第二百八十四話
三神家の台所には、いつもと同じ朝の音があった。
味噌汁の鍋が小さく鳴り、卵焼き器の上で卵が巻かれ、弁当箱が五つ並んでいく。
「零、お母さんの分、ちょっと少なめでいいわよ」
「なんで」
「最近、ちょっと食べすぎちゃって」
奈々美は、エプロンの紐を結び直しながら笑った。
先週末の公園のことも、ブランコのことも、何一つ顔に出さない。
零は、黙って母の弁当箱に卵焼きを一切れ多く詰めた。
「行ってきます」
奈々美が玄関を出ると、鈴が三つ鳴った。
零は、その背中を窓から見送った。
登校の途中、大通りの信号で、隣に人が並んだ。
今日は、作業着姿の中年の男だった。
「——おはようございます」
「……おはようございます」
零は、前を向いたまま言った。
「今日は、母さんから目を離さないでください」
「すでに、二名お付けしております」
隊員は、淡々と答えた。
「お母様の勤め先の周囲に一名。帰路に一名。……写真が渡った以上、殿下もお母様を最優先の警護対象とされました」
「……ありがとうございます」
「お礼には及びません」
信号が青に変わった。
隊員は、零とは逆の方向へ歩いていった。
同じ日の昼。
勾玉の施設、地下三階。
汐里は、解析台の脇に置かれた椅子に座って、桧山の作業を眺めていた。
投影図の中で、自分の中に埋め込まれた術式が、ゆっくりと回転している。
「……桧山さん」
「はい」
「一つ、伺ってもいいですか」
桧山は、手を止めずに頷いた。
「私の中の魔力は、ずっと固定されたままなんですよね。……減りもしないし、消えもしない」
「ええ。十二年分、ほとんど目減りしていません」
「それを」
汐里は、少しだけ言葉を選んだ。
「誰かに、分けることはできますか」
桧山の手が、初めて止まった。
「……分ける、とは」
「一部だけでいいんです。私の中にあるものを、別の誰かに」
解析室の奥で、車椅子の椎葉が顔を上げた。
「理屈の上では、不可能ではない」
老人は、ゆっくりと答えた。
「固定された魔力は、器の中で凪いだ湖のようなものだ。そこから水を汲み出すことは、できなくはない。……だが、汲み出された側も、注がれた側も、無事で済む保証はない」
「……そうですか」
汐里は、それ以上は聞かなかった。
ただ、自分の掌をじっと見下ろしていた。
「なぜ、そんなことを」
桧山の問いに、汐里は小さく笑った。
「なんとなく、です」
右の頬に、えくぼが浮かんでいた。
月曜日の夕方。
スーパー「ヤオヨシ」の店内は、夕飯の買い物客で賑わっていた。
レジでは、緑のエプロンをつけたルディアが、にこやかにバーコードを読み取っている。
鮮魚コーナーの奥では、須藤真里が黙々と魚を捌いていた。
自動ドアが開き、仕事帰りの奈々美が入ってきた。
「あら、零くんのお母様。いらっしゃいませ」
「こんにちは、ルディアさん。今日もお仕事お疲れさま」
奈々美は、いつものように会釈をして、買い物籠を手に取った。
ルディアは、その背中を見送りながら、ほんの少しだけ目を細めた。
河原で肉を取り分けてくれた人。
先日の円卓で、ゴーストが「知り合いのお母様」と呼んだ人。
奈々美は、野菜売り場を一回りしてから、鮮魚コーナーの前で足を止めた。
今夜は、鯖にしようか。
味噌煮にするか、塩焼きにするか。零に任せれば、どちらでも上手に作ってくれるだろう。
奈々美は、並んだ鯖のパックを一つずつ手に取って見比べ始めた。
その時、隣に誰かが立った。
「……鯖なら、こっちのほうが脂が乗ってるわよ、奈々美」
奈々美の手が、止まった。
隣に立っていたのは、若い女性だった。
二十三歳ほどに見える、目を引くほどの美人だった。
落ち着いた色のコートに、長い髪を緩く後ろでまとめている。
白い指が、奈々美の手元の一つ隣のパックを指していた。
その周りだけ、空気が僅かに温かかった。
鮮魚台に敷き詰められた砕氷が、女の立つ側から、じわりと溶け始めている。
ぽたり、と水滴が台の縁から落ちた。
奈々美は、ゆっくりと顔を上げた。
二十年ぶりに聞く声だった。
だが、目の前の顔は、二十年前よりもむしろ若かった。
自分が戦姫に入った時、最初に隊を案内してくれた先輩。
その人が、あの頃のまま、いや、あの頃より若い姿で、鮮魚台の前に立っていた。
「……先輩」
「久しぶりね」
女は、柔らかく微笑んだ。
「元気そうで、よかった」
「……先輩は、若返ったわね」
「そう見えるかしら」
「私より、二十は若く見えるわ」
「あなたが、年を取ったのよ」
女は、少しだけ寂しそうに笑った。
奈々美は、手元の鯖のパックを見下ろした。
それから、女が指した隣のパックを手に取り、籠に入れた。
「……ありがとう。こっちにするわ」
「どういたしまして」
二人は、しばらく並んで鮮魚台を見ていた。
周りの客は、誰もこの二人に注意を払っていない。
ただの、知り合い同士の買い物に見えた。
「迎えに来たの」
女が、静かに言った。
「今、買い物中なのよ」
奈々美は、今度は刺身のパックを手に取って眺め始めた。
「今夜の献立が、まだ決まってないの」
「……奈々美」
「鯖は決まったけど、副菜がね。ほうれん草にするか、小松菜にするか」
女は、しばらく黙っていた。
それから、小さく吹き出した。
「……変わったわね、あなた」
「そうかしら」
「昔のあなたなら、私が声をかけた瞬間に、雷を落としていたわ」
「年を取ったのよ。先輩が言ったとおり」
奈々美は、小松菜を籠に入れた。
「汐里ちゃんのことなら、私は謝らないわよ」
「責める気はないわ」
女は、静かに首を振った。
「汐里は、あなたのところへ行ったのね。……あの子らしい」
「……」
「あの子は、ずっとあなたの背中を見ていたもの。二十年経っても、変わらなかった」
女は、鮮魚台の縁に指を置いた。
その指先の周りで、砕氷が音もなく溶けていく。
「ねえ、奈々美」
「なあに」
「あなたの娘たちも、魔法少女なのね」
奈々美の手が、止まった。
「白百合の所属。上の子は炎で、下の子は風。……二人とも、筋がいいそうね」
「……」
「でも、いずれ力は薄れていくわ。あなたと同じように」
女の声は、優しかった。
優しすぎるほどだった。
「その時、私たちなら、翼をあげられるし、若いままの全盛期の姿でいられるの」
奈々美の顔から、初めて笑みが消えた。
レジの前で、ルディアの手が止まった。
バーコードリーダーを握ったまま、鮮魚コーナーの方へ視線を向ける。
(……この熱)
店内の空気が、僅かに変わっていた。
暖房の温度ではない。もっと濃く、もっと古い、炎の魔力の匂い。
その中心に、三神家の母親が立っている。
鮮魚台の裏では、真里が包丁を握ったまま、じっと身構えていた。
刃先が、微かに震えている。
動けば、店内の客を巻き込む。動かなければ、あの人を守れない。
真里は、ルディアのほうを見た。
ルディアは、小さく首を横に振った。
「……先輩」
奈々美が、静かに口を開いた。
「うちの子たちには、関わらないで」
「関わるつもりはないわ。……あなた次第だけれど」
「……」
「奈々美」
女は、奈々美の言葉を遮った。
「それともう一つ、伝えておきたいことがあるの」
「……なに」
女は、周りの客に聞こえないよう、声を落とした。
「この街には、私たち以外にも厄介なのがいるわ」
「……厄介な?」
「音を消して歩く、人の形をした何か」
奈々美の眉が、僅かに動いた。
「あれは、私たちとは違う。救いにも、翼にも興味がない。……ただ、何かを探している」
「……」
「あなたの周りの、誰かをね」
女は、奈々美の顔を覗き込んだ。
「気をつけなさい。……あれは、私でも、手を焼くかもしれない相手よ」
奈々美は、しばらく女の顔を見つめていた。
敵のはずだった。
後輩を連れ去り、娘たちの名前まで調べ上げている相手。
それなのに、その目は、二十年前、新人の自分に前線の危なさを教えてくれた時と、同じ色をしていた。
「……先輩は、変わってないのね」
「そう?」
「昔から、そうやって、敵のことまで心配するのよ」
女は、何も答えなかった。
その時、背後から声がした。
「——母さん」
奈々美が振り返ると、学生服姿の零が立っていた。
手には、空の買い物籠を提げている。
「あら、零」
「帰りにちょっと寄ったら、姿が見えたから。……買い物、手伝おうか」
零の声は、いつも通りだった。
だが、その目は、母の隣に立つ女から離れていなかった。
(……だれだ?)
凛花の報告にも、汐里の話にもなかった顔。
だが、なんとなく魔法少女であることだけ分かった。
鮮魚台の氷が、この女の側からだけ溶けている。
変身はできない。
ここには客がいる。母がいる。
だから、零は息子として、母の隣に立つしかなかった。
「息子さん?」
女が、零の顔を見た。
「ええ。うちの長男よ」
奈々美は、いつもの穏やかな声で答えた。
「零っていうの」
「……零、くん」
女は、その名前を口の中で転がした。
そして、零の目を、じっと見つめた。
長い視線だった。
顔立ちを確かめるのではなく、目の奥にある何かを探すような視線。
零は、目を逸らさなかった。
逸らせば、それ自体が何かの答えになる気がした。
「……いい目をしてるわね」
女は、ようやく視線を外した。
「お母さんに、似てるわ」
「……よく、言われます」
「そう」
女は、手に持っていた空の籠を棚に戻した。
「また来るわ、奈々美」
「……先輩」
「今度は、ちゃんと話しましょう。……お互い、買い物のない日に」
女は、自動ドアの方へ歩き出した。
鮮魚台の前を通り過ぎる時、溶けかけた氷を見下ろして、小さく肩をすくめた。
「ごめんなさいね、店員さんでも、少し殺気を飛ばしすぎよ」
鮮魚台の奥で、真里が無言で頭を下げた。
その手の包丁は、最後まで下ろされなかった。
自動ドアが開き、女の姿が夕暮れの中へ消えていった。
店内の空気が、ゆっくりと冷えていく。
「……母さん。今の人」
「昔の知り合いよ」
奈々美は、籠の中の鯖を見下ろした。
女が勧めた、脂の乗ったほうだった。
「……鯖、どっちにしようか迷ってたら、教えてくれたの」
「……そう」
「今夜は、味噌煮がいいわね。お願いできる?」
「……うん」
零は、母の籠を受け取った。
その重さが、いつもより少しだけ重く感じた。
レジでは、ルディアがいつもの笑顔で二人を迎えた。
「いらっしゃいませ。……三神くん、お母様」
「どうも」
バーコードを読み取りながら、ルディアは一度だけ零の顔を見た。
何かを言いかけて、やめた。
代わりに、レシートを渡す時に、小さく囁いた。
「……お気をつけてお帰りなさいませ」
月曜日の夜。
三神家の寝室で、奈々美は布団の上に座っていた。
「……先輩に、会ったの」
五郎が、読んでいた新聞を下ろした。
「先輩って、あの」
「ええ。戦姫で、一番最初に私を案内してくれた人」
奈々美は、膝の上で指を組んだ。
「二十歳そこそこにしか見えなかったわ。……私が知っている頃より、若いくらい」
「……変身したまま、か」
「たぶん」
五郎は、しばらく何も言わなかった。
「……それで、何を言われた」
「迎えに来たって」
奈々美は、小さく笑った。
「買い物中だって言ったら、笑われたわ」
「お前らしいな」
「でもね」
奈々美の笑みが、消えた。
「あの人、澪と玲奈のことまで知ってたの」
五郎の顔が、強張った。
「……何だと」
「白百合にいることも、属性も。……翼をあげられるし、若いままの全盛期の姿でいられるのって」
「……」
「それと、もう一つ」
奈々美は、夫の顔を見た。
「音を消して歩く、人の形をした何かが、この街にいるって。……あの人、それを私に忠告していったの」
「敵が、か」
「ええ。昔から、そういう人だったのよ」
五郎は、新聞を畳んで、妻の手を取った。
「……零には」
「言わないわ」
奈々美は、即答した。
「あの子が、何かを抱えてるのは分かってる。……これ以上、私のことまで背負わせたくない」
「……そうだな」
五郎は、妻の手を握ったまま、天井を見上げた。
「だがな、奈々美。……あいつ、今日、お前の隣にいたんだろう」
「ええ」
「なら、あいつはあいつで、もう何か背負ってるぞ」
奈々美は、答えなかった。
同じ頃。
零は、自室で緋雪と電話をしていた。
『……顔を、見たのね』
「うん」
『……』
「母さんが、紹介したから」
電話の向こうで、緋雪が小さく息を吐いた。
「それと、あいつ、母さんに忠告していったんだ」
『忠告?』
「音を消して歩く、人の形をした何かがいるって。……気をつけろって」
緋雪は、しばらく黙っていた。
『……無響のことね』
「たぶん」
『敵の頂点が、別の敵のことを、あなたのお母様に教えていったの?』
「うん」
『……変な話ね』
「変な話だよ」
零は、窓の外を見た。
向かいの屋根では、赤いリボンの影が、今夜も見張りについている。
「……緋雪さん」
『なに』
「あの人、母さんのこと、本当に大事に思ってる気がした」
『……』
「敵なのに」
電話の向こうで、緋雪は長い間、何も言わなかった。
『……だから、厄介なのよ』
その声は、静かだった。
同じ頃。
白い壁と白い床だけの、窓のない礼拝堂。
帳の奥で、第一使徒は一人、椅子に座っていた。
膝の上には、公園の夜の報告書が置かれている。
「……奈々美の、息子」
女は、その言葉を小さく繰り返した。
「零、といったわね」
報告書の頁をめくる。
第五使徒の証言。公園での交戦の記録。
そして、「黒いドレスの女」の項目。
女の指が、そこで止まった。
「……あの目」
燭台の火が、僅かに揺れた。
「どこかで、見た気がする」
ヤオヨシを見下ろす、古い雑居ビルの屋上。
その一角だけ、夜の音が消えていた。
風の音も、車の音も、遠くの電車の音も。
半径数メートルの、小さな凪。
その中心に、人の形をした何かが立っていた。
「……炎の使徒」
温度のない声が、夜気に溶けた。
「器の周りに、また一つ」
無響の視線が、ゆっくりと動いた。
店を出て、家路につく親子の背中。
買い物袋を二つ提げた少年と、その隣を歩く母親。
「……波形は」
無響は、首を僅かに傾げた。
「消えたままか」
凪が、静かに解けていった。




