↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
未登録の魔法少女  作者: 浅川


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
281/387

第二百八十一話

 三神家の食卓には、豚の生姜焼きが並んでいた。

 千切りのキャベツ。大根の味噌汁。蓮根のきんぴら。

 零は、自分で作ったそれらを口に運びながら、ほとんど味を感じていなかった。

 ——お母さんに、よろしく。

 夕方、コンビニの自動ドアの前で聞いた声が、耳の奥から離れない。

 零は、向かいの席に座る母の横顔を、何度も盗み見ていた。

 いつもの顔だった。

 澪の愚痴に相槌を打ち、玲奈の皿におかわりをよそい、父の湯呑みに茶を注ぎ足している。

 どこから見ても、呑気で、よく笑う、普通の母親だった。


「……母さん」


「なあに」


「母さんってさ」


 零は、生姜焼きを箸で摘んだまま、できるだけ何気なく言った。


「昔、何の仕事してたっけ」


 奈々美は、湯呑みを置いた。


「あら。OLよ。言ってなかったかしら」


 隣で、五郎が盛大にむせた。


「げほっ、ごほっ……!」


「お父さん、大丈夫!?」


 澪が、慌てて背中を叩いた。


「……熱かった」


「味噌汁、そんなに熱くないでしょ」


「……熱かったんだ」


 五郎は、真っ赤な顔で湯呑みの茶を一気に飲み干した。


「お母さんがOLって、なんかイメージ湧かないよね」


 玲奈が、きんぴらを齧りながら笑った。


「あら、失礼ね。これでも、制服が似合うって評判だったのよ」


「どこの会社?」


「……もう、ないのよ。潰れちゃったの」


 奈々美は、にこやかに答えた。


「だから、履歴書にも書きようがなくてね」


「へえ」


 話は、そこで澪の大学の課題の話に流れていった。

 だが、零は父がむせた瞬間を、見逃していなかった。

 そして、「もう、ないのよ」と答えた母の声が、ほんの少しだけ遠かったことも。


 水曜日の深夜。


 零は、自室の窓際に座って、スマートフォンを耳に当てていた。


『……お母様によろしく、って言われたの?』


 電話の向こうで、緋雪の声が硬くなった。


「うん。目が合った瞬間に、何か気づいたみたいで」


『……あなたの顔を見て』


「たぶん。母さんに、似てるって言われたことあるから」


 緋雪は、しばらく黙っていた。


『……だとしたら』


 彼女の声は、慎重に言葉を選んでいた。


『あなたの顔を見ただけで思い出すくらい、お母様とあの人は、近しかったのね』


 零は、答えなかった。


 窓の外では、向かいの屋根の上で、青いリボンの影が膝を抱えて座っている。

 今夜の見張りは、リリアらしい。

 零は、勾玉で見た名簿の一行を思い出していた。

 『雷属性・現場要員。寿退職』

 汐里が所属していた、戦姫の防壁班。

 その班長の名前は、墨のように滲んで読めなかった。

 母は、雷の夜にまったく動じない。

 父が停電に慌てている時も、平然と懐中電灯の場所を言い当てる。

 凛花が教えてくれた、コンビニの一件。あの母が、一瞬だけ顔色を変えたという。

 河原では、ルディアとヴィクトリアに「誰かを守るお仕事の人の癖よ」と言い当てていた。焼き場から、自分もそれを見ていた。

 そして今夜、昔の仕事を聞いた瞬間に、父がむせた。


「……まさか」


 零は、そこで考えを止めた。


『零くん?』


「……なんでもない」


『確かめるの?』


 緋雪の問いに、零はしばらく答えられなかった。


「……分からない」


『……』


「確かめたら、もう戻れない気がする」


 電話の向こうで、緋雪が小さく息を吐いた。


『……そうね。あなたが確かめたくなった時に、確かめればいいわ』


「うん」


『それまでは、私も何も言わない』


「……ありがとう」


 電話を切った後も、零はしばらく窓の外を見ていた。

 屋根の上のリリアが、こちらに気づいて小さく首を傾げた。

 零は、軽く手を振ってから、カーテンを閉めた。


 木曜日の昼。


 魔法少女協会、本部ビル。


 調査部の小さな会議室で、凛花は自分の私用の端末を机の上に置いた。


「ご協力、感謝します」


 調査部の男は、事務的に端末を受け取った。

 その場で中身を確認していく。通話履歴、メッセージ、写真、アプリの利用記録。

 凛花は、黙ってそれを見ていた。

 昨夜のうちに、全て整理してある。

 翼の家の連絡先も、緋雪とのやり取りも、あの匿名のメッセージも。

 残っているのは、実家の母とのやり取りと、同期との他愛ない雑談だけだった。


「……特に、問題はないようですね」


 男は、一時間ほどで端末を返してきた。


「失礼しました。念のため、ですので」


「……はい」


 凛花は、端末を受け取って会議室を出た。


 何も出てこなかった。

 それが、かえって胸を重くした。


 その夜。


 本部ビルの屋上は、冬の風が吹き抜けていた。

 凛花がフェンスにもたれていると、背後の扉が開く音がした。


「……やっぱり、ここにいた」


 船戸真紀奈だった。


 缶のココアを二本持っている。

 一本を、無言で凛花に差し出した。


「……ありがとう」


「別に」


 真紀奈は、凛花の隣でフェンスにもたれた。


「出てこなかったんでしょ、何も」


「……うん」


「当然よね。私が教えてやったんだから」


 真紀奈は、ココアを一口飲んだ。

 二人は、しばらく黙って夜景を見下ろしていた。

 街の灯りが、遠くまで続いている。


「……真紀奈」


 凛花が、口を開きかけた。


「言わなくていい」


 真紀奈が、それを遮った。


「……え」


「聞いたら、私も同罪になるでしょ」


 真紀奈は、夜景から目を離さなかった。


「あんたが何をしてるのか、私は知らない。知らないから、庇える。……知ったら、庇えなくなる」


「……」


「だから、言わなくていい」


 凛花は、缶を握りしめた。


「……ごめん」


「謝るのも、なし」


 真紀奈は、ようやく凛花のほうを見た。


「その代わり」


「……うん」


「ちゃんと、生きて帰ってきなさいよ」


 その声は、少しだけ震えていた。


「同期が減るのは、嫌なのよ。……それだけ」


 凛花は、何も言えずに頷いた。

 冬の風が、二人の髪を揺らしていった。


 木曜日の夜。

 住宅街の外れの、小さな児童公園。

 ブランコの片方に、水瀬汐里が座っていた。

 昨夜も、その前の夜も、同じ時刻に、同じ場所に座っている。

 誰かを待っているわけではない。汐里は、そう自分に言い聞かせていた。

 ただ、ここに座っていると、少しだけ息がしやすかった。

 礼拝堂の白い壁の中では、息を吸うたびに胸の奥が冷えていく。

 この錆びたブランコの上だけが、あの夜の温度を覚えていた。

 ——ちゃんと、ご飯は食べてる?

 汐里は、自分の膝の上で手を組んだ。

 公園を見下ろす位置に、古い雑居ビルがある。

 その非常階段の三階の踊り場に、一人の女が腰掛けていた。

 金色に染めた長い髪。その根元に、地の黒が覗いている。

 緑の瞳が、街灯の下のブランコをじっと見下ろしていた。

 女の指先で、刃の短いナイフがくるくると回っている。

 柄を弾き、刃を掴み、また柄を弾く。

 その動作は、呼吸のように自然だった。


「……今夜も、来た」


 第五使徒は、退屈そうに呟いた。


「毎晩、同じ公園で、同じ時刻に。……誰を待っているのかしら、第七は」


 ナイフが、また一回転する。


「揺れてるのは、見れば分かるのよ」


 緑の瞳が、細められた。


「あとは、揺れの先に、誰がいるか」


 汐里は、その視線に気づいていなかった。

 ただ、夜空を見上げて、小さく息を吐いていた。


 金曜日の夜。


 三神家の台所で、奈々美が何かを包んでいた。

 夕食の片付けを終え、零が風呂に入っている間のことだった。

 アルミホイルを丁寧に折り畳み、小さな包みを一つ作る。


「……母さん、それ何?」


 風呂から上がった零が、廊下で声をかけた。


「あら、零。……夜食よ」


 奈々美は、包みを背中に隠すようにして笑った。


「散歩のついでにね、ちょっとお腹が空くかもしれないから」


「散歩? こんな時間に?」


「少しだけよ。すぐ戻るわ」


 奈々美は、カーディガンを羽織って玄関へ向かった。

 鈴が、三つ鳴った。

 零は、しばらく廊下に立ち尽くしていた。

 包みの形に、見覚えがあった。

 おにぎりだ。

 風呂に入る前に、明日の朝の分にと炊き足したご飯で握って、粗熱を取るために台所に置いておいたもの。

 鮭のおにぎりだった。

 零は、自室に戻って、カーテンを閉めた。

 胸元の匣を開け、ペンダントを握る。

 闇色の魔力が、狭い部屋の中に満ちていった。

 児童公園の街灯は、今夜も一本だけ灯っていた。

 ゴーストは、公園の入り口近くの植え込みの影に、音もなく沈んでいた。

 気配を消し、息を殺し、ブランコのほうを見る。

 ブランコの片方には、今夜も汐里が座っていた。

 そして、そのもう片方に、奈々美が腰を下ろすところだった。


「……先輩」


 汐里の声が、震えた。


「来て、くださったんですか」


「散歩よ」


 奈々美は、いつもの穏やかな声で答えた。

 鎖が、きい、と軋む。


 しばらく、二人とも何も言わなかった。

 それから、奈々美がアルミホイルの包みを差し出した。


「はい」


「……え」


「食べてないんでしょう。顔を見れば分かるわ」


 汐里は、包みを受け取った。

 アルミホイルを開くと、まだ僅かに温かさの残るおにぎりが一つ、現れた。

 汐里は、それをしばらく見つめていた。

 コンビニの棚の前で、何度も手に取っては戻した、あの形。

 あの時、見知らぬ少年に声をかけられて、ようやく一つ買った。


「……鮭、ですか」


「ええ」


「……いただきます」


 汐里は、おにぎりを一口齧った。

 噛んで、飲み込んで、もう一口齧る。

 そして、動きを止めた。


「……塩、ちょうどいいです」


「うちの子が握ったのよ」


 奈々美は、夜空を見上げたまま言った。


「私より、ずっと上手なの。……悔しいけど」


 汐里の目から、涙が一粒落ちた。

 おにぎりの海苔の上に、ぽつりと染みが広がる。

 汐里は、それを隠すように、また一口齧った。

 奈々美は、何も言わなかった。

 昔の話も、使徒の話も、聖薬の話も、一つもしなかった。

 ただ、隣のブランコに座って、後輩が食べ終わるのを待っていた。

 ゴーストは、植え込みの影の中で、その光景を見ていた。

 母が、泣いている女の隣に座っている。

 自分が握ったおにぎりを、その女が食べている。

 そして、その女は、十二使徒の一人だった。

 胸の奥が、ひどく静かだった。


 怒りでも、恐怖でもない。

 ただ、自分の知らない母が、そこにいた。


 その時。

 ゴーストの背筋を、冷たいものが撫でた。


(……誰か、いる)


 視線だった。

 自分に向けられたものではない。ブランコの上の二人に向けられた、刃物のような視線。

 ゴーストは、闇の中で目だけを動かした。

 公園を見下ろす雑居ビル。

 その非常階段の三階の踊り場に、人影が一つあった。

 金色の髪。根元に覗く黒。

 街灯の光を僅かに映して、緑の瞳が光っていた。

 女の指先で、ナイフが回っている。

 その回転が、ぴたりと止まった。


「……見つけた」


 第五使徒の唇が、ゆっくりと吊り上がった。


「第七の、昔の先輩」


 緑の瞳は、ブランコの上の奈々美を見下ろしていた。

 奈々美は、何も気づいていない。

 隣で泣いている後輩の背中を、そっと撫でている。

 第五使徒は、ナイフを掌の中に収めた。

 そして、その瞳が、ゆっくりと横へ動いた。

 公園の入り口。

 植え込みの、闇の一番深いところへ。


「……あら」


 女は、面白そうに首を傾げた。


「そっちにも、誰かいるのね」


 ゴーストの中で、何かが冷たく切り替わった。

 母がいる。

 母の隣に、敵がいる。

 そして、母を見下ろして、刃を握った女がいる。

 闇が、音もなく植え込みの影から溢れ出していった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。