第二百八十五話
火曜日の朝、六時。
奈々美がサンダルをつっかけて門まで出ると、郵便受けの口から、朝刊と一緒に白いものが覗いていた。
封筒だった。
宛名は、「三神奈々美様」。
流れるような、美しい筆跡で書かれている。切手も、消印もない。
奈々美は、その字をしばらく見つめていた。
見覚えがあった。
二十年前、寮の掲示板に張り出された当番表。班の報告書の、一番上の署名欄。
いつも几帳面で、それでいてどこか伸びやかな、あの人の字。
奈々美は、封筒をエプロンのポケットに滑り込ませた。
朝刊だけを脇に抱えて、玄関に戻る。
鈴が、三つ鳴った。
「おう、おはよう」
廊下の奥から、寝癖のついた五郎が現れた。
「新聞、取ってきてくれたのか」
「ええ。はい、あなた」
奈々美は、いつもの笑顔で朝刊を手渡した。
五郎は、それを受け取りながら、ほんの一瞬だけ妻のエプロンのポケットに目を落とした。
何も言わなかった。
七時。
三神家の食卓は、いつもの賑やかさを取り戻していた。
「お父さん、今日、鈴の位置直してくれない?」
澪が、トーストを齧りながら言った。
「玄関のやつ、一個だけ音が小さいのよ。あれじゃ防犯にならない」
「おう。帰ったらやる」
「脚立、ちゃんと出しといてよ」
「任せろ」
「お姉ちゃん、まだ鈴やるの?」
玲奈が、呆れたように言った。
「当たり前でしょ。この前だって、近所で変な騒ぎがあったんだから」
「あれ、ガス管工事だよ」
「工事で、あんなにアスファルトがえぐれる?」
零は、黙って味噌汁をすすった。
その視線は、向かいに座る母の手元に向いていた。
エプロンのポケットが、ほんの少しだけ、四角く膨らんでいる。
母は、それに気づかれていないと思っているのか、いつも通りに澪の皿へ卵焼きを取り分けていた。
昨日の夕方、ヤオヨシの鮮魚台の前で見た光景が、零の頭の中で何度も繰り返される。
溶けていく氷。母の隣に立つ、二十代の美しい女。
その女が、母を「奈々美」と呼び捨てにしていたこと。
火曜日の放課後。
勾玉の施設、地下三階。
汐里の部屋を訪ねたゴーストは、椅子に座る彼女の前に立っていた。
「……昨日、ヤオヨシに、使徒が現れたわ」
汐里の肩が、僅かに強張った。
「炎を纏っていた。外見は、二十三歳くらい。長い髪を、後ろで緩くまとめて」
「……」
「鮮魚台の氷が、その人の側からだけ溶けていたそうよ」
汐里は、しばらく何も言わなかった。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
その顔から、血の気が引いていた。
「……第一使徒様です」
ゴーストは、黙って続きを待った。
「天城焔様。……十二使徒の、頂点にいらっしゃる方」
「天城、焔」
「はい」
汐里は、膝の上で両手を握りしめた。
「私たちの、先輩です。……戦姫の頃から、ずっと、前を歩いていた方」
ゴーストは、少しだけ言葉を選んだ。
公園の夜、汐里は母を「奈々美先輩」と呼んでいた。
母は、汐里を「汐里ちゃん」と呼んでいた。
ならば、この天城焔という人は——
「その人と」
ゴーストは、静かに問うた。
「三神くんのお母様は、どういう」
汐里は、首を横に振った。
「……それは、先輩ご本人から聞いてください」
「……」
「私が、言っていいことじゃありません」
汐里の声は、小さかったが、揺るがなかった。
「ごめんなさい。……でも、これだけは」
ゴーストは、それ以上は聞かなかった。
答えは、ほとんど目の前にある。
だが、その最後の一枚を、自分から剥がす勇気がまだなかった。
「……分かったわ」
ゴーストは、そう答えるのが精一杯だった。
汐里は、申し訳なさそうに目を伏せた。
十二年間、変身したまま年を取らなかった女が、今は誰よりも人間らしい顔で、他人の秘密を守ろうとしていた。
「一つだけ、お伝えしておきます」
汐里は、真っ直ぐにゴーストを見上げた。
「焔様は、嘘をつきません」
「……」
「『迎えに行く』と言ったなら、必ず来ます。どんな手を使っても。……昔から、そういう方でした」
汐里の目の奥に、懐かしさと怯えが、同じだけ浮かんでいた。
「だから、気をつけてください。……三神くんのお母様を、一人にしないでください」
ゴーストは、深く頷いた。
火曜日の夕方。
翼の家の居間に、円卓の面々が集まっていた。
「第一使徒の名前が分かったわ」
ゴーストは、ちゃぶ台の上で手を組んだ。
「天城焔。炎属性。十二使徒の頂点」
「……頂点が、直々に」
凛花が、息を呑んだ。
「昨日の夕方、ヤオヨシで、三神くんのお母様に接触したそうよ」
「あら」
ルディアが、袖を口元にやった。
「わたくし、その場におりましたわ」
全員の視線が、ルディアに集まった。
「レジを打っておりましたの。……店内が、急に温かくなりましたわ。暖房ではなく、もっと濃いもので」
「……それで」
「鮮魚台の氷が、半分ほど溶けておりました。真里が、包丁を握ったまま一歩も動けずにおりましたわ」
ルディアは、珍しく真顔だった。
「客がおりましたので、わたくしどもは動けませんでした。……申し訳ございません」
「謝ることじゃないわ」
ゴーストは、静かに首を振った。
「動いていたら、店の中が焼けていた」
「……ええ」
ヴィクトリアが、指先で膝を叩いた。
「頂点の使徒が、わざわざ一般家庭の主婦に会いに来た」
その声は、独り言のようだった。
「写真が渡った翌日に。……迷いもなく、真っ直ぐに」
ヴィクトリアは、ちらりとゴーストの横顔を見た。
ルディアもまた、同じ方向へ視線を送っていた。
二人とも、何も言わなかった。
河原で肉を焼いていた、穏やかな母親。
ゴーストが「知り合いのお母様」と呼ぶ人。
その人のもとへ、十二使徒の頂点が自ら足を運んだ。
疑いは、また一段深まっていた。
だが、それを口にすれば、この卓の上の何かが壊れる。二人とも、それを理解していた。
「方針を決めましょう」
ヴィクトリアが、話を戻した。
「お母様には、何も知らせない。……周囲は、今以上に固める」
「次に接触してきた時は、必ず誰かが近くにいるように」
緋雪が、静かに付け加えた。
「一人には、しない」
「ええ」
ゴーストは、深く頷いた。
汐里の言葉が、耳の奥に残っていた。
——三神くんのお母様を、一人にしないでください。
火曜日の夜。
三神家の食卓には、鯖の味噌煮が並んでいた。
昨日、母がヤオヨシで選んだ、脂の乗ったほうの鯖だった。
「おいしい!」
玲奈が、ご飯をかき込んだ。
「今日の鯖、いつもより脂乗ってない?」
「選ぶのが上手な人に、教えてもらったのよ」
奈々美は、にこやかに答えた。
零の箸が、一瞬止まった。
「そうそう」
奈々美が、湯呑みを置いて言った。
「今度の日曜日、昔の友達とお茶してくるわね」
「え、珍しい」
澪が、顔を上げた。
「お母さんが一人で出かけるの、久しぶりじゃない?」
「そうね。たまにはね」
「昔の友達って、誰?」
玲奈が、身を乗り出した。
「昔の職場の人よ」
「OLの?」
「ええ、OLの」
五郎が、盛大に味噌汁にむせた。
「お父さん!?」
「……熱かった」
「最近、それ多くない?」
澪が、呆れたように父の背中を叩いた。
「味噌汁、猫舌用に冷ましてあげようか」
「いらん」
「顔、真っ赤だよ」
「熱かったんだ」
玲奈が、くすくす笑った。
奈々美も、笑っていた。
零だけが、笑えなかった。
昔の職場。
OL。
そして、日曜日。
母のエプロンのポケットに入っていた、四角い膨らみ。
あれは、たぶん、招待状だった。
火曜日の深夜。
三神家の寝室で、五郎は布団の上にあぐらをかいていた。
「……何か取っただろう」
奈々美は、少しだけ笑った。
「見てたのね」
「見えたんだ」
奈々美は、鏡台の引き出しから、白い封筒を取り出した。
黙って、夫に差し出す。
五郎は、便箋を広げた。
そこには、たった三行だけが書かれていた。
『日曜日の午後。あの寮の跡地で、待っています。
——あなたの先輩より』
「……寮の、跡地」
「戦姫の寮よ。郊外の、山の近くにあったの。……今はもう、誰も住んでないはずだけど」
五郎は、便箋を畳んで、妻に返した。
「一人で行くのか」
「ええ、一人で行かなきゃ、意味がないの」
「……」
奈々美は、封筒を膝の上に置いた。
「あの人は、私が来なければ、次は子供たちのところへ行くわ。……澪と玲奈のことを、もう調べ上げてる」
「……」
「それに」
奈々美は、少しだけ目を伏せた。
「あの人は、昔、私を迎えに来てくれた人なの。……新人で、右も左も分からなかった私を」
五郎は、しばらく何も言わなかった。
それから、深く息を吐いた。
「……なら、帰りは俺が迎えに行く」
「あなた」
「場所だけ教えろ。中までは行かん。……門の前で、待ってる」
奈々美は、夫の顔を見つめた。
二十年前、瓦礫の下から引きずり出した時と、同じ顔をしていた。
怖いくせに、引かない顔。
「……ありがとう」
「礼はいい。……ちゃんと、帰ってこい」
奈々美は、小さく頷いた。
それから、封筒を鏡台の引き出しに戻し、夫の隣に身体を横たえた。
五郎の腕が、何も言わずに妻の肩を抱き寄せた。
布団の中は、二十年前と同じ温かさだった。
同じ頃。
郊外の山の麓。
雑木林に埋もれるようにして、古い建物の跡が残っていた。
錆びた門。崩れかけた塀。
蔦に覆われた二階建ての寮舎は、窓という窓が割れ、屋根の一部が落ちている。
戦姫の旧寮跡だった。
その門の前に、人の形をした何かが立っていた。
周囲の音が、消えていた。
虫の声も、風に揺れる枝の音も、遠くの車の音も。
半径数メートルの、小さな凪。
「……炎の使徒が、ここを選んだ」
無響は、朽ちた門柱に長い指を触れた。
指先が、紫色に一度だけ脈打つ。
「古い巣だ。……いくつもの波形が、まだ残っている」
温度のない声が、闇に溶けていく。
無響は、首を僅かに傾げた。
凪の中で、何かを聴き分けるように。
「それと、もう一つ」
遠く、数十キロ先。
住宅街の、一軒の家の方角へ、その顔が向いた。
「……消えかけた、雷の波形」
凪が、静かに解けていった。
後には、錆びた門と、崩れかけた寮舎だけが、月明かりの下に残っていた。




