第二十六話
魔法少女協会・アメリカ支部の中枢、ワシントンD.C.の地下に位置する最高機密会議室。
薄暗い部屋の中心に設置されたホログラムテーブルに、二つの立体映像が投影されていた。
一人は、アメリカ支部総司令官、キャロライン・ミラー大将。金髪をタイトにまとめ、鋭いブルーの瞳に理知的な光を宿した、徹底した合理主義者である。
そしてもう一人は、通信回線越しに投影されているロシア支部総司令官、ナターシャ・イヴァノワ大将。軍服の上に分厚いコートを羽織り、氷のように冷たく無機質な銀色の瞳を持つ女傑だ。
本来であれば、世界の魔法少女勢力の覇権を巡って水面下で対立を続けている米露のトップ。その二人が、極秘の暗号回線を用いて直接会談を行うなど、前代未聞の出来事であった。
『——単刀直入に言いましょう、キャロライン大将。日本支部が提出してきた先日の「深淵の揺り籠」掃討作戦の事後報告書ですが……あれは、巧妙に偽造されています』
通信越しに、ナターシャが静かな、しかし確信に満ちた声で切り出した。
キャロラインは手元のタブレットを操作し、独自の軍事衛星が捉えていた関東圏の赤外線・魔力波形の観測データをホログラムに展開する。
「ええ、同感よ。姫嶋結衣大将は、我がアメリカの目を欺けると思っているのかしら。作戦の最終局面、日本支部のエース部隊は間違いなく全滅の危機に瀕していた。しかし、そこに突如として『未知の超高密度魔力』が介入し、特級超えの巨大魔獣を空間ごと消滅させている」
『それだけではありません。同時刻、日本の横田基地を襲撃した犯罪組織レガリアの制圧。さらには数日後、第十二山岳地帯における魔獣の巣の単独殲滅。……これらすべて、同一の魔力波形によって行われています』
ナターシャが指を鳴らすと、ホログラムの映像が切り替わり、日本のネット上で爆発的に拡散されている『ゴースト』の戦闘映像と、カードゲームのシークレットレアの画像が表示された。
「ゴースト。日本で現在アイドル的な人気を博している、未登録の魔法少女……」
『我がロシア支部の解析班によれば、彼女の魔力波形は「氷」「炎」「闇」の三属性が完全に融合したものです。……トリプルスペル。魔法少女の絶対法則を覆す、神の領域の力』
その言葉に、キャロラインは深く息を吐き出した。
一人の少女が三つの属性を同時に行使するなど、魔法学の常識ではあり得ない。もしその秘密を解明し、自国の魔法少女たちに応用できれば、世界の軍事バランスは根底から覆る。
「姫嶋大将は、この特S級の戦力を日本国内で秘密裏に囲い込み、独占するつもりのようね。……看過できないわ」
『ええ。ゴーストは、人類全体にとっての共有財産となるべき存在。極東の小さな島国に独占させるわけにはいきません。……だからこそ、今回ばかりは互いの利益のために手を結びませんか?』
ナターシャの提案に、キャロラインは口角を僅かに上げた。
日本支部を出し抜くための一時的な同盟。アメリカとロシアが協力して情報網と裏工作を駆使し、ゴーストを日本から引き剥がす。
「いいでしょう。我が国からも、最高ランクの『エージェント(特務魔法少女)』を日本へ潜入させます。目的はゴーストの戦力調査、身元の特定。そして……」
『我がロシアやアメリカへの、勧誘および確保。……もし日本支部が抵抗するようなら、多少の「荒事」も辞さない覚悟で』
米露のトップ同士による、血生臭い密約が交わされた。
魔法少女の歴史を変える規格外の存在を求めて、世界最大の武力と権力を持つ二大国家が、ついに暗闘の幕を上げたのだ。
一方、ゴーストを脅威と見なして動き出したのは、国家という『表の権力』だけではなかった。
ユーラシア大陸の某所。分厚いコンクリートとジャミング結界に守られた地下深くの空間で、世界中の裏社会を牛耳る犯罪組織のトップたちが、円卓を囲んで緊急の会合を開いていた。
彼らは武器の密輸、違法な魔法薬物の売買、さらには魔獣の密猟や人工繁殖まで手掛ける、悪のシンジケートの幹部たちである。
「……日本の『レガリア』が事実上、壊滅したそうだな」
紫色の葉巻を燻らせながら、顔に深い傷跡を持つ男が重々しく口を開いた。
「ああ。リーダーの葦名芽衣と、土属性の鈴木晴美。元Bランクの実力者たちが、たった一人の未登録魔法少女に赤子のようにねじ伏せられたらしい」
「ゴースト、とかいう小娘か。ネットの動画を見たが、ありゃあ化け物だぞ。協会の大将クラスにも匹敵する、いや、それ以上の戦闘力だ」
幹部たちの間に、重苦しい沈黙が降りる。
彼らにとって、魔法少女協会は「厄介だが規則に縛られた警察」に過ぎない。しかし、法に縛られず、強大な力で理不尽に犯罪者を叩き潰すゴーストのような存在は、彼らのビジネスを根底から破壊しかねない最大の障壁だった。
「日本は現在、我々の新兵器や違法ドラッグの最高の実験場だ。あんな規格外の野良魔法少女がウロウロしている状況は、リスクが高すぎる」
一人の幹部が、テーブルの上に銀色のアタッシュケースを置いた。
ケースを開くと、中には禍々しい赤黒い光を放つ、注射器に入った液体が並んでいる。
「現在開発中の『魔力暴走薬』だ。使用者の命を削る代わりに、一時的に魔力出力を数倍に跳ね上げる。さらに、魔獣の因子を魔法少女の肉体に直接埋め込む『キメラ化手術』の実用化も急がせている」
「……ゴーストを殺る気か?」
「殺すか、あるいは生け捕りにして洗脳し、我々の最高の兵器とするかだ。どちらにせよ、あの化け物を放置しておくわけにはいかない」
葉巻の男が、獰猛な笑みを浮かべた。
「各組織の精鋭(殺し屋)たちを、日本へ集結させろ。新兵器の実験体には事欠かない。……あの忌々しい亡霊の首を、我々の足元に転がしてやれ」
米露の国家機関、そして世界規模の犯罪シンジケート。
表と裏、両方の世界から放たれた無数の刺客たちが、ゴーストという絶対的な存在を求めて、極東の島国・日本へと静かに牙を剥き始めていた。
——そして、世界中が自分を巡って恐るべき包囲網を敷き始めていることなど、梅雨知らず。
当の本人である未登録魔法少女ゴースト、こと三神零(十六歳・男子高校生)は。
「ぜぇっ……はぁっ……! も、無理……肺が、爆発する……!」
日曜日の早朝。近所の河川敷のグラウンドで、零は無様に芝生の上に大の字になって倒れ込み、酸欠の金魚のように口をパクパクさせていた。
彼の周りには、秋の涼しい風が吹いているというのに、零のジャージは滝のような汗でぐっしょりと濡れている。
「もー、お兄ちゃん! だらしないなぁ! まだ五キロしか走ってないよ!」
「そうよ零! 男の子なんだから、もっとシャキッとしなさい!」
頭上から降ってくる元気いっぱいの声。
見上げれば、妹の玲奈と姉の澪が、息一つ乱さずにスポーツドリンクを飲みながら彼を見下ろしていた。
魔法少女の適性試験に見事合格した二人は、来月から始まる協会の厳しい訓練校での生活に備え、毎朝の基礎体力作りのためのランニングを開始したのだ。
そして、「家族なんだから付き合いなさいよ!」という理不尽極まりない理由で、零もその特訓に強制参加させられていたのである。
「お前ら……基礎体力が違いすぎるだろ……! 俺はただの、インドア派の帰宅部だぞ……!」
零は芝生をむしりながら、血を吐くような声で抗議した。
魔力因子に適合し、魔法少女としての素養を持った姉妹の肉体は、すでに常人を遥かに凌駕するスタミナと回復力を秘めている。対する零は、変身して『ゴースト』になれば特S級の身体能力と魔力を発揮できるものの、素の『三神零』の状態では、ただの少し運動不足な男子高校生に過ぎないのだ。
(ここで変身できれば、5キロなんて一瞬で走り抜けられるのに……ッ!)
しかし、姉と妹の目の前で魔法少女(しかも超絶美少女)に変身するなど、社会的な死、いや家庭内の死を意味する。
彼は必死に、ただの貧弱な兄(弟)として、己の肉体の限界と戦うしかなかった。
「ほらほら、休んでないで! 次は腹筋と背筋、五十回ずつ3セットいくわよ!」
「お兄ちゃん、私が足押さえてあげるから頑張って!」
「鬼か、お前らは……! 悪魔のシンジケートか何かか……!」
零は悲鳴を上げながら、容赦なく玲奈に足首をホールドされ、澪のスパルタ指導のもとで腹筋地獄へと突入させられた。
国家の陰謀? 世界的な犯罪組織の脅威?
そんなものは知ったことではない。今の零にとって最大の脅威は、容赦なく自分の体力を削り取っていくこの元気すぎる姉と妹であり、明日提出しなければならない数学の赤点補習プリントである。
「いち! に! さん! ほらお兄ちゃん、ペース落ちてる!」
「ひぃぃぃっ……!」
腹筋が攣りそうになりながら、零は秋の高い空を仰ぎ見た。
先日、公式の痛ポエムにブチ切れて深夜に魔獣をボコボコにしたばかりだというのに、休日の朝から身内にボコボコに(しごかれて)いる。
(……俺の平和な日常は、どうしてこうも遠いんだ)
特S級の未知の災害指定クラス。世界が恐れる深淵の亡霊。
しかしその仮面の下の現実は、筋肉痛に怯え、家族に振り回され、数学の公式と格闘する、あまりにも悲哀に満ちた少年の日常であった。
世界中から放たれた最恐の刺客たちが、この「貧弱な男子高校生」にたどり着く日は、果たして来るのだろうか。
今はただ、零の腹筋が崩壊しないことを祈るばかりである。




