第二百六十九話
日曜日、午前四時。
三神家の庭では、すでに人が動いていた。
「……父さん。まだ暗いけど」
台所の窓から顔を出した零に、五郎が振り返った。
ジャージ姿で、車のトランクに炭袋を積み込んでいる。
「準備は前の日から始まってるんだ」
「その炭、何種類あるの」
「三種類だ。焼き始め用と、肉用と、締めの野菜用」
「……使い分けるんだ」
「当たり前だろう」
五郎は、なぜか誇らしげに胸を張った。
その足元には、去年買ったまま一度も使っていない折り畳み椅子が、八脚積まれていた。
台所では、零と奈々美が並んで仕込みをしていた。
漬け込んだ鶏もも肉。下茹でした人参。塩を振った玉ねぎ。
握ったおにぎりは、すでに三十個を超えている。
「零。これ、本当に足りるの?」
「……何人来るか、数えたくない」
零は、手を止めずに答えた。
家族が五人。緋雪。白鳥と奈緒。ルカとリリア。凛花。
そこまではいい。
問題は、双子が嬉しそうに触れ回ったせいで昨夜のうちに「ぜひ参加させていただきますわ」と返事を寄越した教団の最高指導者と、奈々美が直々に声をかけてしまった隣家の住人である。
「お母さん、おにぎりもう十個握るわね」
「……お願い」
同じ頃、二階では。
「お姉ちゃん、その服さっきと同じじゃない?」
「違うの。襟の形が微妙に違うの」
玲奈は、朝食前にすでに二回着替えていた。
奈緒に会うのが、よほど嬉しいらしい。
その隣で、澪が胃薬の包装を破っていた。
「……お姉ちゃん、なんで朝から薬飲んでるの」
「予防よ」
「何の?」
「……今日一日の」
午前十時。
河原の一角は、すでに三神家の陣地になっていた。
テーブルが三つ。コンロが二台。
五郎が持参した椅子が八脚並び、それでも足りないことが、この後すぐに判明する。
「——おはようございます」
最初に到着したのは、緋雪だった。
白いコートに、厚手のロングスカート。制服でも戦闘服でもない、完全な私服である。
「緋雪ちゃん、いらっしゃい!」
奈々美が、両手を広げて出迎えた。
「今日はね、私の唐揚げの下味、教えてあげるわね」
「……よろしく、お願いします」
緋雪の背筋が、ぴんと伸びた。
氷の女王と呼ばれる少女が、エプロンの紐を握りしめて緊張していた。
肉じゃがも卵焼きも作れるようになった。だが、この人の前でだけは、いまだに新人の顔になってしまう。
「三神さん!」
次に響いたのは、高い声だった。
土手の上から、黒髪の少女が全力で駆け下りてくる。
零が振り返った瞬間には、もう腕に飛びついていた。
「奈緒。走ると危ないって」
「はしってない。とんできた」
「もっと危ないよ」
「お兄ちゃんは私のお兄ちゃん!」
玲奈が、反対側の腕を確保した。
零の両腕が、開始五分で埋まった。
「ごめんね、三神くん」
遅れて土手を降りてきた白鳥が、苦笑しながら頭を下げた。
「一晩中、そわそわして眠らなかったの」
「……ねてない」
「寝てないのは自慢にならないわよ」
「おにーさーん!」
土手の上から、また別の声が飛んできた。
銀髪のツインテールが二つ。赤いリボンと、青いリボン。
二人とも、大きなクーラーボックスを担いでいる。
「ルカさん、リリアさん。それ、なに」
「お肉!」
「……ん。ヤオヨシの特売品。限界まで詰めた」
「ちょっと待って、その量」
「おお、でかした!」
五郎が、満面の笑みで駆け寄った。
「君ら、いい子だな! おじさん、肉が足りないんじゃないかと心配してたんだ!」
「えへへ」
「……おじさん、炭の組み方が甘い」
リリアは、クーラーボックスを置くと、迷わず零の空いている側へ回り込んだ。
奈緒の隣にすとんと座り、零の腕を両手で抱え込む。
「……ここ」
「リリアさん?」
「……ん。ここがいい」
左に奈緒、右に玲奈、そして玲奈の下にリリア。
零の両腕は、完全に封鎖された。
土手の上で、一人の少女が立ち尽くしていた。
私服姿の周防凛花である。
河原を見下ろしたまま、三十秒ほど動かなかった。
(……協会のトップエースが、私服で、河原で、肉を焼く)
「凛花さん。いつまでそこにいるの」
緋雪が、下から呼んだ。
「……羽衣さん。私、場違いでは」
「大丈夫よ。今日は誰も肩書きを持ってきてないから」
凛花は、深呼吸を一つして、ようやく土手を降りた。
「りんかさん!」
奈緒が、零の腕から離れて駆け寄った。
凛花の表情が、そこで初めて緩んだ。
十時半。
河原の砂利道に、黒塗りの車が三台、静かに停まった。
「……お姉ちゃん」
「見ない」
「まだ何も言ってない」
澪と玲奈が、同時に姉妹の距離を縮めた。
先頭の車から降りてきたのは、黄金の長髪の女性だった。
落ち着いた色のワンピースに、上品なストール。
ぱっと見はどこからどう見ても、育ちのいい令嬢である。
「本日はお招きいただき、誠にありがとうございます」
ルディア・ロンディニウムは、五郎と奈々美の前で、完璧な角度で頭を下げた。
「三神くんには、お店でいつもお世話になっておりますの」
「あらあら、ご丁寧に」
「スーパーの店員さんか!」
五郎が、ぽんと手を打った。
「零がいつも世話になってるって言ってたやつだな!」
「ええ。いつもごひいきにさせていただいております」
ルディアの後ろから、漆黒のコートの女性と、疲れた顔の少女が降りてきた。
「須藤と申します。本日は、調理をお手伝いに」
「堀です」
真里が丁寧に一礼し、宮子が小さく会釈した。
澪の手が、玲奈の肩を掴んだ。
「……玲奈。今のところ、私たちは何も知らない」
「うん。何も見てない」
白百合の盾に所属する姉妹は、河原の隅で短い作戦会議を終えた。
十時四十分。
今度は、白い高級車が二台停まった。
「おはよう、三神さん。今日はお招きありがとう」
プラチナブロンドの髪を風に揺らして、ヴィクトリア・ローゼンベルグが降りてきた。
手には、上品な紙袋を提げている。
「あらあら、お隣さんまで!」
奈々美が、嬉しそうに駆け寄った。
「ご近所ですもの。……これ、つまらないものですけれど」
紙袋の中身は、明らかにつまらなくない包装の菓子折りだった。
「シルヴィア・バークスです」
「レイラ・メリクスと申します。本日は、お世話になります」
連れの二人が、流暢な日本語で挨拶をする。
「零、お前、外国の友達多いな」
「……隣の家の、知り合いで」
零は、曖昧に答えた。
五郎は、深く考えなかった。
「よし、肉が足りん! 父さん、買い足してくる!」
「あなた、まだ始まってもいないわよ」
十一時。
火起こしが、最初の試練だった。
「……おかしいな」
五郎が、うちわを振りながら唸っていた。
着火剤は燃え尽き、炭は黒いまま。風向きだけが妙に悪い。
「炭は、男の仕事なんだが」
「おじさん、貸して」
ルカが、ひょいとしゃがみ込んだ。
その手つきに、迷いはなかった。
河原の枯れ草を握り拳ほどにまとめ、中心に空洞を作る。
拾ってきた小枝を井桁に組み、その上に細い炭を立てかける。
風上に身体を置き、着火剤を最小限だけ使って、下から一度だけ息を吹き込む。
——ぼっ。
三十秒で、火が立った。
「……お前」
五郎が、目を丸くした。
「なんで、そんなに上手いんだ」
「野宿、慣れてるから!」
ルカは、屈託なく笑った。
澪の顔が、引きつった。
玲奈が、何も飲んでいないのに咳き込んだ。
零は、静かに天を仰いだ。
「……野宿」
「ルカは火起こし係! リリアは、おにーさんの係!」
「……ん。適材適所」
「そこ、適材適所で決めていいところじゃないと思う」
正午。
火が安定すると、状況は一変した。
焼き場に立ったのは、零と奈々美の二人だった。
網の右端に肉。中央に野菜。左端に、焼けたものを寄せる。
母が肉を置き、息子が野菜を返し、母が焼けたものを寄せ、息子が皿に取り分ける。
二人の間に、会話はほとんどなかった。
「……おい、母さん。俺の出番は」
「あなたは炭の補充ね」
「炭か」
「大事なお仕事よ」
五郎は、大真面目に頷いて、炭袋の前に座り込んだ。
こうして、この日の焼き場から、主催者が最初に追放された。
「お手伝いいたします」
真里が、袖をまくって焼き場に立った。
三十秒後。
「……私は、切る係に回ります」
真里は、静かに包丁の前へ移動した。
福音の鐘の実行部隊長が、あっさりと撤退した。
「わたくしも、何かお手伝いを」
ルディアが、網に手を伸ばしかけた。
「あら、危ないわよ。熱いから」
奈々美が、優しく、しかし有無を言わせずその手を押し戻した。
「……はい」
教団の最高指導者が、素直に引き下がった。
真里と宮子が、信じられないものを見る目で主を見つめていた。
「温かいスープを持ってきたのだけれど」
ヴィクトリアが、魔法瓶を差し出した。
「ありがとうございます。……身体が冷える頃に、お出ししますね」
零は、自然にそれを受け取って、コンロの端の暖かい場所へ移した。
ヴィクトリアは、何も言えずに口を閉じた。
(……この子、母親と組むと手がつけられないわね)
十二時半。
皿が、次々に回っていく。
「三神さんのごはん、いちばんすき」
奈緒が、焼きおにぎりを頬張りながら宣言した。
「お兄ちゃんのご飯は、私が一番長く食べてるから」
玲奈が、即座に応戦する。
「……リリアは、夜食をもらった」
「夜食!?」
「え、待って。夜食って何の話」
澪が、身を乗り出した。
零の背中に、冷たい汗が流れた。
「……私は、四週間ずっと一緒だったけれど」
正面の席で、緋雪が静かに湯呑みを置いた。
その一言に、テーブルが静まり返った。
「え」
「四週間?」
「零、それ何の話だ」
「研修! 研修の話だから!」
零の叫びが、河原に響いた。
白鳥だけが、事情を知っている顔で、生温かく見守っていた。
凛花は、その隣で焼きそばを三人前食べていた。
「……周防さん、よく食べるな」
シルヴィアが、感心したように言った。
「普段、こういうものを食べないので」
「協会の食堂は、そんなに貧相か」
「いえ。……任務中に、ゆっくり食べる機会がないだけです」
凛花は、四人前目に箸を伸ばした。
午後一時。
奈々美が、ふと手を止めた。
少し離れたテーブルで、ルディアとヴィクトリアが並んで座っている。
互いに一言も交わさず、それぞれ背筋を伸ばして、紙皿を膝に置いたまま。
「お二人とも」
奈々美が、皿を持って近づいていった。
「……はい?」
「姿勢がいいのね。それに、手の使い方も」
二人の動きが、同時に止まった。
「立ってるだけで、いつも周りを見てるでしょう」
奈々美は、にこやかに続けた。
「誰かを守るお仕事の人の、癖よ」
ルディアの指先が、僅かに震えた。
ヴィクトリアの微笑みが、初めて張り付いたものになった。
「……お母様は、なぜそう思われますの」
「あら、なんとなくよ」
奈々美は、笑って二人の皿に焼きたての肉を取り分けた。
「でも、今日くらいは、座ってちゃんと食べなさいな。お肉、まだたくさんあるから」
裏社会の頂点に立つ二人は、並んで大人しく座ったまま、黙って肉を食べることになった。
焼き場では、零が菜箸を落としかけていた。
午後二時。
川辺では、水切りの勝負が始まっていた。
「えいっ!」
「わあっ、いま五回跳ねた!」
奈緒と玲奈と双子が、川面に向かって平たい石を投げ続けている。
シルヴィアとレイラが参戦し、なぜか凛花が審判役にされていた。
「り、凛花さん。今のは反則では」
「凛花さん、今の絶対魔法使った!」
「……使ってません」
凛花の投げた石は、対岸に届くまで十七回跳ねていた。
少し離れた河原の石の上では、零と緋雪が並んで座っていた。
「……あなたの交友関係、どうなってるの」
「半分は緋雪さんのせいだと思う」
「あら」
緋雪は、川面を眺めたまま笑った。
「でも、いいと思うわ」
「なにが」
「……こういう日が、たまにはあっても」
河原では、父が炭を足し、母が焼きおにぎりを配り、姉が胃薬を飲み、妹が石を投げて笑っている。
その周りに、本来なら決して同じ場所にいるはずのない人々が座っている。
零は、川面に映る光をしばらく眺めていた。
「……うん。たまには、いいかも」
午後四時。
撤収は、異様な速さで終わった。
テーブルが畳まれ、炭が消され、ゴミが分別され、忘れ物の確認まで済むのに、十分とかからなかった。
誰も指示を出していない。全員が、自分の持ち場を勝手に見つけていた。
「……お前ら、こういうの得意なんだな」
五郎が、感心したように言った。
「普段から、こういうことをされてるのかい」
「「…………」」
河原にいた大人たちが、一斉に視線を逸らした。
「三神さん」
帰り際、奈緒が零の袖を掴んだ。
反対側の袖を、リリアが掴んでいた。
「……またくる?」
「……ん。また、やる?」
零は、二人の頭を順番に撫でた。
「うん。また、やろう」
その後ろで、五郎が高らかに宣言した。
「よし、次は春だ! 花見だ!」
澪が、ついに胃薬を二錠出した。
夜。
三神家の風呂上がり、零の部屋。
窓を開けると、向かいの屋根に赤いリボンの影が座っていた。
今夜の見張り番は、ルカらしい。
零が小さく手を振った時、スマートフォンが震えた。
緋雪からのメッセージだった。
『今日は、ありがとう。おにぎり、三つももらってしまったわ。
……それと、楽しかったところに悪いのだけれど。
由鶴から、例の件の結論が出たと連絡があったの。
協会の技術部門の、あの人が誰なのか。
明日、直接話したい』
零は、しばらくその文面を見つめていた。
河原の笑い声が、まだ耳の奥に残っている。
肉の匂いも、風の冷たさも、奈緒の小さな手の感触も。
だが、明日からはまた、別の話が始まる。
零は、窓を閉めて、緋雪の番号を呼び出した。




