第二百七十話
登校の支度をしながら、零はスマートフォンを耳に当てていた。
放課後、翼の家で話す。由鶴が調べた結果を、緋雪が預かってくるという。
協会の内側の話だから、記録に残る場所ではできない。緋雪は、そう言った。
登校途中の大通りで、隣に人が並んだ。
今日は、犬の散歩をしている中年の女性だった。
「——おはようございます」
「勾玉も、同じ人物に辿り着いております」
八咫の隊員は、リードを握ったまま前を向いていた。
「昨夜の時点で、白百合の情報班とほぼ同じ結論です。……殿下は、これは協会の内側の問題として扱うべきだと仰せです」
「皇室は、手を出さないってことですか」
「表向きは」
隊員は、それだけ言った。
「裏では、と」
「殿下は、『必要なものは言え』と仰いました。……あの言葉は、今も有効です」
信号が青に変わり、犬が歩き出した。
隊員はそれに引かれるように、人混みへと紛れていった。
昼休み。
「零。お前、昨日どこにいた」
稔が、弁当箱を抱えて机の横に座り込んだ。
「噂になってるぞ。日曜に河原で、外国人の美人の集団が肉を焼いてたって」
零は、卵焼きを口に運んで黙った。
事実を言えば、撮影ではなく、裏社会の首脳が河原で肉を焼いていた。
「……人違いだって」
稔は、しばらく零の顔を睨んでから、深く溜息を吐いた。
放課後。
郊外の町、翼の家。
真新しい檜の匂いが、まだ残っている。
土塀は塗り直され、縁側には新しい板が張られ、門柱には丸い看板が掛かっていた。
その居間には、白百合の制服が七つ並んでいた。
「いやー、いい家だねえ。木の匂いがする」
弓飛鳥が縁側で足をぶらつかせ、只野真奈が袖をまくって立ち上がる。
「……その前に、座って。話が始まらないから」
新堂鈴乃は、スケッチブックを抱えたまま、部屋の隅の座布団に落ち着いていた。
視線だけが、時々ちらちらと縁側の方へ向く。
そこには、漆黒のドレスの少女が座っていた。
「鈴乃さん。描かないで」
「……描いてない」
「手が動いてる」
「……癖なの」
その隣では、別の三人が完全に舞い上がっていた。
「……お久しぶりね、ゴーストさん」
三神澪は、居間の入り口で腕を組んだまま、一歩も動かなかった。
何度も助けられている。命を拾ってもらったことも、一度や二度ではない。
それでもこの姉の中で、目の前の少女の肩書きは、いまだに一つだけだった。
——弟に異常な執着を見せる、正体不明のストーカー。
「今日は白百合の仕事で来ただけですから。……うちの弟の話は一切しませんし、うちの周りをうろつくのも、やめてください」
「……そう」
「お姉ちゃん、初手からそれ?」
玲奈が、姉の袖を引っ張った。
玲奈は、困惑と警戒の間で迷子になっている。
その隣で、星宮きらりだけが、スマートフォンを構えては下ろすのを繰り返していた。
「広報班の慰問ってことにしてあります! 奈緒ちゃん、すっごく喜んでくれたよ!」
協会が売り出したアイドル魔法少女は、白百合の盾が旗を立てた時に、真っ先に移籍届を出した一人である。
笑顔で写真に収まりながら、協会の内側の仕組みも一通り見てきた少女だった。
「三人とも、落ち着いて。……今日は、白百合として来たわけじゃないの。全員、非番よ」
緋雪が、深く息を吐いた。
玲奈が、縁側の方を指さした。
そこでは、歌い疲れたらしい奈緒が、ゴーストの膝の上で早々に舟を漕いでいる。
台所からは、白鳥と翼の家の少女たちが、飛鳥の持ってきた菓子で茶を淹れる音が聞こえていた。
この顔ぶれを連れてきたのは、緋雪の判断だった。
情報班の解析室で、ゴーストと会うことはできない。
あの建物の中で交わされた会話は、必ずどこかに記録が残る。
そもそも、由鶴自身がこの場に来るわけにはいかなかった。
情報班の長が未登録魔法少女と同じ部屋で茶を飲んだ事実が一つでも残れば、庇いようがなくなる。
だから、資料だけが託され、班ごと外へ出た。
白百合のエースと広報班が揃って、元魔法少女たちの居場所を慰問する。
それは、記録に残っても何一つおかしくない、むしろ写真を撮って公開したいくらいの、健全な行動だった。
「……では、始めるわ」
緋雪が、ちゃぶ台の上に一枚の茶封筒を置いた。
中身は、印刷された紙が数枚だけ。端末も、記録媒体も持ち込まれていない。
由鶴は、この資料を渡す時、こう言ったという。
——読んだら、燃やしてください。私は、何も渡していません。
緋雪が、最初の一枚を裏返した。
協会の職員名簿から複写された、一人の男の顔写真だった。
四十代半ば。白髪の混じった髪。細い銀縁の眼鏡。どこにでもいそうな、疲れた顔である。
「魔法少女協会、技術部門三課主任研究員。桧山治夫」
私服姿の凛花の肩が、僅かに動いた。
「知っているの?」
「装備の調整で、何度か。……穏やかな方です」
緋雪は、二枚目を並べた。
由鶴の細かい字で、証拠が書き連ねてある。
「保管庫の鍵を持つ三名のうちの一人。椎葉の、直系の弟子筋」
緋雪の指が、紙の上をなぞっていく。
「結晶の紛失記録のアクセスログに、一分間の空白。山中の廃施設で回収した地図の筆跡は、彼の業務日誌と十七か所で一致」
「そして、劣化版の聖薬に組み込まれた、変身固定の術式記述。……これが、決定打だそうよ」
余白には、走り書きが一行だけ残っていた。
『椎葉の論文の癖を完全に再現できる人間は、協会内に一人だけ』
几帳面な字の中で、その一行だけが乱れていた。
「……動機は」
ゴーストが、静かに問うた。
緋雪は、しばらく次の一枚に手を伸ばさなかった。
それから、ゆっくりと最後の紙を裏返した。
古い写真の複写だった。
協会の制服を着た若い女性が、屈託なく笑っている。
「桧山夏美。……桧山治夫の妻よ」
飛鳥の足が、止まった。
真奈が、握りかけた煎餅を皿に戻した。
澪と玲奈の顔から、さっきまでの浮かれた色が消えた。
「十二年前、任務中に戦死。当時、二十七歳」
緋雪は、紙の下半分を指さした。
そこには、別の記録が書き写されていた。
「同じ年、戦姫から協会への移行に伴って、一つの研究が封印されているの」
書き写された表題は、短かった。
『変身状態の安定化に関する研究』
「主担当は、桧山治夫」
居間が、静まり返った。
「封印された年と、奥さんが亡くなった年が、同じ」
ゴーストは、写真の中の女性を見つめた。
制服の襟元が、少しだけ曲がったまま笑っている。
「……これ、私たちが聞いていい話じゃないよね」
飛鳥が、珍しく低い声で口を開いた。
「よくないと思います」
きらりが、真面目な顔で手を挙げた。
「でも、聞いちゃったので。……私、協会にいたので分かります。上に報告したら、この話は潰されます」
「だから、報告しません」
きらりは、きっぱりと言い切った。
普段は感情がそのまま顔に出る少女が、この時だけは静かだった。
「……だね」
真奈が、頷いた。
「私たち、緋雪ちゃんが変な顔で頼み事してきた時点で、覚悟してたし」
「聞かないし、喋らない。……今日は、お菓子を届けに来ただけ」
飛鳥が、にっと笑って付け足した。
緋雪は、三人の顔を見回してから、小さく頭を下げた。
「私も、何も聞いてない」
澪が、湯呑みを両手で包んだまま言った。
「……ただ、一つだけ。うちの家族には、絶対に関わらせないで」
「……努力するわ」
ゴーストは、それだけ答えた。
自分でも、どの面を下げて言っているのか分からなかった。
緋雪は、茶封筒の紙を揃えて、ちゃぶ台の中央に置き直した。
「話を戻すわ。……由鶴から、伝言があるの」
緋雪は、最後の紙の裏面を見せた。
そこには、一文だけが書かれていた。
『これは協会の内部問題です。白百合が手を出せば、組織間の対立に発展します』
調べるだけ調べて、線は自分で引いている。あの人らしい、と鈴乃が小さく呟いた。
「私が動きます」
凛花が、膝を正した。
「協会の人間が、協会の記録から見つけた。……そういう形にします」
「凛花さん」
「証拠を、私の権限で取り直します。白百合から出たものは、一つも使いません」
凛花の声には、迷いがなかった。
「そうしないと、桧山主任を庇う人間が必ず出ます。『白百合の謀略だ』と言って」
緋雪は、しばらく凛花を見つめていた。
それから、封筒の底から、小さな通信端末を取り出した。
「……これを、由鶴から」
「今夜、あなたが動くなら繋いでおきなさいって。……視界と音声を向こうで受ける。記録は取らない、と言っていたわ」
凛花は、その端末を両手で受け取った。思っていたより、ずっと軽かった。
「由鶴さんの立場が、危うくなります」
「同じことを言ったわ、私も」
緋雪は、由鶴の返答をそのまま伝えた。
「『私は、間違えたくないだけです。……凛花さんが、死ぬほうの間違いも含めて』」
凛花は、端末を握りしめたまま、深く頭を下げた。
話が終わった後、きらりが、ふと首を傾げてゴーストを見つめた。
「……あの、ゴーストさん」
「なんか、実家みたいな匂いがします。……出汁と、お醤油と、卵焼きの」
「きらり、それ失礼だよ!」
玲奈が、慌ててその口を塞いだ。
居間の空気が、凍りついた。
「……気にしないで」
ゴーストは、平静を装って答えた。
膝の上の奈緒が、寝言のように「……おだし」と呟いた。
帰り際、飛鳥が凛花の背中を軽く叩いた。
「協会のエースさん。……無理そうだったら、逃げなよ」
「……はい」
凛花は、初めて小さく笑った。
午後十一時。
魔法少女協会、本部ビル。
技術部門のフロアは、非常灯の緑色だけが灯っていた。
周防凛花は、協会の制服姿で、三課の扉を開けた。
『……聞こえていますか、凛花さん』
耳の奥で、由鶴の声がした。
「はい」
『端末の前へ。ログの照合から始めます』
凛花は、言われるままに端末を立ち上げた。
『三行下。……そこです』
由鶴の声が、鋭くなった。
『二十三時四十一分から、四十二分。一分だけ、記録が飛んでいます』
「……本当だ」
『その前後の物品搬出記録と、照合してください』
そして、五つ目の照合が終わった時。
——かちり。
背後で、部屋の明かりが灯った。
「……周防さん」
凛花は、ゆっくりと振り返った。
扉の前に、白衣の男が立っていた。
細い銀縁の眼鏡。白髪の混じった髪。疲れた顔。
「こんな時間に、どうしました」
桧山治夫の声は、穏やかだった。
咎める響きも、動揺もない。
「……巡回です」
「トップエースが、技術部門の端末で?」
凛花は、嘘を重ねるのをやめた。
「桧山主任。単刀直入に伺います」
「設計図の流出も、結晶の紛失も、あなたですね」
桧山は、答えなかった。
代わりに、静かに問い返した。
「周防さん。あなたは、協会が正しいと思っていますか」
「……質問に答えてください」
「答えていますよ」
桧山は、ゆっくりと部屋に入ってきた。
自分の席に腰を下ろし、机の上の写真立てに目を落とす。
「十二年前の十一月に、妻が死にました」
凛花の呼吸が、止まった。
「その少し前まで、私はある研究をしていましてね」
凛花は、口を挟まなかった。
「変身状態の安定化。……長時間の変身で魔力を消耗して、動けなくなる魔法少女を減らすための研究です」
「……封印された研究ですね」
「ええ。協会は、『人体への影響が未知数だ』と言いました。正しい判断です」
桧山は、眼鏡を外して、目頭を押さえた。
「妻は、任務中でした。変身の限界を超えて戦って、魔力が尽きた瞬間に討たれたそうです」
桧山は、写真立てを指で撫でた。
「……間に合わなかったんですよ、私の研究が」
部屋の空気が、重く沈んだ。
「桧山さん」
「だから、続けたんです。協会が封印しても、私だけは続けた」
桧山は、眼鏡をかけ直した。
「そこへ、話を持ってくる人たちがいました。『あなたの研究を、完成させませんか』と」
『……凛花さん』
耳の奥で、由鶴の声がした。
『そのまま、聞いてください』
「桧山さん」
凛花は、まっすぐに男を見据えた。
「あなたが流した技術で、人が魔獣になりました」
桧山の手が、止まった。
「先週、郊外で。薬を飲んだ人が、十人以上」
「……何を、言って」
「変身を固定する術式を、化学的に再現した薬です。それを、一般の人に配っている人たちがいます」
「違う」
桧山が、初めて声を荒らげた。
「あれは、安定させるための術式だ! 人を壊すためのものじゃない!」
「使い方を誤ったのではありません」
凛花は、静かに続けた。
「あの人たちは、最初からそのつもりでした。……壊れた人を『翼を得た』と呼んでいます」
桧山の顔から、血の気が引いていった。
モニターの前で、由鶴が小さく息を吐いた。
(……だから、私は間違えたくなかった)
名指しは、当たれば組織を正す。
だが、その裏側には、必ず一人の人生がある。
十五分後。
桧山は、机の引き出しから小さな鍵を取り出して、凛花に差し出した。
「記録は、全部残してあります。何を渡して、誰と会ったか。……全部」
いつか、こうなると思っていたのだろう。
男の手つきには、諦めに近い静けさがあった。
凛花が、協会の内部規定に則った手続きを口にしようとした時。
「周防さん」
桧山が、それを遮った。
「協会に渡すなら、私は明日には死んでいますよ」
「三課の主任が、外部に技術を流した。……組織が一番困るのは、私が裁判で何を喋るかです」
『——凛花さん』
由鶴の声が、耳の奥で響いた。
『外に、迎えを呼んであります』
「え?」
『裏口へ。……判断は、あなたに任せます』
凛花は、数秒だけ目を閉じた。
協会の魔法少女としての自分と、円卓の一員としての自分が、真っ向からぶつかっていた。
目を開けた時、彼女は桧山の腕を取っていた。
「……立ってください」
本部ビルの裏手には、車が三台停まっていた。
一台目から降りてきたのは、上品なコートのヴィクトリア。
二台目からは、黒い外套を羽織ったルディア。
そして、闇の中から、漆黒のドレスの少女が音もなく現れた。
「……皆さん」
桧山は、その顔ぶれを見て、静かに目を見開いた。
「星監と、福音の鐘と……ゴースト」
「桧山治夫さん」
ヴィクトリアが、前に出た。
「星監は、あなたを協会から匿えるわ。記録上、あなたは今日から存在しなくなる。……交換条件は、あなたの知識を全て出していただくこと」
桧山は、答えなかった。
「桧山様」
次に口を開いたのは、ルディアだった。
「奥様を、助けたかったのでしょう」
桧山の肩が、跳ねた。
「あなたの研究は、今、人を壊すために使われております。……白い衣の者たちが、それを『救い』と呼んで配っておりますの」
「……やめてください」
「奥様は」
ルディアは、容赦なく続けた。
「奥様は、あなたの研究がそう使われることを、望まれますか」
桧山は、その場に立ち尽くした。
長い沈黙の後、掠れた声が漏れた。
「……望むはずが、ない」
「桧山さん」
ゴーストが、静かに前に出た。
「一つ、お願いがあるの」
「……何でしょう」
「変身の固定を、解く方法を研究してほしい」
桧山が、顔を上げた。
「今、氷漬けにされている人たちがいる。薬を飲んで、人の形を失った人たち」
ゴーストの声は、静かだった。
「元に戻す方法は、まだ誰も知らない。……あなたの研究を、解くために使って」
「……解く」
桧山は、呆然と繰り返した。
「固定するためではなく、解くために」
「ええ」
「……一つだけ、聞かせてください」
「なに?」
「私の研究で、誰か助かった人は、いますか」
ゴーストは、答えなかった。
四週間、戻れない身体で過ごした夜。
それを解いた術式の系譜が、どこから来たものなのか。
解除の術式は、固定の術式の裏返しだ。この男の研究がなければ、勾玉は逆位相を組めなかったかもしれない。
だが、それを説明することは、決してできない。
「……いるわ」
ゴーストは、それだけ答えた。
「一人、知ってる」
桧山は、ゆっくりと頭を下げた。
「分かりました。……お手伝いします」
「では、星監の施設へ」
ヴィクトリアが、車の扉に手をかけた。
「待って」
ゴーストが、それを止めた。
「……あら?」
「星監も、福音の鐘も、裏社会では顔が売れすぎている。……この人を預けるには、危なすぎるわ」
「では、どちらに」
その時、どこにでもある無印の車のヘッドライトが灯った。
降りてきたのは、地味な紺のスーツを着た女性である。
「——お待たせいたしました」
「桧山様。お迎えに上がりました。……本日より、あなたの身柄は、こちらでお預かりいたします」
「あなたは」
「お答えできかねます」
ヴィクトリアの目が、鋭くなった。
ルディアもまた、その女性を無言で見つめている。
車のナンバーも、服装も、身のこなしも、どこにも所属を示すものがない。
それでいて、この場の誰一人として、彼女が近づいてくるまで気配に気づけなかった。
「……ゴースト様。あなた、どこまで手札を持っているの」
ヴィクトリアの問いに、ゴーストは答えなかった。
桧山を乗せた車が走り去った後、ルディアが小さく呟いた。
「……あの気配の消し方。裏社会の人間ではありませんわね」
「ええ。もっと、面倒なところの人間よ」
ヴィクトリアは、それ以上は口にしなかった。
翌朝。
協会本部は、静かに揺れていた。
技術部門三課の主任研究員、桧山治夫が出勤していない。
自宅にもおらず、携帯も繋がらない。
正午には、内部調査が始まった。
周防凛花は、上層部への報告書に、こう書いた。
『巡回中、保管庫のアクセス記録に不審な空白を発見。
関連する搬出記録に、改竄の痕跡あり。
担当者の特定には至らず』
「周防君」
報告書を読んだ上層部の一人が、眼鏡の奥から凛花を見た。
「この証拠、随分と手際よく揃ったね」
その男は、書類を机に放った。
「外部の協力を、得てはいないだろうね。……たとえば、白百合とか」
「ありません」
凛花は、まっすぐに答えた。
嘘だった。だが、その嘘を言い切れるだけの証拠を、自分の手で取り直してある。
今は、それだけが支えだった。
同じ日の午後。
白百合の盾、会長室。
「羽衣さん」
姫嶋結衣は、書類から顔も上げずに言った。
「協会の職員が、一人消えました」
緋雪は、何も答えなかった。
結衣は、そこでようやく顔を上げた。
「白百合は、この件に一切関わっていません。……そう答えられるようにしておきます」
「……会長」
結衣は、眼鏡を外した。
「ただし、羽衣さん」
「はい」
「次は、庇いきれません」
その声に、怒りはなかった。
ただ、事実だけがあった。
「白百合は、協会と対立するために作った組織ではありません。……私たちが、協会から人を攫う組織だと思われた瞬間に、この旗は折れます」
「……申し訳ありません」
「謝罪は要りません」
結衣は、書類に視線を戻した。
「覚悟だけ、しておきなさい」
その夜。
零は、自室の窓から夜空を見上げていた。
円卓は、一人の男を守った代わりに、協会とも白百合とも、間に薄い氷を挟むことになった。
スマートフォンには、緋雪からのメッセージが届いている。
『会長には、叱られなかったわ。……その代わり、全部見抜かれてた』
『……私たち、正しいことをしたのよね』
『俺が決めたことだ。責任は、俺が取る』
『あら』
返信は、すぐに来た。
『私が決めたことでもあるのだけれど』
零は、小さく笑った。
同じ頃。
魔法少女協会本部ビルを、道の向かいから見上げる影があった。
人の形をした、温度のない何か。
その視線は、非常灯だけが灯る技術部門のフロアに向けられていた。
「……情報源が、一つ減ったか」
無響は、呟いた。
紫色の光が、指先で一度だけ脈打つ。
「構わん。……もう、必要な分は聞いた」
その姿は、街灯の届かない闇の中へ、音もなく溶けていった。




