第二百六十六話
月曜日の朝。
零が大通りに出ると、いつものように、隣に人が並んだ。
今日は、スーツ姿の会社員だった。
「——おはようございます。お預かり物です」
隊員が、すれ違いざまに小さな紙袋を渡してきた。
中には、掌に収まるほどの黒い匣が入っていた。
漆塗りのような、鈍い光沢がある。
「お待たせいたしました。勾玉が、三日で仕上げております。ペンダントを、その中へ」
零は、歩きながら制服の襟元に手を入れ、ペンダントを引き出した。
匣を開け、そっと収める。
蓋を閉じた瞬間、胸の奥で常に感じていた微かな熱が、すっと遠のいた。
「……静かになった」
「波形の漏れは、ほぼ完全に遮断されております。……今の三神様は、ただの一般人と同じです」
「これなら、無響にも」
「聴こえないかと。……ただし」
隊員は、前を向いたまま続けた。
「変身中は、意味を成しません。ゴーストのお姿は、それ自体があの魔力の波形そのものですので」
「……そうですよね」
「匣は、変身とともに術式内に収納されます。お戻りになれば、また同じように」
零は、匣を首から下げ直した。
胸元で、それは静かに沈黙していた。
昼休み。
零は、校舎の中庭のベンチに座っていた。
膝の上には、今朝自分で詰めてきた弁当がある。
「あら。今日も、お一人?」
紺のパンツスーツのヴィクトリアが、購買の袋を提げて立っていた。
教育実習の名札は、今週でお役御免になるらしい。
「……どうぞ」
「ありがとう」
ヴィクトリアは、隣に腰を下ろした。
しばらく、二人は無言でそれぞれの昼食を食べた。
「……そういえば」
零は、卵焼きを箸で摘みながら、できるだけ何気なく切り出した。
「最近、変な噂を聞いたんですけど」
「あら、どんな?」
「郊外の町で、白い服を着た人たちが、元魔法少女の家を訪ね回ってるとか。……変な薬を配ってるらしいです」
ヴィクトリアの手が、止まった。
「薬」
「飲むと、魔法が使えるようになる薬だとか。……そんなの、ありえないですよね」
零は、弁当に視線を落としたまま続けた。
「元魔法少女の人たちが集まってる家があるらしくて。……なんだか、心配だなって」
沈黙が落ちた。
零は、顔を上げなかった。
これ以上は、一般人の高校生が口にできる範囲を超えている。
あとは、この人がどう受け取るかだけだった。
「……そう」
ヴィクトリアは、静かに答えた。
その声は、いつもの柔らかさを保っていた。
だが、紫の瞳の奥だけが、鋭く底光りしていた。
(……零くんが、自分から情報を渡してきた)
この少年は、これまで一度も、自分から裏社会の話をしたことがない。
常に受け身で、常に一般人として振る舞ってきた。
(……ゴースト様からの、伝言ね)
ヴィクトリアは、焼きそばパンの最後の一口を、上品に飲み込んだ。
「教えてくれて、ありがとう」
「いえ。……噂話ですけど」
「噂話は、時々、とても大事なものよ」
ヴィクトリアは、立ち上がった。
「午後の授業、遅れないようにね」
その背中が、いつもより速く歩いていくのを、零は黙って見送った。
放課後。
零は、遠回りしてスーパー「ヤオヨシ」に寄った。
「いらっしゃいませ——まあ、三神くん!」
レジのルディアが、ぱっと顔を輝かせた。
「今日は、何をお求めですの?」
「鶏むね肉と、もやし。……特売日ですよね」
「ええ、ええ。もやしは一人三袋まででしてよ」
零は、カゴに品物を詰めながら、世間話の調子で言った。
「そういえば、ルディアさん」
「はい?」
「郊外のほうで、白い服の人たちが、元魔法少女の家を訪ね回ってるって噂を聞いたんですけど」
ルディアの手が、バーコードリーダーを握ったまま止まった。
「……ほう」
「飲むと魔法が使えるようになる薬を配ってるとか。……元魔法少女の人たちが集まってる家もあるらしくて、なんだか物騒だなって」
零は、そこで言葉を切った。
それ以上は、言えない。
言えば、自分が何を知っているのかを説明しなければならなくなる。
「……三神くん」
ルディアは、バーコードリーダーをそっと置いた。
その顔から、店員としての営業スマイルが消えていた。
「その噂、どこでお聞きに?」
「……どこだったかな。忘れました」
「そうですか」
ルディアは、静かに微笑んだ。
恍惚とも、狂信ともつかない、深い笑みだった。
(……神使様が、わざわざこれをお伝えになった)
意味がないはずがない。
この方は、必要なことしか口にしない。
「……なるほど。承知いたしましたわ」
「え?」
「いえ、こちらの話です。……もやし、三袋でよろしいですわね」
ルディアは、いつもの店員の顔に戻って、会計を進めた。
零がエコバッグを提げて店を出ていくと、彼女は静かにレジを閉めた。
「真里」
「はい」
「ルカとリリアを呼び戻しなさい。……それから、車の手配を」
店を出た零は、歩きながら澪へメッセージを送った。
『今夜、緋雪さんの用事を手伝う。遅くなるかも』
既読は、すぐについた。
『了解。お父さんには言っとく。ちゃんと連絡入れなさいよ』
零は、スマートフォンをポケットに戻した。
嘘が、また一つ積み上がった。
夕方。
翼の家の居間には、八人が集まっていた。
白鳥と、六人の少女。
そして、黒髪に紅色の瞳の少女が一人。
「……わたしも、いく」
奈緒は、ちゃぶ台の前で、きっぱりとそう言った。
「奈緒ちゃん」
「白鳥さんも、おねえさんたちも、みんなここにいる。……だから、わたしもここにいる」
白鳥は、しばらく奈緒の顔を見つめていた。
止めても無駄だろうことは、河川敷の一件で分かっている。
それに、この子は強い。誰よりも。
「……分かった。でも、無茶はしないこと」
「うん」
庭先では、緋雪が翼の家の見取り図を広げていた。
「配置を決めるわ。私は、正面の門。凛花さんは、裏手の畑側」
「はい」
「ゴーストは、遊撃。……外周は、例の『知り合い』にお願いしてある」
白鳥が、窓の外の暗がりに目をやった。
柿の木も、電柱も、そこには何もない。
だが、確かに誰かがいることだけは、もう分かっていた。
「奈緒さんは、家の中。……白鳥さんとみんなの傍にいて」
「うん。まもる」
「それと、これを」
緋雪は、鞄から一枚の書類を取り出した。
「由鶴から届いた、昨夜の錠剤の分析結果よ」
ゴーストが、それを受け取った。
「……劣化版の聖薬には、変身固定の術式構造が組み込まれている」
「ええ。変身を、解けなくするための術式よ」
緋雪は、言葉を選びながら続けた。
この術式に何をされたのか、目の前の少女が誰よりも知っている。
だが、それは、この場の誰にも言えないことだった。
「しかも、術式の記述の癖が、協会の技術部門の記録と一致するそうよ。……由鶴が、絞り込みを進めてる。凛花さんにも、私から伝えてあるわ」
ゴーストは、書類を折り畳んだ。
変身固定の技術。
設計図の流出。
協会の内側にいる、誰か。
全ての線が、同じ一点へと収束しかけていた。
午後十時。
最初に異変を知らせたのは、家の三方に置かれた検知器だった。
——ピーッ! ピーッ! ピーッ!
三つの警報が、同時に鳴り響いた。
そして、数秒後。
——プツッ。
全ての音が、消えた。
「……凪域」
緋雪が、太刀を抜いた。
通信機を確かめる。ノイズ一つ聞こえない。
「通信も、死んでるわ」
庭の空気が、ずしりと重くなった。
虫の音が消える。風の音が消える。
世界から、あらゆる揺らぎが拭い取られていく。
そして、闇の向こうから、白い列が現れた。
白い衣。白い頭巾。
畑のあぜ道を埋め尽くすようにして、数十人が歩いてくる。
その足音だけが、やけにはっきりと響いていた。
「……多い」
凛花が、裏手から回り込んできた。
「三十人以上います。……全員、魔力反応なし」
「一般人ね」
「はい。ただ」
凛花は、光の剣を構えた。
「全員、手に何かを握っています」
白い列の先頭に立つ三人が、ゆっくりと頭巾を外した。
現れたのは、若い女たちだった。
その身体から、はっきりとした魔力が立ち上っている。
「……上級信徒ね」
緋雪が、目を細めた。
「あの三人は、元から魔法少女よ」
白い列が、門の前で足を止めた。
先頭の一人が、穏やかに声を張り上げた。
「翼の家の皆さん。お迎えに参りました」
家の中から、少女たちの息を呑む音が聞こえた。
「私たちは、争いに来たのではありません。皆さんに、失われた翼をお返しに来ただけです」
「お引き取りください」
白鳥が、玄関の戸を開けて、庭先に出た。
その声は、震えていなかった。
「ここにいる全員が、あなた方の誘いを断りました。……それが、答えです」
「あなたは、白鳥さんですね」
先頭の女が、微笑んだ。
「あなたの記録も、拝見しました。番号で呼ばれ、心を削られ、それでも生き延びた。……素晴らしい方です」
「……だから、何?」
「そんなあなたが、なぜ、翼を拒むのです?」
「拒んでない」
白鳥は、まっすぐに女を見返した。
「私たちは、もう自分の足で立ってる。……あなたたちの言う翼は、足を折ってから貸す杖よ」
女の微笑みが、初めて固まった。
「……残念です」
「帰って」
「いいえ。迎えに来たと、申し上げました」
女が、片手を上げた。
次の瞬間、白い列が一斉に動いた。
「行くわよ!」
緋雪が、門の前に躍り出た。
太刀から放たれた氷が、地面を這って壁となる。
突進してきた信徒たちが、足を取られて次々と転倒した。
「凛花さん!」
「はい!」
凛花の光の剣が、上級信徒の一人の武器を弾き飛ばした。
斬らない。峰と腹だけで、確実に武装を解いていく。
そして、影の中から、漆黒のドレスの少女がせり上がった。
「——させないわ」
ゴーストは、転倒した信徒たちの手元へ、正確に大剣の柄頭を打ち込んでいった。
握られていた白い錠剤が、次々と弾け飛び、地面に転がる。
「あ、あ、私の翼が……!」
「翼じゃないわ、それは」
ゴーストは、錠剤を踏み砕いた。
「あなたたちを壊す、ただの毒よ」
家の裏手で、一人の信徒が縁側から踏み込もうとした。
その足元が、一瞬で凍りついた。
「……だめ」
縁側に立った奈緒が、紅色の瞳で信徒を見下ろしていた。
「ここ、みんなのおうち。こわしちゃだめ」
信徒が、怯んで後ずさる。
奈緒は、それ以上追わなかった。
ただ、家の前から一歩も動かなかった。
十分ほどで、庭先の混乱は収まりつつあった。
上級信徒の三人は武装を解かれ、信徒たちの多くは聖薬を失っていた。
(……いける)
緋雪が、そう思った時だった。
あぜ道の向こうから、かつん、と、硬い音が響いた。
白い列が、波が引くように左右に割れた。
その真ん中を、一人の少女が歩いてくる。
白い法衣。長い白銀の髪。
外見は、十五歳ほど。玲奈と変わらない年頃に見える。
その両手には、穂先の細い槍が一本ずつ握られていた。
信徒たちが、一斉に跪いた。
「「第九使徒様」」
少女は、跪く信徒たちには目もくれず、庭先を見渡した。
「……ああ。ずいぶん、手荒にされましたね」
声は、幼さの残る澄んだものだった。
だが、そこに温度はなかった。
「あなたが、十二使徒の一人ね」
ゴーストが、前に出た。
「ええ。第九使徒、工藤美沙と申します」
少女は、槍の石突きを地面に打ちつけた。
——カツン。
その瞬間、庭先が真昼のように白く染まった。
「——っ!?」
光。
純粋な、圧倒的な光の奔流が、二本の槍から放たれた。
「危ない!」
凛花が、咄嗟に光の壁を展開した。
同じ光属性。相殺できるはずだった。
——バキィィンッ!
凛花の壁は、一秒と保たずに砕け散った。
後ろへ吹き飛ばされた凛花が、庭の土に膝をつく。
「……同じ、光?」
凛花は、震える声で呟いた。
「あなたのそれは、灯火です」
第九使徒は、静かに答えた。
「私のこれは、十二年、灯り続けている光」
「十二年……?」
「変身を、一度も解いていませんから」
第九使徒は、自分の掌を見つめた。
「解く必要が、ないのです。魔力は消耗せず、身体は疲れを知らず、時間は止まったまま。……これが、聖薬の完成形です」
「……十二年前から、あなたたちは」
「ええ。私たちは、最初の十二人です」
第九使徒は、槍の穂先を月明かりにかざした。
「十二年前、この身に聖薬を受けた日から、ずっとこの姿のまま。……あの日から、私たちは一度も、朝を迎えていません」
ゴーストの背筋が、冷たくなった。
十二年。
戻れない身体で、十二年。
自分が耐えたのは、たった四週間だった。
「それを……救いと呼んでいるの」
「ええ。救いです」
第九使徒は、初めてゴーストの方を向いた。
「あなたも、ご存じでしょう? 変身が解けない苦しみを」
ゴーストの息が、止まった。
「……何を」
「いいえ、何も。ただ、あなたの魔力の形が、少しだけ歪んでいるので」
第九使徒は、槍を構え直した。
「一度、深く縛られた者の形です。……気のせいなら、失礼」
次の瞬間、第九使徒の姿が消えた。
——ガキィンッ!
ゴーストは、反射的に大剣を跳ね上げた。
二本の槍が、上下から同時に食い込んでいた。
「……速い」
「よく反応なさいました」
第九使徒は、槍を引いて跳び退った。
着地と同時に、次の光が奔る。
ゴーストは、闇の魔力を盾に変えて受け止めた。
闇と光が拮抗し、庭の土が抉れて吹き飛ぶ。
「『深淵の重圧』」
ゴーストが左手を突き出した。
重力が、第九使徒の細い身体に圧し掛かる。
だが。
「……軽いですね」
第九使徒は、槍を杖のようにして立ったまま、微笑んだ。
「十二年分の魔力を、舐めないでください」
押し返される。
ゴーストの闇が、光の奔流に呑まれかけた。
「ゴースト!」
緋雪の氷が、横合いから第九使徒を襲った。
第九使徒は、槍の一振りでそれを霧散させ、僅かに首を傾げた。
その視線が、縁側で止まった。
紅色の瞳の少女。
白鳥と少女たちの前に立ち塞がる、黒髪の少女。
「……ああ」
第九使徒の目が、初めて感情らしきものを帯びた。
「その子は、海の向こうのお客様がご所望の器ですね」
ゴーストの中で、何かが弾けた。
「——奈緒に、近づかないで」
闇が、爆発的に膨れ上がった。
庭先の光が、一瞬で塗り潰される。
「おや。……その子が、大事なのですね」
第九使徒は、槍を胸の前で交差させた。
「ならば、なおのこと。あの方々への手土産には、ちょうどよい」
ゴーストが、地を蹴った。
その刹那。
第九使徒は、跪く信徒たちに向かって、静かに告げた。
「皆さん。翼を」
時間が、止まったように感じられた。
三十人を超える信徒たちが、一斉に懐へ手を入れた。
白い錠剤が、月明かりに鈍く光る。
「やめて——!」
ゴーストの叫びは、届かなかった。
畑の上に、白い魔力が一斉に噴き上がった。
悲鳴と、歓喜と、嘔吐の音が入り混じる。
骨の軋む音が、あちこちから響いた。
やがて、その中の何人かが、二錠目に手を伸ばした。
「さあ」
第九使徒は、二本の槍を広げ、聖母のように微笑んだ。
「救いの時間です」
同じ頃。
スーパー「ヤオヨシ」の裏口。
緑のエプロンを脱ぎ捨てたルディアが、白の礼装に着替えていた。
「ルディア様。車の準備が整いました」
「ご苦労さま、真里」
ルディアは、長い黄金の髪を無造作に払った。
「神使様が、わざわざ噂話を聞かせてくださったの。……それがどういう意味か、分からぬわたくしではなくてよ」
その後ろで、赤いリボンと青いリボンの双子が、大鎌と剣を担いでいた。
「おにーさんの、心配してたこと」
「……ん。ぜんぶ、片付ける」
そして、星監の地下ラボ。
ヴィクトリアが、端末に指示を打ち込んでいた。
「郊外の該当地域、全域の魔力反応を再走査。……ああ、無駄ね。凪いでいるでしょうから」
彼女は、コートを羽織った。
「シルヴィア、レイラ。……実働部隊を出すわ」
「よろしいのですか。星監が、表立って動けば」
「構わないわ」
ヴィクトリアは、紫の瞳を細めた。
「零くんが、わざわざ教えてくれたのよ。……応えないわけには、いかないでしょう?」




