第二百七十九話
周防凛花は、自室のベッドの端に座ったまま、スマートフォンの画面を見つめていた。
『周防凛花様。あなたは、埠頭の夜に何を見ましたか』
返信もしていない。削除もしていない。
ただ、画面が暗くなるたびに指で触れて、また同じ一行を読み返している。
協会に報告すれば、埠頭の夜に自分がどこにいたのかを説明しなければならない。
黙っていれば、この一行を一人で抱え続けることになる。
凛花は、ふと、少し前に緋雪から聞いた話を思い出した。
神社の夜のあと、白鳥が泣きじゃくる少女にかけた言葉。
——次は、先に言って。一人で抱えないで。
窓の外が、白み始めていた。
凛花は、通話履歴の一番上にある名前を押した。
『……周防さん? こんな時間に、どうしたの』
「羽衣さん。……相談が、あります」
日曜日の朝。
三神家の玄関で、金属の澄んだ音が鳴った。
「よし。これで一つ目だ」
脚立の上で、五郎が満足そうに頷いた。
ドアの上部に、真鍮の鈴が取り付けられている。
「お父さん、もう少し右」
「こうか」
「そう。開けた時に、ちゃんと鳴る位置」
澪が、下から細かく指示を出していた。
足元には、ホームセンターの袋が三つ。中身は、全部鈴である。
「……姉ちゃん。本当にやるのか」
「言ったでしょ。防犯よ」
「防犯は大事だ」
五郎が、真顔で頷いた。
娘に頼られたのが、よほど嬉しいらしい。
「次は窓ね。リビングと、玲奈の部屋と、零の部屋」
「俺の部屋はいい」
「駄目」
「換気の時にうるさい」
「我慢しなさい」
「夜中に風で鳴ったら眠れない」
「……」
澪は、しばらく弟の顔を睨んでいた。
「……じゃあ、代わりに玄関を三つにする」
「なんでそうなる」
結局、零の部屋の窓だけは免れた。
代わりに、玄関の鈴は三つに増え、扉を開けるたびに寺の境内のような音を立てるようになった。
その夜、向かいの屋根の上では、赤いリボンと青いリボンの影が、真剣な顔で三神家の窓を観察していた。
「……リリア。あの鈴、どこについてる?」
「……玄関に三つ。リビングに一つ。おにーさんの部屋は、なし」
「よかったあ」
「……ん。でも、練習はしとく」
二人は、鈴のついた窓の開け方を、屋根の上で黙々と練習し始めた。
日曜日の昼。
翼の家の居間で、凛花はスマートフォンをちゃぶ台の中央に置いた。
「……こういうものが、届きました」
円卓の面々が、画面を覗き込む。
ヴィクトリアの目が細められ、ルディアが口元から袖を下ろした。
「匿名回線ね。星監の技術班なら、癖くらいは拾えるわ」
「こちらから会ってしまうのも手ですわ。罠を張って」
「凛花さんを囮にするのは、反対よ」
緋雪が、きっぱりと言った。
「……私が、決めます」
凛花は、静かに顔を上げた。
「返信します。ただし、ここにいる全員の目が届く形で」
ゴーストは、しばらく凛花の顔を見ていた。
「あなたが一人で行くなら、止める。……一人じゃないなら、止めない」
「……はい」
月曜日の昼。
魔法少女協会、本部ビル。
上層部の会議室を出た凛花は、廊下の途中で足を止めた。
二つの夜の巡回記録。
桧山主任が消えた夜と、埠頭で騒ぎがあった夜。その両方に、自分の名前が並んでいる。
偶然にしては重なりすぎている、と言われた。反論は、同じ言葉を繰り返すことしかできなかった。
「——周防」
廊下の先に、数人の人影が立っていた。
協会のエースたちだった。
その先頭で、船戸真紀奈が腕を組んでいる。
「あんた、何か隠してるでしょ」
「……何も」
「嘘。顔に出てる」
「真紀奈、やめなよ」
後ろにいた一人が、困ったように割って入った。
「凛花さんが、そんなことするわけないじゃん」
「そんなことって、何よ。私はまだ何も言ってない」
真紀奈は、凛花から目を逸らさなかった。
「……一人で抱えてるなら、言いなさいよ。同期でしょ」
その言葉に、凛花の胸がきしんだ。
疑われている。
同時に、心配されている。
どちらも本物で、どちらにも応えられない。
「……ごめん」
凛花は、それだけ言ってエースたちの横をすり抜けた。
背中に、いくつもの視線が刺さったまま離れなかった。
月曜日の夕方。
巡回の合間に、凛花は住宅街のコンビニに寄った。
温かい缶のお茶を手に取り、雑誌の棚の前で少しだけ立ち止まる。
何も考えない数分間が、欲しかった。
「——周防凛花さん、ですね」
隣から、柔らかな声がした。
凛花の身体が、硬直した。
雑誌を眺めるふりをしている女が、すぐ隣に立っていた。
二十代半ばほど。淡い色のコートに、肩までの黒髪。
穏やかな笑みを浮かべた、どこにでもいそうな女だった。
だが、その足元の床に、僅かな水滴が浮いていた。
店の中は、乾いているのに。
「メッセージ、読んでいただけましたか」
「……誰ですか」
「それは、また後ほど」
女は、雑誌のページを一枚めくった。
「協会は、いずれあなたを切りますよ」
凛花の指が、缶を強く握った。
「二つの夜に、あなたの名前が並んでいる。調査部は、もう答えを決めています。……あとは、切る時期だけ」
「……なぜ、それを」
「あなたが揺れているのは、見れば分かります」
女は、優しく微笑んだ。
「その時、あなたの居場所はどこにあるのでしょう」
店内には、客が三人と、レジに店員が一人。
変身はできない。騒ぎも起こせない。
凛花は、ただ缶を握りしめて立っていることしかできなかった。
「あら、凛花ちゃんじゃない」
背後から、明るい声が飛んできた。
振り返ると、エコバッグを提げた中年の女性が立っていた。
仕事帰りらしい、落ち着いた色のカーディガン。
河原で、焼きおにぎりを配ってくれた人。
「……三神さんの、お母様」
「こんなところで会うなんて、奇遇ねえ」
奈々美は、ためらいなく二人の間に割って入った。
凛花の腕に手を添え、自然な仕草で自分のほうへ引き寄せる。
「晩ご飯、まだでしょう? うちで食べていきなさいな。今日は、零が鰤大根を——」
奈々美の言葉が、途中で止まった。
凛花の隣にいた女の顔を、見てしまったからだ。
女の笑みも、同時に凍りついていた。
二人は、数秒間、互いの顔を見つめ合った。
店内の音楽が、ひどく遠くに聞こえる。
(……汐里ちゃん?)
奈々美の中で、古い名前が浮かび上がった。
いいえ、そんなはずはない。
あの子は、自分より八つ下だった。今はもう、三十代も半ばを過ぎているはずだ。
目の前の女は、どう見ても二十代半ばにしか見えない。
十六の頃のあどけなさが抜けて、大人になりかけたところで、時間だけが止まったような顔。
笑うと右の頬にだけ浮かぶ、小さなえくぼは、あの頃のままだった。
奈々美は、何も言わなかった。
ただ、凛花の腕をしっかりと握り直した。
「この子に用があるなら」
声は、穏やかだった。
だが、凛花はその時、隣に立つ女性の手が、微かに冷たくなったのを感じた。
「また今度にしてちょうだい」
女は、何も言い返さなかった。
雑誌を棚に戻し、軽く会釈をして、店を出ていく。
自動ドアの前で、一度だけ振り返った。
その目に浮かんでいたのは、戦意ではなかった。
迷子の子供のような、ひどく心細い動揺だった。
月曜日の夜。
三神家の玄関で、鈴が三つ同時に鳴った。
「ただいまー。お客様、連れてきたわよ」
「はーい、おかえり——」
台所から顔を出した零の手から、おたまが滑り落ちかけた。
母の後ろに、周防凛花が立っていた。
「……お邪魔、します」
「あ、あら。いらっしゃい」
零は、動揺を顔に出さないよう、全力で平静を装った。
凛花のほうも、突然の招待に、明らかに戸惑っていた。
「ちょっと、お母さん!?」
リビングから、澪が飛び出してきた。
「協会のエースが、うちで晩ご飯って、どういうこと!?」
「コンビニで会ったのよ。一人で寂しそうだったから」
「そういう問題じゃ……!」
「凛花さん、いらっしゃーい!」
玲奈だけが、無邪気に手を振った。
食卓は、奇妙な空気だった。
鰤大根と、ほうれん草のお浸しと、豆腐の味噌汁。
五郎は、客人の来訪に上機嫌で、奈緒の話や花見の予定を延々と喋っている。
奈々美は、いつもの笑顔で茶を注いでいる。
零と凛花だけが、どこかぎこちなく箸を動かしていた。
凛花にしてみれば、協会のエースが白百合の隊員二人の家で夕飯を食べているのだから、居心地がいいはずもない。
零にとっては、それ以上だった。
目の前で鰤大根を食べているのは、ゴーストとして何度も並んで戦ってきた相手なのだ。
向こうは、それを知らない。知らないまま、河原で会った三神家の長男として、礼儀正しく頭を下げてくる。
自分だけが知っているというのは、思っていたよりずっと落ち着かない食卓だった。
「……美味しいです」
凛花が、鰤大根を口に運んで呟いた。
「そうでしょう。零が作ったのよ」
「……存じています」
「え?」
「あ、いえ。……河原で、いただいたので」
澪が、じっと凛花の顔を見ていた。
食事の終わり際、凛花がさりげなく口を開いた。
「あの、お母様。……さっきの女性は、お知り合いですか」
零の箸が、止まった。
奈々美は、湯呑みを置いて、いつもの柔らかい笑顔で答えた。
「昔の知り合いに、少し似ていたの」
「……」
「でも、人違いだったわ。その人は、もうずっと年上のはずだもの」
そう言って、奈々美は凛花の湯呑みに茶を注ぎ足した。
五郎だけが、その横顔を、ほんの一瞬だけ黙って見ていた。
午後十時。
凛花を駅まで送る役目は、零が引き受けた。
その間に、奈々美は「牛乳が切れたから」と言って、一人で家を出た。
玄関の鈴が、三つ、小さく鳴った。
住宅街の外れに、小さな児童公園がある。
滑り台と、ブランコが二つ。街灯が一本。
そのブランコに、女が一人座っていた。
淡い色のコート。肩までの黒髪。
二十年前の面影を残した横顔が、街灯に照らされていた。
「……来てくださると、思っていました」
女は、顔を上げずに言った。
「牛乳を、買いに出ただけよ」
奈々美は、隣のブランコに腰を下ろした。
鎖が、きい、と小さく軋んだ。
「……汐里ちゃん」
「はい」
「本当に、あなたなのね」
「はい。……奈々美先輩」
水瀬汐里は、そこでようやく顔を上げた。
右の頬に、小さなえくぼが浮かんでいる。
寮の台所で、夜中に二人でインスタントラーメンを茹でた時と、同じ笑い方だった。
「先輩は、変わりましたね」
「そうね。四十も過ぎれば、変わるわよ」
「目元に、皺が」
「言わなくていいの」
奈々美は、小さく笑った。
「あなたは、年を取らないのね」
「……ええ」
汐里は、自分の掌を見下ろした。
「取らないように、したんです」
夜風が、ブランコの鎖を揺らした。
「いつから」
「十二年前から」
「……変身したまま、なのね」
「ええ。一度も、解いていません」
奈々美は、しばらく何も言わなかった。
二十年前、戦姫の現場で、この子はいつも自分の後ろにいた。
水の防壁で仲間を包み、泣きそうな顔で「先輩、無茶しないでください」と言う子だった。
「先輩が辞めた時、私、泣いたんですよ」
汐里が、ぽつりと言った。
「一般の男の人と結婚するって。……魔法少女を辞めるって」
「ええ。覚えてるわ」
「どうしてですか」
汐里の声が、僅かに震えた。
「先輩は、一番強かったのに。雷を落とせば、魔獣が一瞬で消えたのに。……どうして、全部捨てられたんですか」
奈々美は、エコバッグの中の牛乳を見下ろした。
「捨てたんじゃないわ」
「……」
「置いてきたの。持っていけないものを、持っていける場所まで」
「わかりません」
「そうね。……私も、あの頃は分からなかった」
奈々美は、夜空を見上げた。
「汐里ちゃん。今、あなたのいるところは、温かい?」
「……温かいですよ」
汐里は、微笑んだ。
「誰も、年を取らない。誰も、力を失わない。誰も、置いていかれない。……先輩も、来ませんか」
「え?」
「聖薬があれば、先輩の雷も戻ります。あの頃の姿に、戻れるんです」
汐里が、ブランコから立ち上がった。
街灯の下で、その足元に水溜まりが広がっていく。
「一緒に、戻りませんか。……二十年前に」
奈々美は、立たなかった。
「……汐里ちゃん」
「はい」
「私の雷はね、もういいの」
奈々美は、エコバッグを膝の上に置き直した。
「今の私は、朝ご飯のお味噌汁と、子供たちのお弁当と、主人の晩酌の肴で、手一杯なの」
「そんなもの」
「そんなものが、一番難しいのよ」
奈々美は、静かに笑った。
「魔獣を倒すより、ずっと難しいわ。……毎日、同じ時間に、同じ温かさで出さなきゃいけないんだもの」
汐里は、何も言えなかった。
「それからね」
奈々美は、ようやく立ち上がった。
その目は、もう笑っていなかった。
「今日の、あの子」
「……周防凛花さん」
「あの子には、手を出さないで」
汐里の肩が、僅かに揺れた。
「あの子、揺れていたでしょう。……揺れている子の手を、先に掴むのは卑怯よ」
「……先輩」
「昔のあなたなら、分かったはずよ」
奈々美の声は、静かだった。
だが、そこには確かに、かつて現場の先頭に立っていた人間の重みがあった。
「……先輩は、あの子とどういう」
「お客様よ。うちで、鰤大根を食べていった」
奈々美は、それだけ答えた。
汐里は、その言葉の意味を測りかねるように、しばらく先輩の顔を見つめていた。
「……今夜のことは」
汐里が、ようやく口を開いた。
「上には、言いません」
「そう」
「先輩の名前も、住んでいる場所も。……言いません」
「ありがとう」
「お礼を言われることじゃ、ありません」
汐里は、背を向けた。
「次に会う時は、先輩の敵かもしれませんから」
「……そうね」
奈々美は、その背中に向かって、一言だけ付け足した。
「汐里ちゃん。……ちゃんと、ご飯は食べてる?」
汐里の足が、止まった。
振り返らないまま、しばらく動かなかった。
街灯の下で、その肩が一度だけ、小さく震えた。
「……先輩は、本当に、変わりましたね」
女の姿が、足元の水溜まりの中へ沈んでいった。
後には、濡れたアスファルトと、揺れ続けるブランコだけが残った。
奈々美は、しばらくその水溜まりを見下ろしていた。
それから、エコバッグを持ち直して、家への道を歩き出した。
牛乳は、すっかりぬるくなっていた。
同じ頃。
白い壁と白い床だけの、窓のない礼拝堂。
「……接触には、失敗しました」
第七使徒——水瀬汐里は、帳の前に跪いていた。
「邪魔が、入りまして」
「邪魔?」
帳の向こうから、性別の分からない声がした。
「協会の者か」
「いいえ」
汐里は、頭を垂れたまま答えた。
「……昔の、先輩です」
「名は」
「……存じません。二十年も前のことですので」
帳の向こうで、しばらく沈黙が続いた。
「そうか」
声は、それ以上追及しなかった。
汐里は、跪いたまま、自分の手を見下ろした。
その指先が、止まらずに震え続けていた。
——ちゃんと、ご飯は食べてる?
十二年、誰にも言われなかった言葉だった。




