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未登録の魔法少女  作者: 浅川


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第二百七十五話

 零は、いつもより一時間早く台所に立っていた。

 米を研ぎ、出汁を取り、だし巻きを焼く。

 鮭を焼き、ほうれん草を茹で、弁当を五つ詰める。

 手は勝手に動く。頭のほうが、別のことを考えていた。

 ——向こうが本気で一家を狙えば、守り切れるとは約束できん。

 昨日の夕方、八咫の隊員が伝えた言葉だった。

 あの人たちが「約束できない」と言うのは、相当なことだ。


「……おはよう、零」


 パジャマ姿の奈々美が、目をこすりながら台所に入ってきた。


「あら、もう全部できてるの?」


「目が覚めたから」


「そう。……無理してない?」


「してない」


 奈々美は、しばらく息子の横顔を見ていた。

 それから、何も言わずに茶碗を並べ始めた。

 朝食の席は、いつも通りだった。

 澪が課題の愚痴を言い、玲奈が卵焼きを取り合い、五郎が天気予報を読み上げる。

 零は、その光景を一度だけ、ゆっくりと見渡した。

 この食卓を、守らなければならない。

 方法は、まだ見えていなかった。

 登校の途中、大通りで隣に人が並んだ。


「——おはようございます」


 八咫の隊員だった。今日は、犬を連れていない。


「一つ、お願いがあります」


「なんなりと」


「家に何かあった時は」


 零は、前を向いたまま言った。


「俺より先に、家族を逃がしてください」


 隊員は、少しの間、黙っていた。


「……殿下から、同じ順番でご指示を受けております」


 零の足が、僅かに止まりかけた。


「『三神家の安全を最優先とする。当人の意向は、この一点に限り無視せよ』と」


「……いつから」


「昨夜のうちに」


 隊員は、それだけ言って、人混みへと紛れていった。


 同じ日の昼。


 三神家の隣。

 白い洋館の応接間で、ヴィクトリア・ローゼンベルグは紅茶を口に運んでいた。


「……三人目ね」


「はい」


 窓際に立ったシルヴィアが、カーテンの隙間から通りを見下ろしている。


「昨日から、入れ替わりで。今は、向かいの電柱の陰です」


「服装は」


「作業着と、宅配業者と、犬の散歩。……素人ではありませんが、八咫ほどでもありません」


「白い衣の信徒ね」


 ヴィクトリアは、カップを置いた。


 狙いは分かっている。

 隣家の主人が、上機嫌で喋ったのだ。隣は外国の方で、金髪の綺麗な人で、バーベキューにも来てくれた、と。


「総帥」


 シルヴィアが、振り返った。


「排除しますか」


「いいえ」


「では、撤退を。この屋敷は、いつでも引き払えます」


「それも駄目よ」


 ヴィクトリアは、静かに首を振った。


「私が消えたら、向こうは『なぜ消えたのか』を考える。……そして、隣の家に目を戻すわ」


「……総帥」


「それだけは、させないの」


 シルヴィアは、しばらく主の横顔を見つめていた。


「理由を、伺っても」


「隣人の務めよ」


「星監は、公には存在しない組織です」


 シルヴィアの声に、初めて硬さが混じった。


「そんな組織が、なぜ一般家庭のために危険を引き受けるのですか。……部下の中にも、疑問を持つ者はおります」


「そうでしょうね」


 ヴィクトリアは、あっさりと認めた。


「それでも、やるわ。……ただし、ただ耐えるつもりはない」


 紫の瞳が、細められた。


「攻め方を、変えましょう」


 放課後。

 翼の家の居間に、円卓の面々が集まった。


「監視が付いたわ」


 ヴィクトリアが、開口一番にそう告げた。


「私の家の周囲に、三人。……隣家の主人が、私のことを楽しそうに喋ったせいね」


 ゴーストの指が、膝の上で止まった。


「……悪かったわね」


「あら。謝る必要が、あなたにあるのかしら」


「……」


「冗談よ」


 ヴィクトリアは、優雅に足を組んだ。


「本題に入りましょう。今、向こうが持っている材料は一つだけよ」


 彼女は、指を一本立てた。


「『あの河原に、動かせない誰かがいた』。……それだけ」


「ええ」


「なら、その誰かを、別のものに差し替えればいいの」


 部屋が、静まり返った。


「……差し替える?」


 凛花が、眉を寄せた。


「そう。星監と福音の鐘が、あの日あの場所に集まった理由を、作り直すのよ」


 ヴィクトリアは、湯呑みの横に指で線を引いた。


「理由は、これにするわ。……『ゴーストに呼ばれたから』」


 ゴーストの顔が、上がった。


「あの日、ゴーストが河原の近くにいた。だから私たちも集まった。……そういう筋書きよ」


「それは」


「そして、ゴーストの本拠らしきものを、別の場所に用意する」


 ヴィクトリアは、続けた。


「福音の鐘が人目を避けずに資材を運び込み、星監の車列が向かい、協会が『不審な動き』として記録に残す。……そこに、ゴーストが姿を見せる」


「囮ですわね」


 ルディアが、袖を口元にやった。


「ええ。派手に、分かりやすく」


「敵は、そちらへ向かうと」


「敵の目は、一番派手なものに吸い寄せられるわ」


 ヴィクトリアは、紫の瞳を細めた。


「だから、一番派手なものを、こちらで用意するの」


 凛花が、手を挙げた。


「……偽物だと気づかれたら、どうしますか」


「気づかれる頃には、向こうの戦力はそこに集まっているわ」


 ヴィクトリアは、あっさりと答えた。


「戻る先を、なくしてやるのよ」


 部屋が、静かになった。


「一つ、確認させて」


 ゴーストが、口を開いた。


「この作戦で、一番危ないのは誰?」


「あなたよ」


 ヴィクトリアは、即答した。


「姿を見せて、名前を貸して、矢面に立つ。……全部、あなたの役目」


「……そう」


「嫌なら、別の案を考えるわ」


「いいえ」


 ゴーストは、静かに首を振った。


「それでいい」


 誰も気づかなかった。

 この時、漆黒のドレスの少女が、テーブルの下で拳を握りしめていたことを。

 河原の予約を取ったのは、父だった。

 肉を買い込んだのも、椅子を八脚も積んだのも、次は花見だと言ったのも。

 その全部の責任を、自分の名前が引き受ける。

 それが、こんなにありがたいことだとは思わなかった。


 火曜日の夜。


 大通りの歩道を、零と緋雪が並んで歩いていた。


「……正直に言うとさ」


 零は、前を向いたまま口を開いた。


「昨日の夜まで、一番簡単な方法を考えてた」


「……家を出る、でしょう」


「分かってたのか」


「あなた、顔に出るもの」


 緋雪は、小さく息を吐いた。


「家族から離れれば、家族が狙われる理由はなくなる。……そう考えたのね」


「うん」


「駄目よ」


 緋雪の声は、静かだったが、揺らがなかった。


「四週間、あなたが家に帰れなかった時のこと。……私は、ずっと見てたわ」


「……」


「毎晩、台所に立っていたでしょう。誰も食べない朝ご飯まで作って」


 零は、何も言えなかった。


「あなたが家を出たら、あの家は守るものじゃなくなる。……ただの建物になるわ」


「……そうかもしれない」


「だから」


 緋雪は、零の手を握った。


「ヴィクトリアさんの案は、あなたが家を出ないで済む唯一の方法よ」


 零は、足を止めた。


 あの人は、何も知らない。

 自分の正体も、あの家に何があるのかも。

 それなのに、一番欲しかった答えを、隣から差し出してきた。


「……お礼、言えないな」


「そうね。言ったら、全部ばれるもの」


 緋雪は、少しだけ笑った。


「だから、代わりに菓子折りでも贈っておきなさい」


 水曜日。


 誘導は、朝から始まった。


 零は、学校を休んだ。

 先週の金曜に続いて二度目の欠席で、稔からは『また彼女か』というメッセージが届いていたが、返信はしなかった。


 午前十時、都内東部の廃埠頭。

 封鎖されて久しいコンテナヤードの上空に、漆黒のドレスの少女が姿を現した。


 隠れない。

 逃げない。

 ただ、そこに浮いている。


 その姿は、通りがかった車のドライブレコーダーに映り、対岸の釣り客のスマートフォンに収められ、近隣のマンションの住人に目撃された。


『ゴーストが出た』


 その一報が、昼を待たずにネット上を駆け巡った。


 午前十一時半。


 同じ埠頭の入り口に、黒塗りの車列が到着した。

 降りてきたのは、福音の鐘の信徒たちである。

 資材の入ったコンテナを、堂々と運び込んでいく。

 顔も隠さない。人目も避けない。


「もう少し、ゆっくり運びなさい」


 現場を指揮する真里が、静かに言った。


「見せるのが、仕事です」


 午後一時。


 星監の車列が、湾岸道路を走り抜けた。

 シルヴィアの乗る先頭車両は、あえて監視の目の前を通過した。

 後続に四台。全て、埠頭の方角へ。


 午後二時。


 魔法少女協会、本部。


 周防凛花は、巡回報告書の末尾にこう書き加えた。

 『東部埠頭地区にて、複数組織による不審な集結を確認。

  未登録魔法少女ゴーストの目撃情報多数。

  警戒レベルの引き上げを具申する』

 この報告は、正式な記録として協会のシステムに残った。

 それが、この作戦の三つ目の仕上げだった。


 午後四時。


 三神家の隣、白い洋館の門前。

 ヴィクトリアは、門扉の鍵を閉めながら、電話に出ていた。

 通りの向こう、電柱の陰に、宅配業者の制服を着た男がいる。

 聞こえる距離であることを、彼女は正確に把握していた。


「——ええ、私よ」


 ヴィクトリアの声は、いつもより僅かに大きかった。


「例の荷物は、東の倉庫へ移して」


 男の肩が、動いた。


「ええ。……この家は、もう使わないわ」


 彼女は、門扉に鍵をかけた。


「あの方が、そう決めたの。……ええ、全部あちらに集めるそうよ」


 電話を切り、ヴィクトリアは優雅に歩き出した。

 もちろん、通話の相手は誰もいない。


 水曜日の夜。


 白い壁と白い床だけの、窓のない礼拝堂。


「——ご報告いたします」


 跪いた信徒が、一枚ずつ紙を並べていった。


「本日午前、東部埠頭にてゴーストの目撃情報が多数。映像も複数、確認されております」


「……ほう」


「同日昼、福音の鐘が同地区に資材を搬入。人目を避ける様子はございません」


 第三使徒は、黙って聞いていた。


「午後、星監と思われる車列が同方面へ。……さらに、協会が同地区の警戒レベルを引き上げております」


「それから?」


「隣家の女が、電話でこう話しておりました。『例の荷物は東の倉庫へ』『この家はもう使わない』『あの方がそう決めた』と」


 沈黙が落ちた。


 第三使徒は、長い指で机を叩き始めた。

 一定の間隔で、乾いた音が続く。


「……出来すぎているわね」


「は」


「一日で、全部揃った。目撃、搬入、車列、記録、電話。……綺麗に並びすぎている」


「では、罠だと」


「当たり前でしょう」


 女は、立ち上がった。


「こんなものは、初歩の誘導よ。子供でも分かるわ」


 信徒が、安堵したように頭を下げた。


「では、埠頭は無視して、引き続き三神家を——」


「いいえ」


「……は?」


「行くわ。埠頭に」


 信徒が、顔を上げた。


「あ、あの。今、罠だと」


「罠よ。でもね」


 女は、写真を手に取った。

 河原の風景写真。顔の写っていない人影。


「考えてごらんなさい。……なぜ、こんな雑な誘導を仕掛けたと思う?」


「それは、我々を騙すために」


「違うわ」


 第三使徒は、初めて確信に満ちた笑みを浮かべた。


「隠しきれなくなったのよ」


「……隠し、きれない」


「私たちが三神家に近づいた。だから、慌てて目を逸らそうとした。……こんな雑な手を使ってまで」


 女の指が、写真の上を滑った。


「本当に守りたいものが別にあるなら、もっと上手にやるわ。あの女たちは、その気になれば一週間かけて完璧な芝居を打てる」


「……では、なぜ」


「時間がなかったのよ。慌てたの」


 女は、写真を机に叩きつけた。


「つまり、埠頭には本当に何かがある。……あの黒いドレスの子が、必死で隠したいものが」


「し、しかし。三神家のほうは」


「あの家は、可哀想に。囮にされたのよ」


 第三使徒は、心底同情するように首を振った。


「普通の一家を前に出して、自分たちは東へ逃げる。……相変わらず、汚いやり方ね」


 誰も、何も言わなかった。


「総力で行くわ」


 女は、法衣を翻した。


「上級信徒を全員。信徒も、動ける者は全て」


「……ご命令とあらば」


「それから」


 女は、足を止めた。


「第九使徒にも、声をかけなさい」


 信徒が、はっと顔を上げた。


「第九使徒様を、ですか」


 第三使徒は、冷ややかに笑った。


「今度は、二人で行くのよ。……名誉挽回の機会くらい、与えてあげるわ」


 同じ頃。


 三神家の食卓には、鰤の煮付けが並んでいた。


「この味付け、お店みたい」


「零、これどうやるんだ」


「生姜を先に煮るんだよ」


「なるほどなあ」


 五郎が、何度目かも分からない感心をしている。

 澪が課題の愚痴を言い、玲奈がご飯をおかわりする。

 奈々美が、麦茶を注ぎ足しながら笑っている。

 いつもと、何一つ変わらない夕飯だった。


 窓の外。

 向かいの家の屋根の上で、赤いリボンと青いリボンの影が、通りを見下ろしていた。


「……ねえ、リリア」


「……ん」


「いなくなった」


「……うん。ぜんぶ、あっちに行った」


 昨日まで、この一帯には確かに気配があった。

 宅配業者。犬の散歩。作業着の男女。

 それが今夜は、一つもない。


「おにーさんの家、しずかだね」


「……ん。しずか」


 ルカは、膝を抱えて、明るい窓を見下ろした。


「……なんか、こわいね」


「……うん」


 零は、茶碗を片付けながら、窓の外の静けさを感じていた。


 誰もいない。

 誰も、この家を見ていない。

 その代わりに、これから自分は、大勢の目の前に立つことになる。


「零ー、お風呂沸いたわよー」


「はーい」


 零は、返事をして、蛇口を閉めた。

 水音が止まった台所に、家族の笑い声だけが響いていた。


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