第二百六十二話
午前零時を回った頃。
零は、送信したばかりのメッセージの画面を、じっと見つめていた。
返信は、二つとも一分と経たずに届いた。
『一人で行かないで。今夜は駄目。明日の夜、一緒に行きましょう』
緋雪からだった。
『ご連絡、感謝いたします。
当該地点には、今夜のうちに我々が先行して偵察に入ります。
明晩、宮内庁の名目で、三神様をお迎えに上がります。ご家族へのご説明は、こちらで整えます』
八咫からだった。
零は、深く息を吐いて、パソコンの画面を閉じた。
窓の外では、青いリボンの小さな影が、膝を抱えて街を見下ろしていた。
翌日。木曜日の夕方。
三神家の固定電話が鳴ったのは、零が夕飯の下ごしらえをしている最中だった。
「はい、三神です。……あら、宮内庁の」
受話器を取った奈々美の声が、僅かに改まった。
零は、包丁を動かす手を止めずに、耳だけをそちらへ向けた。
「……ええ。……今夜、ですか? ……研修の、事後検査……。はい……」
奈々美は、しばらく相槌を打ってから、受話器を手で押さえて台所を振り返った。
「零。宮内庁の、この前の主査さんから。研修の事後の検査があるから、今夜一晩、あなたをお預かりしたいって」
「……今夜?」
零は、努めて驚いた顔を作った。
「……分かった。行くよ」
奈々美は、少しだけ眉を寄せてから、受話器に向き直った。
「……はい。本人も、承知しました。……ええ、よろしくお願いいたします」
電話を切った奈々美は、しばらく受話器を置いた手をそのままにしていた。
「……帰ってきたばかりなのにね」
「検査だけだって」
「分かってるわよ」
奈々美は、ふっと笑った。
だが、その目は、零の頬の絆創膏から、しばらく離れなかった。
「また宮内庁?」
リビングのソファから、澪が顔を出した。
大学の課題らしいノートを膝に広げたまま、露骨に不満そうな顔をしている。
「帰ってきて、まだ一週間も経ってないじゃない」
「事後検査だって。一晩だけ」
「……ふうん」
澪は、ソファに背中を預けて、天井を見上げた。
「……ちゃんと、明日帰ってきなさいよ」
「うん」
「お兄ちゃん」
階段の途中から、玲奈が顔を覗かせていた。
「一晩だけ、だよね? 明日は、帰ってくるよね?」
「帰ってくる。朝には、家まで送ってもらえるって」
「……約束だよ」
「約束する」
玲奈は、少しだけほっとしたように頷いた。
だが、階段を上がっていく足音は、いつもより重かった。
この家で「一晩だけ」という言葉が、どれほど当てにならないか。四週間分の記憶が、まだ全員の中に残っている。
午後七時。
玄関の扉が開き、背広姿の五郎が帰ってきた。
「ただいま。……なんだ、この空気は」
「お帰りなさい、あなた。零がね、今夜また宮内庁なの。研修の事後検査ですって」
奈々美の説明を聞きながら、五郎はネクタイを緩めた。
それから、台所に立つ零の背中を、しばらく黙って見ていた。
「……零」
「うん」
「お前の研修、そんなに大変だったのか」
零の手が、一瞬だけ止まった。
「……まあ、少しは」
「そうか」
五郎は、それ以上は聞かなかった。
代わりに、冷蔵庫から缶ビールを一本取り出して、零の隣に立った。
「無理はするなよ」
「……うん」
五郎は、プルタブを引いて、ぐいと一口飲んだ。
その横顔は、いつもの呑気な父親のものだった。
だが、缶を握る指には、僅かに力がこもっていた。
夕飯を早めに済ませ、零は自室で小さな鞄に着替えを詰めた。
ノックの音がして、奈々美が顔を出した。
「零。これ、持っていきなさい」
差し出されたのは、アルミホイルに包まれた、ずっしりと重い包みだった。
「……おにぎり?」
「夜食よ。検査って、お腹が空くでしょう」
零は、包みを受け取った。
まだ、ほんのりと温かかった。
「中身は、鮭と、昆布と、おかか。……あなたの好きなやつ」
「ありがとう、母さん」
「気をつけてね。ちゃんと、帰ってくるのよ」
「うん」
奈々美は、零の頭を一度だけ撫でて、部屋を出ていった。
午後八時。
零は、自室の窓を開けた。
冷たい夜風が吹き込んでくる。
向かいの屋根の上に、二つの小さな影が並んでいた。
零が手招きすると、二つの影は音もなく屋根を蹴り、窓枠に降り立った。
「おにーさん、どうしたの?」
「……ん。まだ、見張りの時間」
ルカとリリアが、窓枠にしゃがみ込んだまま首を傾げた。
「今夜、宮内庁の用事で、家を空けることになった。朝には帰ってくる」
「……え」
ルカの顔が、みるみる曇っていった。
「おにーさん、一人で行くの? また魔獣に襲われたら……」
「一人じゃない。緋雪さんも一緒だし、宮内庁の人もついてる。俺は大丈夫」
「……ん。おねーさんが、一緒なら」
リリアが、小さく頷いた。
「それで、二人にお願いがある」
零は、窓枠の二人と目線を合わせた。
「俺がいない間、家族を守ってほしい。……母さんと、父さんと、姉ちゃんと、玲奈を」
ルカとリリアは、顔を見合わせた。
それから、揃って背筋をぴんと伸ばした。
「おにーさんの家族は、ルカたちが守る!」
「……ん。任せて。一匹も、近づけない」
「頼んだ」
零は、二人の頭を順番に撫でた。
ルカは顔を真っ赤にして、リリアは目を細めて、揃ってこくこくと頷いた。
二人は屋根へと戻っていった。
零は、窓を閉め、鍵は開けたままにしておいた。
午後九時。
三神家の門の前に、一台の黒塗りの車が静かに停まった。
運転席から降りてきたのは、地味な紺のスーツを着た女性だった。
宮内庁の主査を名乗り、この家を一度訪ねた人物である。
玄関先で、主査は奈々美と五郎に深々と頭を下げた。
「夜分に申し訳ございません。明朝、必ずご自宅までお送りいたします」
「よろしくお願いします」
五郎が、背広のまま頭を下げ返した。
奈々美は、零の肩に手を置いたまま、主査の顔をじっと見つめていた。
ほんの一瞬。
その目が、何かを量るように細められた気がした。
だが、次の瞬間には、いつもの穏やかな母親の顔に戻っていた。
「行ってらっしゃい、零」
「行ってきます」
零は、後部座席に乗り込んだ。
角の電柱の陰で、星監の監視班が慌ててカメラを構えるのが見えた。
だが、主査——八咫の隊員が三度角を曲がった頃には、後続の車の姿はどこにもなかった。
後部座席の奥から、くすりと小さな笑い声がした。
暗がりの中に、白百合の制服姿の少女が座っていた。
「緋雪さん」
「こんばんは、零くん」
緋雪は、零の手元の包みに目を留めた。
「……それは?」
「母さんの、夜食のおにぎり」
「……いいわね」
「半分こしよう。帰りに」
緋雪は、少しだけ頬を緩めて頷いた。
八咫の隊員が、ルームミラー越しに二人を見た。
「昨夜の偵察の結果を、お伝えいたします」
「お願いします」
「当該地点の半径約一キロで、あらゆる魔力の揺らぎが消失しておりました。……虫の音も、ほとんど聞こえません」
隊員の声が、僅かに低くなった。
「境界の手前までは、確認いたしました。……ですが、そこから先は、我々の索敵が一切効きません。気配そのものが、塗り潰されております」
「……八咫の索敵でも」
「はい。勾玉は、この現象を暫定的に『凪域』と呼称しております。そして、昨夜の偵察の最中、境界の奥で一度だけ、人の形をした影を目視いたしました」
隊員は、ハンドルを握る手に力を込めた。
「気配も、体温も、魔力の揺らぎもない影です。勾玉はそれを、『無響』と呼称いたしました」
「……無響」
音のない、という意味だろう。
名前がついた。
それは、こちらがまだ何も分かっていないという証明でもあった。
「三神様」
「はい」
「そろそろ、ご準備を」
零は、頷いた。
この車の中にいるのは、自分の正体を知る二人だけだった。
零は、胸のペンダントを握りしめた。
闇色の魔力が、狭い車内に静かに満ちていく。
短く整えた黒髪が、背中まで伸びる。骨格が、しなやかに組み変わる。
学ランが闇に溶け、漆黒のゴシックドレスが身体を包み込んだ。
光が収まった時、後部座席には、紫水晶の瞳を持つ少女が座っていた。
「……行きましょう」
ゴーストは、静かにそう告げた。
隣で、緋雪もまた、白い冷気を纏って変身を終えていた。
午後十一時。
車は、郊外の山の麓で停まった。
そこから先は、細い林道が暗い山の中へと続いているだけだった。
三人は、車を降りた。
静かだった。
静かすぎた。
風の音も、沢の音も、鳥の声もない。
耳の奥が、きんと痛くなるほどの無音だった。
緋雪の周囲に漂っていた白い冷気が、ゆらりと揺らいで、薄れていく。
「魔力が……吸われてる?」
「いいえ」
ゴーストは、自分の掌を見つめた。
闇の魔力は、確かにそこにある。
だが、その輪郭が、周囲の空気に溶けていくように、ぼやけて感じられた。
「吸われているんじゃない。……周りの揺らぎが消されているから、自分の魔力が、浮き上がって見えるのよ」
水を張った桶の底に、一粒だけ落ちた墨のようなものだ。
隠れる場所が、どこにもない。
「ここから先です」
八咫の隊員が、林道の途中で足を止めた。
そこには、何もない。
ただ、枯れ草の生えた地面が、闇の奥へと続いているだけだった。
「この線を越えると、我々の索敵は効きません。……目と耳だけが頼りになります」
「分かったわ」
ゴーストは、一歩を踏み出した。
境界を越えた瞬間、耳鳴りが、さらに一段深くなった。
林道を三十分ほど登った先に、それはあった。
木々の間に埋もれるようにして建つ、古いコンクリートの建物だった。
壁は蔦に覆われ、窓は全て板で塞がれている。
正面の門柱には、錆びついた金属のプレートが残っていた。
『戦姫 第三研究所』
「……戦姫」
緋雪の声が、僅かに強張った。
「協会の、前身組織よ。協会が設立される前に、魔法少女の運用と研究を担っていた」
「学校の地下にあるのと、同じ組織ね」
ゴーストは、門柱を見上げた。
ヴィクトリアが執着している、学校の地下の避難壕。
あれもまた、戦姫の時代のものだった。
正面の扉の錆びた鎖は、すでに誰かの手で断ち切られていた。
切り口は、新しかった。
建物の中は、埃と黴の匂いに満ちていた。
廊下の壁には、『変身持続時間の延長に関する実験』と題された、色褪せた掲示物が残っていた。
変身を、長く保つ。
その研究が行き着いた先が、四週間、鏡の中の他人と暮らした日々なのだと思うと、ゴーストは足元が冷えるのを感じた。
地下へ続く階段は、廊下の突き当たりにあった。
降りていくにつれて、空気が冷たくなっていく。
そして、最下層の扉を開けた瞬間。
三人は、息を呑んだ。
広い空間だった。
かつては実験室だったのだろう。天井は高く、壁際には朽ちた機材が並んでいる。
その床一面に、黒い結晶が散らばっていた。
親指ほどのものから、拳ほどのものまで。数えきれないほどの結晶が、紫色の光を微かに脈打たせている。
そして、その結晶に囲まれるようにして、何体もの影が横たわっていた。
「……魔獣」
緋雪が、太刀の柄に手をかけた。
狼型。猪型。見たことのない、蜘蛛のような形のもの。
十体以上の魔獣が、身じろぎ一つせずに眠っていた。
その身体のあちこちに、黒い結晶が埋め込まれている。
「眠らされています」
八咫の隊員が、声を潜めた。
「結晶で、制御されているのでしょう。……迂闊に近づけば、起きるかもしれません」
ゴーストは、足音を殺して、壁際へと進んだ。
そこには、一枚の大きな紙が貼られていた。
地図だった。
郊外の町の、詳細な地図。
赤い線で、何本もの道筋が書き込まれている。
その全てが、一つの地点へと向かっていた。
「……白鳥さんの、家」
緋雪が、掠れた声で呟いた。
地図の隣には、何枚もの写真が留められていた。
窓辺に座る少女。庭で鳥を追いかける少女。河川敷で、光の剣の少女と並んで戦う少女。
紅色の瞳の少女——奈緒だった。
写真の下に、手書きの文字が添えられていた。
『剣姫の器』
ゴーストの喉の奥で、何かが凍りついた。
「……奈緒を、狙ってる」
声が、震えていた。
あの子が鳥を追って走った日も、玲奈と手を繋いだ日も、誰かがレンズ越しに見ていた。
緋雪が、そっとゴーストの肩に手を置いた。
八咫の隊員は、壁際の机の上から、朽ちかけた書類の束を拾い上げていた。
ほとんどの文字は、黴と湿気で読めなくなっている。
その中の一枚だけが、辛うじて形を保っていた。
戦姫の所属者の名簿らしい、表の切れ端だった。
名前の欄は、全て滲んで判読できない。
ただ、属性の欄だけが、いくつか読み取れた。
『炎』『水』『風』。
そして、一番下の行に、『雷——現場要員。寿退職』とだけ記されていた。
「……持ち帰ります」
隊員は、書類と地図と写真を、手早く防水の袋に収めていった。
その時だった。
「——同じだ」
声がした。
三人の背後。
入ってきたばかりの扉の、すぐ前から。
ゴーストは、振り返った。
そこに、人が立っていた。
いや、人の形をした何かが立っていた。
背の高い、痩せた男のようにも見える。
白い肌。長い指。整いすぎた顔立ち。
だが、その身体からは、何一つ感じられなかった。
体温も。呼吸の音も。魔力の揺らぎも。
まるで、そこだけ世界から切り取られた空白のようだった。
「……いつから」
八咫の隊員が、呟いた。
その声に、初めて明確な動揺が滲んでいた。
無響。
その名が、三人の脳裏に同時に浮かんだ。
「同じだ」
無響は、もう一度、同じ言葉を繰り返した。
その視線は、真っ直ぐにゴーストへと向けられていた。
「静かな場所では、小さな音ほどよく聴こえる」
温度のない声だった。
「先日、街で一人の少年を狙った。……あの少年から、微かに漏れていた波形。剣姫の波形」
ゴーストの背筋を、冷たいものが駆け上がった。
「お前の波形は、あれと、同じ形をしている。……確かめよう」
(……聴かれている)
ペンダントから漏れる、凛音の波形。
人間の姿の時でさえ、微かに外へ滲み出ていたもの。
この存在は、周囲の揺らぎを全て消し、その微かな波形だけを聴き取っていたのだ。
路地の魔獣も、この山の凪も、すべては「聴くため」の準備だった。
次の瞬間。
無響の姿が、消えた。
「——っ!」
ゴーストは、反射的に大剣を横に振るった。
金属と何かがぶつかる、鈍い音。
無響の長い指が、大剣の刃を、素手で受け止めていた。
(見えなかった……!)
予兆がない。
魔力の揺らぎも、筋肉の動きも、空気の震えもない。
ただ、気づいた時には、そこにいる。
「零く——ゴースト!」
緋雪が、太刀を振り抜いた。
白い冷気が刃となって、無響へと走る。
だが、冷気は無響に届く前に、霧のように薄れて消えた。
「……届かない!?」
「揺らぎを、消されているのよ!」
ゴーストは、大剣に闇を纏わせた。
周囲の揺らぎが消されても、この闇だけは、自分の内側から湧き出ている。
外の世界に頼らない力。
「——はあっ!」
闇を纏った刃が、無響の指を弾いた。
無響の身体が、初めて僅かに後ろへ下がる。
「……ほう」
「右です!」
八咫の隊員の声が、鋭く響いた。
索敵ではない。
ただ、自分の目で、無響の足元の埃が僅かに舞ったのを見たのだ。
ゴーストは、声に従って右へ大剣を振るった。
手応えがあった。
無響の肩口を、闇の刃が浅く裂く。
裂け目から、血ではなく、紫色の光が漏れ出した。
「上から!」
緋雪が、天井へ向けて太刀を振り上げた。
冷気は届かない。
だが、太刀の刃そのものが、落ちてくる無響の腕を受け止めた。
魔力を通さない一撃。
二日間、夕日紅に三十七回倒されて叩き込まれた、身体だけで戦う技だった。
ゴーストが、横から闇の刃を叩き込んだ。
無響の身体が、壁際まで弾き飛ばされる。
だが、無響は、倒れなかった。
裂けた肩口の紫色の光が、ゆっくりと閉じていく。
「……十分だ」
無響は、静かに呟いた。
「確かめた。お前の波形は、剣姫のものだ」
その長い指が、床に散らばる結晶の一つを、そっと撫でた。
「器は、いずれ貰い受ける」
その瞬間。
床一面の結晶が、一斉に紫色の光を放った。
——グルルルルッ!
——ブオオオッ!
——キシャアアアッ!
眠っていた魔獣たちが、一斉に目を開けた。
「起きた……!」
無響の姿は、すでに扉の前から消えていた。
緋雪が、太刀を構え直した。
十体以上の魔獣が、結晶の光に操られるように身を起こし、三人を取り囲んでいく。
闇が、地下の実験室に満ちた。
それからの数分間は、ただの蹂躙だった。
結晶に操られた魔獣たちは、予兆のない動きで襲いかかってくる。
だが、ゴーストの闇は、外の揺らぎに頼らない。
大剣が一閃するたびに、魔獣の身体に埋め込まれた結晶ごと、その巨体が両断されていく。
緋雪は、冷気の代わりに太刀の技だけで、蜘蛛型の魔獣の脚を次々と斬り落とした。
最後の一体が倒れた時。
天井から、ぱらぱらと砂が落ちてきた。
「——崩れます!」
隊員が叫んだ。
戦闘の衝撃で、古い建物の構造が限界を迎えていた。
ゴーストは、緋雪と隊員の手を掴んだ。
「掴まって」
足元の影が、三人を飲み込んだ。
次の瞬間、三人は、境界の外の林道に立っていた。
背後の山の奥から、地鳴りのような音が響いてくる。
戦姫の研究所が、崩れ落ちていく音だった。
ゴーストは、荒い息を吐いた。
その時、耳鳴りが、ふっと消えた。
風が枝を揺らす音が、遠くの沢の音が、夜の鳥の声が、一斉に戻ってきた。
凪が、晴れたのだ。
世界が、また息を始めていた。
午前四時。
車は、郊外の町の外れで停まった。
遠くに、小さな一軒家の明かりが見える。
白鳥の家だった。
「八咫三番」
隊員が、耳元の通信機に囁いた。
すぐに、返事があった。
『こちら三番。……一晩、異常なし。奈緒様も、白鳥様も、お休みです』
「……よかった」
緋雪が、胸を撫で下ろした。
ゴーストは、車の窓越しに、その家を見つめていた。
二階の窓に、小さな明かりが一つだけ灯っていた。
窓辺に、一人の少女が座っている。
紅色の瞳が、遠くの山の方角を、じっと見つめていた。
「……奈緒」
ゴーストは、窓ガラスに指先を当てた。
あの子の鼻は、山が息を止めていたことにも、それがたった今晴れたことにも、気づいているのかもしれない。
「白鳥さんに、話すべきね」
緋雪が、静かに言った。
「ええ」
ゴーストは、窓から指を離した。
「……もう、隠しておけない」
窓辺の少女は、やがて小さくあくびをして、明かりを消した。
帰りの車の中で、ゴーストは変身を解いた。
学ランに戻った零の膝の上には、アルミホイルの包みが載っていた。
「……半分こ、だったわよね」
緋雪が、少しだけ笑った。
零は、包みを開けた。
すっかり冷めてしまったおにぎりが、三つ並んでいた。
零は、一つを緋雪に、一つを運転席の隊員に差し出した。
隊員は、少しだけ迷ってから受け取り、「……美味しいです」とだけ呟いた。
緋雪は、鮭のおにぎりを両手で持って、小さく頬張った。
「……冷めてても、美味しい」
「うん」
零は、昆布のおにぎりを齧った。
塩加減が、自分の握るものと、少しだけ違った。
ほんの少しだけ、強い。
汗をかいて帰ってくる人のための、塩加減だった。
午前六時。
三神家の門の前で、零は車を降りた。
向かいの屋根の上で、赤いリボンと青いリボンの影が、ぴょんと跳ね上がった。
「おにーさん、おかえりー!」
「……ん。家族、全員無事」
小声で手を振る二人に、零は小さく手を振り返した。
玄関に入る前に、零のスマートフォンが震えた。
八咫からの速報だった。
『回収した地図の書き込み。筆跡を勾玉が照合いたしました。
協会・技術部門の業務記録に、一致する筆跡がございます。
詳細は、追ってご報告いたします』
零は、画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
協会の中に、無響と繋がる者がいる。
奈緒の写真を撮り、白鳥の家への道筋を書き込んだ者が。
由鶴が絞り込んでいる、あの三人。
保管庫から結晶を消した、あの一人。
「……零?」
玄関の扉が開いて、エプロン姿の奈々美が顔を出した。
「おかえりなさい。早かったのね」
「……ただいま、母さん」
零は、スマートフォンをポケットにしまった。
「おにぎり、美味しかった」
「そう。よかった」
奈々美は、柔らかく笑った。
それから、零の顔を覗き込んで、ほんの少しだけ眉を寄せた。
零は、玄関を上がった。
台所から、味噌汁の匂いが漂ってくる。
リビングでは、五郎が新聞を広げたまま、老眼鏡越しにこちらを見ていた。
「……おかえり」
「ただいま、父さん」
五郎は、それ以上何も聞かなかった。
ただ、新聞の陰で、ほっと息を吐いたのが分かった。




