第二百七十八話
零が台所で卵を溶いていると、背後で床が軋んだ。
振り返ると、パジャマ姿の澪が、戸口に立っていた。
「……珍しいな。まだ六時前だけど」
「目が覚めたのよ」
澪は、そう言いながら冷蔵庫を開け、麦茶を注いだ。
コップを両手で持ったまま、弟の手元をしばらく眺めている。
何か言いたそうだった。
口を開きかけて、閉じる。それを二度繰り返した。
「……ねえ、零」
「なに」
「最近、この辺り、物騒だから」
澪は、麦茶を一口飲んだ。
「夜、一人で歩く時は気をつけなさいよ」
「……うん」
「大通りを通るのよ。路地は駄目」
「分かってる」
「本当に?」
「本当に」
澪は、しばらく弟の背中を見ていた。
それから、コップを流しに置いて、黙って居間へ戻っていった。
昨夜のことを、姉は話さなかった。
白い法衣の女のことも、ゴーストと並んで戦ったことも、何一つ。
零は、その沈黙の意味を考えながら、だし巻きを巻いた。
七時半。
玄関先から、五郎の声が響いた。
「おい、母さん。見てみろ」
「なあに、あなた」
「交差点のところ、アスファルトがえぐれてるぞ」
奈々美が、エプロン姿のまま玄関から顔を出した。
二百メートル先の交差点に、工事用のコーンが三つ並んでいる。
その向こうで、路面が蜘蛛の巣状にひび割れていた。
「ガス管の工事か?」
「きっとそうね」
「夜中にやったのか。気づかなかったな」
「疲れてたんじゃない?」
奈々美は、にこやかに相槌を打った。
五郎は、首を傾げながら駅へ向かっていった。
その背中を見送ったあと、奈々美はもう一度だけ交差点のほうへ目を向けた。
ほんの一瞬、その目が細められた。
そして、何事もなかったように家の中へ戻った。
「お兄ちゃん」
登校前、靴を履いていた零の袖を、玲奈が引いた。
「昨日の夜、どこにいたの?」
「駅の向こう。緋雪さんと」
「……ふうん」
玲奈は、じっと兄の顔を見上げた。
何かを確かめるような目だった。
「なに?」
「なんでもない」
玲奈は、ぱっと手を離した。
「いってきまーす!」
零は、走っていく妹の背中を見送りながら、少しだけ息を吐いた。
同じ家の中に、魔法少女が三人いる。
そのうち二人が、昨夜、正体を知らないまま自分と並んで戦った。
金曜日の放課後。
都内某所、勾玉の施設、地下五階。
白い廊下の両側に、分厚い扉が二つ並んでいた。
どちらにも、窓はない。
代わりに、扉の横に小さなモニターが据え付けられている。
「左が第九、右が第三です」
案内の隊員が、モニターを指した。
左の画面には、白銀の髪の少女が映っていた。
拘束具をつけられたまま、簡素な椅子に背筋を伸ばして座っている。
目を閉じ、微動だにしない。祈っているようにも、眠っているようにも見えた。
右の画面には、黒髪の女が映っていた。
こちらは、部屋の中を絶えず歩き回っている。拘束された腕を胸の前で組み、壁から壁へ、何度も往復していた。
「……音は」
「お出しします」
隊員が、スイッチを入れた。
『——どこなの、ここは。誰の差し金。答えなさい。……聞いてるんでしょう。見てるんでしょう。ずっと見てるんでしょう。私を解体するの? 術式を抜き出すの? そうでしょう。そのために生かしてるのよね。分かってるのよ、全部』
女の声は、止まる気配がなかった。
「目を覚ましてから、ずっとこの調子です」
「……ずっと?」
「八時間になります」
ゴーストは、画面の中の女を見つめた。
昨夜、街灯の下に晒された左半分の顔。
思っていたよりも若い顔立ち。
その顔が、今は恐怖と疑念で歪み続けている。
解析室では、白衣の男が二人、術式図の投影を挟んで向かい合っていた。
桧山治夫と、椎葉。
変身固定を書いた師弟が、今は解除のために同じ机を囲んでいる。
「……第九使徒の解析は、ほぼ終わりました」
桧山が、ゴーストに向き直った。
その顔には、隠しきれない困惑が浮かんでいる。
「これほど安定した固定は、見たことがありません」
「安定、している?」
「ええ。……十二年です。十二年、一度も綻んでいない」
桧山は、投影図の一部を拡大した。
複雑に絡み合った光の回路が、一つの歪みもなく円を描いている。
「普通、固定の術式は年単位で少しずつ摩耗します。本人の魔力と術式の間に、僅かな軋みが出る。……それが、この子には一切ない」
「どういうこと」
「術式が、本人の一部になっているのです」
桧山の声が、低くなった。
「固定されている、というより……最初からこの形で生まれたかのように」
ゴーストは、モニターの中の少女を見た。
十四歳の時の姿のまま、背筋を伸ばして座っている。
解析の間、この少女は一度も抵抗しなかったという。
『どうぞ。私は、もう救われていますから』
それが、検査の前に彼女が言った、唯一の言葉だった。
「……では、第三使徒は」
ゴーストが問うと、今度は椎葉が口を開いた。
「こちらは、違う」
老人は、震える指で別の投影図を指した。
第九使徒の図とは対照的に、あちこちで回路が軋み、歪み、継ぎ接ぎのように補修されている。
「摩耗が激しい。……おそらく、何度も術式を掛け直している」
「掛け直す?」
「固定が綻びかけるたびに、上から新しい術式を重ねているのだ。十二年間、何度も」
椎葉は、図の中心部を拡大した。
幾重にも重なった回路の、一番奥。最初に刻まれた、原型の部分。
その瞬間、老人の顔から血の気が引いた。
「……これは」
「先生?」
「この固定の、原型は」
椎葉の声が、掠れた。
「私が書いたものに、近すぎる」
解析室が、静まり返った。
「戦姫の第七期。……私が最初に書いた、未完成の固定術式だ。封印されたはずのものだ」
「それが、なぜ」
「分からん」
椎葉は、両手で顔を覆った。
「分からんが……あの教団は、十二年前に、私の研究の最初の写しを手に入れていたことになる」
ゴーストの背筋に、冷たいものが走った。
十二年前。
戦姫が協会に移行し、研究が封印された年。
桧山の妻が戦死し、教団が生まれ、十二人の使徒が変身を固定した年。
全てが、同じ一年に重なっている。
その時、右のモニターから、女の声が一段高くなった。
『——第一使徒様が、黙っているはずがないわ』
ゴーストは、顔を上げた。
『あの方は、全部見ているのよ。私が捕まったことも、ここがどこかも、全部。……すぐに来るわ。来て、あなたたちを全員、奪い返すのよ。そうでしょう、そうに決まってる——』
「……第一使徒」
ゴーストは、その名を口の中で繰り返した。
十二人の頂点。
第三使徒ですら、恐れと崇拝の入り混じった声で呼ぶ相手。
「記録しておいて」
「承知いたしました」
隊員が、静かに頭を下げた。
金曜日の夕方。
翼の家の居間には、夕陽が斜めに差し込んでいた。
「では、昨夜の報告から」
ヴィクトリアが、紅茶のカップを置いた。
「埠頭での被害は、軽傷者のみ。魔獣化は、ゼロ」
「使徒を、二人確保しました」
凛花が、静かに補足した。
「上級信徒も、十一人を拘束。……それぞれ、しかるべきところに預けてあります」
「しかるべきところ、ね」
ヴィクトリアが、ちらりとゴーストを見た。
ゴーストは、何も言わなかった。
「それにしても」
ルディアが、袖で口元を隠して溜息を吐いた。
「手加減というのは、本当に疲れますわね」
「あなたが疲れたのは、肉体ではなく忍耐のほうでしょう」
「あら。あなたこそ、雷を三回も撃ち損ねていらしたわ」
「撃ち損ねたのではなく、撃たなかったのよ。……後ろに一般人がいたのだから」
「わたくしだって、同じですわ」
二人は、同時に視線を逸らした。
凛花が、協会の反応を報告した。
「埠頭の件は、『非公認組織同士の抗争』として処理されました。協会は、深入りしない方針です」
「賢明ね。相変わらず」
「……ただ、住宅街のほうは」
凛花の声が、少しだけ硬くなった。
「交差点の路面が破損したので、ガス管の点検という名目で処理されています。……あれは、協会ではなく、別のどこかが手を回したようです」
誰も、その「どこか」を口にしなかった。
「翼の家は」
ゴーストが、白鳥に目を向けた。
「全員、無事よ」
白鳥は、ほっとしたように笑った。
「一晩中、みんなで起きてたけど。……何も来なかったわ」
その時、縁側から小さな足音が駆けてきた。
「お姉ちゃん!」
奈緒が、ゴーストの背中にしがみついた。
「かえってきた」
「……ええ。約束したでしょう」
「うん」
奈緒は、ドレスに顔を埋めたまま、しばらく離れなかった。
ゴーストは、その頭をそっと撫でた。
昨夜、二百メートル先で止めた女のことを思い出す。
あの女が向かっていた先には、この子も知っている「三神さん」の家があった。
「……それで」
ヴィクトリアが、静かに口を開いた。
「残りは、十人ね」
居間の空気が、張り詰めた。
「使徒を二人失った組織が、次にどう出るか。……考えておくべきよ」
「報復、ですかしら」
「あるいは、奪還」
ヴィクトリアは、窓の外の夕陽を見た。
「どちらにせよ、黙ってはいないでしょう」
金曜日の夜。
大通りの歩道を、零と緋雪が並んで歩いていた。
「……昨日の夜のこと、なんだけど」
「ええ」
「姉ちゃんと玲奈が、来たんだ」
緋雪の足が、止まった。
「……澪さんと、玲奈さんが?」
「魔力反応に気づいて、家を飛び出してきた。……そのまま、一緒に戦った」
「一緒に」
「うん」
緋雪は、しばらく何も言わなかった。
それから、ふっと小さく笑った。
「……澪さん、あなたと並んで戦ったのね」
「正体は、知らないけど」
「知らなくても、よ」
緋雪は、少しだけ羨ましそうに言った。
「家族と並んで戦うって、どんな感じだった?」
零は、しばらく考えた。
背後に、姉の炎があった。
隣に、妹の風があった。
守らなければならないものが、自分の隣で一緒に守ってくれていた。
「……変な感じだった」
「変な感じ?」
「姉ちゃんに、『勘違いしないで。弟の家の近所で暴れられたら困るだけ』って言われた」
緋雪が、吹き出した。
「……本人に、言ったのね」
「本人に、言った」
零も、つられて少しだけ笑った。
笑い声が落ち着いた頃、緋雪が静かに言った。
「……いつか、話せるといいわね」
零は、答えなかった。
話せば、姉は怒るだろう。
話せば、妹は泣くだろう。
話せば、あの家の食卓は、もう今までと同じではいられない。
それでも、昨夜のように並んで戦える日が、いつか来るのなら。
「……いつか、ね」
零は、それだけ答えた。
土曜日の夜。
白い壁と白い床だけで作られた、窓のない礼拝堂。
十二の燭台のうち、二つが消えていた。
第三と、第九。
消えた燭台の前には、誰も立っていない。
礼拝堂には、白い法衣の人影が五つ集まっていた。
全員ではない。残る十人のうち、動ける者だけが呼ばれた。
誰も、口を開かなかった。
ただ、祭壇の奥を見つめている。
祭壇の向こうに、薄い帳が下ろされていた。
その向こうに、誰かがいる。
燭台の光では、影の輪郭すら掴めない。
「……第三と、第九が、戻らない」
帳の向こうから、声がした。
低くも高くもない、年齢も性別も分からない声だった。
だが、その一言で、礼拝堂の空気が凍りついた。
「……第一使徒様」
一人が、膝をついた。
続いて、残る四人も同じように跪く。
「救いを拒む者が」
声は、静かに続いた。
「救いを、奪い始めた」
誰も、答えなかった。
「これまで我々は、迎えに行った。……手を差し伸べ、翼を差し出した」
帳が、僅かに揺れた。
「だが、彼らは、我々の兄弟姉妹を奪った」
「……報復を、なさいますか」
「いいえ」
声は、否定した。
「奪還です」
五人の使徒が、同時に顔を上げた。
「第三と第九を、取り戻しなさい。……彼女たちは、まだ救いの途中にいる」
「し、しかし」
一人が、恐る恐る口を開いた。
「二人が、どこに連れて行かれたのか。……我々には、手がかりが」
「探しなさい」
声は、変わらなかった。
「連れ去った者たちの中で、一番脆い者を」
帳の向こうで、何かが動いた。
「組織の看板を背負いながら、別の卓にも座っている者。……二つの場所に足を置いている者は、必ずどこかで揺れる」
十の燭台の火が、一斉に揺れた。
「その揺れを、見つけなさい」
同じ夜。
魔法少女協会、本部ビル。
巡回報告を終えた周防凛花は、更衣室のロッカーの前で、私物のスマートフォンを取り出した。
通知が、一件だけ来ていた。
差出人の欄は、空白だった。
番号も、アドレスも、表示されていない。
本文は、たった一行だった。
『周防凛花様。あなたは、埠頭の夜に何を見ましたか』
凛花の指が、画面の上で止まった。
更衣室の蛍光灯が、一度だけ小さく明滅した。




