第二百六十話
火曜日の夕方。
零は、学校帰りの道を、スーパーの袋を提げて歩いていた。
(鶏もも肉、玉ねぎ、卵。……今日は親子丼でいいか)
親子丼なら、玲奈も文句を言わない。五郎は、つゆだくにすれば喜ぶ。
零は、ちらりと背後を振り返った。
二つ後ろの電柱の陰に、灰色のコートの男が立っている。
昨日も、一昨日も、同じような背格好の男がいた。
(……星監の監視班、か)
零は、ポケットの中のスマートフォンを握った。
画面を見るまでもない。自作の魔獣探知アプリは、今日も静かなものだった。
昨夜、白鳥の家の柿の木の下で報告を受けて以来、八咫の隊員は姿を見せていなかった。
別の任務だろうと、零は特に気にも留めていなかった。
近道のために、零は細い路地へと入った。
両側を古いブロック塀に挟まれた、人一人がやっと通れるほどの道だ。
ここを抜ければ、家まで五分とかからない。
路地の中ほどまで来た時だった。
ぞわり、と。
首筋の産毛が、一斉に逆立った。
(……っ)
零は、足を止めた。
夜な夜な命のやり取りをしてきた感覚が、何かを告げていた。
だが、ポケットのスマートフォンは、震えていない。
零は、画面を取り出した。
探知アプリのマップには、何の反応もない。
周囲一キロ以内に、魔力の波形は一つも表示されていなかった。
(……気のせい、か?)
その瞬間。
——ガシャァァンッ!!
右側のブロック塀が、内側から爆ぜた。
「——っ!?」
零は、反射的に身を低くした。
頭上を、黒い何かが凄まじい速度で通過していく。
飛び散ったブロックの破片が、頬を掠めた。
反対側の塀に叩きつけられたそれが、ゆっくりと身を起こした。
狼だった。
いや、狼の形をした何かだった。
体長は三メートルほど。全身を覆う黒い毛の隙間から、濁った紫色の光が脈打っている。
四つの目が、暗がりの中で零を捉えていた。
(魔獣……!?)
零は、スマートフォンの画面を見た。
反応、なし。
目の前に、魔獣がいる。
塀を砕き、牙を剥き、零に向かって低く唸っている。
なのに、アプリのマップは、まっさらなままだった。
(嘘だろ……なんで、反応しない!?)
零の頭が、真っ白になった。
(故障? いや、さっきまで正常に——)
——グルルルルッ!
魔獣が、地を蹴った。
零は、手にしていたスーパーの袋を、魔獣の鼻先に投げつけた。
卵のパックが砕け、黄身が魔獣の顔面に飛び散る。
その一瞬の隙に、零は路地を後ろへと駆け出した。
(変身を——)
胸のペンダントに手を伸ばしかけて、零は歯を食いしばった。
路地の入り口には、星監の監視班がいる。
ここで変身すれば、その瞬間に全てが終わる。
三神零が、ゴーストになるところを見られてしまう。
(……くそっ)
零は、ペンダントから手を離した。
背後で、魔獣が卵を振り払う音がした。
獣の爪が、アスファルトを削る音が迫ってくる。
変身すれば、星監の見張に見られる。
変身しなければ、死ぬ。
零は、ペンダントを握りしめた。死ぬよりは、ましだ。
魔獣が、牙を剥いて跳んだ。
「変——」
その時。
「——せーのっ!!」
頭上から、甲高い声が降ってきた。
——ザシュゥゥッ!!
巨大な鎌の刃が、空中の魔獣を真横から薙ぎ払った。
魔獣の巨体が、ブロック塀に叩きつけられる。
「……ん。浅い」
続けて、もう一つの影が、音もなく路地に降り立った。
両手に握った双剣が、夕闇の中で鈍く光る。
——シュパパパッ!
双剣が閃き、起き上がろうとした魔獣の四肢の腱を、正確に断ち切った。
魔獣が、悲鳴を上げて地面に崩れ落ちる。
「今だよ、ルカ」
「任せて!」
鎌を振りかぶった少女が、塀を蹴って跳んだ。
「よっと!!」
——ズドォォンッ!!
大鎌の一撃が、魔獣の首元を、紫色の光ごと断ち割った。
魔獣の身体が、痙攣した。
そして、黒い霧となって、夕暮れの空へと溶けていった。
静寂が、戻ってきた。
零は、壁際に背中を預けたまま、呆然と二人を見上げていた。
真紅のゴシックドレスに、身の丈ほどもある大鎌。
その隣に、蒼のゴシックドレスに双剣を携えた、そっくりな顔の少女。
ただし、二人とも、戦闘服の上から猫の刺繍入りのエプロンを着けたままだった。
「……ルカちゃんとリリアちゃん!?」
「おにーさん!!」
ルカが、大鎌を放り出して駆け寄ってきた。
「大丈夫!? 怪我は!? どこか噛まれてない!?」
「だ、大丈夫です……」
「ほっぺ! ほっぺ切れてる!」
「……かすり傷です」
「かすり傷でも傷は傷!」
ルカは、エプロンのポケットからハンカチを取り出し、零の頬にぐいぐいと押し当てた。
リリアは、魔獣が消えた場所にしゃがみ込んでいた。
リリアが拾い上げたのは、親指ほどの大きさの、黒い結晶だった。
表面に、見慣れない紋様が刻まれている。
結晶は、まだ微かに、紫色の光を脈打たせていた。
(……凛花さんが拾ったのと、同じだ)
零の背筋が、冷えた。
リリアは、結晶を慎重にハンカチで包んだ。
それから、無表情のまま零の方へと振り返った。
「おにーさん。……なんで、こんなところで魔獣に襲われてたの」
「……俺にも、分からない、急に、塀の向こうから」
「……ふうん」
リリアは、首を傾げた。
「変なの。……あたしたちも、全然気づかなかった」
「え?」
「魔力の匂い、しなかった。……こんなに近くにいたのに」
ルカが、零の頬にハンカチを押し当てたまま頷いた。
「そうそう! あたしたち、購買のパートの帰りで、これからヤオヨシのシフトに向かうとこだったの。そしたら、この路地の奥から塀の壊れる音がして」
「音で、気づいたんですか」
「うん。音がするまで、何にも感じなかった」
ルカは、少しだけ真剣な顔になった。
(……俺のアプリだけじゃない)
ルカとリリアの感覚すら、欺いていた。
音がするまで、誰も気づかなかった。
(あの結晶が、魔力の波形を隠していた……?)
零は、リリアの手の中のハンカチを見つめた。
八咫の報告が、脳裏に蘇る。
魔獣を外部から誘導する術式。
追跡を断たれた、気配の消える経路。
「……おにーさん?」
「あ、いえ」
零は、慌てて顔を上げた。
「助けてくれて、ありがとう……本当に、危なかった」
その言葉に、ルカとリリアが、ぴたりと動きを止めた。
二人の顔が、みるみる赤くなっていく。
「……おにーさんに」
「……お礼、言われた」
「リリア。あたし、今、おにーさんを守ったんだよね」
「うん。ルカ。あたしたち、おにーさんを守った」
二人は、顔を見合わせたまま、ぷるぷると震えていた。
零は、少し迷ってから、二人の頭にそっと手を伸ばした。
玲奈にするのと同じように、三角巾の上から、ぽん、ぽん、と撫でる。
「本当に、助かった……ありがとう」
ルカとリリアの動きが、完全に止まった。
「…………」
「…………」
ルカの顔が、耳まで真っ赤に染まった。
リリアの無表情が、ゆっくりと、見たこともないほど緩んでいった。
「……な、撫で……」
「……おにーさんが、あたしたちの、頭を……」
二人の膝から、同時に力が抜けた。
ルカは大鎌にすがりつくようにしてへたり込み、リリアは双剣を胸に抱いたまま塀にもたれかかった。
「リリア……あたし、もう死んでもいい……」
「だめ、ルカ……死んだら、もう撫でてもらえない……」
「そっか……じゃあ生きる……」
二人は、同時に両手を組んで、空を見上げた。
「「ああ、神様……!」」
「……あの」
「今日という日を、あたしたちは一生忘れません!」
「ルディア様に、すぐに報告しないと」
「あの、大袈裟にしないでほしいんですけど……」
零の声は、恍惚とした二人の耳には届いていなかった。
路地の入り口の方から、慌ただしい足音が近づいてきた。
灰色のコートの男が、息を切らせて路地を覗き込んでいる。
星監の監視班だった。
男は、砕けたブロック塀と、エプロン姿の双子と、頬にハンカチを当てた零を見比べて、呆然と立ち尽くしていた。
(……見られて、ない)
零は、胸のペンダントから、ようやく手を離した。
指先が、まだ小さく震えていた。
あと一秒、双子が遅れていたら。
零は、監視班の目の前で、変身していた。
スーパーの袋は、中身が散乱していた。
卵は全滅していた。
「卵、買い直さないと」
「あたしたちが買ってくる!」
「ヤオヨシで、一番いいやつ」
「おにーさんの卵は、あたしたちが守る!」
ルカは、なぜか大鎌を担いだまま、ヤオヨシの方角へと駆け出していった。
リリアが、無表情のまま姉の背中を追いかけていった。
零は、散らばった玉ねぎを拾い集めながら、深い溜息を吐いた。
結局、零が帰宅したのは、いつもより三十分遅い時間だった。
手には、ヤオヨシで一番高い、化粧箱入りの卵が握られていた。
「ただいま」
「おかえり——って、零、その顔どうしたの」
玄関で出迎えた澪が、零の頬の傷を見て眉をひそめた。
ハンカチには、うっすらと血が滲んでいる。
「……帰り道で、魔獣に襲われた」
「……は?」
澪の顔から、表情が消えた。
「魔獣? この辺で?」
「近道の路地で。塀を壊して、いきなり」
澪は、ポケットからスマートフォンを取り出した。
協会の防災アプリの画面を、何度もスクロールする。
今日の発令履歴は、一件もなかった。
「……鳴ってない。白百合の緊急連絡も、来てない」
澪の顔が、みるみる強張っていった。
「塀を壊すような魔獣が、住宅街に出たのに? 警報が、一件も?」
「……うん」
自分のアプリも鳴らなかったとは、口が裂けても言えなかった。
そもそも、そんなアプリがあることすら、家族は誰も知らないのだ。
「それで、どうやって助かったの」
「近くにいた魔法少女の子たちが、倒してくれた。……二人組の」
福音の鐘の双子だとは、言えなかった。白百合の一員である澪が、黙っていられるはずがない。
「零!」
リビングから、奈々美が小走りで出てきた。
エプロン姿のまま、手には菜箸を握っている。
玄関のやり取りが、台所まで聞こえていたらしい。
「魔獣って、あなた、怪我は!?」
「大丈夫、母さん。ほっぺを擦っただけ」
「見せなさい」
奈々美は、菜箸を澪に押しつけると、零の頬を覗き込む。
赤い擦り傷が、一筋走っている。
奈々美の指先が、小さく震えた。
「……救急箱」
「母さん、本当に大したことないから」
「いいから、座りなさい」
普段の呑気な声とは違う、有無を言わせない声だった。
零は、大人しく上がり框に腰を下ろした。
奈々美は、救急箱から消毒液と絆創膏を取り出し、零の頬の傷を丁寧に手当てした。
消毒液が沁みて、零は小さく顔をしかめた。
奈々美は、絆創膏を貼り終えると、そのまま零の頭を両手で抱き寄せた。
「……母さん?」
「四週間いなくなって、やっと帰ってきたと思ったら」
奈々美の声が、震えていた。
「今度は、魔獣なんて。……お母さん、寿命が縮むわ」
「……ごめん」
「謝らなくていいの。あなたは、何も悪くないんだから」
奈々美は、零の髪をくしゃくしゃと撫でた。
それから、ようやく腕を離して、いつもの顔で笑おうとした。
だが、その目は、うっすらと赤かった。
「お兄ちゃん!」
階段を駆け下りてきた玲奈が、零の腕にしがみついた。
「魔獣って、本当!? 大丈夫なの!?」
「大丈夫だよ。ほら、絆創膏一枚」
玲奈は、零の顔を何度も確かめてから、ようやく小さく息を吐いた。
リビングでは、五郎が夕刊を膝の上に置いたまま、じっと零を見ていた。
背広の上着を脱ぎ、ネクタイを緩めた姿のまま、老眼鏡を外す。
「零」
「……うん」
「明日から、あの道は使うな。遠回りでいいから、大通りを帰ってこい」
「……分かった」
「玲奈も、澪もだ。……しばらく、暗くなる前に帰ること」
五郎の声には、いつもの冗談めかした響きがなかった。
澪も玲奈も、黙って頷いた。
澪は、スマートフォンを握りしめたまま、リビングの隅で誰かにメッセージを打っていた。
「……白百合に報告しとく。警報が鳴らない魔獣なんて、放っておけない」
「うん。……頼む」
「……さ、晩ご飯にしましょう」
奈々美が、ぱん、と手を叩いた。
努めて明るい声だった。
「零は座ってなさい。今日は、お母さんが作るから」
「え、でも」
「怪我人は座ってるの」
「やった、お母さんの親子丼!」
零が台所を任されるようになってから、奈々美が夕飯を作る機会は随分減っていた。だが、零に最初に包丁の握り方を教えたのは、この人なのだ。
「……じゃあ、材料これ。卵は、助けてくれた子たちがお詫びにって」
「まあ。優しい子たちね。今度会ったら、お母さんからもお礼を言わなきゃ」
零は、曖昧に頷くしかなかった。
台所に立った奈々美の手際は、見事なものだった。
玉ねぎを薄く切り、出汁と醤油と味醂を目分量で合わせる。卵は二回に分けて回し入れ、半熟のところで火を止める。
零の手順は、全部この人から盗んだものだった。
その夜の親子丼は、家族全員から「やっぱり母さんのは違う」と絶賛された。
奈々美は、「卵がいいのよ」と笑いながら、何度も零の皿におかわりをよそった。
夜。
零は、自室の机に向かって、パソコンの画面を睨んでいた。
探知アプリの解析ログを、一行ずつ遡っていく。
襲撃の間、アプリが拾った魔力の波形は、ゼロ。
だが、別の欄に異常があった。
背景の魔力値。
どんな場所にも、ごく僅かに漂っている、自然の魔力のノイズ。
それが、午後五時十一分から十七分までの六分間だけ、完全に「平坦」になっていた。
(……消されてる)
魔獣の波形だけではない。
あの路地の周辺一帯の魔力の揺らぎそのものが、塗り潰されていた。
だから、アプリは何も拾えなかった。
だから、ルカとリリアも、音がするまで気づけなかった。
(あの結晶だ)
凛花が拾った結晶と、同じもの。
魔獣を誘導するだけではない。
魔獣の存在そのものを、周囲の世界から隠す。
零は、机の上で拳を握りしめた。
(……作り直す。ゴーストとして動くための目が、これじゃ役に立たない)
零は、新しいファイルを開いた。
波形を拾うのではなく、「平坦になった場所」を拾う。
世界から、不自然に揺らぎが消えた場所を。
零は、引き出しの奥から一枚の紙片を取り出した。
八咫の隊員から渡された、緊急の連絡手段。
零は、そこに記された番号に、短いメッセージを送った。
『本日夕刻、自宅付近で魔獣に襲撃されました。探知アプリ、反応なし。福音の鐘の双子に救出されました。魔獣の消滅後、例の黒い結晶を確認』
返信は、五分後に来た。
『ご無事で何よりです。
八咫は現在、全隊が別任務の情報収集のため、都外に出ております。お側に控えられず、申し訳ございません。
明朝、帰還次第、ご報告に伺います。
それまで、どうか人目のない場所にはお近づきになりませんよう』
(……全隊が、不在)
八咫がいない、その日を狙ったように。
偶然なのか、そうでないのか。
スマートフォンが、今度は着信で震えた。
画面には、「緋雪さん」と表示されていた。
「……もしもし」
『零くん。……由鶴さんから聞いたわ。星監の監視班が、あなたの家の近くで騒ぎがあったって報告を上げてるって』
静かな声が、かえって怖かった。
「……うん。魔獣に、襲われた」
『……』
電話の向こうで、何かがぴしりと凍りつく音がした。
『……どうして、すぐに連絡してくれなかったの』
「ごめん。家族に説明してたら、遅くなって」
『……』
長い沈黙だった。
やがて、緋雪の声が、僅かに震えた。
『……変身、できなかったのね』
「……監視班が、近くにいたから」
『明日から、帰り道は私が迎えに行くわ』
「え、でも、緋雪さんも任務が——」
『迎えに行く』
「……はい」
有無を言わせぬ声だった。
零は、それ以上何も言えなかった。
『……零くん』
「うん」
『無事で、よかった』
その声は、さっきまでとは違って、ひどく小さかった。
「……うん。ありがとう」
電話を切った後、零は窓の外を見た。
向かいの家の屋根の上に、小さな影が二つ、並んで座っていた。
真紅のドレスと、蒼のドレス。
ルカとリリアだった。
二人は、冬の夜風に吹かれながら、三神家の周囲をじっと見張っていた。
(……あのまま、朝まで見張るつもりか)
零は、窓を開けた。
冷たい空気が、部屋に流れ込んでくる。
二人がこちらに気づいたのを確かめてから、零は小さく手招きした。
ルカとリリアは、顔を見合わせた。
次の瞬間、二つの影が屋根を蹴り、音もなく零の部屋の窓枠に降り立った。
「お、おにーさん!? 呼んだ!?」
「しー。……家族が起きる」
「いいから、入って。外、寒いだろ」
二人は、恐る恐る靴を脱ぎ、零の部屋の床に正座した。
ルカの頬は、寒さで真っ赤になっていた。
「ちょっと待ってて」
零は、足音を忍ばせて台所へ降りた。
数分後。
部屋に戻った零の手には、盆が一つ載っていた。
湯気の立つマグカップが二つ。蜂蜜を溶かした、温かいミルクだった。
その隣には、小ぶりのおにぎりが四つと、薄く焼いた卵焼き。
双子が買ってきてくれた、あの高い卵の残りで焼いたものだ。
「夜食。……見張りのお礼」
二人は、盆を見つめたまま固まっていた。
「……おにーさんが」
「……作ってくれたの?」
「簡単なものだけどな」
ルカが、震える手でマグカップを受け取った。
一口飲んだ瞬間、その目にみるみる涙が溜まった。
「……あったかい」
リリアは、卵焼きを一切れ口に入れて、しばらく目を閉じていた。
「……この卵、あたしたちが買ったやつ」
「うん。美味しい卵だった。……ありがとう」
零が、もう一度二人の頭を撫でると、ルカはおにぎりを握ったまま、ぽろぽろと泣き出した。
「リリア……あたし、おにーさんの家の子になりたい……」
二人が食べ終え、空になった盆を受け取ると、二人は深々と頭を下げた。
「……ん。今夜は、朝までずっと見張ってる」
「ずっとは駄目だ」
零は、二人の前にしゃがみ込んだ。
「明日もシフトがあるんだろ。一晩中起きてたら、身体がもたない」
「交代でやってくれ。一人が見張ってる間、もう一人は休む」
零は、窓を指さした。
「この窓の鍵は、開けておく。寒くなったら、好きな時に入ってきて休憩していいから。毛布も、そこに置いておく」
ルカとリリアは、ぽかんと口を開けたまま零を見つめていた。
「……おにーさんの部屋に」
「……好きな時に、入っていいの?」
「見張ってもらうんだから、それくらいはさせてくれ」
二人は、顔を見合わせた。
それから、同時に真っ赤になって、ぶんぶんと首を縦に振った。
「こ、交代制にする! 最初はあたし!」
「……ん。二時間ごと。ちゃんと休む」
真紅の影だけが、窓から夜の闇へと飛び出していった。
蒼の影は、部屋の隅で毛布にくるまり、三分と経たずに寝息を立て始めた。
零は、窓の鍵を開けたまま、カーテンだけを引いた。
今夜ばかりは、その過剰な護衛が、少しだけありがたかった。
同じ頃。
福音の鐘のアジトで、ルディアは燭台の前に跪いていた。
その前には、リリアが持ち帰った黒い結晶が置かれている。
「……神使様が、魔獣に狙われた」
ルディアは、ゆっくりと立ち上がった。
その瞳に、静かな怒りの炎が灯っていた。
「神使様をお守りする。……今この時より、それが福音の鐘の最優先の使命ですわ」
そして、光の届かない、どこかの暗闇の中。
人の形をした何かが、また一つ、光を失った結晶の欠片を弄んでいた。
「……逃がしたか」
温度のない声が、闇に溶けた。
「あの人形の傍にいた、あの少年」
長い指が、欠片を握り潰した。
「……剣姫の波形が、微かに聞こえた」




