第二百五十七話
午前五時半。
三神家の台所に、四週間ぶりに包丁の音が響いていた。
とん、とん、とん。
規則正しいその音で、家の中の空気が少しずつ目を覚ましていく。
零は、並べた弁当箱を見下ろした。
自分の分。玲奈の分。澪の分。五郎の分。
そして、昨夜「私のも、お願いしていい?」と奈々美に頼まれた、もう一つ。
(……五つ)
四週間前と、同じ数だった。
それが、なんだか妙に嬉しかった。
この数が一つ減ることの意味を、この家の全員が、この四週間で嫌というほど知ってしまったからだ。
卵焼き器に油を引き、溶き卵を流し込む。
砂糖は大さじ一。塩をひとつまみ。
桐宮邸で、何度も頭の中でなぞった手順だった。
「——おお」
背後から、野太い声がした。
寝癖のついた頭で、五郎が台所の入り口に立っていた。
「零の弁当だ……」
「おはよう、父さん。まだ詰めてる途中だから」
「いや、いい。見てるだけでいい」
五郎は、なぜか両手を合わせていた。
出勤前、蓋を閉めた弁当箱を受け取った五郎は、玄関でもう一度それを掲げて拝んでから、背広の肩を揺らして出ていった。
「お兄ちゃん」
制服姿の玲奈が、弁当箱を受け取りながら確認した。
「卵焼き、甘いやつ?」
「甘いやつ」
「やった」
玲奈は、弁当箱を胸に抱えて、跳ねるように家を出ていった。
最後に、白百合へ向かう澪が、玄関で靴を履きながら振り返った。
「ねえ、零」
「なに」
「緋雪ちゃんの分は、作らなくていいの? 届けてあげるわ」
澪の口元は、盛大ににやけていた。
「……いってらっしゃい」
「はいはい。いってきまーす」
零は、閉まった玄関の扉に向かって、小さく溜息を吐いた。
四週間ぶりの教室は、思っていたよりも何も変わっていなかった。
黒板の右端の落書きも、窓際の三番目の机のガタつきも、そのままだった。
変わってしまったのは、自分のほうだけらしい。
だが、零が扉を開けた瞬間、一人だけ変わった反応をした者がいた。
「——零!」
狭間稔が、椅子を蹴倒す勢いで駆け寄ってきた。
「生きてた! お前、生きてたのか!」
「……生きてるよ」
「メッセージ見たけどさ、実物見るまで信じられなかったんだよ! 四週間だぞ、四週間!」
稔は、零の両肩を掴んでがくがくと揺さぶった。
「どこ行ってたんだよ」
「研修。宮内庁の」
「……は?」
「特別事業の研修。守秘義務があるから、詳しくは言えない」
稔は、しばらく無言で零の顔を見つめていた。
それから、深々と溜息を吐いた。
「零。お前な、嘘つく時はもうちょっと現実味のある嘘をつけよ」
「嘘じゃない」
「宮内庁がなんで一般の高校生を研修に呼ぶんだよ」
「……それは、言えない」
「ほらな」
稔は、腕を組んで頷いた。
そして、声を潜めて顔を近づけてきた。
「……で。本当は、彼女と何かあったんだろ」
「……なんで、そうなる」
「昨日の返信。『それは、また今度話す』。あの間は、絶対そういうやつだ」
稔の目が、名探偵のように光った。
「彼女に振り回されて、四週間どっか連れ回されてたとか。……違うか?」
零は、答えに詰まった。
四週間、緋雪と一緒にいた。
洋館で暮らし、一緒に台所に立ち、一緒に皇太子に会いに行った。
振り回されていたわけではないが、「彼女と一緒だった」という点だけは、否定できなかった。
「……まあ、一緒には、いたけど」
「やっぱりな!」
稔は、机を叩いた。
「くそっ、俺がマホクロの新パックを一人で剥いてる間に、お前は彼女と四週間……!」
「そういうのじゃない」
「どういうのだよ!」
「……言えない」
「言えないようなことなのかよ!」
教室中の視線が、二人に集まっていた。
零は、机に突っ伏した。
否定すればするほど、事態が悪化していく気がした。
一時間目が終わると、零は担任に職員室へ呼ばれた。
「三神。これが、四週間分の課題だ」
机の上に、ずしりと紙の束が置かれた。
厚みは、辞書ほどもある。
「それと、こっちが補習の日程表だ。出席日数を補うために、しばらく休日も来てもらう」
零は、日程表を受け取った。
土曜日と日曜日の欄に、びっしりと丸がついている。
(……本当になった)
昨日、ヴィクトリアとルディアの前でついた言い訳。
四週間分の補習で、休日も学校に缶詰め。
それが今、紙の上で、揺るぎない現実になっていた。
「……ありがとう、ございます」
「礼を言うところか?」
担任は、怪訝な顔で首を傾げた。
職員室を出たところで、零は足を止めた。
廊下の向こうから、一人の女性が歩いてくる。
紺のパンツスーツ。首から下げた「教育実習生」の名札。
そして、陽光を跳ね返すプラチナブロンドの髪と、紫の瞳。
「……」
「あら」
ヴィクトリア・ローゼンベルグは、にこやかに足を止めた。
「零くん。奇遇ね」
「……なんで、ここに」
「教育実習よ。今日から二週間、この学校でお世話になるの」
ヴィクトリアは、名札を指先で軽く持ち上げてみせた。
そこには、見慣れない日本名の偽名が印刷されていた。
「……実習って、教員免許の」
「ええ。書類は、全部揃っているわ」
どうやって揃えたのかは、聞かないほうがいい気がした。
世界の裏側を仕切る組織にとって、書類の一枚や二枚は、朝食のパンを焼くより簡単なのだろう。
「担当は、英語よ。……よろしくね、零くん」
ヴィクトリアは、優雅に一礼して職員室へと入っていった。
すれ違いざま、その視線が一瞬だけ、廊下の床——その下を探るように動いたのを、零は見逃さなかった。
(……学校を、調べに来たのか)
昨夜、零を追跡していた監視班は、校舎の中で零を見失った。
ヴィクトリアは、その原因を零ではなく、この建物に求めたのだ。
(……助かった、のか?)
少なくとも、疑いの矛先は自分ではない。
だが、あの人が毎日校内にいるという事実は、それはそれで胃に悪かった。
昼休み。
一階の購買の前には、いつもより長い列ができていた。
「——いらっしゃいませ」
「——いらっしゃいませ」
同じ声が、二つ重なった。
黒猫の刺繍が入ったエプロンと、白猫の刺繍が入ったエプロン。
揃いの三角巾を被った双子が、パンの並んだ台の向こうに立っていた。
「今日から、臨時のパートさんだって」
「双子なんだ。かわいい」
生徒たちがざわめく中、ルカとリリアは、完璧な営業スマイルで焼きそばパンを売り捌いていた。
その目だけが、列の最後尾まで、絶えず誰かを探していた。
「……来ないね」
「……来ないね」
昼休みが半分過ぎても、目当ての少年は現れなかった。
その頃、零は中庭のベンチで、自分で作った弁当を広げていた。
零は、購買でパンを買ったことがほとんどない。
四週間ぶりの登校日であっても、それは変わらなかった。
「——ご一緒してもいいかしら」
顔を上げると、ヴィクトリアが立っていた。
手には、購買の袋を提げている。
「……どうぞ」
「ありがとう」
ヴィクトリアは、零の隣に優雅に腰を下ろした。
袋から取り出したのは、焼きそばパンだった。
「購買で、双子の店員さんから買ったのよ。……どこかで見た顔だったけれど」
「……そうですか」
零は、何も言わなかった。
言えば、面倒なことになるのは目に見えていた。
というより、あの双子とこの人が同じ校内にいる時点で、すでに手遅れである。
ヴィクトリアは、零の弁当箱を覗き込んだ。
「零くんのお弁当は、手作りなのね」
「毎朝、作ってます」
「……その卵焼き。一つ、いただいてもいいかしら」
零は、箸で卵焼きを一切れ摘んで、ヴィクトリアの弁当の蓋の上に乗せた。
ヴィクトリアは、それを口に運び、しばらく黙り込んだ。
「……甘いわね」
「妹の好みに合わせてるので」
「そう」
ヴィクトリアは、静かに目を細めた。
「四週間ぶりとは思えない、迷いのない味。……例の研修で、何か鍛えられたのかしら」
「……料理の研修じゃないです」
「ふふ。そういうことにしておくわ」
ヴィクトリアは、何かを確信したように微笑んだ。
その「何か」が何なのか、零には見当もつかなかった。
分かるのは、この人が確信を口にしない間は、まだ猶予があるということだけだった。
その頃、購買では。
「……リリア。お昼休み、あと五分」
「……ルカ。三神様、来ないね」
「……パン、全部売れちゃった」
双子は、空になった台の前で、揃って肩を落としていた。
昼休みの終わり、教室に戻ると、稔が窓際で待ち構えていた。
「零。……さっき中庭で一緒にいた、あの金髪の美人は誰だ」
「教育実習生。英語の」
「なんで実習生と二人で弁当食ってんだよ」
「向こうから来たんだよ」
稔は、しばらく腕を組んで考え込んでいた。
そして、はっと目を見開いた。
「……もしかして、彼女の姉ちゃんか?」
「違う」
「四週間連れ回されて、帰ってきたら今度は姉ちゃんが学校まで監視に来てる……!」
「違うって」
「お前の彼女、どんな家の子なんだよ……」
稔は、心底気の毒そうな顔で、零の肩を叩いた。
放課後。
零は、影移動を使わずに、電車で白百合の本部近くまで向かった。
昨夜からの状況を考えれば、監視の目を意識しないわけにはいかなかった。
鞄の底には、辞書ほどの厚みの課題が入ったままである。今日中に一枚でも進むとは、到底思えなかった。
公園のベンチには、すでに緋雪が座っていた。
白百合の制服の上に、厚手のコートを羽織っている。
膝の上には、自動販売機で買ったらしい温かい缶が二つ乗っていた。
「零くん。……学校、どうだった?」
「……ヴィクトリアさんが、教育実習生として来てた」
緋雪は、数秒間固まった。
「……は?」
「英語担当。二週間」
「あと、購買にルカとリリアがいた」
膝から滑り落ちかけた缶を、零が慌てて受け止めた。
「……それ、笑うところなの?」
「笑うしかないよ」
零は、缶を握りしめたまま、小さく息を吐いた。
「でも、ヴィクトリアさんが見てるのは、たぶん俺じゃない。……学校の建物のほうだ」
「……建物?」
「昨日、監視班は校舎の中で俺を見失ってる。だから、校舎に何かあるって思ってるみたいだった」
「……不幸中の幸い、と言っていいのかしら」
緋雪は、複雑な顔で缶の蓋を開けた。
それから、零は昨夜の出来事を話した。
八咫の隊員が、ゴミ出しの途中に現れたこと。
設計図の写しが、三つの経路で外部へ流出していること。
そのうち一つは、八咫の索敵でも追えず、途中で「人の気配が消えた」こと。
緋雪は、缶を両手で包んだまま、黙って聞いていた。
「……気配が、消える」
やがて、彼女は静かに呟いた。
「八咫の方たちの索敵は、魔力にも通信網にも依存しないと聞いたわ。……それで追えないとなると」
「人じゃないかもしれない、って」
緋雪が、零の袖をそっと握った。
「……まだ、終わっていないのね」
「うん」
零は、静かに頷いた。
「これからも、八咫を通して情報を回してくれるって。……状況が動いたら、随時」
緋雪は、しばらく考え込んでいた。
缶の湯気が、冷たい空気の中にゆっくりと溶けていく。
「……協会の技術部門の話だけ、由鶴に回してもいいかしら」
「由鶴さんに?」
「ええ。あの子は今、技術顧問と接触していた三人を追っているの。……経路の先に協会の人間がいるなら、あの子の手元の名前と繋がるかもしれない」
零は、一瞬だけ迷った。
「……出所は」
「言わないわ」
緋雪は、静かに首を振った。
「『ある筋から』とだけ伝える。……あの子は、それ以上聞かない人だから」
それは、確信のある声だった。
あの休憩室で「分からないままでいることに決めました」と言った由鶴を、緋雪は今も信じている。
知らないままでいてくれる人だからこそ、頼める話があるのだ。
「……うん。お願いします」
「ええ」
緋雪は、小さく頷いた。
それから、少しだけ表情を緩めた。
「……それと、零くん。もう一つ」
「なに?」
「白鳥さんから、連絡があったの」
緋雪は、膝の上で指を組んだ。
「奈緒さんが、玲奈さんに会いたがっているそうよ」
零の手が、止まった。
「……奈緒が」
「白百合から、玲奈さんに正式に打診することになると思う。……玲奈さんも、白百合の所属だから」
緋雪は、まっすぐに零を見た。
「零くんも、一緒に行く?」
零は、すぐには答えられなかった。
奈緒が知っているのは、ゴーストの姿の自分だけだ。
この姿で会えば、奈緒にとっては「初めて会う、玲奈の兄」になる。
嘘をつくわけではない。
だが、あの子の前で「初めまして」と言う自分を想像すると、喉の奥が塞がるようだった。
「……零くん」
緋雪が、静かに問うた。
「奈緒さん、あなたの顔を見て、何か気づいたりしないかしら」
「……分からない」
零は、正直に答えた。
ゴーストと零は、顔立ちも体格も違う。
だが、あの子の勘がどこまで鋭いのか、零にはまだ測りきれていなかった。
公園を出て、駅へ向かう途中。
横断歩道で信号を待っていると、隣に一人の女性が並んだ。
地味なコートに、買い物袋。どこにでもいる主婦の風体である。
「——そのまま、前を向いたままお聞きください」
零は、表情を変えずに頷いた。
昨夜と同じ、八咫の隊員の声だった。
「本日の追加報告です。……海外の経路について。昨日、欧州から三名が観光目的で入国しております。いずれも、魔力検査の記録がございません」
「……魔法少女じゃない、ということですか」
「あるいは、検査を回避する手段を持っているか。……現在、八咫一番が追っております」
信号が、青に変わった。
「なお、星監の監視班が、三神様の学校周辺に配置されております。……本日は、この場を迂回してお伝えいたしました」
「……ありがとうございます」
「では」
横断歩道を渡り終えた時、隣には誰もいなかった。
零の手には、いつの間にか小さな紙片が握らされていた。
そこには、八咫への緊急の連絡手段だけが、短く記されていた。
その夜。
三神家のリビングで、玲奈のスマートフォンが鳴った。
「……白百合からだ」
玲奈は、画面を見つめたまま動かなくなった。
やがて、その目にみるみる涙が溜まっていった。
「……奈緒ちゃんに、会えるって」
「え?」
澪が、ソファから身を乗り出した。
「奈緒ちゃんが、私に会いたいって言ってくれてるって。……今度の日曜日」
玲奈は、スマートフォンを胸に抱きしめた。
「……会える。やっと、会える」
自分の遺伝子から作られた少女。
名付け親になると宣言したまま、まだ一度も顔を見たことのない相手だった。
零は、台所から、その背中を見つめていた。
玲奈は、涙を袖で拭うと、くるりと振り返った。
「お兄ちゃん」
「……うん」
「一緒に、来て」
玲奈の声は、少し震えていた。
「一人だと、たぶん泣いちゃう。……お兄ちゃんがいてくれたら、ちゃんと話せる気がするから」
零は、しばらく妹の顔を見つめていた。
それから、静かに頷いた。
「……分かった。行くよ」
「私も行く」
澪が、当然のように手を挙げた。
「お姉ちゃんはだめ」
「なんでよ」
「お姉ちゃん、絶対怖い顔するもん。奈緒ちゃんが緊張しちゃう」
「しないわよ!」
「する。今もしてる」
澪は、眉間に寄っていた皺を慌てて指で伸ばした。
「……してないわよ」
「してた」
姉妹の言い合いを聞きながら、五郎が新聞を下ろした。
老眼鏡を額に押し上げ、しみじみと呟く。
「玲奈の妹みたいな子、か。……じゃあ、うちの娘みたいなもんだな」
「あなた、話が早すぎるわよ」
台所で洗い物をしていた奈々美が、呆れたように笑った。
「いいじゃないか。今度、BBQに呼ぼう。肉は、父さんが一番いいのを買ってくる」
「お父さん、奈緒ちゃんまだ会ったことないでしょ」
「会ったら呼ぶ」
五郎は、なぜか誇らしげに胸を張った。
零は、洗い終えた皿を拭きながら、小さく笑った。
(……日曜日、か)
補習の日程表には、日曜日にも丸がついていた。
午前中に補習を終え、午後から玲奈と出かける。そういう段取りになるだろう。
そして、奈緒に会う。
お姉ちゃんではなく、三神零として。
同じ頃。
星監の地下ラボで、ヴィクトリアは部下の報告を受けていた。
「学校の建築記録を洗い直しました。……校舎の地下に、協会の前身組織が使っていた古い避難壕の記録がございます」
「避難壕」
「はい。現在は封鎖されていることになっておりますが、図面上の入り口は、校舎一階の倉庫の真下です」
ヴィクトリアは、静かに微笑んだ。
「……やはり、何かあるのね」
彼女は、学校の見取り図を見つめた。
そこに少年の影は、一つも映っていなかった。
そして、郊外の小さな一軒家。
奈緒は、窓辺に座って、冬の夜空を見上げていた。
隣には、毛布を肩に掛けた白鳥がいる。
「白鳥さん」
「なに?」
「れなさんって、どんな人かな」
「そうね」
白鳥は、少し考えてから答えた。
「会ったら、きっと分かるわ。……あなたと、よく似た人だって聞いてる」
「……にてる」
奈緒は、窓ガラスに映る自分の顔を、じっと見つめた。
紅色の瞳が、星の光を映して、小さく揺れていた。




