第二百六十三話
金曜日の朝。
三神家の食卓には、奈々美の作った朝食が並んでいた。
焼き鮭に、甘い卵焼き。ほうれん草のお浸し。豆腐とわかめの味噌汁。
明け方に帰ってきた零は、少しだけ仮眠を取ってから、制服に着替えて席に着いていた。
「零、ちゃんと食べなさい。検査で疲れたでしょう」
「うん。いただきます」
零は、味噌汁を一口すすった。
出汁の加減が、身体の芯にじんわりと染みていく。
「……で、どうだったんだ。検査は」
向かいの席で、背広姿の五郎が新聞を畳みながら尋ねた。
「特に問題なし。夜通し、機械に繋がれてただけ」
「そうか」
五郎は、老眼鏡を外して零の顔を眺めた。
「顔色は、あんまり問題なしって感じじゃないがな」
「寝不足なだけだよ」
「ならいい。……今日は、早く寝ろよ」
「うん」
五郎は、それ以上は聞かなかった。
湯呑みの茶を飲み干すと、鞄を掴んで立ち上がる。
「母さん、行ってくる」
「はい、いってらっしゃい。お弁当、忘れないで」
奈々美から弁当の包みを受け取った五郎は、玄関で一度だけ振り返った。
零と目が合うと、何も言わずに小さく頷いて、扉の向こうへ消えていった。
「お兄ちゃん、目の下、くまだよ」
隣の席の玲奈が、零の顔を覗き込んだ。
「パンダみたい」
「……褒めてないよな、それ」
「褒めてない。心配してる」
玲奈は、自分の皿の卵焼きを一切れ、零の皿にそっと移した。
「元気出る分」
「……ありがとう」
澪は、トーストを齧りながら、その様子を黙って眺めていた。
何か言いたそうな顔をしていたが、結局、口にしたのは一言だけだった。
「……宮内庁、人使い荒くない?」
「かもな」
「文句言っときなさいよ。弟を夜通し使うなって」
澪は、そう言ってコーヒーを飲み干した。
昼休み。
零は、教室の机に突っ伏していた。
四時間分の授業の記憶が、ほとんどない。
「零。起きろ、零」
肩を揺さぶられて、零はのろのろと顔を上げた。
稔が、やけに真剣な顔で、ノートを一冊広げていた。
「……なに」
「作戦会議だ」
ノートには、びっしりと男子生徒の名前が書き込まれていた。
学年、クラス、部活、身長。それぞれの横に、丸や三角や罰がついている。
「羽衣大佐の彼氏は、この学校にいる。俺は昨日、この目で見た」
「……それで?」
「犯人を、特定する」
「犯人って」
「俺の憧れの羽衣大佐を攫っていった男は、犯人だ」
稔は、赤ペンで一人の名前に大きな罰をつけた。
「バスケ部の田村は違う。身長が高すぎる。昨日見た背中は、もっと普通だった」
「……普通」
「ああ。特徴がないのが特徴、みたいな背中だった」
零の背中が、僅かに強張った。
「で、お前はどう思う?」
「……さあ」
「ちなみに、お前は候補から外してある」
稔は、ノートの一番下を指で叩いた。
そこには、『三神零』の名前と、二重線が引かれていた。
「……なんで外したんだ」
「お前には、四週間連れ回した彼女がいるだろ。しかも、姉ちゃんが学校まで監視に来るような家の子が」
「……」
「羽衣大佐が、二股かけられるような女に見えるか? 見えないだろ。つまり、お前じゃない」
稔は、自信満々に腕を組んだ。
零は、何も言わずに、再び机に突っ伏した。
否定も肯定もできない時は、寝たふりをするのが一番だった。
教室の扉の向こうを、紺のパンツスーツの女性が通り過ぎていった。
教育実習生の名札を下げたヴィクトリアは、机に突っ伏す零の姿をちらりと見て、足を止めた。
(……目の下の隈)
昨夜、零を乗せた宮内庁の車は、監視班の目の前で消えた。
そして今朝、彼は疲れ切った顔で登校してきた。
(宮内庁の研修の、続き。……やはり、ゴースト様の案件ね)
ヴィクトリアは、静かに微笑んで、職員室へと歩いていった。
その推測が、半分だけ正しいことを、彼女はまだ知らなかった。
夕方。
帰宅した零は、台所で手早く夕飯の支度を済ませてから、リビングに顔を出した。
「今夜、少し出かけてくる」
「え? 昨日の今日で?」
ソファでテレビを見ていた澪が、振り返った。
「緋雪さんと。……九時には帰る」
澪の口元が、ゆっくりと吊り上がっていった。
「……へえ」
「なんだよ」
「別にぃ? 昨日は宮内庁、今日は緋雪ちゃん。忙しいわねえ」
「お兄ちゃん、デート?」
玲奈が、ソファの背もたれから身を乗り出した。
「……用事だよ」
「デートだ」
「デートね」
姉妹の声が、ぴったりと重なった。
その時、玄関の扉が開いて、五郎が帰ってきた。
リビングの空気を一瞬で読み取ったのか、背広の上着を脱ぎながらにやりと笑う。
「なんだ、零。出かけるのか」
「……ちょっと、緋雪さんと」
「そうか、そうか」
五郎は、妙に満足そうに頷いた。
それから、少しだけ声を落とした。
「大通りを使えよ。それと、門限は守れ」
「九時には帰る」
「よし。……緋雪ちゃんに、よろしくな」
「あらあら。また、うちにご飯食べに来てもらいなさいね」
台所から、奈々美が顔を出して笑った。
零は、四方からの視線に耐えきれず、早々に玄関へ向かった。
午後六時半。
三神家の門の前に、私服姿の緋雪が立っていた。
コートの襟元から、中に着込んだ白百合の制服が僅かに覗いている。
「……迎えに来たわよ」
「ありがとう。……家族には、デートってことになってる」
「知ってるわ。澪さんから、さっきメッセージが来たもの」
緋雪は、スマートフォンの画面を見せた。
『弟をよろしく。九時までに返してね』という文面の後に、ハートの絵文字が三つ並んでいた。
「……姉ちゃん」
「ふふ。行きましょう」
二人は並んで大通りまで歩き、角で待っていた黒塗りの車の後部座席に乗り込んだ。
昨夜と同じ車を家の前に停めれば、隣家の監視班に教えるようなものだ。
運転席の八咫の隊員が、ルームミラー越しに小さく会釈した。
郊外の町に着いた時には、すっかり日が暮れていた。
白鳥の家から少し離れた、人気のない農道の脇で車が停まる。
車内で変身を終えたゴーストは、緋雪とともに、夜道を歩いて家へ向かった。
運転席の隊員は、車に残った。八咫の存在は、白鳥にもまだ明かせない。
玄関の扉が開いて、白鳥が顔を出した。
「いらっしゃい。……二人とも、どうぞ」
白鳥の視線が、ゴーストと緋雪を順番に通り過ぎた。
ほんの一瞬、その目が慈しむように細められた気がした。
緋雪は、気づかないふりをした。
居間のちゃぶ台を囲んで、三人が座った。
白鳥の母が淹れてくれた茶が、湯気を立てている。
母は「ごゆっくり」とだけ言って、台所へ下がっていった。
奈緒は、すでに二階の部屋で眠っているらしかった。
「……それで。大事な話って」
白鳥が、静かに切り出した。
緋雪が、防水の袋から一枚の紙を取り出した。
昨夜、山中の廃施設——戦姫の研究所の地下で回収した地図だった。
ちゃぶ台の上に広げられたそれを見た瞬間、白鳥の顔から血の気が引いた。
「……これ、うちの」
「ええ。この家までの道が、全部書き込まれているわ」
緋雪は、続けて一枚の写真を置いた。
窓辺に座る、黒髪に紅色の瞳の少女。
その下に、手書きの文字が添えられていた。
『剣姫の器』
白鳥は、写真を手に取った。
その指が、小刻みに震えていた。
「……奈緒ちゃんを、狙ってるの」
「ええ」
ゴーストが、静かに答えた。
「郊外の山中に、魔獣を操る存在が潜んでいたわ。周りの魔力の揺らぎを全て消して、その中で微かな波形を聴き分ける。……私たちは、それを『無響』と呼んでいる」
「無響……」
「奈緒の中には、剣姫の遺伝子が流れている。無響は、その波形を狙っているの。……『器は、いずれ貰い受ける』と、はっきり言ったわ」
居間に、重い沈黙が落ちた。
剣姫。その言葉が指す人の名を、ゴーストも緋雪も口にしなかった。
「この前、奈緒さんが河川敷で魔獣と戦ったでしょう」
緋雪が、言葉を選ぶように続けた。
「あの魔獣の中から、黒い結晶が出てきたの。魔獣を外から誘導するための術式が刻まれていたらしいわ。……あの魔獣が、この家から歩いて行ける距離に現れたのは、偶然じゃないかもしれない」
「……そんな」
白鳥は、写真を胸に押し当てた。
「奈緒ちゃんは、やっと自分の名前で生きられるようになったのに」
その声は、怒りとも悲しみともつかない響きを帯びていた。
「白鳥さん」
緋雪が、そっと口を開いた。
「提案があるの。……奈緒さんを、しばらく別の場所に移すことも考えてほしい。星監の施設か、白百合の本部か。この家よりは、守りやすい場所に」
白鳥は、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと首を横に振った。
「……ごめん、緋雪。それは、できない」
「白鳥さん」
「ここを捨てたら、あの子に教えることになるの。『あなたの居場所は、狙われたらすぐに消えるものなんだ』って」
白鳥は、写真の中の少女を見つめた。
「私、あの子に言ったのよ。ここでは、あなたの名前で生きていいって。……それに、『翼の家』には、私を頼って通ってくる子たちがいるの。戦えなくなって、どこにも行き場がない子たちが。私が逃げたら、あの子たちの居場所まで嘘になっちゃう」
白鳥の目に、強い光が宿っていた。
政府の地下で心を殺されかけていた少女の目では、もうなかった。
「狙われるたびに逃げる場所なんて、居場所じゃない。……だから、私はここを守りたい」
緋雪は、すぐには言葉を返せなかった。
訓練校のグラウンドで、一人で特訓していた自分に「たまには一緒に休もうよ」と声をかけてくれた、あの頃の白鳥の顔が、ふと重なった。
「……分かったわ」
最初に口を開いたのは、ゴーストだった。
「なら、この家ごと守る。それだけのことよ」
白鳥が、はっと顔を上げた。
「ゴーストさん……」
「それに、もう手は打ってあるの」
ゴーストは、白鳥に向き直った。
「数日前から、私の知り合いが一人、この家の周りを見張っているわ。姿を見せることはほとんどないけれど、昼も夜も離れない。……腕は確かよ」
「……え?」
白鳥は、ぽかんと口を開けた。
それから、窓の外の暗がりに目を向けた。
柿の木の陰で、何かが一度だけ、小さく会釈したような気がした。
「……全然、気づかなかった」
「気づかれたら、仕事にならないもの」
「それと、これを」
緋雪が、鞄から小さな機械を三つ取り出した。
手のひらほどの、黒い箱だった。
「その知り合いから預かってきたの。周りの魔力の揺らぎが不自然に消えた時に、警報が鳴るそうよ。家の三方に置かせてもらえるかしら」
「……ありがとう、緋雪」
「私も、非番の日はできるだけ顔を出すわ。……奈緒さんに、勉強をサボらないように言わないといけないし」
白鳥が、ようやく小さく笑った。
話し合いが一段落した頃。
階段の上から、とん、とん、と小さな足音が降りてきた。
「……お姉ちゃん?」
パジャマ姿の奈緒が、階段の途中で目をこすっていた。
紅色の瞳が、居間のちゃぶ台を囲む人々を見渡して、ゴーストの上で止まった。
「お姉ちゃん!」
奈緒は、残りの階段を一気に駆け下りた。
そのまま、座っていたゴーストの背中に、勢いよく抱きついた。
「……起こしてしまったわね、奈緒」
「ううん。お姉ちゃんのこえ、きこえた」
奈緒は、ゴーストの肩に顎を乗せて、嬉しそうに目を細めた。
「緋雪さんも、いる」
「こんばんは、奈緒さん」
「こんばんは」
奈緒は、ゴーストにしがみついたまま、ぺこりと頭を下げた。
それから、居間の中をきょろきょろと見回した。
「……お姉ちゃん」
「なに?」
「三神さんは?」
ゴーストの肩が、ぴくりと跳ねた。
緋雪の湯呑みが、ちゃぶ台の上でかちりと鳴った。
「……今日は、来ていないわ」
「そっか」
奈緒は、少しだけしょんぼりと眉を下げた。
「三神さん、また来る?」
「……たぶん、ね」
「こんど、うでにくっつくの。れなねえと、はんぶんこ」
「……そう」
ゴーストは、表情を変えずに頷いた。
声が、ほんの僅かに上擦っていた。
緋雪は、慌てて湯呑みで口元を隠した。
その一部始終を、白鳥は、湯呑みを両手で包んだまま見つめていた。
(……ゴーストさん、三神くんの名前が出た瞬間に、動揺した)
白鳥の視線が、ゴーストから緋雪へと移る。
緋雪は、何事もなかったような顔で茶をすすっている。
だが、その頬は、うっすらと赤かった。
(そうよね。……ゴーストさんからしたら、三神くんは、恋のライバルだもの)
白鳥は、胸の奥で小さく溜息を吐いた。
(緋雪を挟んで、恋人と、禁断の相手。……それを、奈緒ちゃんが無邪気に聞いちゃうなんて)
白鳥の目に、うっすらと涙が浮かんだ。
(ゴーストさん、辛いでしょうに。……なんて健気なの)
白鳥の潤んだ瞳に気づいた緋雪は、その意味を正確に察して、湯呑みを持つ手を小刻みに震わせた。
笑ってはいけない。今ここで笑ったら、全部が台無しになる。
「……緋雪、大丈夫? お茶、こぼれそうよ」
「……だ、大丈夫。少し、熱かっただけ」
奈緒は、ゴーストの膝の上に移動して、そのまま丸くなった。
数分と経たずに、小さな寝息が聞こえてきた。
ゴーストは、奈緒の髪を、そっと撫で続けていた。
午後八時半。
白鳥の家を出たゴーストと緋雪は、農道の脇に停めた車へと戻った。
後部座席に乗り込むと、運転席の隊員がルームミラー越しに口を開いた。
「お疲れ様でございました。……三番より、検知器の設置を確認したとの連絡です」
「ありがとう。……それと、昨夜の件」
ゴーストは、窓の外の暗い田畑に目をやった。
「無響は、私の波形を聴いて言ったわ。先日、街で襲った少年から漏れていた魔力の波形と、同じ形をしている、と」
「はい。殿下にも、その旨は上げております」
「確信までは、されていないと思う。でも、次に人間の姿の時に近づかれたら、分からない」
「胸のペンダント、でございますね」
隊員は、静かに頷いた。
「人間のお姿の時でも、そこから微かに波形が漏れている。……静かな場所なら、聴き取れてしまう程度に。勾玉が、遮断の方法を検討しております。ペンダントを収める専用の器か、リングの改良か。数日、お時間をいただきたいとのことです」
「お願いするわ」
「それまでは、人間のお姿の時こそ、お一人にならないでください」
隣で、緋雪が小さく頷いた。
「昼は私。夜は、あの双子。……それから、八咫の皆さん。あなたの周りには、もう十分すぎるほどの護衛がいるわ。ちゃんと、使って」
「……分かったわ」
ゴーストは、しばらく黙っていた。
それから、胸元にそっと手を当てた。
ドレスの奥で、見えないペンダントが、微かに熱を帯びている気がした。
(凛音さん。……あなたの力が、奈緒と、私を繋いでいる)
その繋がりが、今は、敵にとっての道標になっている。
ゴーストは、その重さを確かめるように、掌に少しだけ力を込めた。
午後八時五十五分。
帰りの車内で変身を解いた零は、大通りの角で車を降り、緋雪と並んで三神家の門の前まで歩いた。
「間に合ったわね」
「……五分前」
「澪さんに、ちゃんと報告しておくわ」
緋雪は、小さく手を振って、大通りへと戻っていった。
その背中が角を曲がると、向かいの屋根の上で、赤いリボンと青いリボンの影が、ぴょこんと手を挙げた。
「おにーさん、おかえりー」
「……ん。デート、どうだった?」
零は、答えずに苦笑して、玄関の扉を開けた。
リビングからは、澪と玲奈の「おかえりー、デートどうだったー?」という声が、見事に揃って聞こえてきた。
同じ頃。
郊外の小さな一軒家。
白鳥は、客を見送り、緋雪が家の三方に置いていった検知器を確かめてから、玄関先の郵便受けを何気なく開けた。
中に、一通の封筒が入っていた。
真っ白な封筒だった。
切手も、消印もない。
誰かが、直接投函していったのだ。
表には、美しい筆跡で、一行だけ記されていた。
『永遠の少女へ』
白鳥は、封筒を手にしたまま、夜道の向こうを見つめた。
柿の木の陰で、八咫三番が、静かに通信機に手を伸ばしていた。
会合の最中、白い自転車に乗った若い女が一人、郵便受けの前で一瞬だけ止まった。
魔力の気配は、一切なかった。近所の住人が回覧板でも届けに来たのだと、三番は判断していた。
「……こちら三番。至急、ご報告を」
凪域の検知器は、鳴らなかった。
封筒を届けた者は、魔法など一切使わずに、ただの人としてこの家の前まで来たのだ。




