第二百七十一話
水曜日の朝。
三神家の台所には、味噌汁の匂いが満ちていた。
零は、目の下に薄い隈を作ったまま、卵焼き器の前に立っている。
月曜の夜、協会本部の裏手から帰り着いたのは日付が変わってからで、その疲れがまだ抜けていない。
「零。あんた、昨日も遅かったでしょ」
食卓で、澪がトーストを齧りながら言った。
「……緋雪さんと」
「デートで午前様は、感心しないわね」
「夜食を作ってた」
「余計に感心しないわ」
澪は、そこで一度言葉を切った。
カップを置き、妙に真剣な顔で弟を見上げる。
「……ねえ、零」
「なに」
「あんた、変な女に付きまとわれてない?」
零の手から、菜箸が滑り落ちた。
「……は?」
「いや、その。……黒いドレスの、紫の目の」
澪は、言いにくそうに視線を逸らした。
一昨日、翼の家で見た光景が、まだ頭から離れないらしい。
「昔から言ってるでしょ。ゴーストが、うちの周りに出すぎだって」
「……偶然だろ」
「偶然で、あんなに家の近くに出る?」
澪は、腕を組んだ。
「……はっきり言うわよ。あれ、あんたを狙ってるのよ」
零は、拾った菜箸を握りしめたまま、天井を見上げた。
目の前の姉に、どう説明すれば嘘が最小限で済むのか。答えは、いつも見つからない。
「モテる男は、大変だな」
新聞を広げたまま、五郎が呑気に笑った。
「お父さん、笑い事じゃないって」
「相手は、街を守ってくれてる人だろう。悪い子ではあるまい」
「悪い子じゃなきゃ、弟に付きまとっていいの?」
「あらあら。ゴーストちゃんなら、いい子よ」
台所の奥から、奈々美が顔を出した。
「……は?」
澪の手の中で、カップが傾いた。
「お母さん、会ったことあるの?」
「あるわよ。いつだったか、うちでお茶を飲んでいったもの。零のお部屋から出てきたところを、お母さんが誘ったの」
「部屋!?」
「すごく礼儀正しくて、お代わりもちゃんとしてくれてね。……ちゃんとご飯を食べる子なら、お母さんは反対しないわよ」
「基準がおかしい!」
玲奈が、二階から降りてきながら叫んだ。
零は、二度目に滑り落ちた菜箸を、黙って拾った。
同じ日の昼。
魔法少女協会、本部ビル。
廊下の空気が、この二日で明らかに変わっていた。
技術部門のフロアには、調査部の人間が常駐している。
誰かが席を立つたび、周りが目で追った。
周防凛花は、休憩室の自動販売機の前で、缶を取り出そうとしていた。
「周防さん」
背後から、同期の隊員が声をかけてきた。
「大変でしたね、あの夜」
「……ええ」
「巡回だったんですよね。桧山主任が消えた日」
凛花の指が、缶の上で止まった。
「そうですけど」
「怪しいものとか、見ませんでした? 調査部が、あの時間の記録を全部洗ってて」
同期の声は、軽い世間話の調子だった。
だからこそ、質問の意図が読めない。
「……特には」
「そうですか。いや、変な話ですよね」
同期は、自分の缶を取り出しながら続けた。
「上は、外部勢力の拉致だって言い始めてるらしいですよ」
凛花は、顔を上げた。
「拉致?」
「星監か、福音の鐘か。あるいは白百合か。……犯人が協会の外にいるなら、うちは被害者ですから」
その言い方に、凛花は寒気を覚えた。
犯人不明のまま終わるより、外に敵を作ったほうが都合がいい。
組織というものは、そういう判断をする。
「……そうですね」
凛花は、それだけ答えて休憩室を出た。
嘘をつくたび、胸の奥に小石が一つずつ溜まっていく。
それでも、あの夜の判断を間違いだとは思わなかった。
放課後。
都内某所、勾玉の施設。
地下三階まで降りると、空気の温度が一段下がった。
白い廊下。等間隔の照明。人の気配がほとんどない。
「こちらです」
八咫の隊員に案内され、ゴーストは厚い扉をくぐった。
解析室には、白衣の男が一人立っていた。
二日前まで協会の技術部門にいた男が、すでに作業を始めている。
机の上には、術式図の投影が三つ並んでいた。
「……早いのね」
「することが、他にありませんので」
桧山治夫は、振り返らずに答えた。
その手は、止まっていない。
「ここの設備は、協会より上です。……正直、驚きました」
「必要なものがあれば、言って」
「では、戦姫時代の原本を。第七期以降の全部を」
「……用意させるわ」
部屋の隅で、勾玉の隊員が小さく頷いた。
その時、解析室の奥の扉が開いた。
車椅子に乗せられた、痩せた老人が入ってくる。
金縁の眼鏡。白衣ではなく、簡素な作業着姿。
両手首には、拘束用のバンドが巻かれていた。
桧山の手が、初めて止まった。
「……お久しぶりです、先生」
椎葉は、しばらく無言で桧山を見ていた。
「……君か」
「はい」
「君は、私の論文を読みすぎた」
その声は、苦々しかった。
「あんなものは、二十年前の未熟な思いつきだ。……なぜ、あれを完成させようとした」
「先生が、途中でやめたからです」
桧山は、静かに答えた。
「私は、やめられなかった。それだけの話です」
二人の間に、長い沈黙が落ちた。
「……勾玉から、提案がございます」
白衣の隊員が、口を開いた。
「お二人には、同じ部屋で作業をしていただきます」
「……私と、彼をですか」
「はい。変身固定の術式を書いた二人が、解除の術式を組む。……これ以上の組み合わせは、ございません」
椎葉は、深く息を吐いた。
「皮肉なものだな」
「ええ」
桧山も、同じ表情で頷いた。
十五分後。
地下四階、保管区画。
通路の両側に、透明な氷の塊が並んでいた。
十四体。
人の形を半分だけ残したものが、氷の中で静止している。
桧山は、その前で足を止めた。
「……これが」
白衣の背中が、動かなくなった。
「これが、私の研究の行き着いた先ですか」
爪の伸びた指。裂けた衣の残骸。
氷の奥で、紫色の光が今も微かに脈打っている。
「聖薬を二錠飲んだ人たちよ」
ゴーストは、静かに告げた。
「一錠でも、吐血と頭痛が出る。二錠飲めば、こうなる。……全員、ついこの間まで普通の人だった」
「……私は」
「行き先を決めたのは、あなたじゃないわ」
ゴーストは、氷の塊を見上げた。
「薬を配ったのも、飲ませたのも、別の人間よ。……でも、その道筋を作ったのは、あなた」
「……ええ」
「だから、戻して」
桧山は、ゆっくりと振り返った。
「戻せる保証は、ありません」
「知ってる」
「固定の術式は、対象の魔力の形に合わせて絡みついています。解くには、一人ずつ、その形を特定しなければならない」
桧山は、氷の列を見渡した。
「一体につき、数か月。十四体では……年単位です」
その数字に、ゴーストは何も言わなかった。
四週間ですら、あれだけ長かった。
この人たちは、氷の中で何年も待つことになる。
「それでも、やって」
「……はい」
桧山は、深く頭を下げた。
「一つだけ、お願いがあります」
「なに?」
「この方々の名前を、調べていただけませんか」
ゴーストは、少しだけ目を見開いた。
「名前?」
「番号で呼びたくないのです。……妻が、そう呼ばれる側でしたので」
夕方。
翼の家の居間には、修理の木の匂いがまだ残っていた。
集まったのは、七人。
ゴースト、緋雪、凛花、白鳥。
そして、星監からヴィクトリア、福音の鐘からルディアと真里。
「では、報告から」
ゴーストが、ちゃぶ台の上で手を組んだ。
「一つ。技術を流していた人間は、無事に保護されている。今は、解除の研究を進めているわ」
「あの夜、私たちの目の前で、どこにも所属を書いていない車に乗っていった方ね」
ヴィクトリアが、意味ありげに繰り返した。
「それで、どこの、誰に預けたのかしら」
「……安全な場所よ」
「あら、つれない」
「ヴィクトリア・ローゼンベルグ。ゴースト様が仰らないということは、聞いてはならないということですわ」
ルディアが、澄まし顔で口を挟んだ。
「あなたも、知りたいくせに」
「ええ、それはもう」
ヴィクトリアは、肩をすくめて引き下がった。
「二つ。協会が、『外部勢力による職員の拉致』という筋書きを作り始めている」
凛花が、静かに補足した。
「星監、福音の鐘、白百合。……候補は、その三つだと聞きました」
「まあ、光栄ですこと」
ルディアが、袖を口元にやって笑った。
「濡れ衣ではございませんもの。実際に、攫ってまいりましたから」
「ルディア・ロンディニウム」
「事実ですわ、ヴィクトリア・ローゼンベルグ」
「事実でも、口に出すものではないのよ」
「三つ」
ゴーストは、二人の応酬を遮った。
「あの夜から、白い衣の動きが止まっている」
部屋の空気が、変わった。
「翼の家への接触も、勧誘も、一件もなし。……綺麗に消えたわ」
「不気味ね」
ヴィクトリアが、指先で膝を叩いた。
「あれだけ人を失って、手を引くような相手ではないわ。……次に来る時は、一人ではないでしょうね」
白鳥が、小さく手を挙げた。
「あの……報告、いいですか」
「どうぞ」
「翼の家に、新しく二人来ました」
白鳥は、少しだけ嬉しそうに、そして不安そうに言った。
「協会を辞めた子と、去年適性を失った子です。……これで、通ってる子は八人になりました」
「増えたのね」
「はい。……守るものも、増えました」
その言葉に、全員が黙った。
夜。
零は、大通りを歩いて帰宅していた。
時刻は九時。買い物袋の中で、半額になった鶏もも肉が揺れている。
その時。
ふっと、街の音が遠のいた。
(……っ)
車のエンジン音。信号機の電子音。遠くの踏切。
全てが、綿を詰められたように鈍くなる。
零は、足を止めた。
凪域だ。
だが、範囲が狭い。半径十メートルあるかどうか。
通りの向こうでは、人々が何事もなく歩いている。
街灯の光が届かない電柱の陰に、人影が立っていた。
背の高い、痩せた男のようなもの。
白い肌。長い指。整いすぎた顔。
そして、そこだけ世界から切り取られたような、完全な無。
「……無響」
零の喉から、掠れた声が漏れた。
人間の姿だ。
変身すれば、この距離では隠しようがない。
逃げれば、追われる。
無響は、動かなかった。
ただ、じっと零を見つめている。
「……波形が、消えたな」
温度のない声だった。
零は、答えなかった。
胸元の匣の中で、ペンダントが静かに沈黙している。
「先日まで、お前からは微かに聴こえていた。……今は、何もない」
無響は、一歩だけ近づいた。
「どこへ隠した」
零の背中を、汗が伝った。
答えられない。
黙っていれば、それも答えになる。
「……何の話ですか」
声が、思ったよりも普通に出たことに、零は自分で驚いた。
「知らないなら、それでいい」
無響は、首を僅かに傾げた。
「だが、一つだけ確かなことがある」
「……」
「静かにしていても、器は隠せても——」
無響の指先が、紫色に一度だけ脈打った。
「お前は、いつもそこにいる」
その瞬間。
風が、動いた。
凪域の外から、複数の足音が近づいてくる気配があった。
八咫が、動いている。
「……また、聴きに来る」
無響の姿が、闇に溶けた。
次の瞬間、街の音が一斉に戻ってきた。
車のエンジン音。信号機の電子音。遠くの踏切。
世界が、何事もなかったかのように呼吸を再開する。
「——三神様!」
人混みの中から、スーツ姿の女性が駆け寄ってきた。
八咫の隊員だった。
「ご無事ですか」
「……平気、です」
零は、そう答えてから、その場にしゃがみ込んだ。
膝が、笑っていた。
ゴーストとして戦う時は、怖くない。
大剣があり、闇があり、跳べる影がある。
だが、今の自分には何もなかった。
スーパーの袋と、半額の鶏もも肉だけだった。
「……立てますか」
「……もう少しだけ」
隊員は、何も言わずに零の傍らに立っていた。
通行人が、二人を避けて歩いていく。
誰も、ついさっきここで何が起きたのかを知らない。
同じ頃。
白い壁と白い床だけで作られた、窓のない礼拝堂。
第九使徒——工藤美沙は、新しい槍を両手で受け取っていた。
穂先が、燭台の火を映して鈍く光る。
「ご苦労さまです」
背後から、女の声がした。
白い法衣をまとった、細身の女だった。
長い黒髪が、顔の左半分を覆っている。
その視線は、話す間も一箇所に留まらない。天井、扉、燭台、床。何かを探すように、絶えず動いている。
「……第三使徒様」
美沙は、静かに頭を下げた。
「あなたまで、出られるのですか」
「出るに決まっているでしょう」
第三使徒は、早口で答えた。
「あなたが一人で失敗したから、向こうは勢いづいているのよ」
「申し訳ございません」
「謝罪はいいの。……それより、聞いたわ」
女の指が、法衣の袖を神経質に握りしめた。
「あの夜、四つの組織が集まっていたそうね」
「星監、福音の鐘、協会、白百合。……ええ、確かに」
「偶然だと思う?」
第三使徒は、初めて美沙の顔を正面から見た。
「違うわ。最初から、私たちを潰すために示し合わせていたのよ」
「……そこまでは」
「あなたは甘いのよ、第九使徒」
女は、早口のまま続けた。
「敵対していたはずの連中が、一晩で手を組む? そんな偶然があるものですか。……あの黒いドレスの子が、全部の糸を引いているに決まっている」
美沙は、穏やかに答えた。
「考えすぎでは」
「考えなさすぎよ、あなたは」
第三使徒は、そこで初めて笑った。
目だけが、笑っていなかった。
「いい? 私たちは、奪われる側なの。ずっとそうだった。魔法少女の力も、人生も、時間も。……全部、他人に奪われてきた」
「……はい」
「だから、次は先に奪うの」
女の影が、床の上で不自然に伸びた。
燭台の火の位置と、影の向きが合っていない。
「奪われる前に、ね」
十二の燭台のうち、二つ目の火が、静かに揺れた。




