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未登録の魔法少女  作者: 浅川


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第二百六十八話

 火曜日の、午前六時半。

 零が玄関の扉を開けると、三和土の真ん中に人が立っていた。

 腕を組んだ、パジャマ姿の姉である。


「……おはよう、姉ちゃん」


「連絡を入れなさいって、言ったわよね」


 澪の声は、低かった。


「……ごめん。途中で、電池が切れて」


「モバイルバッテリー、持たせたでしょうが」


「……それも、切れた」


 零は、頭を下げた。

 嘘ではない。電池が切れたのは本当だ。

 凪域の中では、どのみち電波も通信も死んでいた。

 ただ、その後に何があったのかだけが、丸ごと言えなかった。

 人が薬を飲んで魔獣に変わり、それを氷漬けにして、夜明けの庭で味噌汁をすすった。

 どこから話しても、姉を安心させられる話にはならなかった。


「……もういいわよ」


 澪は、溜息を吐いた。


「無事ならいい。でも、次はないからね」


「……うん」


「あと、その格好」


 澪は、零の制服を指さした。

 ズボンの裾は土で汚れ、袖には枯れ草の切れ端が引っかかっている。


「どこで何してたのよ」


「……畑の近くで、転んだ」


「畑」


「郊外だったから」


 澪は、それ以上は追及しなかった。

 代わりに、零の肩についた枯れ草を、指先で一本ずつ摘んで払った。

 文句を言う時も、この人の手つきはいつも丁寧だった。

 台所から、味噌汁の匂いが漂ってきた。


「零? 帰ったの?」


 エプロン姿の奈々美が、廊下に顔を出した。

 そして、零の服を見た瞬間、その目が僅かに細められた。


「……土と、草の汁ね」


「うん。転んで」


「靴の裏は?」


「え?」


「泥、乾いてるわね。……しばらく歩いたのね」


 奈々美は、そこまで言って、口を閉じた。

 しばらく零の顔を見つめてから、ふっと表情を緩める。


「お味噌汁、温め直してあるから。少し寝なさい」


「……うん。ありがとう、母さん」


 奈々美は、それ以上は何も聞かなかった。

 台所に戻る背中を、零はしばらく見つめていた。

 土と草の汁。乾いた泥。

 普通の母親が、朝の忙しい時間に、息子の靴の裏まで見るだろうか。

 この人は、時々こういうことをする。

 息子が転んだと言えば、そこで納得して終わるはずのところで、歩いた距離まで言い当ててしまう。


(……たまに、母さんは鋭い)


 廊下の奥から、背広姿の五郎が現れた。

 鞄を手に、玄関へと向かってくる。


「おう。帰ったか」


「……ただいま、父さん」


「飯は、食ったのか」


「これから」


「そうか」


 五郎は、それだけ言って靴を履いた。


「行ってくる」


「いってらっしゃい」


 零は、何も聞かれなかったことに、少しだけ救われた気がした。

 午前中の授業は、半分も頭に入らなかった。


「零。おい、零」


 休み時間、稔が机の横に立っていた。


「お前、最近やつれすぎだろ。鏡見たか?」


「……見てない」


「目の下、真っ黒だぞ。彼女に絞られてるのか?」


「違う」


「宮内庁か?」


「……それも、違う」


「じゃあ何なんだよ」


 零は、机に突っ伏したまま答えなかった。

 昨夜、人が魔獣に変わる音を聞いた、とは言えなかった。

 骨が軋む音も、歓喜の悲鳴も、この教室の空気には何一つ馴染まない。

 黒板の前では、日直が今日の献立を書き込んでいる。

 窓の外では、グラウンドの整備をする体育教師の声が響いていた。

 自分の夜と、この昼とが同じ世界の出来事だということが、零には時々分からなくなる。


 四時間目の後、教室に担任と一緒にヴィクトリアが入ってきた。


「今日で、教育実習は最終日となります」


 紺のパンツスーツのヴィクトリアが、教壇の前で丁寧に頭を下げた。


「短い間でしたが、皆さんと過ごせて、とても楽しかったわ」


「えーっ、もう終わり!?」


「先生、本国どこですか!」


「連絡先教えてください!」


 教室中が、騒がしくなった。

 ヴィクトリアは、優雅に微笑んで受け流している。

 昼休み、廊下ですれ違う時。

 ヴィクトリアは、零にだけ聞こえる声で言った。


「……昨夜のこと、ありがとう」


「……いえ」


「噂話は、大事なものね。本当に」


 ヴィクトリアは、名札を外しながら歩いていった。

 その背中は、どこか楽しそうだった。


 同じ頃。

 白百合の盾、会長室。


「——白百合の盾としてではなく、私個人として参加しました」


 緋雪は、姫嶋結衣の前で、まっすぐに立っていた。


「星監、福音の鐘、翼の家、そして協会の周防凛花さん。……頂点に、ゴーストがいます」


「名前は」


「円卓、と」


 結衣は、書類から顔を上げた。

 しばらく、何も言わずに緋雪を見つめる。

 窓の外では、訓練場の掛け声が風に乗って届いていた。

 この人の前で嘘をついたことは、一度もない。

 嘘を許さない人だからではなく、嘘をつく必要がないように組織を作ってきた人だからだ。


「羽衣さん。それは、組織としての白百合を裏切る行為だと、分かっていますか」


「……はい」


「その上で、報告に来たのですね」


「はい」


 結衣は、眼鏡の位置を直した。


「では、私は止めません」


「……会長」


「あなたが決めたのなら、私が口を挟むことではありません」


 結衣は、机の上で指を組んだ。


「ただし、一つだけ」


「はい」


「白百合として動けない場面が、必ず来ます。その時、あなたは一人になります」


 結衣の声は、静かだった。


「組織の看板は、便利ですが、重いものです。……外した瞬間、誰も守ってはくれません」


「覚悟の上です」


「そうですか」


 結衣は、そこで初めて、僅かに表情を緩めた。

 協会と決別し、自分たちの旗を立てた人である。

 組織の看板を外す重さを、この部屋で一番よく知っているのは、おそらくこの人だった。


「では、頑張りなさい」


 会長室の隅で、新実由鶴が端末を操作していた。


「では、私からもご報告を」


 由鶴は、立体映像を宙に投影した。

 複雑に絡み合った術式の図が、ゆっくりと回転する。


「昨夜押収された、劣化版の聖薬の解析結果です」


「……変身固定の術式ね」


「ええ。ただし、化学的に再現されたものです」


 由鶴は、図の一部を拡大した。


「この術式の記述の癖ですが。……戦姫時代に発表された、ある論文の記述と酷似しています」


「戦姫」


「協会の前身組織です。その論文の著者は、椎葉」


 緋雪の目が、鋭くなった。


「椎葉は、拘束中のはずよ」


「ええ。ですから、書いたのは椎葉ではありません」


 由鶴は、眼鏡を押し上げた。


「椎葉の論文を読み込み、その癖まで真似できる人間。協会の技術部門で、保管庫の鍵を持ち、あの三人のうちに名を連ねる者」


「……絞れたのね」


「一人に」


 由鶴は、投影を消した。

 消える直前、術式の図の一点が、赤く明滅していた。

 由鶴が三日前から追い続けている、たった一つの筆の癖である。


「ただし、確証はまだです。……私は、間違えたくないので」


 その言葉には、彼女なりの重さがあった。

 名指しは、当たれば組織を正し、外せば一人の人生を壊す。

 由鶴は、そのどちらの目方も承知した上で、まだ手札を伏せていた。


 同じ頃。

 桐宮邸、奥の執務室。


「——それで?」


 文机の前に座った桐宮隆嗣が、報告を聞き終えて顔を上げた。


「星監と、福音の鐘と、協会のトップエースと、白百合のトップエースが」


「はい」


「同じ卓を囲んで、組織を作ったと」


「はい」


「頂点は、三神零だと」


「……左様でございます」


 隆嗣は、しばらく黙っていた。


 そして、声を上げて笑い出した。


「……殿下」


 傍らに控えていた夕日紅が、困ったように眉を寄せた。


「お笑いになりすぎです」


「いや、すまない。……すまないが、これは笑うところだろう」


 隆嗣は、目尻を拭った。


「考えてもみろ。国が十年かけてもできなかったことだ」


 彼は、文机の上に広げられた報告書を指で叩いた。


「協会と白百合は仲違いし、星監と福音の鐘は殺し合い、我々は公には存在しないことになっている。……その全てが、一晩で同じ卓についた」


「……確かに」


「しかも、誰も命令されていない。全員が、勝手に集まったのだ」


 隆嗣の目には、笑いの余韻と、それ以上の熱が宿っていた。

 隆嗣は、報告書を閉じた。

 そして、表情を引き締めた。


「紅」


「はい」


「今日から、皇室はこの件を知らん」


「……と、申されますと」


「『円卓』という組織は存在しない。我々は、何も聞いていない。記録にも残すな」


 隆嗣は、静かに続けた。


「だが、裏からは全て支える」


「全て、でございますか」


「叢雲は有事の遊撃。ただし、決して姿を見せるな。八咫は情報の提供。勾玉は解析と、補給の一切」


「補給、まで」


「あの家は、半壊したのだろう」


 隆嗣は、僅かに口の端を上げた。


「建材くらい、いくらでも出してやれ。……伝票の送り主欄は、空白にしておけ」


 夕日紅は、深く頭を下げた。


「承知いたしました。……ですが、殿下。なぜ、そこまで」


「紅」


「はい」


「十一年前、私を助けてくれた者は、名乗らずに去った」


 隆嗣は、庭の松を見つめた。

 冬枯れの庭に、ひときわ大きな影が落ちている。

 十一年前のあの日、燃え落ちる街の中で、自分の手を引いてくれた背中があった。

 白銀の髪だけが、今も鮮明に残っている。


「名前も、見返りも求めない者が、この国を支えている。……ならば、支える側にも、名乗らない者がいていいだろう」


「……殿下」


「それに、面白いではないか」


 隆嗣は、また少しだけ笑った。


「三神零に伝えろ。……『必要なものは言え。名前は出さん』と」


 火曜日の夕方。

 翼の家の庭先には、朝から人の出入りが絶えなかった。

 星監の実働部隊が、トラックから資材を運び込む。

 白い衣を脱いだ福音の鐘の信徒たちが、崩れた土塀に新しい土を塗っていく。

 シルヴィアが風の魔力で梁を支え、その下で真里が的確に指示を飛ばしていた。


「ルカ! そっち持って!」


「……ん。釘、あと三本」


 ルカとリリアは、縁側の板張りに熱中していた。

 大鎌と双剣を振るう時と同じ真剣さで、金槌を振り下ろしている。

 昨夜、この庭で何人もの人間が人の形を失った。

 その同じ土の上に、今は木の匂いと、鋸を挽く音と、誰かの笑い声が積み重なっていく。

 壊すのは一晩で、直すのは何日もかかる。

 それでも、直す側の音のほうが、ずっと賑やかだった。


「ルカ、そこ曲がってる」


「うるさい! リリアだって曲がってる!」


「……リリアのは、味」


「ずるい!」


 その様子を、翼の家の少女たちが、遠巻きにくすくす笑いながら見ていた。

 昨夜、この二人が魔獣を薙ぎ倒していたことを知っている者は、誰も笑わなかっただろう。


 昼過ぎ、正体不明のトラックが二台、庭先に横付けされた。


「……これ、誰の手配?」


 白鳥が、伝票を覗き込んだ。

 送り主の欄は、真っ白だった。


 荷台から降ろされたのは、上等な檜の柱と、真新しい瓦と、丁寧に梱包された障子紙だった。

 どう見ても、この家の予算で買えるものではない。

 柱の断面は、素人目にも分かるほど目が詰まっている。

 運び込む信徒たちが、扱いに困って何度も持ち直していた。


「星監じゃないわよ」


「福音の鐘でもございませんわね」


 ヴィクトリアとルディアが、同時に首を傾げた。


「……いいから、使いましょう」


 ゴーストが、ぽつりと言った。

 二人は、それ以上詮索しなかった。


「発注の件だけれど、ルディア・ロンディニウム」


「なんですの、ヴィクトリア・ローゼンベルグ」


「土塀の資材、こちらで手配済みよ。二重になっているわ」


「あら。わたくしも手配いたしました。……あなたが気が利かないと思いましたので」


「……つまり、二人とも多めに頼んだのね」


「そのようですわね」


 二人は、同時に顔を背けた。

 結果として、翼の家の土塀は、当初の計画より随分と立派になることが決まった。


 夕方。

 庭の隅では、白鳥と少女たちが、新しい看板を作っていた。

 割れた看板の破片は、奈緒が全て拾い集めてある。

 それを木箱に納めて、新しい板を切り出した。


「奈緒ちゃん。形、どうする?」


「まるいの」


 奈緒は、即答した。


「えんたくは、まるいつくえ。……だから、まるいの」


「……そうね」


 白鳥は、微笑んで鋸を入れた。

 丸く切り出された板に、翼の家の少女たちが順番に筆を入れていく。

 一人が縁を整え、一人が下書きをし、一人が墨を継ぎ足す。

 昨夜、錠剤に手を伸ばしかけた少女は、一番最後に筆を受け取った。

 その手は、もう震えていなかった。


『翼の家』


 最後に、奈緒が小さな翼の絵を描き足した。

 少しいびつで、左右の大きさが違う翼だった。


「……上手」


 凛花が、巡回の途中で立ち寄って、その絵を覗き込んだ。


「ありがとう、りんかさん」


「奈緒さん、あばらは?」


「なおった」


「治ってません。宮子さんから聞いています」


「……ちょっとだけ、いたい」


 凛花は、溜息を吐いて、奈緒の頭を撫でた。

 任務帰りの緋雪が合流したのは、日が落ちる直前だった。


「……ずいぶん、進んだのね」


「ええ。人手が、多すぎるくらい」


 ゴーストが、庭先を見渡した。

 星監の隊員と、福音の鐘の信徒が、並んで土を運んでいる。

 協会のトップエースが、翼の家の少女と一緒に釘を拾っている。

 誰も、互いの組織の話はしていない。

 誰がどこの所属で、昨日まで何をしていたのか。

 訊けば答えるだろうし、訊かれれば面倒になる。だから、誰も訊かない。

 その沈黙が、この庭では礼儀として機能し始めていた。

 約束の二つ目が、早くも守られていた。


 夜。

 三神家の食卓には、鶏の照り焼きと、ほうれん草の胡麻和えが並んでいた。


「——よし、決めたぞ」


 五郎が、茶碗を置いて宣言した。


「今度の日曜、バーベキューだ」


「急ね」


 澪が、呆れたように言った。


「思い立ったが吉日だ。河原の予約は、もう取ってある」


「取ってあるの!?」


「肉屋にも話は通した。父さん、いいのを仕入れてもらう」


 五郎は、なぜか誇らしげに胸を張った。

 奈々美が、台所から笑い声を上げる。


「じゃあ、私はおにぎりとサラダを用意するわね」


「お兄ちゃん!」


 玲奈が、身を乗り出した。


「奈緒ちゃんも、呼びたい!」


 零の箸が、止まった。


「……奈緒を?」


「うん。だって、私の妹みたいなものだもん。バーベキュー、絶対喜ぶ」


「そりゃあいい」


 五郎が、即座に賛成した。


「玲奈の妹分なら、うちの娘みたいなもんだ。肉、増やすか」


「あなた、増やしすぎよ」


「……分かった。白鳥さんに、聞いてみる」


 零は、頷いた。

 奈緒が喜ぶ顔は、簡単に想像がついた。


「それと、緋雪ちゃんは?」


 奈々美が、当然のように言った。


「呼ぶんでしょう?」


「……呼びます」


「あらあら」


「ついに公認ね」


 澪が、にやにやしながら肘で零を小突いた。


「私からも誘っておこうかしら。白百合の後輩たちも、一緒に——」


「それはやめて」


 零は、即座に遮った。


「なんでよ」


「……人数が、増えすぎる」


「ケチくさいわね」


 澪は、不満そうに口を尖らせた。


「じゃあ、玲奈の呼びたい人は?」


「奈緒ちゃんと、白鳥さん。……あと、協会の凛花さん!」


「凛花さん?」


 澪が、目を丸くした。


「周防凛花? あの、協会のトップエースの?」


「うん。奈緒ちゃんと仲良しなの」


「……なんで玲奈が、協会のエースと知り合いなのよ」


「白百合のお仕事で、何回か」


 玲奈は、平然と答えた。

 零は、味噌汁を飲むふりをして、視線を逸らした。


「じゃあ、緋雪さんから凛花さんに聞いてもらう?」


「そうね。そのほうが早いわ」


 話は、あっという間にまとまった。

 零は、食卓の会話を聞きながら、静かに天井を見上げた。

 話は、もう自分の手を離れて転がり始めていた。

 こうなると、この家の決定は速い。父が場所を押さえ、母が料理を決め、姉と妹が人を呼ぶ。

 止める理由を説明できない以上、止めようもなかった。


(……緋雪さん、姉ちゃん、玲奈、凛花さん、奈緒、白鳥さん)


 河原で、肉を焼く。

 円卓の顔ぶれの半分と、家族が、同じ場所に集まる。


(……大丈夫か、これ)


 その隣で、五郎が上機嫌に炭の銘柄を語り始めていた。


 深夜。

 魔法少女協会、本部ビル。

 技術部門のフロアは、非常灯だけが灯っていた。

 その一角、パーティションで区切られた席に、一人の職員が座っている。


 端末の画面には、昨夜の郊外での事案の記録が表示されていた。


 『魔力反応異常・郊外地区』

 『民間人負傷者なし』

 『対象十四体、身柄は所属不明の機関へ移送』


 職員は、その最後の行を、しばらく見つめていた。

 所属不明の機関。

 協会の記録係が書ける言葉の中で、それが最も無難で、最も何も言っていない一行だった。

 画面の光が、伏せた顔を青白く照らしている。

 それから、私物のスマートフォンを取り出し、どこかへ短い文面を送った。


 『移送先、追跡不能。現場に、星監と福音の鐘。両者、協働の模様。

  ……円卓、という名前だそうです』


 送信を終えると、職員は端末の電源を落とした。

 非常灯の緑の光の中を、足音もなく歩いていく。


 誰もいないフロアに、保管庫の扉が閉まる音だけが、小さく響いた。

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