第二百八十三話
零が影移動で自室に戻った時、家の中はすでに静まり返っていた。
台所の灯りは消えている。母は、先に帰り着いていたらしい。
零は、鏡の前で自分の頬に触れた。
浅い傷は、人間の姿に戻った今、もうほとんど分からなくなっている。
だが、明日の朝、母がこの傷跡に気づいたら、また何か言い当ててしまうのではないか。そんな根拠のない不安が、頭の隅にこびりついていた。
だが、消えないものもあった。
刃物を前にしても動じなかった母。
後輩の裏切りを、一瞬で受け止めた母。
そして、髪を直しながら、「本当のお名前」を尋ねてきた母。
零は、布団に入っても、しばらく眠れなかった。
知りたい。
知りたくない。
その二つの気持ちが、頭の中で同じ大きさのまま、ずっと並んでいた。
土曜日の朝。
勾玉の施設、地下三階。
汐里に与えられた部屋は、拘束具もなく、窓のない簡素な一室だった。
桧山と椎葉が、彼女の変身固定の状態を調べている。
「……痛みは」
「ありません」
汐里は、椅子に座ったまま、静かに答えた。
その声には、昨夜の震えはもうなかった。行き場を失った不安の代わりに、静かな諦めのようなものが浮かんでいる。
椎葉が投影図を切り替えるたび、汐里はただ黙って、自分の中に埋め込まれたものが数値と図形に変わっていくのを見つめていた。
「……先生」
「なんだね」
「これで、少しでも役に立ちますか。……あの方々の、力になれますか」
「……分からん」
椎葉は、正直に答えた。汐里は、それ以上は聞かなかった。
地下三階の廊下には、消毒液の匂いが薄く漂っている。
その日の昼過ぎ、ゴーストが様子を見に訪れた。
「……体調は?」
「大丈夫です。皆さん、優しくしてくださって」
汐里は、膝の上で手を組んだ。その指先は、公園でおにぎりを受け取った時よりも、幾分落ち着いて見えた。
「あの……一つ、お伝えしておきたいことが」
「なに?」
汐里は、しばらく言葉を選ぶように黙っていた。
「第一使徒様は、写真を見たら、すぐに気づかれると思います」
ゴーストの動きが、止まった。
「……気づく?」
「あの方は、忘れません」
汐里の声は、低かった。
「一度会った人の顔も、名前も。……十二年前のことでも」
ゴーストの背筋を、冷たいものが伝った。
写真一枚。
それだけで、母の顔が敵の頂点に渡ってしまったかもしれない。
「……ありがとう。教えてくれて」
それだけ言うのが、精一杯だった。
土曜日の昼。
翼の家の居間に、緊急で円卓が召集されていた。
ちゃぶ台の上には、修理の終わった家の湯呑みが並んでいる。白鳥は、奈緒を庭先へ連れ出していた。今日の話は、あの子に聞かせるものではないと、誰に言われるでもなく察したようだった。
「昨夜、第五使徒と交戦したわ」
ゴーストは、事の経緯を淡々と語った。
公園での襲撃。汐里の防壁。自分の応戦。
そして、離脱の間際に撮られた、一枚の写真。
語る声は、いつもと変わらなかった。だが、その平静さこそが、今日は少しだけ不自然だった。
「……三神さんの、お母様ですか?」
凛花が、素朴に問うた。
「違うわ」
ゴーストは、静かに答えた。
「知り合いのお母様、よ」
その一言に、ほんの僅かな硬さが混じっていたことに、気づいた者はいなかった。
凛花は、それ以上は追及せず、小さく頷いた。
「そういえば」
ヴィクトリアが、湯呑みを傾けながら、何気ない調子で切り出した。
「ゴースト様、あなた、あのお宅にはよく出入りしているの?」
「……時々よ」
「あちらのご子息とは、親しくいらっしゃるのかしら」
ルディアが、扇子で口元を隠しながら続けた。
「河原でも、随分と気にかけていらっしゃるようでしたけれど。……お弁当なども、よく召し上がっているとか」
ゴーストの手が、湯呑みの上でほんの一瞬、止まった。
「……あら」
「……あら」
ヴィクトリアとルディアが、同時に顔を見合わせた。
その目に浮かんだものは、驚きではなく、確信に近い何かだった。
だが、二人とも、それ以上は口にしなかった。
「……まあ、いいわ」
ヴィクトリアは、あっさりと話を切り替えた。
「今は、それより警戒の話よ」
「ええ、そうですわね」
ルディアも、優雅に頷いた。
凛花だけが、二人のやり取りの意味に気づかないまま、次の議題に目を落としていた。
「これまで以上の警戒が要りますわ」
ルディアが、真剣な顔で続けた。
「相手は、写真という『答え』を一枚持っています。……こちらの手札が、一つ減ったということです」
「叢雲と八咫の配置を、見直すよう伝えるわ」
凛花が、静かに言った。
「私も、翼の家と、その……お知り合いの方のお宅、両方に目を配ります」
「ありがとう」
緋雪が、隣でずっと黙っていた。その視線が、時折ゴーストの横顔へ向いていたことに、この場の誰も気づかなかった。
彼女だけが、今夜報告された「知り合いのお母様」の名前を、すでに知っていた。
ゴーストは、深く息を吐いてから、最後に一つだけ付け加えた。
「……母には、何も知らせないで」
その一言を、ヴィクトリアとルディアは、いつも以上に静かに受け止めた。
「承知いたしましたわ」
ルディアが、静かに頭を下げた。
その夜。
三神家の食卓には、いつも通りの夕飯が並んでいた。
肉じゃがと、ほうれん草のお浸しと、豆腐の味噌汁。
奈々美は、笑いながら鍋の火加減を見ている。
昨夜のことなど、おくびにも出さなかった。
「お母さん、最近元気だね」
澪が、何気なく言った。
「あら。いつも元気よ」
奈々美は、あっさりと笑い返した。
「……最近っていうか、ここ数日、特に」
「そう?」
奈々美は、味噌汁をよそう手を止めずに答えた。
その声にも、手つきにも、昨夜のブランコで見せた顔の欠片は一つもなかった。
五郎だけが、湯呑みを持ったまま、妻の横顔にちらりと視線を送っていた。
零だけが、母の横顔を、じっと見ていた。
「お兄ちゃん」
玲奈が、味噌汁をすすりながら首を傾げた。
「お母さんの顔に、何かついてる?」
「……いや、なんでもない」
零は、慌てて視線を逸らし、自分の茶碗に目を落とした。
澪が、話題を変えるように大学の課題の愚痴を始めた。
五郎が相槌を打ち、玲奈が笑い、いつもの食卓の音が戻っていく。
母は、何も知らない。
だが、その何も知らない顔の奥に、昨夜見た別の顔が、確かに重なっていた。
肉じゃがの味は、いつもと同じだった。それが、かえって零の胸を締めつけた。
日曜日の夜。
白い壁と白い床だけの、窓のない礼拝堂。
帳の前に、二つの人影が跪いていた。
一人は、線の細い体つきの女。
もう一人は、落ち着いた雰囲気を纏った女。
どちらも、跪く姿勢には慣れているはずなのに、今夜はその肩にいつもと違う硬さがあった。
第一使徒が呼びかけたのは、十二人のうち、この二人だけだった。
残る七人には、今夜のことは伝えられていない。それだけで、この場に招かれた意味の重さが分かった。
「見せるものがある」
帳の向こうから、声が響いた。
薄い端末の画面が、二人の前に差し出された。
一枚の写真。
ブランコに座る、四十代の女。
黒髪を後ろで一つにまとめ、驚いた拍子に振り向いた瞬間が、そこに写り込んでいる。
線の細い女——第二使徒の呼吸が、止まった。
「……な、奈々美……」
声が、震えていた。
それきり、言葉が続かなかった。
もう一人——第四使徒は、何も言わなかった。
ただ、写真を見つめる目から、音もなく涙が伝い落ちていった。
「……間違いない」
第二使徒が、ようやく声を絞り出した。
「奈々美よ。……あの子、少しも変わってない」
その声は、報告のそれではなかった。どこか懐かしむような、それでいて怯えるような、複雑な響きを帯びていた。
「私も、覚えてる」
第四使徒が、涙を拭いながら頷いた。
「同じ年に入ったの。寮の廊下で、いつも一番遅くまで起きてた。……後輩の分まで、当直を代わってあげて」
帳の向こうで、長い沈黙が落ちた。
やがて、静かな声が響いた。
「……奈々美は、私たちを置いていった」
その声には、怒りではなく、別の何かがあった。
「だが、今なら分かる。あの人は、正しかった」
二人の使徒が、頭を垂れたまま、じっと耳を傾けている。
「置いていかれた者は、いつか追いつけばいい」
帳が、ゆっくりと揺れた。
「あの子が選ばなかった道を、私たちは十二年歩いてきた。……ようやく、あの子に見せる機会が来た」
「奈々美を、迎えに行く」
その言い方には、第三使徒の執着とも、無響の冷たさとも違う、穏やかな響きがあった。
奪うのではない。
迎える、という言葉を、第一使徒は選んでいた。
「……お迎え、というのは」
第二使徒が、恐る恐る尋ねた。
「あの子に、翼をあげるの」
声は、静かに続けた。
「あの人は、力を失ったまま老いていく道を選んだ。……それは、間違いだった」
「……」
「もう一度、あの頃の姿に戻ってもらう。私たちと、同じように」
帳の向こうで、何かが小さく笑った気がした。
「今度は、私たちが迎えに行く番よ」
「……迎えに」
第二使徒が、その言葉を噛みしめるように繰り返した。
「ええ。……あの子を、迎えに行きましょう」
帳の向こうで、小さく頷く気配があった。
同じ頃。
都内のどこかの通り。
白い法衣ではなく、ごく普通の私服に身を包んだ一人の女性が、夜の街を歩いていた。
コートの襟を立て、俯きがちに歩くその後ろ姿は、街を行き交う誰とも変わらなかった。
ただ、その手には、一枚の写真の複写が、大切そうに握られていた。
信号待ちの雑踏に紛れながら、女は写真の中の顔を、もう何度目かも分からないほど見つめていた。
その口元に浮かんでいたのは、憎しみでも、企みでもなかった。
ただ、長い年月をかけてようやく再会を許された者だけが浮かべる、静かな笑みだった。




