第二十五話
深夜零時。三神家の自室。
三神零は、机に向かってシャープペンシルを握りしめたまま、ワナワナと全身を震わせていた。
目の前には、明日に迫った数学の再テストに向けた問題集が開かれている。
しかし、彼の視線はどうしても、問題集のすぐ隣に鎮座する『それ』へと吸い寄せられてしまう。
姉と妹によって写真立てのように飾られた、分厚い硬質ローダー入りのカード。『魔法少女クロニクル』最新弾のトップレア、ゴーストのシークレット仕様。
部屋の電気に反射して、七色のホログラムがキラキラと自己主張している。
そして、零の脳内で、姉妹の容赦ない言葉がエンドレスでリフレインしていた。
『絶賛、中二病こじらせ中って感じね』
『あんたの性癖のど真ん中を撃ち抜いたってわけだ』
『お兄ちゃん、気持ち悪い……』
『私の心は、誰にも覗かせない。この闇が、あなたを虚無へ誘うわ(笑)』
「…………ッ!!」
ボキッ、と。
零の手の中で、シャープペンシルの芯がへし折れた。
(……無理だ。こんな状況で二次関数なんて頭に入るわけがない……ッ!)
ストレスが、致死量を超えた。
公式カードゲーム運営による無断の肖像権侵害と、存在しない中二病ポエムの捏造。さらに、それを身内に見られ、変態扱いされるという最悪のコンボ。
零の心の中には、行き場のない怒りと羞恥心のマグマが限界まで溜まり、今にも噴火しそうだった。
「……ちょっと、狩りに行ってくる」
零はシャーペンを放り投げ、胸のペンダントを強く握りしめた。
手製アプリの魔獣発生警報は鳴っていない。平和な夜だ。だが、そんなことは関係ない。こちらから探し出してやる。
「変身」
深い闇が少年を包み込む。
紫がかった漆黒のロングヘアを揺らし、白と黒の魔装を纏った『ゴースト』の紫の瞳には、かつてないほどのドス黒い殺意——いや、八つ当たりの衝動が渦巻いていた。
足元の影が広がり、彼女は音もなく夜の街へと跳躍した。
同時刻。魔法少女協会・日本支部、中央管制室。
深夜の当直任務に就いていた情報班責任者・新実由鶴少佐は、突如として鳴り響いたレッドアラートに弾かれたように顔を上げた。
「……この魔力波形は、特S級! ゴーストですか!?」
メインモニターに、関東郊外の工業地帯を指し示す赤い光点が点滅している。
「魔獣の発生警報は出ていません。ですが、ゴーストの魔力出力が異常です! 先日、映画館で中型魔獣を消し去った時と同等、いえ、それ以上の『極度の怒り』を検知しています!」
オペレーターの悲鳴に近い報告に、由鶴は冷や汗を流した。
「またしても、彼女をあそこまで激怒させる何かが起きたというのですか……。すぐに防衛任務中のエース部隊を現場へ向かわせなさい! 大佐たちなら、すぐ近くをパトロールしているはずです!」
関東郊外、現在は使われていない廃工場エリア。
そこに、運悪く地脈の淀みから這い出してきたばかりの魔獣が一体、存在していた。
体長五メートル。硬質な岩の装甲に覆われた、サイとアルマジロを掛け合わせたような大型の魔獣。防御力に特化しており、通常の魔法少女なら部隊単位で数時間がかりで削り倒さなければならない厄介な個体だ。
本来であれば、これから街へ向けて進軍を開始するはずだった。
だが、その魔獣の目の前には今、理不尽な暴力の化身が立ち塞がっていた。
「見つけたわ」
ゴーストは、背に負った漆黒の大剣を抜き放ち、ギリッと柄を握りしめた。
その周囲の空間が、彼女の放つドス黒い怒気によって歪み、ピキピキと音を立てて凍りついている。
「グルル……ッ?」
防御特化の魔獣でさえ、本能的な死の恐怖に一歩後ずさった。
しかし、遅い。
「誰が中二病よォォォッ!!」
ゴーストの姿がブレた。
闇の瞬間移動。魔獣の頭上に出現した彼女は、大剣の『腹』の部分に炎の魔力を込めて、魔獣の分厚い装甲を全力で殴りつけた。斬るのではない、純粋な質量と魔力による『打撃』だ。
ドゴォォォォンッ!!!
「ギベェェェッ!?」
硬質な岩の装甲がメキメキとひび割れ、巨大なサイ型魔獣が地面に深々とめり込む。
「スタイルの良さは私のせいじゃないわよ! 変身したら勝手にこうなるの! 性癖とか言うなァァァッ!!」
バキィッ! ドゴォッ!
ゴーストは再び瞬間移動し、今度は氷の魔力を纏わせた蹴りを魔獣の腹部に叩き込む。装甲が凍りつき、その衝撃で粉々に砕け散る。
「だいたい何よあのサイン! 私が家で筆記体の練習してるみたいじゃないの! 運営の捏造よ、あんなの!」
もはや魔獣に対する言葉ですらない。
ただの私怨。ただの愚痴。
しかし、それに伴って放たれる特S級の魔力は、魔獣にとっては文字通りの天災だった。本来なら街を一つ壊滅させられるポテンシャルを持つ大型魔獣が、一度も反撃の息を吐くことすら許されず、ただひたすらにサンドバッグとしてボコボコに甚ぶられている。
「……な、なんだアレ……」
廃工場の屋根の上に到着した、羽衣緋雪大佐、只野真奈大尉、新堂鈴乃中佐の三人は、その凄惨な光景を前に呆然と立ち尽くしていた。
「また……やってるね……」
「ああ。映画館の時と同じ、いや、それ以上のオーバーキルだ」
真奈が引きつった笑いを浮かべ、鈴乃が冷や汗を拭う。
彼女たちの視線の先では、ゴーストが魔獣を空中に蹴り上げ、そこに黒炎の追尾弾を何十発も叩き込んでいる最中だった。
「痛い? 装甲が剥がされて痛いわよね? でも私の精神的苦痛に比べたら鼻くそみたいなものよ!」
「ギ、ギャアアア……」
魔獣が哀れな悲鳴を上げる。エースたちでさえ、魔獣に同情しそうになるほどの蹂躙劇。
やがて、気の済むまで八つ当たりをしたゴーストは、ボロボロになって地面に転がる魔獣を見下ろした。
「……はぁ、はぁ。少しは、スッキリしたわ。……じゃあね、虚無へ誘ってあげる」
ヤケクソ気味にあの痛ポエムを口にすると、ゴーストは大剣に三属性を融合させた究極魔法『深淵の極光』を展開し、魔獣をチリ一つ残さず空間ごと消滅させた。
完全なる静寂が、廃工場に訪れる。
ゴーストはふう、と深く息を吐き、大剣を鞘に収めた。
そして、屋根の上にいる緋雪たちの気配には当然気づいており、ゆっくりとその紫の瞳を彼女たちへと向けた。
「ヒッ……!」
鈴乃が一歩後ずさる。
あれだけ本気でキレているゴーストの矛先が自分たちに向いたら、いくらエースとはいえ無事では済まない。
しかし、ゴーストは緋雪たちを睨みつけたまま、どこか冷たく、そして恨めしそうな声で口を開いた。
「……あなたたち。協会の上層部に伝えなさい」
「えっ?」
緋雪が、緊張の面持ちでゴーストを見つめ返す。
「肖像権の侵害よ。勝手に人の顔をカードにするのは百歩譲って許してあげる。……でも」
ゴーストはギリッと奥歯を噛み締め、怒りに肩を震わせた。
「あの、痛々しいフレーバーテキストと、勝手にデザインされたサインは……万死に値するわ。次にあのポエムを考えた広報部の担当者に会ったら、黒炎で焼き尽くしてやるって伝えなさい」
「……へ?」
緋雪、真奈、鈴乃の三人の頭の上に、巨大なクエスチョンマークが浮かんだ。
「『私の心は誰にも覗かせない』……? ええ、そうね。覗いたら物理的に目を潰してやるわ。……それと、ロイヤリティを一銭も払わない守銭奴運営にも、夜道には気をつけろと言っておいて」
言いたいことだけを言い捨てると、ゴーストは足元の影を展開し、空間の歪みと共に夜の闇へと消え去った。
残されたエースたちは、ポカンとした顔で顔を見合わせた。
『……大佐。今のゴーストの音声、インカム越しに全て録音していましたが……』
通信機から、管制室にいる由鶴の困惑した声が響く。
「ゆ、由鶴少佐。今のは、つまり……」
『はい。状況から推測するに、ゴーストは本日発売された「魔法少女クロニクル」の自分のカードの仕上がり……特にテキストとサインの捏造について、激怒していたものと思われます』
由鶴の冷静な分析に、三人は絶句した。
特S級の未知の災害指定クラス。あの特級魔獣を一撃で消し去る絶対的な力を持つ亡霊が。
まさか、公式カードゲームの「解釈違い」と「中二病ポエム」にキレて、真夜中に魔獣に八つ当たりしていたというのか。
「……そ、そういうことか!」
突如、鈴乃がポンッと手を打った。
「彼女は誇り高き戦士だ! それなのに、運営が勝手に彼女のミステリアスな部分を誇張して、あんな陳腐なセリフを付けた! 彼女の尊厳を踏みにじったんだ!」
「なるほど……!」
真奈も目を輝かせて納得する。
「ゴーストはすっごく優しい人だもんね! あんな『虚無へ誘う』なんて冷たいこと、本当は言いたくないんだよ! 公式のキャラ崩壊に怒るのも無理ないよ!」
「ええ……。それに、勝手にサインまで作られてしまっては、不名誉極まりないはずです」
緋雪もまた、深く頷いて同調した。
「彼女は、表舞台に出られない孤独の中で戦っている。それを金儲けの道具にし、あまつさえ心無い言葉で飾り立てるなんて……協会の広報部とカードゲーム運営の罪は重いわ」
『……同感です。至急、結衣大将に報告し、運営側にカードのテキスト修正と、彼女への謝罪(およびロイヤリティの確保)を打診しましょう』
由鶴の言葉に、エースたちは深く頷き合った。
特S級を怒らせたとなれば、最悪の場合、協会そのものが黒炎で焼き尽くされかねない。彼女たちは「ゴーストの尊厳を守るため」という謎の使命感に燃え、足早に本部へと帰還していった。
一方その頃。
激しい八つ当たりで魔力と体力を使い果たし、自室のベッドに這うようにして戻ってきた三神零は。
(……やっちまった。我慢できずに、本人の前でポエムのこと文句言っちまった……!)
布団を頭から被り、羞恥心でジタバタと身悶えしていた。
カードのことでキレているとバレれば、余計に「ゴースト様、意外と俗っぽい」「ポエム恥ずかしがってて可愛い」などと解釈され、さらに痛い扱いを受けるのではないか。
そんな後悔に苛まれながら、彼は気絶するように眠りに落ちた。
そして翌日。
昨夜の八つ当たりのせいで完全に勉強時間を失った零は、放課後の教室で、真っ白な数学の再テスト用紙を前に、昨日消滅させた魔獣よりも悲惨な顔をして突っ伏すことになる。
「……俺を、虚無へ誘ってくれ」
彼の悲痛なポエムは、誰の耳にも届くことなく、放課後の教室に虚しく響くのであった。




