でも、そう思うわ」
焔は、湯呑みを置いた。
テーブルの上に、薄く焦げ跡が残った。
「選ぶ前に死んだら、どうするの。……あの夜の子たちは、選ぶ暇もなかった」
「……」
「私は、もう誰も失いたくないの。あなたも、あなたの子供たちも」
焔は、ゆっくりと立ち上がった。
食堂の空気が、一気に熱を帯びた。
床の埃が、ふわりと舞い上がる。
割れた窓の外で、冬の枯れ枝が、陽炎のように揺れて見えた。
「だから、迎えに来たのよ」
焔は、テーブル越しに手を差し出した。
白い、細い指。
二十年前、門限を破って走って帰ってきた自分の頭を、何も言わずに撫でてくれた手。
「一緒に来て、奈々美」
奈々美は、その手を見つめていた。
白い指先に、小さな火が一つ、静かに揺れている。
二十年前、夜間訓練で凍えた自分の手を、この人は同じ火で温めてくれた。
取れば、戻れる。
あの頃の身体に。あの頃の力に。先輩の隣に。
奈々美は、自分の膝の上の手を見下ろした。
指の節が、少しだけ太くなっている。
手の甲に、薄い染みが一つ。
毎朝、米を研ぎ、弁当を詰め、洗濯物を干してきた手だった。
「……ごめんなさい、先輩」
奈々美は、椅子に座ったまま、静かに首を振った。
「私、晩ご飯の支度があるの」
焔の手が、宙で止まった。
しばらく、食堂には風の音しかなかった。
「……そう」
焔は、差し出した手を、ゆっくりと握りしめた。
「なら」
その拳の中で、炎が灯った。
「少しだけ、強引にいくわね」
同じ頃。
寮を見下ろす雑木林の斜面。
ゴーストは、倒木の陰から立ち上がっていた。
「——ゴースト!」
緋雪の声が、背中に届いた。
寮の一階、食堂のあるあたりの窓から、赤い光が漏れ出していた。
割れたガラスの向こうで、陽炎が揺れている。
冬の空気の中で、そこだけが、夏のように歪んでいた。
「……炎」
汐里が、震える声で呟いた。
「焔様が、力を……」
ゴーストは、もう聞いていなかった。
足元の影が、音もなく広がる。
斜面から寮の玄関まで、三百メートル。
影から影へ跳べば、数秒もかからない。
「待って! 一人で行かないで!」
「……ごめん」
ゴーストは、振り返らなかった。
「あの人が、中にいるの」
その一言だけを残して、漆黒のドレスの少女は影の中へ沈んだ。
汐里が、はっと顔を上げた。
あの人。
その呼び方に込められた温度が、ただの「知り合いのお母様」に向けるものではない気がした。
だが、それを確かめる間もなく、緋雪も斜面を駆け下りていた。
門の前で、五郎が立ち上がっていた。
缶コーヒーが、足元に転がっている。
坂の上の古い建物の窓から、赤い光が漏れていた。
冬なのに、坂を吹き下ろしてくる風が、妙に温かかった。
「……奈々美」
五郎は、門柱を握りしめた。
中には行かない。そう約束した。
だが、その手は、白くなるほど強く、錆びた鉄を握っていた。




