第二百六十五話
日曜日の午後一時過ぎ。
補習から帰った零は、制服から私服に着替えて、リビングに顔を出した。
「今から、緋雪さんと出かけてくる」
「……はいはい、どうぞ」
ソファの澪が、雑誌から顔も上げずに答えた。
声に、いつもの冷やかしがない。
「……姉ちゃん、機嫌悪い?」
「別に」
澪は、雑誌をぱたんと閉じた。
「……あんた、最近やけに交友関係が広いわよね」
「そうかな」
「そうよ。宮内庁だの、白百合のトップエースだの、昨日の子たちだの」
零は、答えに詰まった。
澪は、しばらく弟の顔を見上げてから、溜息と一緒に言葉を吐き出した。
「……まあ、いいわ。気をつけて行きなさい」
「うん」
「暗くなる前に帰ってこい」
新聞を広げていた五郎が、老眼鏡越しに付け加えた。
「今日は、少し遅くなるかも」
「なら、連絡を入れろ。それが条件だ」
「……分かった」
「零、これ持っていって」
台所から、奈々美が風呂敷包みを抱えて出てきた。
中身は、重箱だった。
「昨日の唐揚げ、多めに作っておいたの。緋雪ちゃんと食べなさい」
「……ありがとう、母さん」
零は、包みを受け取った。
ずっしりと重かった。
午後三時。
郊外の小さな一軒家。
ゴーストと緋雪が居間に通されると、ちゃぶ台の上には、六通の白い封筒が並べられていた。
「……全部、同じ筆跡ね」
緋雪が、一通を手に取った。
切手も消印もない。宛名だけが、流れるような美しい字で書かれている。
「うん。文面も、細かいところ以外はほとんど同じ」
白鳥は、ちゃぶ台の向かいで膝を抱えていた。
「みんな、笑い飛ばしてくれたの。『気持ち悪い』って。……それが、嬉しくもあり、悲しくもあり」
「……どうして、悲しいの」
「だって」
白鳥は、封筒の一つを指先でなぞった。
「あの子たちがこの手紙を笑えるのは、一度、同じ言葉に騙されたからだもの」
誰も、返す言葉を持たなかった。
ゴーストは、ちゃぶ台の上の封筒を見渡した。
「今夜から、しばらく翼の家に泊まってもらうわ」
「……ゴーストさん」
「一人でいる時が、一番危ない。集まってもらったほうが、守りやすい」
「うん。私も、そう思ってた」
白鳥は、こくりと頷いた。
「それと、家の周りに置いてもらった検知器。あれ、翼の家のほうにも置けないかな」
「もう手配してあるわ。今日中に届く」
その時、階段からぱたぱたと足音が降りてきた。
「お姉ちゃん! 緋雪さん!」
奈緒が、両手を広げて居間に飛び込んできた。
ゴーストの膝に頭から突っ込み、そのまま満足そうに丸くなる。
「……ただいま、奈緒」
「うん。おかえり」
奈緒は、緋雪の膝にも手を伸ばして、二人の間を行ったり来たりした。
張り詰めていた居間の空気が、そこでようやく緩んだ。
「そうだ、白鳥さん。これ」
緋雪が、風呂敷包みを差し出した。
「差し入れ。……唐揚げよ」
「え、緋雪が作ったの!?」
「これは、知り合いのお母様が作ってくださったの。……でも、その顔は失礼じゃない? 私だって、今は作れるわよ」
「……嘘」
白鳥の目が、点になった。
訓練校時代、この親友の握ったおにぎりで三人が医務室に運ばれたことを、白鳥はまだ覚えている。
「肉じゃがも、卵焼きも。……缶詰を開けるだけの頃とは、違うんだから」
「誰に習ったの、それ」
「……秘密」
緋雪は、そっと視線を逸らした。
その隣で、ゴーストが素知らぬ顔で茶をすすっていた。
膝の上の奈緒だけが、唐揚げの匂いに反応して、ぴんと顔を上げていた。
夕方。
白鳥の案内で、三人は歩いて十分ほどの場所にある古い一軒家に着いた。
門柱には、手作りらしい木の看板が掛かっている。
『翼の家』
中からは、話し声と、食器の音がしていた。
「ただいまー。……お客さん、連れてきたよ」
白鳥が引き戸を開けると、居間にいた四人の少女が一斉に振り返った。
そして、ゴーストの姿を見た瞬間、全員が固まった。
「……う、嘘」
「ゴースト、さん……?」
一人が、震える手で口元を押さえた。
九州の施設から助け出された四十七人の一人だった。
「初めまして、の人もいるわね」
ゴーストは、静かに頭を下げた。
「白鳥から、話は聞いているわ。……手紙のこと」
少女たちの表情が、すっと引き締まった。
一番年長らしい少女が、卓の上の封筒を手に取った。
「これ、ですよね」
「ええ」
「……私たち、もう『あなたのため』なんて言葉は、信じません」
少女の声は、震えていなかった。
「一度、それで名前を消されたので」
「……そう」
ゴーストは、その目をまっすぐに見返した。
「立派だわ。……でも、だからこそ危ないの」
「え?」
「誘っても誰も来ないと分かったら、次は誘わなくなる」
居間の空気が、凍りついた。
「今夜から、しばらくここに泊まってちょうだい。一人でいる時間を、できるだけ減らして」
「……分かりました」
年長の少女が、他の三人と顔を見合わせてから頷いた。
「じゃあ、荷物、取ってきます。着替えとか、ないので」
「一人で行かないで」
緋雪が、鋭く言った。
「二人以上で動いて。それと、行き先と帰る時刻を、必ず白鳥さんに伝えて」
「はい」
少女たちは、素直に頷いた。
だが、その中の一人が、小さく手を挙げた。
「……あの。私の部屋、ここから歩いて五分なんですけど」
「五分でも、です」
「わ、分かりました」
午後七時十分。
その少女が、翼の家を出たのは、他の三人より少しだけ早かった。
歩いて五分。本当に、すぐそこだった。
だから、うっかり、一人で出てしまった。
古いアパートの外階段の下。
自分の部屋の鍵を取り出した時、少女は背後の気配に気づいた。
白い衣の人影が、五つ。
音もなく、階段の下を塞いでいた。
「……っ」
「こんばんは」
先頭の女が、穏やかに微笑んだ。
三十代半ばほどの、どこにでもいそうな女だった。
「お手紙、読んでいただけましたか」
「……読んで、ません」
「そうですか。……残念です」
女は、ゆっくりと一歩前に出た。
「では、口頭でお伝えしますね。あなたの失った翼を、お返しします。今度は、永遠に」
「いりません」
「遠慮なさらないで」
「いらないって言ってるでしょう!」
少女は、叫んだ。
かつては、手のひらから風を起こせた。
今は、震える指で鍵を握りしめることしかできない。
「一緒に来てください」
女の手が伸びた。
少女は、それを振り払って走り出そうとした。
だが、背後から二人の信徒に腕を掴まれ、地面に押さえつけられる。
「離して……! 誰か!」
「叫んでも、誰も来ませんよ。ここには、魔法の匂いが一つもありませんから」
女は、懐から小さな白い錠剤を取り出した。
「私たちのような者が、あなたを迎えに来られるのは、これのおかげです」
女は、それを口に含んだ。
数秒後。
女の全身から、白い魔力が噴き上がった。
魔法少女の光ではない。もっと荒く、歪で、制御されていない奔流だった。
「……うそ」
少女の目が、見開かれた。
魔力を持たないはずの一般人が、今、確かに魔法少女の力を纏っていた。
「さあ、行きましょう」
女の手が、少女の襟首を掴んだ。
その瞬間。
——シャアッ!
光の刃が、女の手首を弾いた。
「——そこまでです」
アパートの外階段の上。
協会の制服を纏った周防凛花が、光の剣を構えて立っていた。
「協会、魔獣対策部。……この町を巡回中です」
河川敷の魔獣の一件以来、凛花は非番のたびに、この町を巡回路へ組み込んでいた。
協会には、管轄区域の見回りとだけ報告してある。
「……おや」
女は、弾かれた手首を押さえながら、凛花を見上げた。
「魔法少女様が、なぜこんな町に」
「質問しているのは、こちらです」
凛花は、階段を一段ずつ降りながら、女の魔力を観察した。
(……歪すぎる)
魔力の流れに、芯がない。
湧き上がっては散り、散っては湧く。まるで、器に合わない水を無理やり注ぎ込んでいるような。
(変身じゃない。……変身の、真似事)
「下がって!」
凛花は、少女に叫んだ。
押さえつけていた二人の信徒が、凛花に向かって突進してくる。
凛花は、剣の腹で二人の膝を払った。
斬らない。
この者たちは、戦う訓練を受けた相手ではない。ただの人間だ。
「……っ、う」
その時、白い魔力を纏った女が、口元を押さえた。
指の隙間から、赤いものが滴り落ちる。
「か、はっ……」
「あなた——」
女は、血を吐きながら、それでも微笑んでいた。
「……大丈夫です。これは、翼を得た証ですから」
「証じゃない! それは、あなたの身体が壊れてるのよ!」
凛花の叫びを、女は聞いていなかった。
その後ろで、別の信徒が懐を探っていた。
女に続いて一錠を飲んだものの、指先に頼りない光が灯っただけの若い男だった。
震える指で、二錠目の錠剤を取り出している。
(男……?)
凛花の背筋が、冷たくなった。
(魔力因子を持たないはずの男の人が、あんな真似を——)
「やめなさい!」
凛花が跳んだ。
だが、届かなかった。
男は、それを飲み込んだ。
——ゴキリ。
骨の鳴る音が、路地に響いた。
男の背骨が、あり得ない方向に反り返る。
肩が膨れ上がり、腕が伸び、指が黒い爪へと変わっていく。
「あ、あ、あああああ……!」
白目が、紫色に染まっていく。
衣の下から、黒い剛毛が噴き出した。
「……そんな」
凛花の足が、止まった。
数秒後、そこに立っていたのは、人の形を半分だけ残した魔獣だった。
——グルアアアアッ!!
咆哮が、夜のアパート街を揺らした。
その時、路地の空気が、ぐにゃりと歪んだ。
影の中から、漆黒のドレスの少女がせり上がる。
その隣に、白い冷気を纏った銀髪の剣士が降り立った。
「……間に合った」
ゴーストは、路地の光景を一瞬で把握した。
地面に倒れた少女。血を吐いて膝をつく女。そして、人の形を失いかけた何か。
「凛花さん。下がって」
「……ゴーストさん」
「その子を連れて、離れて」
凛花は、歯を食いしばって、倒れていた少女を抱え上げた。
「……あの人は、さっきまで人間でした」
「知っているわ」
ゴーストは、静かに大剣を抜いた。
「見れば、分かる」
魔獣が、跳んだ。
人の腕だった部分が、黒い爪となって振り下ろされる。
ゴーストは、それを大剣の腹で受け流した。
「緋雪さん!」
「ええ!」
緋雪の太刀から、氷の奔流が放たれた。
魔獣の両脚が、路面ごと凍りつく。
——ギャアアアッ!
ゴーストは、左手を魔獣へと向けた。
「『深淵の重圧』」
闇色の魔力が、質量を持って降り注いだ。
凍りついた脚が砕け、魔獣の巨体が地面に叩きつけられる。
アスファルトが、蜘蛛の巣状に割れた。
魔獣は、それでも起き上がろうとした。
ゴーストは、重圧をさらに重ねた。
骨が軋み、肉が潰れ、紫色の光が明滅していく。
やがて、魔獣の動きが止まった。
完全には、死んでいない。
浅く速い呼吸だけが、辛うじて続いている。
「……緋雪さん。凍らせて」
「……いいの?」
「ええ」
ゴーストは、大剣を闇の中へ溶かし消した。
「斬らないわ」
路地に、静寂が落ちた。
「この人を元に戻す方法は、まだ誰も知らない。……でも、殺してしまったら、そこで終わりよ」
ゴーストは、瀕死の魔獣を見下ろした。
「戻す方法が見つかるまで、眠らせておくだけ」
緋雪が、太刀を両手で構え直した。
白い冷気が、路地を満たしていく。
「——『氷棺』」
氷が、魔獣の全身を包み込んでいった。
爪の先まで、牙の一本まで。
やがて、路地の真ん中に、人の形を半分だけ残した、透明な塊が立っていた。
誰も、勝利の顔をしていなかった。
深夜、翼の家。
助け出された少女は、居間の隅で毛布にくるまっていた。
膝を抱えたまま、まだ小刻みに震えている。
白鳥が、その横に座って、背中をずっとさすっていた。
「ごめんね。……私が、五分だからって油断させちゃった」
「……違います。私が、一人で行っちゃったから」
「違わない。私が責任者だもの」
白鳥は、少女を抱きしめた。
確保された四人の信徒は、庭先に並べられていた。
全員が、吐血と激しい頭痛で立てない。
八咫の隊員が、一人ずつ丁寧に拘束を確認していく。
「……皆さま、魔力の登録記録がございません」
隊員が、ゴーストに報告した。
「前科もなし。職業も、年齢も、ばらばらです。……ごく普通の一般人かと」
「普通の人が、あんな薬を飲んでまで」
緋雪が、拳を握りしめた。
庭先の信徒の一人——最初に錠剤を飲んだ、あの三十代半ばの女が、血の滲む唇で微笑んだ。
「……あなた方には、分からないでしょうね」
「何が」
「生まれた時から翼のあった方には」
女は、荒い息の合間に言葉を続けた。
「私たちがいただいたのは、聖薬の写しにすぎません。……本物とは、比べ物にならない出来損ないです」
「聖薬」
「ええ。本物の聖薬を賜るのは、上級の方々だけ。……あの方々は、もう変身をお解きになる必要がないのです」
ゴーストの指先が、僅かに震えた。
「……変身を、解く必要がない」
「永遠の姿です。素晴らしいことでしょう?」
女は、恍惚とした目で夜空を見上げた。
「そして、十二使徒様は」
「……十二使徒」
「あの方々は、第一から第十二まで。……全員が、永遠の姿を得ておられます」
女は、そこで血を吐いた。
それきり、何を聞いても答えなくなった。
ゴーストは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
(……変身状態の、固定)
四週間。
戻れない身体。鏡の中の知らない顔。家に帰れない夜。
あれを「永遠の姿」と呼び、賜り物として配っている組織がある。
そして、それを完成させた者が、十二人。
「……ゴースト」
緋雪が、そっと肩に触れた。
庭先には、まだ意識のある信徒がいる。喉まで出かかった名前を、緋雪は寸前で飲み込んでいた。
ゴーストは、小さく首を振った。
「大丈夫よ。……ただ、少し」
言葉は、続かなかった。
庭先に、協会の制服姿の凛花が戻ってきた。
少女を運び、近隣の安全を確認してきたところだった。
「周防凛花です」
凛花は、白鳥の前に立って、深く頭を下げた。
「協会の魔獣対策部に所属しています。……この町の巡回を、続けさせてください」
「あ、あの、私は」
「白鳥さん、ですよね。隠密事件の」
「……はい」
「奈緒さんのことでも、お世話になっています」
白鳥の目が、丸くなった。
「奈緒ちゃんを助けてくれたのは、あなたなの」
「いえ。助けられたのは、こちらのほうです」
凛花は、静かに答えた。
白鳥は、深く頭を下げ返した。
午後十一時。
路地の氷棺と、押収された錠剤は、黒塗りの車で運ばれていった。
「勾玉が、責任を持ってお預かりいたします」
八咫の隊員が、ゴーストに告げた。
「氷の維持は、羽衣様の術式を勾玉が引き継ぎ、保管施設で凍結を継続いたします。……解析には、時間がかかるかと」
「お願い。……あの人を、戻す方法を探して」
「承知いたしました」
隊員は、深く一礼した。
「なお、錠剤の分析結果は、羽衣様を通じて白百合の情報班にもお渡しするよう、殿下より」
「……私から、由鶴に?」
「はい。『技術の出所を辿るには、協会の内側を知る者が要る』とのことです」
緋雪は、小さく頷いた。
ゴーストも、それに続いて静かに頷く。
同じ頃。
白い壁と白い床だけで作られた、窓のない礼拝堂。
跪いた信徒が、震える声で報告していた。
「……申し訳ございません。お連れできず、五名を失いました」
「五名?」
白い衣の人物が、穏やかに問い返した。
「いいえ。五名は、失われてなどいません」
「……は」
「四人は、捕らえられただけのこと。そして、一人は」
白い衣の袖が、ゆるやかに広がった。
「翼を得たまま、次の段階へ進みました。……喜ばしいことです」
跪いた信徒が、深く頭を垂れた。
「では、いかがいたしましょう」
「誘っても、来ない。迎えに行っても、一人ずつでは奪われる」
白い衣の人物は、静かに立ち上がった。
「ならば、まとめて迎えに行きましょう。……あの子たちが、全員揃う場所へ」
礼拝堂の奥。
十二の燭台に、一つずつ火が灯っていった。




