第二百八十話
玄関の鈴が、三つ、控えめに鳴った。
奈々美は、音を立てないように靴を脱ぎ、台所へ向かった。
冷蔵庫を開けて、ぬるくなった牛乳を棚の奥にしまう。
明日の朝、零が使う前に、自分で飲んでしまおう。そう思いながら扉を閉めた。
寝室の襖を開けると、布団の中から声がした。
「……遅かったな」
五郎だった。
眠っていると思っていた夫は、天井を見上げたまま、目を開けていた。
「起きてたの」
「牛乳一本に、一時間もかかるか」
「……公園で、少し休んでたのよ」
奈々美は、カーディガンを脱いで、自分の布団に座った。
夫は、それ以上何も聞かなかった。
二十年、ずっとそうだった。
しばらく、二人とも黙っていた。
時計の針が進む音だけが、暗い寝室に響いている。
「……あなた」
「うん」
「昔の後輩に、会ったの」
五郎の呼吸が、僅かに変わった。
「……戦姫の、か」
「ええ」
この家で、その名前を口にできる相手は、夫しかいない。
奈々美が魔法少女だった頃を知っているのは、あの日、崩れかけたビルの瓦礫の下から彼女に引きずり出された、この人だけだった。
「汐里ちゃん。……覚えてる? 結婚式の二次会で、一人だけ泣いてた子」
「……ああ。あの、えくぼの子か」
「そう」
奈々美は、膝の上で指を組んだ。
「変身したままだったわ」
「……変身」
「二十代半ばの顔のままで。……十二年前から、一度も解いてないって」
五郎は、身体を起こした。
暗がりの中で、妻の横顔を見つめる。
「大丈夫なのか、それは」
「大丈夫じゃないわ」
奈々美は、静かに答えた。
「魔法少女はね、年を取るたびに力が薄れていくの。それが当たり前なのよ。……私みたいに」
「……」
「それを、止めてしまった。自分で」
五郎は、言葉を探していた。
だが、この話に掛けられる言葉を、ただの会社員の自分は持っていないことも分かっていた。
「……お前は、どうしたい」
結局、口にできたのはそれだけだった。
「何もしないわ」
奈々美は、即答した。
「今の私は、母親だもの。……昔の後輩を助けに行ける身体じゃないし、そうするつもりもない」
「そうか」
「ただね」
奈々美の指が、布団の端をきつく握った。
「……子供たちが、何かに巻き込まれている気がするの」
五郎は、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「零か」
奈々美が、顔を上げた。
「……気づいてたの」
「気づかんほうがおかしい」
五郎は、苦笑した。
「四週間も研修だと言っていなくなって、帰ってきたと思ったら、夜な夜などこかへ出かける。目の下はいつも黒い。……あれで気づかない親がいたら、見てみたいもんだ」
「……」
「澪と玲奈も、だな。この間の夜、揃って飛び出していっただろう。白百合の緊急招集だと言って」
「ええ」
「あの夜、零も帰りが遅かった」
奈々美は、何も言わなかった。
同じことを、自分も考えていたからだ。
「なあ、奈々美」
五郎は、布団に横になり直した。
「あいつが自分で話すまで、待とう」
「……待つの?」
「ああ」
五郎は、天井を見上げた。
「俺たちも、昔、そうしてもらったからな」
奈々美は、はっとしたように夫を見た。
二十年前。
一般人の男と恋をした魔法少女は、そのことを誰にも言えなかった。
黙っていてくれたのは、同じ班の仲間たちと、何も聞かずに戦姫を辞める書類に判を押した上官だった。
「……そうね」
「待つのは、得意だろう。お前は」
「あなたもね」
奈々美は、小さく笑った。
それから、自分の布団に潜り込み、夫の手をそっと握った。
五郎の手は、昔と同じように、少しだけかさついていた。
火曜日の夕方。
翼の家の居間で、凛花は円卓の面々を前に、前日の出来事を報告していた。
「——相手は、二十代半ばの女性です。淡い色のコートに、肩までの黒髪」
「特徴は」
ヴィクトリアが、静かに問うた。
「足元に、水滴が浮いていました。店の中は乾いていたのに」
「水属性ね」
「物腰は、柔らかかったです。……脅しではなく、勧誘の口調でした。『協会は、いずれあなたを切る』と」
「使徒ですわね」
ルディアが、袖を口元に当てたまま言った。
「第九の穏やかさとも、第三の猜疑とも違う。……揺れている者の手を取りに来る役目の方でしょう」
凛花は、頷いた。
それから、少しだけ言い淀んだ。
「……それと、もう一つ」
「なに?」
緋雪が、凛花の顔を覗き込んだ。
「助けてくださったのは……三神さんの、お母様でした」
居間の空気が、僅かに動いた。
ゴーストの手が、膝の上で止まった。
その変化に気づいたのは、隣に座っていた緋雪だけだった。
「偶然、お店に入ってこられて。私を、夕食に誘ってくださったんです」
「あら。お優しい方ですものね」
ルディアが、微笑んだ。
「河原でも、わたくしの皿にお肉を取り分けてくださいましたわ」
「……それで」
ゴーストの声は、平静だった。
平静すぎた。
「お母様は、その女を見て、どうしたの」
「……顔色が、変わりました」
凛花は、思い出すように言葉を選んだ。
「一瞬だけ、です。その後は、何もなかったように私の腕を取って。……『この子に用があるなら、また今度にしてちょうだい』と」
「……」
「後で、お知り合いですかと伺ったら、『昔の知り合いに似ていた。人違いだった』と」
ゴーストは、しばらく何も言わなかった。
「……ありがとう。分かったわ」
それだけ答えて、話を次へ進めた。
会議の後、廊下で二人きりになった時、緋雪がそっと袖を引いた。
「……零くん」
「大丈夫」
「顔が、大丈夫じゃないわ」
ゴーストは、黙っていた。
母が、使徒の顔を知っていた。
それだけのことだ。昔の知り合いに似ていただけかもしれない。
だが、あの母が「人違い」と言ったのなら、それは本当に人違いではない気がした。
火曜日の夜。
勾玉の施設、地下解析室。
「……水属性。二十代半ばの外見。右の頬に、えくぼ」
八咫の隊員が読み上げた特徴に、車椅子の椎葉が顔を上げた。
「……えくぼ、と言ったか」
「はい。円卓から上がってきた情報です」
老人は、しばらく目を閉じていた。
それから、震える指で端末を操作し、古い記録を呼び出した。
「水瀬、だ」
「水瀬」
「戦姫の防壁班にいた子だ。……当時は、まだ十代だった」
画面に、色褪せた班の名簿が映し出された。
班員の欄には、四人の名前が並んでいる。
その一番下に、「水瀬汐里」の名前があった。
「よく覚えている。泣き虫でな。前線に出るたびに、班長の後ろに隠れていた」
「班長は」
ゴーストが、静かに問うた。
椎葉は、名簿の一番上の欄を指で示した。
名前の部分は、墨で塗り潰されたように黒く滲んでいる。
保存状態が悪かったのか、意図的に消されたのかは分からない。
ただ、その横の欄だけが、辛うじて読み取れた。
『雷属性・現場要員。寿退職』
「……この班長が辞めた後、あの子は泣き止まなかったそうだ」
椎葉は、懐かしむように言った。
「まるで、母親に置いていかれた子供のようだった、と聞いている」
ゴーストは、その一行を見つめていた。
雷属性。寿退職。
どこかで、見た覚えがある。
戦姫の研究所の地下で、黴に覆われた名簿の切れ端に、同じ文字が残っていた。
だが、それが何を意味するのか、ゴーストはまだ考えなかった。
目の前の老人が語る、泣き虫の少女の話のほうに、意識が向いていた。
水曜日の朝。
魔法少女協会、本部ビル。
凛花が更衣室に入ると、自分のロッカーの前に、見慣れない職員が立っていた。
「周防さん。……少しだけ、よろしいですか」
「……調査部の方ですか」
「ええ。業務用端末の件で、確認したいことが」
凛花は、静かに頷いた。
業務用の端末は、何を調べられても構わない。
問題は、その先だった。
廊下に出ると、船戸真紀奈がすれ違いざまに肩をぶつけてきた。
「——ごめん」
真紀奈は、軽く頭を下げながら、凛花にだけ聞こえる声で呟いた。
「調査部、あんたの私用の端末まで出させる気よ。……今日中に、中身を整理しときなさい」
「……真紀奈」
「言っとくけど、信じたわけじゃないからね」
真紀奈は、振り返らずに歩いていった。
「同期が、何も言わずに潰されるのが気に食わないだけ」
凛花は、その背中に深く頭を下げた。
疑いながら、庇ってくれる人がいる。
そのことが、今はひどく痛かった。
同じ頃。
白い壁と白い床だけの、窓のない礼拝堂。
帳の向こうから、声が響いた。
「第七の報告は、歯切れが悪かった」
帳の前に跪いているのは、汐里ではなかった。
別の使徒だった。細身の身体を白い法衣に包み、顔を深い頭巾で覆っている。
「昔の先輩、と言っていた。名を問えば、存じませんと答えた」
「……偽り、と」
「分からない」
声は、静かに続けた。
「だが、第七は、揺れている。……揺れている者を迎えに行く役目の者が、自ら揺れた」
頭巾の使徒は、何も言わずに頭を垂れた。
「第七の傍に、いなさい」
「……監視、でしょうか」
「見守り、だ」
帳の向こうで、何かが微かに笑った気がした。
「揺れが止まるまで。……あるいは、揺れの先に誰がいるのかが分かるまで」
水曜日の夕方。
零は、夕飯の買い足しのために、住宅街のコンビニに寄った。
醤油が切れていた。それから、明日の弁当用の卵。
レジに向かう前に、おにぎりの棚の前を通りかかった。
そこで、足が止まった。
淡い色のコート。肩までの黒髪。
二十代半ばほどの女が、おにぎりの棚の前に立っていた。
凛花の報告と、全く同じ特徴だった。
(……水瀬、汐里)
零の手の中で、醤油のボトルが軋んだ。
人間の姿だ。胸元の匣は、波形を完全に遮断している。
向こうは、こちらに気づいていない。
この距離なら、何事もなく通り過ぎることもできる。
だが、零は動けなかった。
女は、おにぎりを一つ手に取っていた。
鮭のおにぎり。
しばらく、それをじっと見つめている。
それから、ゆっくりと棚に戻した。
また、手に取る。
また、戻す。
食べたいのか、食べたくないのか。
買う理由が分からなくなってしまった人の、迷い方だった。
——ちゃんと、ご飯は食べてる?
母が、この人にそう言ったのかどうか、零は知らない。
だが、その迷い方を見ているうちに、口が勝手に動いていた。
「……それ、おいしいですよ」
女の肩が、跳ねた。
「鮭のやつ。……ここのは、塩がちょうどいいんです」
女が、ゆっくりと顔を上げた。
零と、目が合った。
その瞬間、女の動きが止まった。
目の前の少年の顔を、じっと見つめている。
眉の形。目元。唇の結び方。
その中に、誰かの面影を探すように。
零は、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
「……あなた」
女の唇が、僅かに震えた。
「もしかして」
その先は、言葉にならなかった。
女は、零から視線を外した。
棚に戻しかけていた鮭のおにぎりを、今度はしっかりと手に取る。
それから、何も言わずにレジへと向かった。
零は、醤油と卵を持ったまま、その場に立ち尽くしていた。
会計を済ませた女が、自動ドアの前で立ち止まった。
そして、ゆっくりと振り返った。
右の頬に、小さなえくぼが浮かんでいた。
「……お母さんに、よろしく」
自動ドアが開き、女の姿が夕暮れの中へ消えていった。
零は、しばらく動けなかった。
店内の音楽が、ひどく遠くに聞こえる。
手の中で、卵のパックが小さく鳴った。
——お母さんに、よろしく。
その言葉の意味を、零はまだ知らなかった。




