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未登録の魔法少女  作者: 浅川


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第二百八十二話

 闇が、植え込みの影から溢れ出した。

 その一瞬早く、第五使徒の姿が非常階段から消えていた。


 風が、鳴った。

 足音がない。気配もない。ただ、乾いた枯れ葉が数枚、渦を巻いて舞い上がっただけだった。

 女は、公園の中央に音もなく降り立っていた。

 狙いは、ゴーストではなかった。

 ブランコに座る、四十代の女。第七の「揺れの先」。


「……あら」


 奈々美が、顔を上げた。


 その視界に映ったのは、金色の髪と、間近に迫るナイフの切っ先だった。


 ——ギィンッ!


 金属と、何か硬いものがぶつかる音がした。

 ナイフは、奈々美に届いていなかった。

 その手前で、透明な壁に阻まれている。


「……防壁」


 第五使徒の声に、初めて驚きが混じった。


 水の壁だった。

 薄く、しかし刃を通さない硬さで、奈々美とナイフの間に立ちはだかっている。

 壁を張っていたのは、汐里だった。

 ブランコから飛び出し、両手を前に突き出したまま、震える声で言った。


「……先輩には」


「汐里ちゃん……」


「指一本、触れさせない」


 第五使徒は、ナイフを引いて跳び退った。

 街灯の下で、緑の瞳が、心底楽しそうに細められる。


「ほら。やっぱり」


「……第五」


「揺れの先に、いた」


 女は、ナイフの刃を指先で弾いた。


「第七。あんた、今、何をしたか分かってる?」


 汐里の手が、震えていた。


 教団を裏切った。

 自分の役目を放棄し、同じ使徒に刃を向けた。

 その事実が、今になって重く肩にのしかかってくる。

 それでも、水の壁を下ろさなかった。


「……分かってる」


「なら」


「それでも」


 汐里は、奈々美を背に庇ったまま、まっすぐに前を見た。


「先輩は、渡さない」


 第五使徒の口元から、笑みが消えた。


「面倒くさい子」


 風が、女の周囲で渦を巻き始めた。

 その時、二人の間に、漆黒の影が割り込んだ。


「——そこまでよ」


 ゴーストだった。


「……あら」


 第五使徒が、興味深そうに首を傾げた。


「植え込みにいたのは、あなたね」


「その子たちに、手は出させない」


 ゴーストは、大剣を構えながら、奈々美と汐里の位置を視界の端に留めた。守るべきものが二つに増えている。


「あなたも、何者なの。……第七の知り合い? それとも」


 女は、答えを待たずに動いた。

 風が、爆発的に地を蹴った。


 ——ザシュッ!


 ナイフが、ゴーストの頬を掠める。

 残ったのは、細い一筋の傷だった。


(……速い)


 目で追えていない。

 風が、その姿を隠している。

 だが、完全に見えないわけではなかった。

 ゴーストは、街灯の作る影に、薄く闇を伸ばした。

 公園の全ての影に、自分の意識を這わせる。

 風は形を持たない。だが、それが影の上を通れば、そこだけ僅かに揺れる。


(——そこ)


 迷っている時間はなかった。読みが外れれば、次に叩かれるのは奈々美か汐里のどちらかだ。


「——っ!」


 闇の刃が、横薙ぎに走った。

 第五使徒は、寸前でそれをかわしたが、コートの裾が僅かに裂けた。


「気配を、読んでるの?」


「読んでるわ」


「無粋ね」


 女の声には、遊びの余裕がまだ残っていた。だが、その余裕こそが、次の隙になる。

 ナイフが、再び死角から奔る。

 ゴーストは、今度は影を追うのではなく、影の"欠けた場所"を見た。

 女が通った場所だけ、影が僅かに歪んでいる。


 ——ガキンッ!


 大剣の腹が、ナイフを受け止めた。

 鍔迫り合いの形で、二つの刃が押し合う。


「……力は、そちらのほうが上ね」


 第五使徒は、すぐに力比べを捨てた。

 風を纏った足が地面を蹴り、真横に流れるようにして刃を外す。

 距離を取ると同時に、両手のナイフを逆手に持ち替えて、今度は左右から同時に仕掛けてきた。


(——二本)


 ゴーストは、大剣を短く振って一本を弾き、身をひねってもう一本をやり過ごした。

 その刃が、頬をもう一度浅く裂いていく。


「……っ」


「反応、悪くないじゃない」


 第五使徒は、着地と同時にまた気配を消した。

 風の音だけが、公園の四方から聞こえてくる。前後左右、どこから来てもおかしくない。

 汐里が、震える声で叫んだ。


「後ろです……!」


 ゴーストは、振り返らずに影を薙いだ。

 汐里の声が届くより先に、影の歪みがそこを教えていた。


 ——ザンッ!


 闇の刃が、女の二の腕を浅く裂いた。

 小さな悲鳴が上がる。


「……嘘でしょ」


 第五使徒の声から、初めて余裕が消えた。


「見えてないくせに、当たるの……?」


「見てないわ。……聴いてるだけ」


 第五使徒は、そこでようやく気づいた。

 今の一撃には、第七の声も重なっていた。あの一声がなければ、まだ躱せていなかったかもしれない。


「……まったく、面倒な二人組」


 女は、傷を負った腕を庇いながら、間合いを取り直した。

 その足元で、風が渦を巻き、次の一撃の気配を作っていく。

 だが、ゴーストの動きのほうが早かった。

 影から影へ跳び、女の死角へ回り込む。

 大剣の腹が、ナイフを弾いた。

 体勢を崩した第五使徒の脇腹に、返す刃が浅く食い込む。


「……っ」


 女は、大きく後ろへ跳んだ。

 脇腹を押さえ、指先に赤いものが滲んでいる。


「……深追いは、性に合わないのよね」


 彼女は、傷の痛みも意に介さず笑った。

 そして、跳び退りざま、コートの内側から薄い端末を取り出した。

 向けられた先は、ゴーストではなく、ブランコの傍らに立つ奈々美だった。


 ——カシャ。


 乾いた電子音が、公園の静寂に小さく響いた。


「……何を」


「いいもの見せてもらったわ。……第一使徒様に、報告しなきゃ」


「逃がさな——」


「無理よ」


 第五使徒は、傷口を軽く押さえたまま、風を纏って街灯の光の外へ跳んだ。深追いをしない判断の速さも、この女の恐ろしさの一部だった。


「第七が、裏切ったって。……先輩とやらを、庇ってね」


 その声が、夜風に溶けて消えた。

 残されたのは、闇の刃で切り裂かれた地面と、震える汐里と、呆然としたままの奈々美だった。

 公園に、静けさが戻ってきた。

 ゴーストは、闇の中へ大剣を溶かし消し、ゆっくりと振り返った。


「……あなた」


 奈々美が、ブランコに座ったまま、ゴーストの顔を見上げていた。

 その目に、恐怖の色はなかった。

 代わりに、何かを思い出そうとするような、柔らかな驚きが浮かんでいる。


「あら」


 奈々美が、ぽんと手を打った。


「あなた、この前、うちでお茶を飲んでいった子よね」


「……」


 ゴーストの思考が、完全に停止した。


「零のお部屋から出てきて。……お饅頭、二つも食べてくれたでしょう」


「……あ、あの、それは」


「いつも、うちの零がお世話になってます」


 奈々美は、座ったまま丁寧に頭を下げた。

 助けられたばかりの相手に対する態度としては、あまりに普通すぎた。


「……いえ、その」


「髪、乱れてるわよ」


 奈々美が、腰を上げた。

 そして、ごく自然な手つきで、ゴーストの乱れた黒髪に指を伸ばす。


「……っ、あの」


「じっとしてなさい。すぐだから」


 ゴーストは、動けなかった。

 大剣を持ち、闇を纏った特S級の魔法少女が、母親然とした手つきで髪を直されるまま、完全に硬直していた。

 その様子を、汐里が呆然と見ていた。


「……先輩」


「なあに」


「あの人、知り合いなんですか」


「息子のお友達よ」


 奈々美は、髪を直し終えると、満足そうに頷いた。


「本当にありがとうね。……危ないところを」


 ゴーストは、ようやく声を絞り出した。


「……いえ」


「あら、そういえば」


 奈々美が、ふと視線を汐里へ戻した。

 その顔から、母親らしい柔らかさが引いて、代わりに何か別のものが浮かんだ。


「汐里ちゃん」


「……はい」


「あなた、もう、戻れないわね」


 汐里の肩が、震えた。


「今の第五って子に、見られてしまったから」


「……はい」


「あちらには、もう帰れない」


 汐里は、頷いた。もう、後戻りはできない。それを、誰よりも自分が分かっていた。


「……分かって、ます」


 汐里は、震える声で答えた。

 奈々美は、少しの間、後輩の顔を見つめていた。

 二十年前、置いていった子。結婚式の二次会で、一人だけ泣いていた子。

 十二年前から一度も年を取らないまま、今、目の前で震えている。

 奈々美は、その手をしっかりと握った。


「なら、私が預かってもらうように頼んであげる」


「え」


 汐里が、驚いて顔を上げた。


「……先輩が?」


「この子に、頼むの」


 奈々美は、ゴーストを見た。


「あなた、そういうところに顔が利くんでしょう。……零のお友達なんだもの」


 ゴーストは、しばらく黙っていた。

 母は、何も分かっていない。

 自分が誰で、どこに繋がっているのかも知らずに、ただ後輩を守ろうとしている。


「……ええ」


 ゴーストは、静かに頷いた。

 この母の頼みなら、断る理由がなかった。断るという選択肢そのものが、最初から存在していなかった。


「私が、預かるわ」


「よかった」


 奈々美は、心底安堵したように微笑んだ。


「汐里ちゃん。……ご飯は、ちゃんと食べさせてもらいなさいね」


 汐里の目から、また涙が零れた。


「……はい」


 その声は、小さかったが、確かだった。

 十分後、公園の外に、無印の黒塗りの車が停まった。

 八咫の隊員が、静かに扉を開ける。


「……お世話になります」


 汐里は、最後にもう一度、奈々美に向かって深く頭を下げた。

 それから、車に乗り込んでいった。

 車が走り去るのを見送りながら、奈々美はゴーストの隣に立っていた。


「ねえ、ゴーストちゃん」


「……はい」


 奈々美が呼んだ名前に、迷いはなかった。

 この人にとって、目の前の少女はもう「知らない誰か」ではない。うちでお茶を飲み、饅頭を二つ食べていった、息子の友人だった。


「一つだけ、聞いてもいい?」


「……なんでしょう」


「本当の、お名前」


 ゴーストの息が、止まった。


「ゴーストっていうのは、皆さんがそう呼ぶ名前でしょう。……お母さんがつけた名前じゃ、ないはずよ」


「……」


「答えたくないなら、いいの」


 奈々美は、責めるでもなく、ただ静かに続けた。


「ただ、これだけ危ない橋を渡ってくれた子の、本当の名前も知らないままお礼を言うのは、なんだか落ち着かなくて」


 ゴーストは、しばらく答えられなかった。

 母は、何かに気づいているわけではない。

 ただ、目の前にいる少女を、一人の人間として扱おうとしているだけだ。

 それが分かるからこそ、余計に答えられなかった。


「……ごめんなさい。それだけは」


「そう」


 奈々美は、それ以上何も聞かなかった。名前の重さを、詮索する気はないようだった。


「無理に聞くことじゃないものね。ごめんなさいね、変なことを聞いて」


「じゃあ、ゴーストちゃん。……今夜のこと、本当にありがとう」


 奈々美は、深く頭を下げた。

 それから、空になったアルミホイルを畳んで、いつもの穏やかな足取りで帰路についた。

 その足取りに、恐怖も興奮も見えなかった。まるで、近所に回覧板を届けた帰りのような歩き方だった。

 残されたゴーストは、しばらくその場に立ち尽くしていた。

 闇の中、頬の傷に手を当てる。浅い傷は、すぐに塞がっていくだろう。

 だが、今夜見たものは、そう簡単には消えそうになかった。

 母は、刃物を目の前にしても取り乱さなかった。

 後輩の裏切りを、責めもせず、当然のように引き受けた。

 そして、自分を助けたばかりの相手の髪を、当たり前のように直した。

 いつもの台所に立つ母と、今夜見た母が、同じ人間だとは、まだうまく繋がらなかった。

 だが、繋がらないなりに、一つだけ分かったことがある。

 この人は、自分が思っていたよりずっと、何かを知っている。

 知っていて、何も言わずに、朝の味噌汁を作り続けている。


 同じ頃。


 白い壁と白い床だけの、窓のない礼拝堂。

 第五使徒が、脇腹を押さえながら帳の前に跪いていた。


「……申し訳ございません」


「怪我を、しているようだが」


「かすり傷です。……それより、ご報告が」


 第五使徒は、頭を垂れたまま続けた。


「第七が、裏切りました」


 礼拝堂の空気が、変わった。


「昔の先輩とやらを、庇って。……私に、水の防壁を張りました」


「……その、先輩の顔は」


「見ました」


 第五使徒は、懐から先ほどの端末を取り出した。


「言葉より、これのほうが早いかと」


 端末の画面が、帳の前に差し出された。

 街灯の下で撮られた一枚の写真だった。

 ブランコに座る、四十代ほどの女。黒髪を、後ろで一つにまとめている。

 驚いた拍子に、こちらを振り向いた瞬間が写り込んでいた。


「名は」


「聞いておりません。……ですが」


 第五使徒は、言葉を選ぶように続けた。


「もう一人、いました。黒いドレスの女です。……第七が、その先輩を庇った時、割って入ってきて」


 帳の向こうで、長い沈黙が落ちた。

 やがて、帳の裾がゆっくりと動いた。

 画面を覗き込むように、影が近づいてくる。


 声が、響いた。


「……その画像を、大きく」


「は、はい」


 第五使徒は、指先で写真を拡大した。

 目元。頬の線。笑った時に浮かぶ、小さな皺の位置。

 声は、そこで一度止まった。

 第五使徒は、跪いたまま、じっと帳の向こうを見つめていた。

 これまで、この声に感情の揺れを感じたことは、一度もなかった。


 だが、今は違った。


 帳の内側で、何かが、微かに震えていた。


「……奈々美」


 その名は、囁くように、しかし確かに、礼拝堂の白い壁に染み込んでいった。

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