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未登録の魔法少女  作者: 浅川


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第二百八十六話

 三神家の洗面所の前で、玲奈が目を丸くしていた。


「……お母さん、口紅塗ってる」


「あら。変?」


 奈々美は、鏡の前で唇を軽く合わせた。

 普段は日焼け止めくらいしか塗らない母が、今日は薄く化粧をしている。

 服も、クローゼットの奥から引っ張り出したらしい、淡い色のブラウスだった。


「変じゃないけど。……珍しい」


「昔の友達に会うんだもの。少しくらい、ね」


「お姉ちゃーん! お母さんが口紅塗ってるー!」


「えっ、ほんとに?」


 澪が、パジャマ姿のまま階段を駆け下りてきた。

 洗面所を覗き込み、母の顔をまじまじと見る。


「……ほんとだ」


「そんなに珍しい?」


「珍しいわよ。私の卒業式の時以来じゃない?」


「そうだったかしら」


 奈々美は、ハンカチで口元を軽く押さえた。


「それで、その友達って、どんな人?」


「昔の職場の人よ」


「OLの?」


「ええ、OLの」


 廊下の奥で、五郎がまた咳き込んだ。

 今朝は、味噌汁も飲んでいないのに。

 零は、台所で弁当の蓋を閉めながら、その会話を聞いていた。

 昔の職場の人。

 OLの。

 口紅と、淡い色のブラウス。

 今日、母は、二十年ぶりに先輩に会いに行く。

 その先輩が、十二使徒の頂点だということを、この家で知っているのは自分だけだ。

 いや、もしかすると、父も。


「零」


「……なに、母さん」


「今日、あなたは?」


「緋雪さんと、ちょっと出かける」


「あら。デート?」


「……まあ、そんなところ」


「楽しんでらっしゃい」


 奈々美は、にこやかに笑った。

 嘘をついているのは、お互い様だった。


 玄関先では、澪が腕を組んで母を見送っていた。


「お母さん。昔の先輩なら大丈夫だと思うけど……変な人だったら、すぐ帰ってきなさいよ」


「あら、心配してくれるの」


「最近、この辺り物騒なんだから。お母さんにまで変なのが寄ってきたら困るのよ」


「大丈夫よ。昔からの知り合いだもの」


 奈々美は、娘の頭を軽く撫でてから、玄関の扉を開けた。

 鈴が三つ鳴り、その音が冬の朝の空気に溶けていった。

 澪は、しばらくその扉を見つめていた。

 母が「昔からの知り合い」と言う時、ほんの少しだけ声が柔らかくなることに、娘は気づいていた。


 同じ日の昼前。

 勾玉の施設、地下三階。


「……行かせてください」


 汐里は、ゴーストの前で深く頭を下げていた。


「私も、寮跡に行かせてください」


「汐里さん」


「先輩を、一人にしないって。……あなたと、約束しました」


 汐里は、顔を上げた。

 その目は、公園で泣いていた時とは違っていた。


「焔様が何を考えているのか、一番分かるのは、たぶん私です。……それに、あの寮には、私も住んでいました」


 部屋の隅で、白衣の隊員が静かに口を開いた。


「殿下より、ご許可が出ております」


 ゴーストは、振り返った。


「……殿下が?」


「はい。『本人が望むなら、行かせよ。ただし、決して一人にするな』と」


 隊員は、汐里のほうへ向き直った。


「水瀬様。八咫の者が、常にお側におります。……ご自分の判断で前に出ることは、お控えください」


「……はい」


 汐里は、もう一度深く頭を下げた。

 解析台の脇で、車椅子の椎葉が、低い声で言った。


「……先日の話を、覚えているかね」


「はい」


「魔力を、誰かに分ける話だ」


 汐里は、黙って頷いた。


「あれは、まだ理屈の上の話でしかない。……決して、試そうとは思わないことだ」


「……分かっています」


 汐里は、そう答えた。

 右の頬に、えくぼは浮かんでいなかった。


 日曜日の午後一時。

 郊外へ向かう国道を、一台の軽自動車が走っていた。

 ハンドルを握っているのは五郎だった。

 助手席には、ブラウス姿の奈々美が座っている。


「……本当に、ここまででいいのか」


「ええ。山の麓の、バス停の先。そこから少し歩くの」


「車で門の前まで行けばいいだろう」


「車で乗りつけたら、先輩に笑われるわ」


 奈々美は、窓の外を眺めながら言った。


「昔、寮の門限を破った時も、あの人だけは門の前で待っててくれたの。……私が走って帰ってくるのを」


「……そうか」


 五郎は、しばらく黙って運転を続けた。

 国道沿いの景色が、住宅街から畑へ、畑から雑木林へと変わっていく。

 冬枯れの木々の向こうに、低い山の稜線が見えてきた。


「……なあ、奈々美」


「なあに」


「お前、怖くないのか」


 奈々美は、少しだけ考えてから答えた。


「怖いわよ」


「……」


「あの人に会うのも、あの寮を見るのも。……二十年前に置いてきたもの、全部」


 奈々美は、膝の上で手を組んだ。


「でも、置いてきたのは私だもの。取りに行くのも、私の役目よ」


 五郎は、ハンドルを握る手に力を込めた。


「……門の前で、待ってる」


「ええ」


「何時間でも、待ってる」


「……ありがとう」


 車は、山の麓のバス停の脇に停まった。

 奈々美がドアを開けると、冷たい山の空気が車内に流れ込んできた。


「行ってきます」


「……行ってこい」


 五郎は、妻の背中を見送りながら、エンジンを切った。

 それから、車を降りて、寮跡へと続く細い坂道の入り口まで歩いていった。

 そこに、錆びた門柱が二本、立っていた。

 五郎は、門柱の横の石に腰を下ろした。

 ポケットから缶コーヒーを取り出し、握りしめたまま、開けなかった。

 坂の上に見える古い建物の屋根を、ただじっと見上げている。

 二十年前、妻がどんな場所で暮らしていたのか、五郎は一度も見たことがなかった。

 結婚した時、妻は「昔のことは、いつか話すわ」と言った。

 その「いつか」は、結局今日まで来なかった。

 それでいいと思ってきた。今も、そう思っている。

 ただ、あの坂を一人で登っていく背中が、ひどく小さく見えた。


 同じ頃。


 寮跡を見下ろす、雑木林の斜面。

 ゴーストは、倒木の陰に身を潜めていた。

 隣には、白百合の制服の上にコートを羽織った緋雪が、同じように身を低くしている。


「……お父様、門の前に座ってらっしゃるわね」


「うん」


「缶コーヒー、開けないのね」


「……開けられないんだと思う」


 ゴーストは、門柱の横に座る父の背中を見下ろしていた。

 昔の職場の友達とお茶をするだけなら、父がここまで送ってくる理由はない。

 門の前で、ああして座り込む理由も。

 父がどこまで知っているのか、零はまだ知らなかった。

 少し離れた木陰には、汐里と八咫の隊員が控えていた。

 汐里は、寮舎のほうを見つめたまま、一度も視線を外していない。


「……変わってない」


 汐里が、小さく呟いた。


「窓の数も、屋根の形も。……二階の、一番端の部屋。あそこが、私の部屋でした」


 割れた窓が、冬の日差しを鈍く反射していた。


「先輩の部屋は、その隣です」


 八咫の隊員が、耳元の通信機に手を当てた。


「……周囲一キロ、不審な気配なし」


「凪は?」


 ゴーストが、低い声で問うた。


「今のところ、ございません。……ですが、先日の夜、この付近で微弱な凪が観測されております。勾玉の検知器が、記録しておりました」


 ゴーストの背筋が、冷えた。


「……無響」


「断定はできません。警戒を続けます」


 緋雪が、ゴーストの手にそっと自分の手を重ねた。


「……大丈夫。私たちがいるわ」


「うん」


 ゴーストは、頷いた。

 だが、握り返した手は、少しだけ冷たかった。

 坂道を、奈々美が一人で登っていく。

 舗装の割れた道の両側に、冬枯れの雑草が伸びている。

 二十年前、この坂を毎朝駆け下りて、夕方には這うように登って帰ってきた。

 訓練の後、足が棒になって動けなくなった日。

 初めて魔獣を倒して、興奮で眠れなかった夜。

 同期と喧嘩して、泣きながら一人で歩いた帰り道。

 全部、この坂の上にあった。

 辞める日の朝も、この坂を一人で下った。

 振り返ると、寮の二階の窓から、泣き腫らした顔の後輩が手を振っていた。

 門の前には、先輩が立っていて、何も言わずに頭を撫でてくれた。

 あれから二十年。

 今日は、その逆の道を登っている。

 奈々美は、息を整えながら、寮の玄関の前に立った。

 表札は、もう読めなかった。

 だが、玄関の横の柱に、小さな傷が残っていた。

 誰かが、背比べをした跡。

 一番上の傷の横に、かすれた文字が見える。


 『奈々美 十八』


 その下に、少しだけ低い傷がもう一つ。


 『汐里 十』


 奈々美は、その傷を指でなぞった。

 あの子は、まだ十歳だった。

 戦姫の見習いとして寮に来たばかりで、夜中に一人で泣いていた子。

 奈々美は、小さく息を吐いてから、玄関の扉を押した。

 蝶番が、軋んだ音を立てた。


 寮の中は、薄暗かった。


 割れた窓から差し込む光が、埃の舞う廊下を斜めに照らしている。

 下駄箱は倒れ、掲示板は落ち、壁紙は剥がれかけていた。

 それでも、奈々美の足は迷わなかった。

 廊下を右へ。突き当たりを左へ。

 その先に、食堂がある。


 食堂の扉は、開いていた。


 長い木のテーブルが、三列並んでいる。

 ほとんどの椅子は倒れ、埃を被っていた。

 だが、一番奥のテーブルだけが、綺麗に拭き清められていた。

 そのテーブルの上に、湯気の立つ湯呑みが二つ、並んでいた。

 そして、その向かいの椅子に、一人の女が座っていた。

 長い髪を緩くまとめた、二十三歳ほどの美しい女。

 コートを椅子の背にかけ、白いセーター姿で、湯呑みを両手で包んでいる。

 その周りだけ、廃墟の冷たい空気が、春のように温かかった。


「……来てくれたのね、奈々美」


 天城焔は、顔を上げて微笑んだ。


「お茶、淹れておいたわ。……あなたの好きだった、ほうじ茶」


 奈々美は、食堂の入り口に立ったまま、しばらく動かなかった。

 二十年前も、この場所だった。

 当直明けの朝、誰よりも早く起きて、後輩たちのためにお茶を淹れていた人。

 寝ぼけた顔で食堂に入ってくる新人を、「おはよう」と一番に迎えてくれた人。


「……先輩」


「座って」


 焔は、向かいの椅子を手で示した。


「今日は、買い物のない日でしょう」


 奈々美は、ゆっくりと食堂の中へ足を踏み入れた。

 床の埃に、足跡が一つずつ刻まれていく。

 そして、焔の向かいの椅子を引いた。

 二十年ぶりに、この食堂のテーブルに座った。

 湯呑みから立ち上る湯気の向こうで、焔が、あの頃と同じ顔で笑っていた。

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