第二百六十四話
土曜日の朝。
零は、休日補習のために、大通りを歩いていた。
昨日までの寝不足がまだ残っていて、足が少しだけ重い。
横断歩道で信号を待っていると、隣に一人の女性が並んだ。
エコバッグを提げた、朝の買い物帰りらしい主婦の姿である。
「——そのまま、前を向いたままお聞きください」
「……おはようございます」
零は、信号を見上げたまま小さく答えた。
「昨夜の封筒について、ご報告です」
八咫の隊員の声は、いつもどおり淡々としていた。
「宛先は、白鳥様ご本人。差出人の記載はございません。文面は、『あなたの失った翼を、もう一度。今度は、永遠に』」
零の眉が、僅かに寄った。
「……永遠に」
「はい。加えて、明日正午、駅前の喫茶店での面会を求める一文と、『お一人で』という指定がございました」
「白鳥さんは」
「封を切られて、三十秒ほどで破り捨てようとされました」
隊員の声に、ほんの少しだけ温度が混じった。
「思い直されて、証拠として保管されたようです。……羽衣様への報告のためかと」
「……そうですか」
零は、小さく息を吐いた。
白鳥は乗らない。当たり前だ。
あの人は、政府の地下で「お前のためだ」という言葉に自我を削られかけた側の人間なのだから。
「同じ封筒が、『翼の家』に通っておられる元隊員の方々のご自宅にも、計六通届いております」
「……六人」
「はい。配達したのは、いずれも魔力を持たない一般の信徒と思われます。検知器も、我々の索敵も反応いたしません」
信号が、青に変わった。
「魔法を一切使わない人間を使えば、魔法の見張りはすり抜けられます。……相手は、それを分かっております」
「……ありがとうございます。緋雪さんにも、俺から伝えます」
「では」
隊員は、エコバッグを提げたまま、朝の人混みに溶けていった。
午前中の補習を終えて、零が家に帰り着いたのは十一時半だった。
台所からは、すでに油の跳ねる音と、出汁の匂いが漂っている。
「おかえり、零。もうすぐ揚がるわよ」
エプロン姿の奈々美が、菜箸を握ったまま振り返った。
調理台の上には、ちらし寿司の大皿と、茶碗蒸しの器が並んでいる。
「……作りすぎじゃない?」
「お客様が二人も来るのよ。足りないより、いいでしょう」
奈々美は、上機嫌で唐揚げを返した。
零がヤオヨシの卵の礼を伝えた時、「今度、必ずうちに呼びなさい」と言い張ったのは、この人である。
正午きっかりに、玄関のチャイムが鳴った。
「はーい」
零が玄関を開けると、そこに二人の少女が立っていた。
銀髪のツインテールに、赤いリボン。
同じ銀髪に、青いリボン。
二人とも、黒いフリルのワンピースに、丈の合っていないコートを羽織っている。
ルカの手には、菓子折りの紙袋が握られていた。
「お、おじゃま、します……!」
「……ん。菓子折り、持ってきた」
ルカは、緊張のあまり最敬礼の角度で頭を下げていた。
リリアは無表情だったが、紙袋を持つ手が小刻みに震えていた。
「そんなに固くならなくていいから。……上がって」
「し、失礼します!」
二人が三和土に足を踏み入れた、その時。
「零ー、お客さんってどんな——」
リビングから顔を出した澪の足が、ぴたりと止まった。
その後ろから覗き込んだ玲奈の顔も、同時に凍りついた。
沈黙。
双子の方も、固まっていた。
白百合の盾の制服こそ着ていないが、この二人の顔を、彼女たちが見間違えるはずがない。
(……福音の鐘の、双子の処刑人)
澪の背中を、冷たいものが走り抜けた。
バーベキューの日に共闘し、九州の作戦で背中を預けた相手ではある。
だが、平時の関係で言えば、この二人は白百合の盾が追う側の人間だった。
「お、おねーさん……」
「……ん。おにーさんの、おねーさんと、いもうと」
双子は、じりじりと後ずさりを始めていた。
玲奈が、澪の袖をぎゅっと掴む。
「姉ちゃん、玲奈」
零が、間に立った。
「この前、俺が魔獣に襲われた時、助けてくれた二人組。……この二人だ」
澪の動きが、止まった。
「……この子たちが?」
「うん。狼型の魔獣だった。俺一人だったら、たぶん死んでた」
澪は、しばらく双子の顔を見つめていた。
ルカは、菓子折りを胸に抱えたまま、ぴんと背筋を伸ばして固まっている。
リリアは、無表情のまま、澪の目をまっすぐに見返していた。
「……零。ちょっと台所来て。玲奈も」
三人が台所に引っ込むと、澪は声を潜めた。
「あんた、あの子たちが何者か知ってて呼んだの」
「……何者って?」
零は、きょとんと聞き返した。
澪は、口を開きかけて、そのまま止めた。
福音の鐘。処刑人。白百合の追跡対象。
そのどれ一つとして、一般人の弟に説明していい言葉ではなかった。
「……なんでもない」
「なんでもなくないだろ、その顔」
「なんでもないの」
澪は、額を押さえた。
この状況を報告書に書いたら、どうなるのか。想像するだけで胃が痛かった。
「お姉ちゃん」
玲奈が、澪の袖を引いて小声で言った。
「……でも、あの子たち、お兄ちゃんを助けてくれたんだよね」
「……」
「私、お兄ちゃんが死んでたかもって聞いて、昨日の夜、ちょっと泣いた」
澪は、しばらく天井を見上げていた。
それから、深く息を吐いた。
「……分かった。今日は、見なかったことにする」
「何の話だよ」
「あんたは知らなくていいの」
澪は、リビングへ戻ると、双子の前にしゃがみ込んだ。
視線の高さを合わせて、静かに言う。
「弟を助けてくれたことには、感謝してる。……本当に、ありがとう」
「……っ」
「でも、この家で何かしたら、絶対に許さない。分かった?」
「し、しない!」
ルカが、勢いよく首を振った。
「おにーさんのおねーさんに、そんなことしない! 絶対しない!」
「……ん。ルカもリリアも、今日はただの近所の子」
「近所じゃないでしょ」
澪は、思わず吹き出した。
張り詰めていた空気が、そこでようやく緩んだ。
「あらあら、皆さん揃ってどうしたの。ご飯できたわよ」
台所から、大皿を抱えた奈々美が現れた。
娘たちの葛藤も、双子の正体も、何一つ知らない顔だった。
「まあまあ、可愛らしいお客様。……あなたがルカちゃんで、あなたがリリアちゃんね」
「は、はい!」
「……ん」
「零から聞いてるわ。うちの子を、助けてくださったって」
奈々美は、二人の前に立つと、深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
双子の動きが、完全に止まった。
「……お、おかあさん、頭上げて!」
「そうはいかないの。母親だもの」
奈々美は、顔を上げると、にこりと笑った。
「今日は、たくさん食べていってちょうだいね」
食卓には、唐揚げ、ちらし寿司、茶碗蒸し、蓮根の挟み揚げ、具沢山の味噌汁が並んだ。
ルカが、唐揚げを一口齧った瞬間。
「……っ」
その目が、みるみる見開かれた。
「リリア! リリア、これ!」
「……ん」
リリアも、ちらし寿司を一口運んで、そのまま動かなくなった。
数秒後、無表情のまま、静かにこう言った。
「……おかわり」
それからの三十分で、リリアは三回おかわりをした。
ルカは、唐揚げと茶碗蒸しの間を往復しながら、半泣きになっていた。
「おにーさんのおかあさん、すごい……! こんなの、はじめて食べた……!」
「あらあら。そんなに褒めても、唐揚げしか出ないわよ」
「唐揚げ、もっとほしい!」
「はいはい」
奈々美は、揚げたてを追加しながら、ふとルカの手元に目を留めた。
小さな手のひらに、いくつものマメがあった。
潰れて、固くなって、また潰れた跡。
十二歳の子供の手にしては、あまりに使い込まれた手だった。
奈々美は、その手を、そっと両手で包んだ。
「……よく頑張ってる手ね」
「え?」
ルカが、きょとんと目を瞬かせた。
奈々美は、何も説明しなかった。
ただ、その手を軽く撫でて、いつもの笑顔に戻った。
「たくさん食べなさい。まだ育つんだから」
「……うん!」
澪だけが、その一瞬のやり取りを、なぜか目で追っていた。
母が、あんな目で人の手を見るのを、初めて見た気がした。
午後一時過ぎ。
昼食を終えた頃、玄関から五郎が帰ってきた。
休日出勤の帰りらしく、背広の上着を腕にかけている。
「ただいま。……おお、お客さんか」
「お、おじゃましてます!」
「うちの零を助けてくれた子たちですって」
「そうかそうか!」
五郎は、事情をろくに聞かないまま、上機嫌でソファに腰を下ろした。
「なあ母さん。玲奈の妹みたいな子の次は、うちの娘がもう二人増えたな」
「あなた、気が早いわよ」
「今度、バーベキューをやるんだ。二人とも来なさい。肉は、父さんが一番いいのを買ってくる」
澪と玲奈が、同時に引きつった笑みを浮かべた。
福音の鐘の処刑人と、白百合の盾の魔法少女が、同じ河原で肉を焼く。
想像しただけで、報告書の書きようがなかった。
「バーベキュー! 行く!」
「……ん。お肉、焼く係、やる」
「おう、任せた」
五郎は、なぜか誇らしげに胸を張った。
帰り際、玄関先で。
ルカが、零の袖をくいくいと引いた。
「おにーさん」
「なに?」
「……今日、すっごく楽しかった」
「そう。よかった」
「……ん」
リリアが、靴を履きながら、ぽつりと言った。
「ごはん、みんなで食べるの、はじめてだった」
零は、二人の頭を順番に撫でた。
ルカは顔を真っ赤にして、リリアは目を細めて、揃ってこくこくと頷いた。
門を出る直前、リリアが振り返った。
玄関に立つ澪に向かって、小さく頭を下げる。
「……おにーさんのおねーさん。今日は、ありがとう」
澪は、しばらく何も言えなかった。
それから、小さく手を振った。
「……気をつけて帰りなさいよ」
同じ頃。
郊外の小さな一軒家。
白鳥の家の電話は、昼過ぎから鳴り続けていた。
「はい、白鳥です。……ええ、うちにも来たわ」
受話器の向こうは、翼の家に通う元隊員の一人だった。
『白鳥さん、あれ、捨てていいですよね』
「いいわよ。……というより、捨てて」
『よかった。気持ち悪くて』
電話を切ると、五分もしないうちに、また鳴った。
『白鳥さーん。変な手紙、来ませんでした?』
「来たわ。あなたのところにも?」
『はい。「翼を取り戻せる」って。……こういうの、前もありましたよね』
電話の向こうの声が、少しだけ低くなった。
『「お前たちのためだ」って言われて、名前を消されたじゃないですか』
「……ええ」
『もう、あの手の言葉には乗りません。絶対に』
六人。
全員から、同じ答えが返ってきた。
誰一人として、行くとは言わなかった。
白鳥は、受話器を置いて、居間の座布団に腰を下ろした。
ちゃぶ台の上には、六通の白い封筒が並んでいる。
(……この子たちは、もう騙されない)
それは、誇るべきことだった。
同時に、この子たちがそれだけの目に遭わされたという証でもあった。
白鳥は、封筒の一つを手に取った。
美しい筆跡で書かれた、優しい言葉の羅列。
(誘っても、誰も来ない。……それが分かったら、向こうはどうすると思う?)
背中が、冷たくなった。
白鳥は、スマートフォンを手に取り、緋雪の番号を呼び出した。
午後十時。
三神家の屋根の上に、四つの影があった。
零は、保温ポットと重箱を抱えて、窓から瓦の上へと出た。
白百合の制服の上にコートを羽織った緋雪が、その隣に座っている。
二人の前には、赤いリボンと青いリボンの双子が、正座で待機していた。
「豚汁と、焼きおにぎり。……冷めないうちに」
零が保温ポットの蓋を開けると、湯気と味噌の匂いが、冬の夜気に広がった。
「……零くん」
緋雪が、椀を受け取りながら、少しだけ目を細めた。
「約束、守ってくれたのね」
「言っただろ。今度、夜食作るって」
「ええ。……ちゃんと、覚えていてくれたのね」
緋雪は、湯気に息を吹きかけてから、一口すすった。
しばらく、何も言わなかった。
「……美味しい」
「よかった」
「あったかーい!」
ルカが、焼きおにぎりに齧りついて足をばたつかせた。
リリアは、豚汁の椀を両手で包んだまま、うっとりと目を閉じている。
「おにーさんとおねーさん、お似合い!」
「……ん。夜食、もらえる関係」
「基準が食べ物なのね」
緋雪が、小さく笑った。
重箱が空になった頃、ルカが立ち上がった。
「ごちそうさま! じゃあ、あたし、見張りに戻るね」
「……ん。リリアは、屋根の反対側」
双子は、揃って器を返すと、音もなく瓦を蹴って離れていった。
二人が向かいの屋根と裏手の電柱へ散ったのを確かめてから、零は声を潜めた。
「……緋雪さん。今朝、八咫の人から報告があった」
白鳥に届いた封筒のこと。翼の家の六人にも、同じものが届いていること。
「……六通」
緋雪の表情が、険しくなった。
その時、緋雪のスマートフォンが震えた。
画面には、白鳥の名前が表示されている。
「白鳥さん? ……ええ、今、大丈夫」
緋雪は、双子のいる方角を一度確かめてから、音量を絞って通話をスピーカーに切り替えた。
夜風の中に、白鳥の声が細く流れ出す。
『翼の家の子、全員に手紙が来てた。……全員、行かないって』
「そう。……それは、よかった」
『うん。この子たちは、もう騙されない。……でもね、緋雪』
白鳥の声が、少しだけ震えた。
『誰も手を取らなかったら、次はどうすると思う?』
屋根の上に、沈黙が落ちた。
「……無理やり、連れていく」
緋雪が、静かに答えた。
『そう。私も、そう思う』
「白鳥さん。明日、そちらに行くわ」
『ありがとう。……ごめんね、いつも』
通話が切れた後、しばらく誰も口を開かなかった。
「……零くん」
「うん」
「明日、私は白鳥さんのところへ行く。あなたは」
「補習が午前中で終わる。……午後から、合流する」
零は、冷たい瓦の上で、椀を握り直した。
「誘っても来ないなら、力ずくで攫う。……それって、相手が『人を人と思ってない』ってことだ」
適性を失った少女たちを、実験体として差し出す取引。
永遠に変身したままでいられるという、甘い約束。
その言葉の裏側を、零は身をもって知っていた。
「絶対に、させない」
緋雪が、零の手にそっと自分の手を重ねた。
「ええ。……させないわ」
向かいの屋根の上で、赤いリボンの影が、夜空を見上げていた。
冬の夜気の中に、白い息が静かに上がっていった。
翌日、日曜日の正午。
駅前の喫茶店の窓際の席には、誰も座っていなかった。
白い自転車を停めた若い女が、店の扉を開け、しばらくその空席を見つめていた。
注文もせず、席にも着かず、女は静かに店を出ていった。
道の向かいの電柱の陰から、八咫三番が、その一部始終を見届けていた。
その日の夕刻。
白い壁と白い床だけで作られた、窓のない礼拝堂。
跪いた信徒が、白い衣の人物に向かって報告していた。
「……申し訳ございません。一人も、参りませんでした」
「六通、全て?」
「はい。それと、白鳥という元隠密にも一通」
白い衣の人物は、しばらく黙っていた。
それから、静かに息を吐いた。
「そう。……翼を差し出しても、誰も手を取らないのですね」
その声には、怒りも失望もなかった。
ただ、深い憐れみだけがあった。
「可哀想に。あの子たちは、一度奪われたせいで、差し出された手を信じられなくなってしまった」
白い衣の袖が、ゆっくりと持ち上がる。
「ですが、それは、救われなくていい理由にはなりません」
「……では」
「迎えに行きましょう」
白い衣の人物は、穏やかに微笑んだ。
「救いというものは、時に、本人の同意を待たないものですから」




