第二百七十三話
零が起きて廊下に出ると、布団が二組、見事に盛り上がっていた。
「……姉ちゃん。玲奈」
返事がない。
零は、布団の端をめくった。
澪が、真っ赤な顔で丸まっていた。その隣で、玲奈も同じ色をしている。
「……あ」
「……お兄ちゃん、あついよぉ」
「零……廊下が、揺れてる……」
「揺れてない。それ、熱だ」
体温計を持ってきて測らせると、澪が三十八度二分、玲奈が三十七度八分だった。
「言っただろ! 風邪ひくぞって!」
「……ひかないわよ、私は」
「三十八度二分だよ」
「……体温計の故障ね」
「二本で測った」
澪は、そこでようやく黙った。
台所から、エプロン姿の奈々美が顔を出した。
「あらあら。二人とも、やっちゃったわね」
「母さん、今日は」
「早番なのよ。……どうしましょう」
「俺が休む」
零は、即答した。
「学校に連絡入れる。姉ちゃんも玲奈も、立てないだろ」
「……悪いわね」
「自業自得だけどな」
「うるさいわね」
その時、玄関から五郎の声がした。
「おお、どうした。みんな廊下に集まって」
「お父さん。澪と玲奈が、熱を出したの」
「なに!?」
背広の五郎が、慌てて駆け寄ってきた。
そして、廊下の布団を見て、腕を組んだ。
「……なるほど。ここで寝たな」
「見れば分かるでしょ」
「うむ。父さんも若い頃は、無茶をしたもんだ」
「感心してないで、出勤してください」
奈々美に押し出されるようにして、五郎は玄関へ向かった。
振り返りざま、妙に真剣な顔で言う。
「零。今日は、頼んだぞ」
「うん」
「父さんは、夕方、必ず帰る」
その言葉が、この日一番の伏線になることを、この時の零はまだ知らなかった。
午前九時。
零は、台所に立っていた。
鍋の中では、米がゆっくりと踊っている。
昆布で取った出汁に、卵を落とすタイミングを見計らう。
風邪の時は、味を薄めにして、生姜を少しだけ。母から教わった通りだった。
その時、スマートフォンが震えた。
『零くん。澪さんと玲奈さんが、お休みだと聞いたのだけれど』
「うん。二人とも熱」
『……廊下で寝たの?』
「二晩」
『……なるほど』
電話の向こうで、緋雪が深く息を吐くのが聞こえた。
『お昼に、そちらへ行くわ』
「ありがとう。助かる」
電話を切って三十秒後、再び震えた。
『もしもーし! 弓です! 澪ちゃんと玲奈ちゃん、大丈夫!?』
「あ、はい。熱だけなので」
『あたし、栄養ドリンク持ってこうか!?』
「大丈夫です」
切って、また三十秒。
『只野です! おかゆ作りましょうか!? 私、作るの得意で!』
「大丈夫です本当に」
切って、二十秒。
『……新堂です。二人に、差し入れの本を』
「どんな本ですか」
『……描き下ろしの、同人——』
「今は大丈夫です」
切って、十秒。
『星宮きらりでーす! お見舞いソング、歌います!』
「いや、あの」
『いきまーす! せーの——』
スマートフォンから、元気いっぱいの歌声が流れ出した。
零は、受話口を耳から離し、片手で卵を溶きながら、二番が終わるまで待った。
「……ありがとうございました」
『元気になりますように!』
電話が切れた時、零は自分が何の作業をしていたのか、一瞬分からなくなっていた。
午前十時。
零は、二つの部屋を往復していた。
「お兄ちゃん、おかゆー」
「今持ってく」
「お兄ちゃん、プリンー」
「食べてからな」
「お兄ちゃん、卵焼きー」
「風邪の時に卵焼きは食べないだろ」
「甘いやつ」
「だから風邪の時に」
「甘いやつ」
玲奈は、熱に浮かされながら、着実に要求を積み上げていた。
最終的には、こう言った。
「……お兄ちゃんの、子守唄」
「歌わない」
「えー」
「歌わないからな」
零は、額の手拭いを取り替えながら、きっぱりと拒否した。
十分後、寝息を立て始めた妹の枕元で、結局小さく鼻歌を歌っていた。
隣の部屋では、澪が天井を睨んでいた。
「……零」
「なに」
「今夜も、廊下で寝る」
「治してから言え」
「あの女が、いつ来るか分からないでしょ」
「来ないって」
「来るわよ。……うちのリビングにまでお茶を飲みに来るような女よ」
「……そうだな」
零は、姉の額の手拭いを取り替えた。
お茶は、確かに飲んだ。
出されたほうじ茶を、両手で湯呑みを包んで、二杯も飲んだ。
飲んだのは、この自分である。
この家で一番謎なのは母だと思っていたが、謎の半分は自分が作っている。
正午。
インターホンが鳴った。
「こんにちは。……お見舞いに来たわ」
玄関先の緋雪は、紙袋を三つも提げていた。
「多くない?」
「桃の缶詰と、ゼリーと、スポーツドリンク。……それから」
緋雪は、最後の袋を差し出した。
「奈緒さんからよ」
中には、折り紙が入っていた。
鶴と、犬と、形の分からない何か。
どれも折り目が雑で、角が合っていない。
「昨日、『おみまいにいく』って言い出したらしいの。白鳥さんが必死で止めて、代わりに折ったんですって」
「……これ、何だろう」
「たぶん、猫。本人は『ぞう』って言っていたけれど」
零は、その紙の塊をしばらく見つめてから、そっと玄関の棚に飾った。
緋雪が、澪の部屋を覗いた時だった。
「……ゴースト……」
澪が、寝言を漏らした。
緋雪の動きが、止まった。
「うちの弟に……近づかないで……」
「…………」
「湯呑み……両手で……持つんじゃない……わよ……」
緋雪は、そっと襖を閉めた。
「……零くん」
「……」
「お姉さん、うなされてる」
「何も言わないで欲しいな」
零は、頭を抱えた。
午後一時。
二人の病人が寝入ったところで、零と緋雪は居間で茶を飲んでいた。
「翼の家の様子は?」
「落ち着いてるわ」
緋雪は、湯呑みを両手で包みかけて、思い出したように片手に持ち替えた。
「詩織さん、残ることを選んだそうよ。……まひろさんたちが、家族の事情を全員で共有し始めたって」
「そっか」
「それと、白鳥さんが言っていたわ。『次に同じことがあっても、今度は一人にしない』って」
零は、小さく頷いた。
あの家は、たぶん大丈夫だ。
問題は、別のところにある。
「……緋雪さん」
「ええ」
「『本命』の話だけど」
緋雪の指が、湯呑みの上で止まった。
「あの女、私の正体を掴んで言ったわけじゃないと思うわ」
「うん。俺もそう思う」
「あれは、ただの脅し文句。……相手が一番嫌がることを言っただけ」
「でも、探すのは同じだ」
零は、天井を見上げた。
二階では、姉と妹が眠っている。
台所には、母が使っている鍋が並んでいる。
玄関には、奈緒の折った形の分からない猫が飾ってある。
守るべきものが、増えすぎた。
「……大丈夫よ」
緋雪が、零の手の甲に、そっと自分の手を重ねた。
「一人じゃないもの」
「……うん」
その時、二階から声が降ってきた。
「零ー! おかゆー!」
「お兄ちゃーん! プリンー!」
二人は、顔を見合わせて笑った。
同じ頃。翼の家。
縁側では、奈緒が膝を抱えて座っていた。
「……お姉ちゃん、こないね」
「今日はね、お姉ちゃんにも用事があるのよ」
白鳥が、洗濯物を畳みながら答えた。
「ようじ」
「そう。大人には、色々あるの」
「……ふうん」
この家の見張りに入ったルカとリリアが、交代の合間に話し込んでいた。
「おにーさんのおねーさんたち、熱出したんだって」
「……ん。廊下で寝たせい」
「なんで廊下で寝るの?」
「さぁ?……分かんない」
その会話を聞いた奈緒が、ぱっと顔を上げた。
「やっぱりおみまい、いく」
「行かないの」
「なんで」
「……今はあまり動かない方がいいからね」
白鳥は、洗濯物を畳む手を止めて、天井を見上げた。
「奈緒ちゃん。折り紙、まだ折れる?」
「おれる」
「じゃあ、折りましょうか」
午後六時半。
玄関が、勢いよく開いた。
「ただいま! 父さん、買ってきたぞ!」
五郎が、両手にレジ袋を提げて立っていた。
中身が、廊下に転がり出る。
スポーツドリンクが、十二本。
アイスクリームが、六個。
そして、栄養ドリンクの詰め合わせが、一箱。
「……父さん」
「風邪には栄養だ」
「アイスは?」
「熱がある時は、冷たいものが旨い」
「まだ二月だけど」
「関係ない」
五郎は、力強く言い切った。
「あと、父さんが粥を作る」
「え」
「娘たちのためだ。任せろ」
「いや、俺が——」
「任せろと言っている」
五郎は、背広の上着を脱ぎ、腕まくりをして台所へ向かった。
零は、その背中を見送りながら、静かに消火器の位置を確認した。
十五分後。
台所から、白い煙が上がった。
「父さん!?」
「……大丈夫だ。ちょっと、香ばしくなっただけだ」
鍋の底では、米が見事な炭になっていた。
「換気扇! 換気扇回して!」
「回してる!」
「窓も開けて!」
「寒いぞ!」
「焦げ臭いほうが問題だろ!」
二人がかりで換気をしている最中、玄関の鍵が回った。
「ただいまー」
エプロンを鞄にしまったままの奈々美が、廊下に立っていた。
そして、鼻を小さく動かした。
「……あなた、何を焦がしたの」
「……何も」
「お粥ね」
「……なぜ分かる」
「換気扇の音と、あなたの顔よ」
奈々美は、鞄を置きながら、いつもの柔らかい笑顔で言った。
「はい、台所から出て。零、手伝って」
「うん」
「父さんの立場は」
「拭き掃除をお願いね」
五郎は、布巾を握らされ、廊下の隅へ追いやられた。
それからの奈々美の動きは、見事だった。
焦げた鍋を水に浸け、新しい鍋に米と水を入れる。
その間に、だし巻きの卵を溶き、梅干しを刻み、生姜をすりおろす。
零が茶碗を並べ終える頃には、粥の匂いが台所に広がっていた。
「母さん、生姜は」
「二人とも喉が痛いって言ってたから、多めにね」
「うん」
「零、梅はどうする」
「刻んで入れる」
「じゃあ、そうしましょう」
二人の会話は、それだけで足りた。
廊下では、五郎が布巾を持ったまま、その光景を眺めていた。
「……なあ、母さん」
「なあに」
「うちの息子は、いつからあんなに料理が上手くなったんだ」
「あなたが、休日にバーベキューをしている間によ」
「……なるほど」
五郎は、深く納得して、廊下を拭き始めた。
午後八時。
粥を食べ終えた澪は、布団の中で息を吐いた。
「……やっと、頭が働くようになってきた」
「無理するなよ」
「ねえ、零」
「なに」
「……変な夢を見たの」
澪の声は、少しだけ掠れていた。
「あんたが、どこかに行っちゃう夢」
零の手が、止まった。
「……そう」
「四週間、いなかったでしょ。あの時のこと、まだ時々、夢に見るのよ」
「……」
「戻ってきたのは分かってるの。分かってるんだけど」
澪は、布団を口元まで引き上げた。
「……なんでもない。熱のせいよ」
零は、姉の額の手拭いを取り替えた。
冷たい水の入った洗面器で絞り直し、丁寧に折り直して、額に乗せる。
「……姉ちゃん」
「なに」
「明日の朝ご飯、何がいい」
「……鮭」
「はいよ」
それだけの会話だった。
だが、澪は少しだけ笑って、目を閉じた。
土曜日の朝。
二人の熱は、あっさり下がった。
「よし、復活!」
澪が、布団の上で伸びをした。
「私も! お腹すいた!」
玲奈が、階段を駆け下りていく。
「走るな。ぶり返すぞ」
「はーい!」
朝食の席で、澪は真面目な顔で宣言した。
「廊下で寝るのは、やめるわ」
「やっと分かったか」
「代わりに、玄関に鈴を付ける」
「なんでだよ」
「窓にも付ける」
「やめてくれ」
「あんたの部屋の窓にも」
「本当にやめてくれ」
零は、心の底から止めた。
窓に鈴を付けられたら、あの二人が休憩に来られなくなる。
「お兄ちゃん」
玲奈が、味噌汁を飲みながら言った。
「奈緒ちゃんに、お礼言いたい。折り紙の」
「そうだな。……今度、連れてくよ」
「約束!」
「約束」
五郎が、新聞の向こうから口を挟んだ。
「その子、今度うちに呼びなさい。バーベキューの時の子だろう」
「そうよ。可愛い子だったわねえ」
奈々美が、にこにこと頷いた。
同じ頃。
白い壁と白い床だけの、窓のない礼拝堂。
第三使徒は、机の上に広げられた写真を睨んでいた。
「……翼の家の周辺は、警戒が厳しくなっております」
跪いた信徒が、震える声で報告した。
「見張りが、常に複数。……近づけません」
「そう」
女は、写真の一枚をつまみ上げた。
「なら、そっちはいいわ」
「よろしいのですか」
「あの家は、もう囮よ。向こうも、守りやすい場所に敵を誘い込みたいだけ」
女の指が、別の写真を弾いた。
河原の風景写真だった。
誰かが遠くから撮った、ただの日常の一枚。
テーブルとコンロ。炭の煙。十数人の人影。
顔は、ほとんど判別できない。
だが、その中に、金色の髪と、白銀の髪が映り込んでいた。
「……この写真、どこで」
「先日、町の噂を拾っておりました。河原で、外国人の集団が見えたと」
「あの女たちが、揃ってこんなところで肉を焼く?」
女の口元が、歪んだ。
「そんなわけがないでしょう。何かの会合よ。……いいえ、違うわね」
女は、写真を目の高さまで持ち上げた。
「会合なら、こんな場所は選ばない。……つまり、選ばざるを得なかった理由がある」
「と、申されますと」
「この場所に、動かせない誰かがいたのよ」
女の指が、写真の中央を撫でた。
そこには、コンロの前に立つ、顔の写っていない人影があった。
「あの黒いドレスの子が、一番大事にしているもの」
第三使徒は、初めて心から嬉しそうに笑った。
「……この中に、必ずいるわ」




