第二十七話
秋風が心地よい、ある日曜日の朝。
三神家の玄関前には、大きなスーツケースが二つ並べられ、少しばかりの感傷と賑やかな声が交差していた。
「じゃあね、お父さん、お母さん! 休みの日には連絡するから!」
「お兄ちゃん、私のお部屋勝手に入っちゃダメだからね! あと、ちゃんと自分で運動続けるのよ!」
「はいはい。分かってるから、忘れ物すんなよ。……頑張ってこい」
魔法少女の適性試験に見事合格した姉の澪と、妹の玲奈。
二人は今日から、魔法少女協会が運営する全寮制の『次世代育成・総合訓練校』へと入校するため、家を旅立つのだ。厳しい基礎訓練と魔法学の座学、そして部隊行動の演習など、一人前の魔法少女になるためのカリキュラムが彼女たちを待ち受けている。
「怪我だけはしないようにね……。辛くなったら、いつでも帰ってきていいんだからね」
「母さんったら、泣かないでよ。私たち、立派な魔法少女になってみせるから!」
涙ぐむ母・奈々美と、腕組みをして寂しさを誤魔化している父・五郎に見送られながら、姉妹は迎えに来た協会の黒塗りのハイヤーに乗り込んだ。
窓越しに大きく手を振る二人を見送り、車が見えなくなるまで、三神家はそこに立ち尽くしていた。
「……行っちゃったな。家の中が、急に静かになるな」
父の五郎が、ぽつりと寂しそうにこぼす。
しかし、その横で。三神零は「うん、そうだね」と神妙な顔をして頷きながらも、内心では歓喜のファンファーレを盛大に鳴らしていた。
(よぉぉぉぉしッ!! ついに行った! これで……これで解放される!!)
姉妹が訓練校に入寮したということは、すなわち。
毎朝早朝に叩き起こされ、河川敷を五キロ走らされた挙句、腹筋と背筋を限界まで追い込まれるという『地獄のスパルタ特訓』から、完全に解放されたことを意味するのだ。
さらに言えば、「身内が極秘情報を持ち帰ってくるリスク」や「自分の女体化カードをいじり倒される羞恥プレイ」の頻度も激減する。
(俺の……俺の平穏なインドア生活が、ついに帰ってきたんだ!)
零は両親に気づかれないよう、心の中で力強くガッツポーズを決めた。
放課後は自室でゴロゴロしながらアニメを見て、たまに気が向いた時に夜の街をパトロールする。そんな、彼が思い描いていた『理想のダークヒーロー兼インドア高校生』の生活が、ようやく手に入るはずだった。
しかし。
神は、あるいは運命という名の悪魔は、彼にそんな生易しい日常を許すつもりは毛頭なかったのである。
数日後。
零が通う高校の、二年生の教室。
放課後のホームルームにて、担任の教師が黒板にデカデカと白墨で文字を書き殴った。
『秋桜祭 企画実行委員 選出』
その文字を見た瞬間、教室内に重苦しい、まるで葬式のような沈黙が降りた。
秋桜祭。それは、この高校で毎年秋に開催される、一年で最も盛大な文化祭である。各クラスが模擬店や劇、お化け屋敷などの出し物を企画し、外部からの一般客も大勢訪れる一大イベントだ。
そして、黒板に書かれた『企画実行委員』、通称『文化祭委員』とは。
クラスの出し物の企画立案から予算の管理、資材の買い出し、生徒会との折衝、当日のシフト作成からクレーム対応に至るまで、ありとあらゆる雑務と責任を一人で(あるいは少人数で)押し付けられる、完全なる『ブラック労働の極み』であった。
目立てるわけでもなく、ただひたすらに裏方として働き続ける激務。当然ながら、立候補者などいるはずがない。
「えー、誰もいないか? 内申点には響くぞー?」
担任の言葉にも、生徒たちは一斉に目を逸らし、あるいは机の木目を熱心に観察し始めた。
零もまた、息を潜めて気配を消していた。
(冗談じゃない。俺は夜はゴーストとして魔獣を狩らなきゃいけないんだ。放課後をそんなブラック労働に捧げてる暇なんてない!)
特S級の魔力を以てすれば、担任の記憶を改ざんすることなど造作もないが、そんなことで魔法を使えばたちまち協会に波形を検知されてしまう。ここはただ、ひたすらに『無』になるしかない。
「仕方ないな。時間もないし、くじ引きで決めるか」
担任が教卓から取り出したのは、先端が赤く塗られた割り箸が一本だけ混ざっている、古典的な手作りのくじ引き箱だった。
「前の席から順番に引いていけ。赤い印が出たやつが今年の文化祭委員だ。恨みっこなしだぞ」
教室内から「うげえ」と悲鳴が上がる。
くじ引き箱が、前の席から順番に回されていく。セーフの割り箸を引いて安堵の息を吐く者、祈るように箱に手を入れる者。
やがて、零の前の席に座る悪友、狭間稔の番が回ってきた。
「頼む……! 俺には文化祭当日に、魔法少女のコスプレイヤーを撮影して回るという重要な使命があるんだ……! ここで委員なんかに捕まるわけにはいかねえッ!」
稔はナムナムと祈りを捧げながら割り箸を引いた。
先端は、真っ白だった。
「よっしゃァァァァッ!! 神は俺を見捨てなかった!」
ガッツポーズをして歓喜する稔。
そして、運命のくじ引き箱は、最後列に座る零の机の上へと置かれた。
(落ち着け。残りの割り箸はまだ十本近くある。当たる確率は一割だ。……特S級の俺が、そんなくじ引きごときに屈するわけがない)
零は深く深呼吸をし、ポーカーフェイスを保ったまま、箱の中に手を入れた。
指先に触れた一本の割り箸。何の変哲もない木の感触。
これだ、と直感に従い、スッと箱から引き抜いた。
「…………あっ」
零の視界が、真っ白になった。
引き抜いた割り箸の先端には、血のように生々しい、真っ赤なマジックの印が塗られていた。
数秒の静寂の後。
教室中から「うおおおおっ!」「三神、ありがとう!」「お前はクラスの英雄だ!」という、無責任極まりない歓声と拍手が巻き起こった。
「ブブッ……! ギャハハハハッ!!」
目の前の稔が、腹を抱えて爆笑している。
「お前っ、本当にすげえな三神! カードの神引きだけじゃなくて、こういう『当たり』まで引き寄せるのかよ! やっぱ物欲センサーがぶっ壊れてるんだな!」
「…………」
零は、赤い印のついた割り箸を握りしめたまま、魂が口から抜け出たような顔で固まっていた。
(嘘だろ……。俺の、俺の放課後の平和が……)
特級魔獣の突進も、レガリアの凶刃も軽々と回避してきた絶対的な亡霊は。
物理法則を無視した『くじ引き』という運命の悪魔の前には、あまりにも無力であった。
「よし、決まりだな。それじゃ三神、放課後に視聴覚室で第1回の文化祭企画会議があるから、クラス代表として必ず出席するように。頼んだぞ」
担任の無情な宣告が、零の脳内にトドメを刺した。
放課後。
校舎の1階にある、少しカビ臭い視聴覚室。
そこに、各クラスからくじ引きやじゃんけんで敗北し、死んだ魚のような目をした『文化祭委員』たち約三十名が集められていた。
零もまた、最後列のパイプ椅子に深々と腰掛け、絶望のオーラを纏いながら配られた分厚いプリントの束を睨みつけていた。
『秋桜祭・運営マニュアル』『クラス企画申請書』『予算概算表』『火気使用許可申請書』……。
魔獣の生態レポートよりも分厚く、そして頭の痛くなるような書類の山。これをすべて把握し、クラスメイトをまとめ上げなければならないのだ。
「……魔獣の巣を三つくらい破壊する方が、まだ精神的に楽だぞ……」
零がボソリと恨み言をこぼしていると、カツッ、カツッと硬い足音を響かせて、前方の教壇に一人の女子生徒が立った。
胸元には『生徒会長』の腕章。フレームの細い眼鏡をかけ、髪をきっちりと後ろで結んだ、いかにも厳格で真面目そうな三年生の女子生徒だ。
「皆さん、お集まりいただきありがとうございます。生徒会長の神宮寺です。これより、本年度『秋桜祭』の第1回企画会議を始めます」
マイクを通した凛とした声が、視聴覚室に響く。
委員たちが渋々顔を上げる中、神宮寺会長はホワイトボードを指し示した。
「まず、皆さんに配られた資料の一ページ目をご覧ください。……本年度の秋桜祭は、例年とは大きく異なる『特別方針』のもとで開催されます」
特別方針。その嫌な響きに、零の背筋がピクッと反応した。
「皆さんもご存知の通り、先日、関東郊外や横田基地において大規模な魔獣の襲撃、およびテロ組織による事件が発生しました。私たちのこの街も、決して安全とは言えない状況に立たされています。……ですが、私たちは今、こうして平和に文化祭を迎えることができている。それは何故か」
会長の眼鏡が、キラリと光る。
「日々、身を挺して私たち市民を守ってくれている、『魔法少女協会』の皆さんの尽力があるからです」
その言葉に、視聴覚室がざわめいた。
零の額に、嫌な汗が滲み始める。
「そこで生徒会は、今年の文化祭のメインテーマを『復興への祈りと、守護者(魔法少女)たちへの感謝』と設定しました。各クラスの企画についても、可能であれば魔法少女を応援するような、あるいは魔獣災害への防犯意識を高めるようなテーマを盛り込んでいただきたいと考えています」
「すげえ! じゃあウチのクラス、魔法少女カフェとかやるか!?」
「ゴーストのコスプレコンテストとか絶対ウケるぜ!」
委員の男子生徒たちが、急に活気づき始める。
しかし、零の顔色は蒼白だった。
(やめろ……頼むからやめてくれ……! 俺は学校でまで、魔法少女(自分)の話題で持ちきりになる地獄を味わいたくないんだ……!)
だが、神宮寺会長の追撃はそれだけでは終わらなかった。
「そして、ここからが重要な報告です。……このテーマをより意義深いものにするため、生徒会は現在、魔法少女協会・日本支部の広報部と直接コンタクトを取っています」
静まり返る視聴覚室。
会長は、少しだけ誇らしげに胸を張った。
「文化祭の最終日、後夜祭のスペシャルゲストとして……現役の『魔法少女』をお招きする交渉が、現在最終段階に入っています」
「「「うおおおおおおおッ!!?」」」
委員たちが一斉に立ち上がり、地鳴りのような歓声を上げた。
「マジかよ会長! すげええええ!」
「誰が来るんだ!? やっぱりエース部隊の人か!?」
「ゴースト! ゴーストは呼べないのか!?」
興奮のるつぼと化す視聴覚室。
その熱狂の中で、ただ一人。零だけが、パイプ椅子から滑り落ちそうになるのを必死に堪えていた。
「残念ながら、未登録であるゴースト様はお呼びできません。ですが、広報活動に熱心な只野真奈大尉や、最近この近隣に引っ越してこられたというトップエース、羽衣緋雪大佐などにオファーを調整中です。協会側も、市民との交流には非常に前向きな姿勢を示してくれています」
トドメを刺された。
身内が家を出て、ようやく平穏な日常が戻ってきたと思った矢先。
自分が裏方として走り回らなければならない学校行事のど真ん中に、あろうことか『本職のエース部隊』が堂々と乗り込んでくるというのだ。
もし、文化祭の準備や当日の警備案内などで、クラス代表である自分が彼女たちと直接関わる羽目になったらどうなる?
『あら? あなたは、あの時のクレープ屋を案内してくれた学生さん……』
『あれ、お兄さん! イベントの握手会に来てくれた人だよね!』
そんなふうに顔を覚えられていたら、そこから少しずつボロが出て、ゴーストの正体に辿り着かれるリスクが跳ね上がる。
しかも、ここは学校だ。稔のようなオタクたちが大挙して押し寄せ、カオスな状況になるのは目に見えている。
(……逃げたい。今すぐこの場から逃げ出して、深い森の奥で魔獣の相手だけをしていたい……!)
「——以上が、本年度の方針です。各クラス代表の皆さんは、このテーマに沿った素晴らしい企画を立案し、来週の会議までに申請書を提出してください。大変な仕事ですが、文化祭の成功は皆さんの肩にかかっています。よろしくお願いします」
神宮寺会長が深々と頭を下げ、会議は解散となった。
熱気に包まれながら教室へ戻っていく委員たちの中で、零だけが、分厚いプリントの束を抱えたまま、放心状態で立ち尽くしていた。
大国のアメリカやロシアが、暗殺や勧誘のために恐るべき包囲網を敷き始めていることなど、やはり今の彼には知る由もない。
彼にとっての最大の脅威と絶望は、いつだって『過酷すぎる日常』と『身近に迫る正体バレの危機』なのであった。
「……とりあえず、クラスの出し物は『普通のお化け屋敷』とか『普通の焼きそば屋』に誘導しよう。絶対に魔法少女絡みにはさせない……!」
夕日に染まる視聴覚室で、零は固く、固く心に誓った。
彼の胃薬の消費量は、文化祭に向けてさらにうなぎ登りになることが確定した瞬間であった。




