第二百七十二話
郊外の町、翼の家。
門柱の丸い看板が、午後の光を受けていた。
縁側には、見慣れない顔が二つ並んでいる。
「日野詩織です。……よろしくお願いします」
一人は、肩まで伸びた髪を耳にかけた、大人しそうな少女だった。
十七歳。二年前まで、協会の三等兵だったという。
先週から顔を出すようになり、昨日から泊まり込むことになった。
「佐倉まひろでーす! 適性なくなって半年です! よろしくお願いしまーす!」
もう一人は、対照的に元気がよかった。
短い髪を跳ねさせたまま、勢いよく頭を下げる。
「……にぎやかになったわね」
庭先で、緋雪が小さく笑った。
「うん。おかげで、ご飯の量が倍になった」
白鳥は、そう言いながらも嬉しそうだった。
台所では、先輩格の少女たちが夕飯の支度をしている。
この家を開いて、まだひと月ほど。最初に通ってきたのは、三人だけだった。
「詩織ちゃんは、まだ慣れないかな。昨日から、あんまり食べてなくて」
「緊張してるんじゃない?」
「そうだといいんだけど」
白鳥は、縁側の少女を見つめた。
詩織は、まひろの隣で曖昧に笑っている。
だが、その視線は、何度も門のほうへ向いていた。
まるで、誰かが来るのを待っているような。
あるいは、誰かに見られているのを恐れているような。
その時。
庭で遊んでいた奈緒が、ふと足を止めた。
紅色の瞳が、縁側へ向く。
小さく鼻を鳴らし、こてん、と首を傾げた。
「……しろい、におい」
白鳥の表情が、変わった。
「奈緒ちゃん。今、なんて?」
「しろいにおいがする」
奈緒は、詩織のほうを指さした。
「あのおねえさんから、あのときと、おなじにおい」
庭先が、静まり返った。
あの夜、この庭を白い列が取り囲んだ。
その匂いを、奈緒は覚えている。
「……詩織ちゃん」
白鳥が、ゆっくりと縁側へ歩み寄った。
「あなた、誰かに会った?」
詩織の肩が、跳ねた。
「い、いえ。私は……」
「怒ってないの。ただ、聞いてるだけ」
「……何も、ありません」
詩織は、そのまま立ち上がって、家の奥へと逃げ込んでしまった。
残された庭先で、まひろが困ったように頭を掻いた。
「……私、余計なこと言っちゃいましたかね」
「まひろちゃんは、何も言ってないわ」
緋雪は、門のほうを見つめた。
夕方。
翼の家の居間に、円卓の面々が集まった。
ゴースト、緋雪、凛花、白鳥。
「八咫から、報告があったわ」
ゴーストが、湯呑みを置いた。
「白い衣の連中が、動き方を変えたそうよ」
「勧誘ではなく?」
「ええ。……家族に、接触している」
部屋の空気が、重くなった。
「翼の家に通っている子の、実家や親戚。そこへ、直接訪ねているらしいわ」
「……脅しですか」
凛花が、低い声で言った。
「そうとも限らない。最初は、親切な訪問よ」
ゴーストは、八咫の報告を思い出しながら続けた。
「『お嬢さんは、危険な組織に出入りしています』と、丁寧に教えてくれる。……心配した家族は、娘に確かめる」
「それで、娘が『違う』と言えば?」
「もう一度、訪ねてくる。今度は、証拠を持って」
白鳥が、両手で顔を覆った。
「……詩織ちゃん」
「白鳥さん」
「あの子、妹がいるって言ってました。……中学生の」
緋雪が、立ち上がった。
「今、家に?」
「いえ。今日は、まひろちゃんと二階で……」
白鳥が、はっと顔を上げた。
二階から、物音がしない。
階段を駆け上がった先、六畳の部屋。
まひろが、布団の上で目を丸くしていた。
「え? 詩織さんなら、さっき出ていきましたけど」
「どこへ!?」
「コンビニって言ってました。……三十分くらい前に」
白鳥の顔から、血の気が引いた。
午後八時。
町外れの、古い神社。
街灯は一つもなく、鳥居の影だけが月明かりに浮かんでいる。
日野詩織は、石段の下で一人立っていた。
右手に、折り畳んだ紙を握りしめている。
翼の家の見取り図と、通っている少女八人の名前が書かれた紙だった。
自分で書いた。
三日かけて、少しずつ。
(……ごめんなさい)
詩織は、何度目か分からない謝罪を、心の中で繰り返した。
三日前、自宅に白い衣の女が訪ねてきた。
最初は、優しかった。
二度目は、妹の通学路の写真を持ってきた。
——妹さんは、まだ十三歳ですものね。これから、いくらでも翼を得られます。
その一言で、全てが決まった。
「——来てくれたのですね」
鳥居の陰から、声がした。
白い法衣の女が、音もなく立っている。
長い黒髪が、顔の左半分を覆っていた。
「偉いわ。……ちゃんと、持ってきたのね」
「妹は」
「無事よ。今も、家で寝ているわ」
女は、微笑んだ。
目だけが、落ち着きなく周囲を探っている。
「ねえ。あなた、尾けられていない?」
「……え」
「後ろよ。見なさい。あの木の陰。……誰かいるでしょう」
詩織は、反射的に振り返った。
闇があるだけだった。
「いない? いいえ、いるわ。あの連中は、必ず見ている」
女は、早口で続けた。
「あなたも、気をつけなさい。白鳥という女、優しい顔をしているけれど、あれは政府の犬だったのよ」
「白鳥さんは、そんな」
「あなたを監視するために、家に集めているの。……気づかない?」
詩織の手が、震えた。
「紙を、こちらへ」
女の白い手が、差し出された。
詩織は、俯いたまま、その手に紙を乗せようとして——
——ピシィッ。
その紙が、凍りついた。
「え」
次の瞬間、白い冷気が鳥居の下を走り抜けた。
「その手を、離して」
石段の上に、白百合の制服姿の少女が立っていた。
銀髪が、夜風に揺れている。
「羽衣、緋雪……」
女の表情が、初めて歪んだ。
「やはり、いたのね。見ていたのね。私の言った通りでしょう!」
女は、勝ち誇ったように笑った。
その足元から、黒い影が糸のように伸び始める。
「詩織さん、下がって!」
鳥居の反対側から、光の剣が奔った。
周防凛花が、詩織を庇うように前へ出る。
「協会の犬まで!」
第三使徒の影が、一斉に跳ねた。
細い、無数の糸。
それが、鳥居を、石段を、木々を絡め取っていく。
凛花の光の剣が、その一束を斬り払った。
「……粘る!」
斬った糸の断面が、すぐにまた伸びてくる。
「凛花さん、詩織さんを!」
「はい!」
緋雪の氷が、地面を這って糸の根元を凍らせた。
その隙に、凛花が詩織を抱えて石段を駆け上がる。
「逃がさないわよ」
第三使徒の指が、宙で踊った。
影の糸が、二人の背中へと伸びる。
——その全てが、闇に飲まれた。
「……っ!?」
鳥居の真下に、漆黒のドレスの少女が立っていた。
伸びた糸は、少女の周囲で霧散していた。
闇が、影を食べている。
「あなたが」
第三使徒の声が、震えた。
「あなたが、黒いドレスの……!」
「その子を、返して」
ゴーストは、静かに言った。
「妹さんのほうも」
「……ああ、やっぱり」
女は、両手で自分の顔を覆った。
「やっぱり、全部知っているのね。私の動きも、家族のことも。……ずっと見ていたんでしょう!?」
「見てないわ」
「嘘よ! あなたが、全部の糸を引いているんでしょう! 星監も、福音の鐘も、協会も、あの女も!」
「買いかぶりすぎよ」
ゴーストは、一歩前に出た。
「私は、ただの——」
言葉の途中で、影の糸が横から襲いかかった。
大剣が、それを断ち切る。
「嘘つき! みんな嘘つき!」
女の目が、大きく見開かれていた。
「奪うのよ! 奪われる前に、奪うの! それの何が悪いの!?」
「悪いわ」
ゴーストの闇が、膨れ上がった。
「妹を人質に取って、姉に紙を書かせることの、どこが正しいの」
——ドォンッ!
闇の刃が、鳥居の石畳を砕いた。
第三使徒の影が、辛うじてその一撃を逸らす。
だが、その頬に、一筋の傷が走っていた。
「……っ」
女は、自分の頬を指で拭った。
指先についた赤いものを、信じられないものを見るように見つめる。
「……傷つけた」
「投降して」
「傷つけたわ、この子が! ほら見なさい、やっぱり最初から、こちらを潰す気だったのよ!」
誰に向かって言っているのか、もう分からなかった。
女の影が、一斉に地面へ沈んだ。
「今日は、退くわ。……でも、覚えておきなさい」
その声が、闇の底から響いた。
「次は、本命を奪う」
「……本命?」
「あなたが、一番大事にしているもの」
女は、最後にくすりと笑った。
「見つけたら、真っ先にね」
気配が、消えた。
残された神社に、風の音だけが戻ってきた。
午後九時半。
翼の家の玄関先に、二台の車が停まっていた。
一台は星監、もう一台は福音の鐘のものだった。
ゴーストが飛ばした短い連絡に、両者が同時に反応した結果である。
「妹さんは、無事でしたわ」
車から降りてきたルディアが、報告した。
「ご自宅で、ぐっすりお休みでした。……見張りが一人、庭先におりましたので、丁重にお引き取りいただきましたけれど」
「丁重に?」
「ええ。指一本、触れておりませんわ。……気絶はしておりますけれど」
その隣で、ヴィクトリアが端末を操作していた。
「日野家の周辺に、監視を置いておくわ。星監の名前は出さない形でね」
「……ありがとう」
玄関の上がり框では、詩織が膝を抱えて座り込んでいた。
顔を上げられないまま、肩だけが震えている。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
白鳥は、その隣に腰を下ろした。
「詩織ちゃん」
「私、裏切りました。……みんなの名前を、書きました」
「うん」
「追い出して、ください。私、ここにいる資格なんて」
「詩織ちゃん」
白鳥は、少女の手から、凍って割れた紙の残骸を取り上げた。
「妹さんの写真を見せられて、それでも黙って断れる人がいたら、教えてほしいの」
「……え」
「私は、断れなかった」
白鳥の声は、静かだった。
「昔ね。『お前がやらなければ、代わりに誰かがやる』って言われて、断れなかったことがある」
詩織が、顔を上げた。
「だから、あなたを責める資格は、私にはないの」
「でも」
「でも、一つだけ約束して」
白鳥は、少女の目をまっすぐに見た。
「次は、先に言って。一人で抱えないで」
「……っ」
「それだけでいいの。ここは、そういう場所だから」
詩織は、声を上げて泣き出した。
その背中を、白鳥が何度も撫でていた。
庭先では、まひろが他の少女たちと並んで、その様子を見ていた。
「……あの、白鳥さん」
まひろが、遠慮がちに口を開いた。
「私たち、詩織さんの妹さんのこと、聞いてませんでした」
「そうね」
「これからは、聞きます。……全員の家族のこと」
その言葉に、他の少女たちも頷いた。
深夜。
三神家の廊下には、布団が二組敷かれていた。
零の部屋の、ドアの真ん前である。
「……姉ちゃん。本気だったのか」
「本気よ」
パジャマ姿の澪が、枕を抱えたまま仁王立ちしていた。
昨日の朝、母から「ゴーストと茶を飲んだ」という話を聞き出してから、この姉はずっとこの調子である。
「当分、ここで寝るわ」
「風邪ひくぞ」
「弟の平穏のためよ」
「私も寝る!」
隣の布団から、玲奈が元気よく手を挙げた。
「玲奈は関係ないだろ」
「お姉ちゃんが一人だと、絶対に寝落ちするもん」
零は、深く溜息を吐いて、部屋の窓を見た。
今夜は、どのみち出られない。
向かいの屋根では、赤いリボンの影が不思議そうに首を傾げていた。
零は、カーテンを引きながら、神社で聞いた言葉を思い出していた。
——次は、本命を奪う。
——あなたが、一番大事にしているもの。
廊下の向こうから、姉妹の声がした。
「零。おやすみ」
「お兄ちゃん、おやすみー」
「……おやすみ」
零は、しばらく天井を見上げていた。
あの女は、まだ何も見つけていない。
だが、探している。
この家の玄関のすぐ前に、その答えが二つ、布団を敷いて寝ていることを、あの女はまだ知らない。




