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未登録の魔法少女  作者: 浅川


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第二百六十七話

 骨の鳴る音が、畑の上のあちこちで響いた。

 二錠目を飲み込んだ者たちの身体が、次々と形を失っていく。

 背が反り返り、肩が膨れ、白い衣を裂いて黒い剛毛が噴き出す。

 十体以上が、人の形を失った。

 残りの二十数人も、正気ではなかった。

 一錠だけを飲んだ者たちが、制御できない魔力を撒き散らしながら、意味の分からない言葉を叫んでいる。


「緋雪さん、凛花さん」


 ゴーストは、大剣を構え直した。


「家に、一歩も近づけないで」


「ええ」


「はい!」


「白鳥さん! 中の子たちを、奥へ!」


「分かった!」


 白鳥が、六人の少女を居間の奥へと押し込んでいく。

 その背後で、半分だけ人の形を残した魔獣が、縁側に向かって跳んだ。


「——だめ」


 白い冷気と、紅蓮の炎が、同時に走った。

 跳んだ魔獣の四肢が凍りつき、その凍結ごと炎に弾かれて、庭の土へと叩き落とされる。

 縁側に、奈緒が立っていた。


「ここ、みんなのおうち」


 紅色の瞳が、静かに燃えていた。


「こわしちゃ、だめ」


 庭先は、混戦になっていた。


 ゴーストは、影から影へと跳びながら、家に近づく個体だけを選んで叩き落としていく。

 だが、数が多すぎた。

 その時。

 庭の隅で、一人の少女がしゃがみ込んでいた。

 翼の家の年長の少女が、地面に転がった白い錠剤へ手を伸ばしていた。


「……これを飲めば」


「やめて!」


 白鳥の声が飛んだ。


「これを飲めば、私も戦えるんですよね」


 少女の目から、涙が零れていた。


「だって、みんな私たちを守るために、あんなに……! 私だけ、隠れてるなんて……!」


 少女が、錠剤を口元へ運んだ。


 ——パシィッ!


 その手から、錠剤が弾き飛ばされた。

 いつの間に移動したのか、ゴーストがすぐ目の前に立っていた。


「……ゴースト、さん」


「戦う力をあげるために、あなたを助けたんじゃないわ」


 ゴーストの声は、静かだった。

 だが、その手は、微かに震えていた。


「九州の施設から、あなたを連れ出した時。……私は、あなたに生きてほしかったの」


「……でも」


「あなたが守りたいものは、あなたが生きていないと守れない」


 少女は、しばらく地面を見つめていた。

 それから、崩れるようにその場に座り込み、声を上げて泣き出した。


 白鳥が駆け寄って、その背中を抱きしめる。


「ごめんね。……ごめんね」


 ゴーストは、踏み砕いた錠剤から視線を上げた。

 白い列の向こうで、第九使徒が微笑んでいた。

 その時。


 ——ドォォンッ!


 あぜ道の向こうで、爆音が上がった。

 黒塗りの車の列が、畑の脇に停まっていた。

 その先頭から降り立ったのは、白の礼装を纏った黄金の髪の女である。


「——お待たせいたしましたわ」


 ルディア・ロンディニウムが、優雅に一礼した。


「福音の鐘、実行部隊。……ゴースト様のご懸念を、晴らしに参りました」


「ルディアさん……!」


 緋雪が、思わず声を上げた。

 ルディアの背後から、黒い影が次々と飛び出していく。

 漆黒のコートを翻した須藤真里。

 その後ろに続く、赤いリボンと青いリボンの双子。

 最後尾では、医療鞄を抱えた堀宮子が、「また私の仕事が増える……」と胃を押さえながら駆けてきた。


「行くよ、リリア!」


「……ん。家に近い順から」


 ルカの大鎌とリリアの双剣が、跳びかかる魔獣の脚を薙ぎ、その巨体を正確に転倒させる。

 殺さない。動きだけを的確に奪っていく。

 そして、反対側のあぜ道から。


 ——バリィィッ!


 紫電が、地面を舐めるように走った。

 魔獣化した数体が、一斉に痙攣して崩れ落ちる。


「あら。ずいぶん賑やかね」


 プラチナブロンドの髪を夜風に揺らしながら、ヴィクトリア・ローゼンベルグが歩いてきた。

 その両脇に、シルヴィア・バークスとレイラ・メリクス。

 背後には、星監の実働部隊が展開している。


「ヴィクトリア・ローゼンベルグ」


 ルディアが、露骨に眉を寄せた。


「あなた、なぜここに」


「あなたこそ、ルディア・ロンディニウム。……レジ打ちの時間ではなくて?」


「本日は非番ですわ」


 二人は、一瞬だけ睨み合った。

 次の瞬間には、背中合わせで別々の方角へ魔力を放っていた。


「シルヴィア、右翼を。レイラは、負傷者の手当てを」


「了解」


「はい」


 ゴーストは、一連の光景を見ていた。


(……二人とも、来た)


 自分は、何も頼まなかった。

 ただ、噂話をしただけだ。


 それだけで、この人たちは動いた。

 零としての言葉が、ゴーストの名前を借りずに、人を動かしてしまった。


(……ありがたい。でも、怖い)


 その思いを、今は飲み込むしかなかった。


「——お見事です」


 混戦の中心で、第九使徒が槍を回した。


「ですが、それは救いではありません」


 次の瞬間、その姿が消えた。


「——縁側!」


 緋雪が叫んだ。

 第九使徒は、庭を一足で飛び越え、縁側の直前に降り立っていた。

 その正面に、奈緒が立っている。


「こんばんは」


 第九使徒は、優しく微笑んだ。


「あなたが、器ですね。一緒に来ていただけますか」


「……いかない」


 奈緒は、両手を広げた。

 左手に白い冷気。右手に紅蓮の炎。


「ここ、みんなのおうち」


「まあ」


 第九使徒の目が、僅かに見開かれた。


「氷と、炎。……同時に、それも、これほどの出力で」


 第九使徒は、心底感嘆したように息を吐いた。


「ああ、本当に器なのですね。……あの方々が欲しがるはずです」


 奈緒が、地を蹴った。


 炎の拳が、第九使徒の顔面を狙う。

 だが、その腕は、槍の柄に絡め取られていた。


「力は本物。でも」


 第九使徒は、奈緒の腕をひねり上げた。


「戦い方を、誰にも教わっていませんね」


「——っ!」


「十二年、戦い続けてきた者との差です」


 槍の石突きが、奈緒の腹に叩き込まれた。

 小さな身体が、縁側の柱に激突する。


「奈緒!」


 ゴーストの叫びと同時に、闇が爆ぜた。

 第九使徒が振り返った時には、すでに漆黒の大剣が振り下ろされていた。

 咄嗟に交差させた二本の槍が、その一撃を受け止める。


 ——ガキィィンッ!


 縁側の板が、衝撃で吹き飛んだ。


「……いい一撃です」


「奈緒に、手を出すなと言ったはずよ」


 ゴーストの声から、温度が消えていた。


「『深淵の重圧』」


 闇が、質量を持って降り注いだ。

 今度は、第九使徒の膝が、僅かに沈む。


「……ほう」


「まだよ」


 ゴーストの姿が、影に溶けた。

 第九使徒の背後。

 その死角から、闇を纏った刃が跳ね上がる。


 ——バキィッ!


 乾いた音とともに、第九使徒の右の槍が、半ばから折れ飛んだ。


「……あら」


 第九使徒は、折れた槍を見下ろした。

 初めて、その表情から余裕が消えた。


「ゴースト!」


 緋雪の氷が、左右から第九使徒を包囲する。

 同時に、上空から黄金の光が降り注いだ。


「ゴースト様のお邪魔は、させませんわ」


 ルディアの光が、退路を塞ぐ。

 さらに、紫電が地面を這って、逃げ場の最後の一つを潰した。


「……包囲、完了よ」


 ヴィクトリアが、指先に雷を灯したまま微笑んだ。

 第九使徒は、ぐるりと周囲を見渡した。

 漆黒のドレスの少女。氷の剣士。光の剣の少女。

 黄金の髪の教祖。プラチナブロンドの総帥。

 大鎌と双剣の双子。漆黒のコートの女。治癒の少女たち。


「……これは」


 第九使徒は、可笑しそうに肩を揺らした。


「ずいぶんと、面白い顔ぶれが揃うものですね」


「投降して」


 ゴーストが、大剣を突きつけた。


「あなたたちのやっていることは、救いじゃない」


「あら」


 第九使徒は、折れた槍を無造作に投げ捨てた。


「では、この方々は?」


 その視線が、庭中に倒れ伏す元信徒たちへと向けられた。

 人の形を失い、氷や雷に縛られ、それでも唸り続けている者たち。


「あの方々は、もう翼を得ました。役目は、果たしています」


「……役目」


「ええ。素晴らしい献身です」


「あなた、あの人たちを道具にしたのね」


「いいえ」


 第九使徒は、微笑んだままだった。


「救われた方々です」


 その瞬間、庭先の空気が凍りついた。

 ルカが、大鎌を握る手に力を込めた。

 凛花の光の剣が、怒りで明滅する。


「今夜は、ここまでにしておきましょう」


 第九使徒は、残った一本の槍を掲げた。

 その穂先が、まばゆい光を放つ。


「——っ、目が!」


 視界が、白く塗り潰された。

 光が収まった時、そこにはもう、白い法衣の少女はいなかった。

 ただ、声だけが、夜風の中に残った。


『次にお会いする時は——あなたを縛る者として伺います、ゴースト』


 その本当の意味を知る者は、この場にゴーストしかいなかった。


 夜明け前。

 魔獣化した者たちは、全員が氷の中に封じられていた。

 緋雪の氷棺に、宮子とレイラの術式が重ねられ、崩れないように固定されている。


「……死者は、ゼロです」


 凛花が、報告するように呟いた。


「重傷は五名。全員、宮子さんとレイラさんが処置を」


「奈緒は?」


「あばらに、ひびが入っていますが……」


「平気」


 毛布にくるまった奈緒が、縁側でむくれていた。


「いたくない」


「嘘おっしゃい」


 レイラが、その額を軽く小突いた。

 翼の家は、半壊していた。

 庭は抉れ、土塀は崩れ、縁側は吹き飛んでいる。

 門柱に掛かっていた木の看板は、真っ二つに割れて畑に落ちていた。


 誰からともなく、瓦礫の片付けが始まった。


 ルカとリリアが、崩れた壁材を二人がかりで運んでいく。

 シルヴィアが、倒れかけた納屋を風の魔力で押さえ、星監の隊員が支柱を打ち込む。

 真里が、どこからか調達してきた大鍋で湯を沸かし始めた。

 宮子とレイラは、並んで少女たちの手当てを続けている。

 奈緒は、畑に落ちた看板の破片を、一つずつ拾い集めていた。


「……皆さん」


 白鳥が、集まった全員に向かって、深く頭を下げた。


「この家を守ってくださって、ありがとうございました」


「気になさらないで」


 ヴィクトリアが、コートの埃を払った。


「それより、ルディア・ロンディニウム。……あの白い法衣の少女、何者か知っていて?」


「いいえ。存じ上げませんわ、ヴィクトリア・ローゼンベルグ」


 ルディアは、正直に首を振った。


「あれほどの魔力を持つ者が、裏社会のどの名簿にもございません。……わたくしの耳にも、一切入っておりませんでした」


「十二使徒の、第九使徒」


 ゴーストが、静かに言った。

 全員の視線が、集まる。


「あの組織は、十二年前からあるそうよ。最高幹部が十二人。……全員が、変身を固定したまま生きている」


「変身の、固定」


 ヴィクトリアの目が、鋭くなった。


「……変身したまま、十二年?」


「そう本人が言ったわ。魔力は消耗せず、身体も歳を取らない。……それを、彼らは『救い』と呼んでいる」


 庭先が、静まり返った。


「今夜来たのは、そのうちの一人だけよ」


 ゴーストは、割れた看板に視線を落とした。


「あと、十一人いる」


「……次があるわね。それも、遠くない」


 ヴィクトリアが、紫水晶の瞳を細めた。


「ええ。今夜のあれは、様子見ですわ」


 ルディアの表情からも、笑みが消えていた。


「一人だけ寄越して、こちらの手札を数えていったのです。……次は、数で参りましょう」


「——一つ、頼みたいことがあるの」


 ゴーストが、口を開いた。

 全員の視線が、再び集まる。


「今夜、ここに集まった全員に」


 ゴーストは、指を折りながら続けた。


「一つ。この家と、この周辺に危機が及んだ時は、所属を問わず駆けつけること」


「二つ。互いの組織の事情には立ち入らないこと。ここで見たものは、外に持ち出さないこと」


「三つ。連絡は、全て白鳥さんを中継点にすること。それぞれ、白鳥さんと直通の手段を渡して」


「四つ。この家の中では、誰も武器を抜かないこと」


 沈黙が落ちた。


「そ、そんな」


 最初に声を上げたのは、白鳥だった。


「皆さんに、そこまでしてもらうわけには……! ここは、私が始めたことで」


「白鳥さん」


 ゴーストは、静かに首を振った。


「あなたに頼んでいるんじゃないわ」


「え」


「私が、この人たちに頼んでいるの」


 白鳥は、口を開いたまま固まった。

 それから、両手で顔を覆って、深く頭を下げた。


「……ありがとう、ございます」


「——お言葉ですが、ゴースト様」


 ルディアが、一歩前に出た。


「その取り決めでは、足りませんわ」


「……足りない?」


「ええ。約束というものは、破っても誰も困らない」


 ルディアは、庭に倒れ伏す氷の塊を見渡した。


「今夜、わたくしどもがここに来られたのは、偶然です。噂を聞き、勘を頼りに車を出しただけ。……次に十二人が来た時、同じ偶然が起きる保証はございません」


「では、どうしろと」


「組織に、いたしましょう」


 ルディアは、微笑んだ。


「福音の鐘、星監、翼の家。そして、羽衣緋雪様と、周防凛花様」


「待って。それは」


「頂点には、ゴースト様に立っていただきます」


 庭先の空気が、止まった。


「……私が?」


「当然ですわ」


 ルディアは、当たり前のことを言うように答えた。


「今夜、この場にいる全員が、あなたのために動きました。所属も、立場も、利害も違う者たちが。……それができるのは、この国であなただけです」


「わたくしは反対しないわ」


 ヴィクトリアが、あっさりと言った。


「……あなたが賛成するの?」


 ゴーストが、思わず聞き返した。


「ええ。理由は二つあるわ」


 ヴィクトリアは、指を二本立てた。


「一つ。星監は、公には存在しない組織よ。表立って動けば、それだけで国際問題になる。……でも、『別の組織』の一員としてなら、動ける」


「隠れ蓑にする気ね」


「言い方が悪いわね。共同戦線と呼んでちょうだい」


 ヴィクトリアは、悪びれもせずに続けた。


「二つ目。ゴースト様が頂点なら、福音の鐘の暴走を抑える枷にもなる。……この女が一人で動くよりは、よほど安心よ」


「あら。それはこちらの台詞ですわ、ヴィクトリア・ローゼンベルグ」


 ルディアは、優雅に微笑み返した。


「福音の鐘には、大義が要るのです。……わたくしどもは、世間から犯罪組織と呼ばれております。事実、そう呼ばれるだけのことをしてまいりました」


 ルディアの声から、恍惚の色が消えていた。


「ですが、ゴースト様の下で人を守る組織となれば、話は別です。信徒たちに、胸を張れる名分ができる。……それは、わたくしどもにとって、喉から手が出るほど欲しいものですわ」


「私は」


 凛花が、まっすぐに手を挙げた。


「協会としてではなく、私個人として参加します」


「凛花さん」


「協会は、今、内側に問題を抱えています。組織として約束すれば、それは筒抜けになる。……でも、私は、あの子を守りたい」


 凛花の視線が、縁側の奈緒へと向けられた。


「私も同じよ」


 緋雪が、太刀を鞘に納めた。


「白百合の盾としてではなく、羽衣緋雪として。……会長には、いずれ私の口から話すわ」


「翼の家は」


 白鳥が、震える声で口を開いた。


「……守られるだけで、何も出せません」


「いいえ」


 ルディアが、静かに遮った。


「あなた方は、場所を出すのです。……立場の違う者が、武器を置いて同じ卓を囲める場所。それが、この組織には要ります」


 白鳥は、しばらく言葉を失っていた。

 それから、こくりと頷いた。


「……分かりました。ここを、使ってください」


「ルカたちも!」


「……ん。ゴースト様が頂点なら、ルカもリリアも従う」


 双子が、揃って手を挙げた。

 ゴーストは、しばらく黙っていた。

 福音の鐘は、大義が欲しい。

 星監は、隠れ蓑が欲しい。

 凛花と緋雪は、組織の看板を外してまで守りたいものがある。

 白鳥は、場所しか出せないと言いながら、この家を差し出そうとしている。

 思惑は、全員がばらばらだった。

 それでも、この場にいる全員が、同じ方向を向いている。


(……私は、ただの高校生なのに)


 その思いを、ゴーストは飲み込んだ。

 飲み込んで、顔を上げた。


「……分かったわ」


「では」


「ただし、一つだけ条件がある」


 ゴーストは、庭中の氷の塊を指し示した。


「この組織は、人を守るためだけに使うこと。……誰かを潰すために使ったら、私が抜ける」


「承知いたしましたわ」


 ルディアが、深く一礼した。

 ヴィクトリアが、肩をすくめて頷いた。


「名前は、どういたしましょう」


「……今度でいいわ」


 ゴーストは、割れた看板を拾い上げた。


「今は、これを直すほうが先よ」


 真里が、懐から小さな通信端末を取り出して、白鳥に差し出した。


「福音の鐘の緊急回線です。二十四時間、誰かが必ず出ます」


「星監のものも、後で届けさせるわ」


「協会の、私用の番号をお渡しします」


「私のは、もう持ってるわよね」


 白鳥の両手に、次々と連絡手段が積み上がっていった。

 この家の電話帳が、この国で一番物騒なものになったことに、本人だけが気づいていなかった。

 庭先では、真里がヤオヨシの特売品で炊き出しを始めていた。

 大鍋の中で、具沢山の味噌汁が湯気を立てている。

 椀が、次々と配られていく。

 星監の隊員も、福音の鐘の幹部も、白百合のエースも、協会のトップエースも、皆が同じ鍋から注がれた味噌汁をすすっていた。


「ねえ、お姉ちゃん」


 毛布にくるまった奈緒が、ゴーストの袖を引いた。


「みんな、なかよし?」


 庭先が、しん、と静まり返った。

 ヴィクトリアが咳払いをし、ルディアが視線を逸らし、凛花が困ったように笑った。


「……そうよ」


 白鳥が、奈緒の頭を撫でた。


「今日からね」


 しばらくして、白鳥が思い出したように顔を上げた。


「そういえば、名前……。連絡を回すにも、呼び方がないと困りますよね」


 ルディアが、椀を置いて立ち上がった。

 その視線が、崩れた居間の奥へと向けられる。

 瓦礫に半分埋もれながら、脚の折れたちゃぶ台が転がっていた。


「あの卓を囲んで決めたのです。……『円卓』で、よろしいのではなくて」


「円卓」


 ヴィクトリアが、椀の縁越しにルディアを見た。


「悪くないわね。……上下がないように聞こえるところが、特に」


「いい名前だと思います」


 凛花が、小さく言った。


「座る場所に、上も下もない」


「ええ。少なくとも、そう聞こえるわ」


 緋雪が、隣で静かに笑った。

 ゴーストは、何も言わなかった。

 上座も下座もない卓。

 それなのに、全員が同じ方向を向いている卓。

 頂点に誰かを据えておいて、円いと呼ぶのだから、人の付ける名前というのは大したものだった。


「えんたく?」


 奈緒が、首を傾げた。


「まるい、つくえ?」


「そう。丸いお机」


 白鳥が、奈緒の頭を撫でた。


「みんなで囲む、丸いお机」


「……じゃあ、なおしたら、まるいのがいい」


 奈緒は、拾い集めた看板の破片を、両手で抱え直した。


 同じ頃。

 凪域の外れ。

 畑を抜けた先の、街灯のない農道。

 白い法衣の少女が、折れた槍を引きずるようにして歩いていた。

 その行く手に、闇が凝った。

 人の形をした何かが、音もなく立っている。


「……あら」


 第九使徒は、足を止めた。


「そちらの方でしたか」


「その器は、こちらのものだ」


 無響の声には、温度がなかった。


「手を出すな」


「困りましたね」


 第九使徒は、微笑んだ。


「あの器は、海の向こうのお客様がご所望なのです。私どもにも、都合というものが」


「知ったことではない」


「順番は、お守りいただかないと」


 二人の間に、しばらく沈黙が落ちた。


「……あの子には」


 無響が、静かに言った。


「剣姫の血が流れている。お前たちが欲しがる『翼』とは、別のものだ」


「それでも、ご所望なのです」


「……そうか」


 無響の指先が、一度だけ紫色に脈打った。


「では、先に取る」


 その姿が、闇に溶けた。


 第九使徒は、一人残された農道で、折れた槍を見下ろした。


「……まったく」


 そして、誰にともなく呟いた。


「救いの邪魔をする方が、多すぎます」


 東の空が、ゆっくりと明けていった。

 翼の家の庭先では、味噌汁の湯気が、朝日の中に静かに上がっていた。

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