第三話
空が、不吉な赤黒い色に染まっていた。
第七管区の市街地に鳴り響く、けたたましい特別避難警報。無機質なコンクリートのビル群の間を、地鳴りのような咆哮を上げながら、おびただしい数の魔獣が埋め尽くしていた。
「——氷結乱舞!」
羽衣緋雪の切っ先から放たれた絶対零度の斬撃が、先陣を切って迫る狼型の魔獣たちを次々と氷像に変えていく。しかし、砕け散る氷の奥から、さらに倍の数の魔獣が湧き出してくる。
「ちょっと、数が異常すぎない!? これ、完全にスタンピードじゃん!」
巨大なハンマーを振り回し、迫り来る魔獣を炎と共に吹き飛ばしながら、只野真奈が叫んだ。彼女の言う通りだった。自然発生する魔獣の群れとしては、あまりにも規模が大きすぎる。
少し離れた場所では、新堂鈴乃が双剣を振るって防衛線を維持し、上空からは新実由鶴のドローン型魔導兵器が支援射撃を行っている。遊撃に回る弓飛鳥が高速で駆け抜けながら魔獣の急所を突いているが、エース五人がかりでも戦線は徐々に押し込まれつつあった。
[各員、防衛線を死守しなさい。対象が姿を現すまで、絶対に突破を許してはなりません]
インカムから響く、米国支部の特別調査官シンディー・クラネルの冷徹な声。
その声を聞いた瞬間、緋雪の脳裏に最悪の推測が確信へと変わった。
(まさか……ゴーストを誘い出すために、意図的に魔獣の誘引剤を撒いたの……!?)
市民の避難は統括管理部の手によって間一髪で完了しているようだが、街の破壊は免れない。一人の未登録者を捕らえるためだけに、ここまでの犠牲を強いるなど、正気の沙汰ではなかった。
その時だった。
夜空を覆う赤黒い雲を引き裂くように、一筋の「漆黒」が舞い降りた。
一切の光を拒絶する黒いマントが翻り、白と紫の魔装を纏った少女——ゴーストが、ビルの屋上から魔獣の群れのど真ん中へと音もなく着地した。
「来た……っ!」
真奈が声を上げる。
ゴーストは無言のまま大剣を構えると、その刀身に自らの魔力である「闇」と「炎」を同時に纏わせた。
「——深淵の業火」
低く、どこか中性的な響きを持つ声と共に、大剣が薙ぎ払われる。
放たれたのは、漆黒の炎。それは魔獣の群れを飲み込むと、瞬く間に燃え広がり、数百体もの魔獣を一瞬にして灰燼に帰した。圧倒的な殲滅力。エースたちが束になっても抑えきれなかったスタンピードが、ゴースト一人の介入によって劇的に瓦解していく。
(やっぱり、この人は……)
緋雪は、無駄のない動きで魔獣を屠っていくゴーストの背中を見つめた。
協会は彼女を「正体不明の脅威」と呼ぶ。しかし、その戦い方には、街を守り抜こうとする強烈な意志と、どこか悲壮なまでの自己犠牲の精神が透けて見えた。
戦闘開始からわずか十数分。
最後の一体であった巨大な昆虫型の魔獣が、ゴーストの大剣によって両断され、霧散した。
静寂が訪れる。破壊されたアスファルトの上に立つゴーストは、小さく息をつき、静かに大剣を鞘に収めようとした。
その瞬間だった。
[目標の完全捕捉を確認! 第一から第六までの特殊結界、強制起動!]
シンディーの叫びと同時に、ゴーストの足元から六重の光の柱が立ち上がった。それは前回の倉庫街で使われたものよりも遥かに高密度で、空間そのものを物理的に固定する超強力な捕獲結界だった。
結界内部の魔力が急速に奪われ、ゴーストの動きがわずかに鈍る。
[捕獲の条件は、対象の魔力切れか重傷化のみ! 日本支部、直ちにゴーストへ総攻撃を仕掛け、戦闘不能にしなさい! これは命令です!]
シンディーの非情な命令が飛ぶ。
しかし、緋雪も、真奈も、他のエースたちも、誰一人として武器を構えようとはしなかった。
「……動けない、ふりをして」
緋雪が通信機を切り、真奈たちにだけ聞こえる声で小さく囁いた。真奈は深く頷き、わざとらしく膝をついてみせる。
自分たちを助け、街を救った存在を、背後から撃つような真似は絶対にできない。
結界の中で、ゴーストは静かに顔を上げた。
紫色の瞳が、結界の構造を冷静に分析している。魔力を奪われているとはいえ、まだ限界ではない。
(これだけの魔獣を囮に使ったのか。……やり方が、気に食わないな)
ゴーストの中の零は、深い怒りとともに体内の魔力を丹田に集中させた。
結界を強引に突破するための、純粋で暴力的な闇属性の魔力。
「……空間断絶」
ゴーストが手をかざすと、六重の光の結界のその内側に、漆黒の空間の亀裂が走った。光の理を闇の魔力が力業で侵食し、喰い破る。
開かれた異空間の扉へ身を翻す直前、ゴーストは一度だけ緋雪と真奈の方を振り返り——そして、完全に姿を消した。
残されたのは、役目を終えて砕け散る光の破片だけだった。
数時間後。日本支部、エース待機室。
「信じられない……。あれだけ大規模なスタンピードを引き起こしておいて、結局逃げられたなんて。あんな回りくどくて汚いやり方、絶対に間違ってる!」
ソファに深く腰掛けた真奈が、苛立たしげにスポーツドリンクのペットボトルを握りしめた。
作戦は失敗に終わり、シンディーは結衣や麗香に対して激しい怒りをぶちまけていた。しかし、現場にいた緋雪や真奈の怒りもまた、限界に達していた。
「ええ。市民の安全を度外視してまで魔獣を呼び寄せるなんて、魔法少女の存在意義を根底から覆す行為よ」
緋雪はロッカールームの鏡を見つめながら、静かに、しかし明確な怒りを込めて言った。
「そもそも……私は、ゴーストを捕まえる必要なんてないと思っているわ」
「緋雪ちゃんもそう思う?」
「ええ。彼女は未登録で、正体も目的も分からない。でも、彼女の剣はいつも魔獣だけを向いている。私たちが戦うべき本当の敵は、ゴーストじゃない」
緋雪の言葉に、真奈は力強く頷いた。
二人の間には、言葉以上の共通認識があった。このままシンディーの暴走を許せば、いつか本当にゴーストが致命的な罠に嵌められてしまうかもしれない。
「真奈。私、決めたわ」
「何を?」
「ゴーストに、情報を流す。クラネル調査官が次にどんな手を使ってくるか、私たちのパトロールルートがどうなっているか……それを彼女に伝えるの」
真奈は目を丸くした。
「本気!? それ、完全に機密漏洩だよ? バレたら私たち、懲戒処分じゃ済まないかも……」
「分かっているわ。でも、見て見ぬふりはできない」
緋雪の揺るぎない決意を見て、真奈は小さく吹き出した。
「あーあ、優等生の緋雪ちゃんが不良になっちゃった。……でも、いいよ。私も乗る! あんなの、見過ごせないもんね」
二人は拳をコツンと合わせ、極秘の「反逆」を誓い合った。
それから数日後。
三神零は、変身を解いた本来の少年の姿で、深夜の人気のない路地裏を歩いていた。手にはコンビニのビニール袋を提げている。
その時、路地裏の入り口に、見覚えのある金髪のツインテールが立っているのに気づいた。只野真奈だ。
(まずい……)
零は息を潜め、暗がりに身を隠した。正体がバレたわけではないはずだ。
すると、真奈は零の方を見ることはなく、ただ路地裏の「影」に向かって、独り言のようにはっきりと口を開いた。
「聞いてるんでしょ、ゴースト。あなたがこの辺りを縄張りにしてるってことくらい、バレバレなんだから」
零は驚いて足を止めた。真奈は、この場に潜んでいるであろう「ゴースト」に向けて、直接語りかけてきたのだ。
「手短に言うよ。あの金髪の調査官、シンディー・クラネルは、あなたを本気で捕まえようとしてる。次の作戦では、第四管区の廃ビル群に強力な魔力吸収トラップを仕掛けるつもりみたい。……気をつけてね」
真奈は周囲を一度見回し、誰にも聞かれていないことを確認すると、最後にふっと笑った。
「私たちは、あなたを敵だとは思ってないから。……それじゃね」
真奈が足早に去っていった後、零は暗がりからゆっくりと姿を現した。
敵対しているはずの魔法少女からの、直接的な警告。
さらに翌日の夜。
ゴーストとしてビルの屋上を移動していた零は、給水塔の裏に一枚の紙片が意図的に挟まれているのを見つけた。そこからは、微かに冷たい「氷」の魔力の残滓が感じられた。
開いてみると、流麗な文字で、今後の協会のパトロールルートと、シンディーの動向が詳細に記されていた。
(羽衣緋雪……。彼女の仕業か)
デジタルな通信を避け、魔力探知もされない完全なアナログ手法。間接的ではあるが、これもまた明確な情報のリークだった。
発覚すれば、彼女たちは重い懲戒処分を受けることになる。そこまでのリスクを負ってまで、自分を助けようとしてくれている。
零はメモを手のひらの中で闇の魔力によって燃やし尽くし、夜空を見上げた。
「……ありがとう」
たった一人で戦い続けてきた零の心に、ほんのわずかな、しかし確かな温もりが灯る。
だが、同時にシンディー・クラネルという存在への警戒が強まった。彼女は成果のためなら手段を選ばない。自分だけでなく、緋雪や真奈たちにまで被害が及ぶ前に、決着をつける必要があるかもしれない。
少年の決意を乗せた夜風が、再び波乱の予感とともに街を吹き抜けていった。




