↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
未登録の魔法少女  作者: 浅川


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
255/385

第二百五十五話

 零は、客間の畳の上で目を覚ました。

 障子越しに差し込む光が、いつもより眩しく感じられる。


(……起きた)


 鏡を見なくても分かった。喉の奥に、低い声の感触が残っている。

 一晩眠って、身体はまだ、ちゃんと自分のものだった。

 寝返りを打っても、髪が顔にかからない。それだけのことが、妙に嬉しかった。


「——失礼いたします」


 襖の向こうから、勾玉の隊員の声がした。


「本日未明までの計測データを、確認いたしました。……固着の兆候、一切なし」


「……よかった」


 零は、心の底からそう漏らした。

 隊員は、珍しく口元を緩めていた。


「本日をもって、経過観察を終了いたします。……ご帰宅、問題ございません」


 支度を終え、玄関へ向かうと、見覚えのある少女が待っていた。

 叢雲の、大根の千切りの少女である。


「三神様」


 彼女は、深々と頭を下げた。


「短い間でしたが、大変お世話になりました。……また、教えを乞いに参ります」


「いつでも歓迎するわ」


 零は、そう言ってから、自分の言葉に苦笑した。


「……いえ、歓迎するよ。うっかり、まだ女言葉が抜けなくて」


 少女は、真面目な顔で頷いた。


「四週間分、身体に馴染んだ言葉です。……すぐには、戻らないかと」


「そう、なのかしら」


「今も、出ておられますよ」


「……あ」


 零は、自分の口を押さえた。

 見送りの列の端に、八咫のあの物静かな隊員が立っていた。

 役人を演じていた時と同じ、感情の読めない表情である。

 彼女は、何も言わず、小さな紙包みを差し出した。

 中身は、竹皮に包まれた梅干しだった。


「……これ」


「自家製です。……お口に合えば」


 それだけ言うと、彼女は一礼して人混みに紛れるように離れていった。

 最後まで、名前は名乗らなかった。

 この人たちは、そういう仕事をしている。そう分かっていても、零はしばらくその背中を目で追っていた。


 玄関先に、隆嗣が現れた。


「これからも、何かあれば桐宮の名を使え」


「……いえ」


 零は、静かに首を振った。


「これ以上、御恩を重ねるわけにはいきません。……十分すぎるほど、いただきました」


 隆嗣は、しばらく零を見つめていた。

 それから、僅かに口の端を上げた。


「……そうか、また何かあれば手助けしてやる」


「殿下」


「ああ」


「ありがとうございました」


 零は、深く頭を下げた。

 その姿勢のまま、しばらく顔を上げなかった。

 隆嗣は、それ以上何も言わず、車が見えなくなるまでその場に立っていた。

 夕日紅も、隣で静かに頭を下げている。

 零は、車窓越しにその二人の姿を見つめた。

 護衛でも、監視でもなく、ただの見送りだった。四週間前には、想像もできなかった関係である。

 初めてこの人たちに会った時、紅の刃は自分の首筋にあったのだ。


「……不思議な人たちだったわね」


 隣で、緋雪が呟いた。


「ええ。……本当に」


 零は、静かに頷いた。

 この国の一番奥にいる人たちに、こんな形で助けられるとは思わなかった。

 黒塗りの車が、山道を下っていく。

 後部座席には、零と緋雪が並んで座っていた。

 行きは無灯火で登った道が、朝の光の中では、ただの静かな山道に見えた。


「……家族には、どう説明するの」


 緋雪が、窓の外を見ながら問うた。


「宮内庁の人が言ってくれた通りに。……特別事業が終わった、中身は話せない、で通すわ」


 零は、答えてから、また自分の言葉に眉をひそめた。


「……あ、また」


「ふふ。……大変ね」


「緋雪さんは、今日から任務に戻るんでしょう」


「ええ」


 緋雪は、静かに頷いた。


「会長への報告と、溜まっている任務の引き継ぎ。……四週間分の遅れを、取り戻さないと」


「……なんか、寂しいわね」


「零くん」


「あ、いや」


 零は、慌てて言い直した。


「……寂しいな」


「馬鹿ね」


 緋雪は、小さく笑った。


「私は、いつだって待ってるわよ」


 車内に、しばらく沈黙が落ちた。


 窓の外を、見慣れた街並みが流れていく。

 コンビニ。信号。通学路を歩く制服の列。何一つ変わっていない景色だった。


「……変な感じ」


 緋雪が、ぽつりと呟いた。


「あなたの声、低いままなのに、なんだか安心するの」


「……四週間分、取り戻さないとね」


 零は、静かに答えた。

 その言葉だけは、迷いなく男の声のままだった。

 車が停まったのは、三神家の門の前だった。

 零は、しばらく門柱を見つめていた。

 見慣れたはずの家が、随分と久しぶりに見える。

 二階の自分の部屋のカーテンは、四週間前に自分が閉めたままだった。

 緋雪の手が、そっと背中を押した。


「……行ってらっしゃい」


「……行ってきます」


 零は、玄関の鍵を開けた。

 三和土に足を踏み入れた瞬間、目に入ったのは——

 上がり框の手前に、きっちりと置かれた一枚の座布団だった。


(……姉ちゃん)


「——遅い」


 リビングから、澪が仁王立ちで現れた。

 腕を組み、眉を吊り上げている。四週間、ずっと練習してきたであろう表情だった。


「零。あんた、正座」


「……はい」


 零は、素直に座布団の上に膝をついた。

 澪は、その前に立ち、口を開いた。


「あんたね、四週間も——」


 そこで、言葉が止まった。

 澪の目に、みるみる涙が溜まっていく。

 叱ろうとして開いた口から出たのは、説教ではなかった。


「……零」


「……姉ちゃん」


「馬鹿」


 澪は、そう言うなり零を抱きしめた。

 三十秒の説教は、そこで終わった。


「おかえり、馬鹿」


「……ただいま」


 零は、姉の背中に腕を回した。

 その腕が、思ったより力強く震えていることに気づいた。

 この人は、この四週間、誰の前でも泣かなかったのだろう。


「零!」


 廊下の奥から、五郎が駆けてきた。

 背広のまま、鞄を放り出している。


「……父さん」


「殴らん。……抱きしめるだけって、決めてたんだ」


 五郎は、宣言通り両腕を広げ、零を力いっぱい抱きしめた。


「……っ、父さん、背骨が」


「あ、悪い悪い」


 五郎は、慌てて力を緩めた。

 だが、その目は真っ赤だった。


「お兄ちゃん……!」


 玲奈が、階段を駆け下りてきた。

 零の腰に、そのまま体当たりのように抱きつく。


「お兄ちゃん、お兄ちゃん」


 それ以上、言葉にならなかった。

 零は、妹の頭を静かに撫でた。

 手の大きさが、記憶の通りに戻っていた。


「……ただいま、玲奈」


 最後に、台所の入り口に奈々美が立っていた。

 エプロン姿のまま、両手で口元を覆っている。

 その奥からは、朝から仕込んでいたらしい煮物の匂いが漂っていた。


「……零」


 母の膝から、力が抜けかけた。

 零は、とっさに駆け寄って支える。


「母さん、大丈夫?」


「……大丈夫よ。ちょっと、腰が」


 奈々美は、震える声で笑った。


「ただいま、母さん」


 零は、もう一度、はっきりとそう告げた。

 リビングに落ち着いた頃、澪がふと、真顔になって零の顔を覗き込んだ。


「……ちょっと、背、伸びた?」


「え?」


「気のせいかしら。……なんか、雰囲気変わった」


「四週間分、色々あったから」


 零は、曖昧に笑って誤魔化した。

 四週間、十センチ以上低い視線で生きていたのだ。元に戻った今、自分でも天井が近く感じる。

 澪は、それ以上追及せず、代わりに零の頭に軽く拳を落とした。


「痛っ」


「これは、四週間分の利子」


 玲奈が、その横で吹き出した。


「お姉ちゃん、金融業者みたい」


「うるさい」


 久しぶりに聞く姉妹のやり取りに、零は思わず笑ってしまった。

 この空気だけは、四週間経っても、何一つ変わっていなかった。


 昼。

 零は、四週間ぶりに、自分の家の台所に立った。

 エプロンを着け、まな板の前に立つ。

 包丁を握った瞬間、身体の力が抜けるのが分かった。

 この場所だけは、何一つ変わっていなかった。

 桐宮邸の業務用の調理台でも、洋館の小さな台所でもない。

 棚の三段目に醤油があり、シンクの左に布巾が掛かっている、自分の台所だった。

 玲奈は、何度も台所の入り口から顔を覗かせた。


「お兄ちゃん、何作ってるの?」


「見てのお楽しみ」


「早く見たい!」


 卵焼きは、玲奈の分だけ甘めにした。

 澪の分には、焼き魚を。五郎には、味の濃い煮物を。奈々美には、薄味の汁物を。

 四人分、それぞれの好みを、身体は忘れていなかった。

 食卓に料理が並ぶと、玲奈は真っ先に卵焼きに箸を伸ばした。


「……甘い」


 彼女は、涙目のまま呟いた。


「お兄ちゃんの味だ」


「零。……研修、どこであったの」


 澪が、静かに問うた。

 箸を止めた零に、彼女は続けて言った。


「詳しくは言えないんでしょ、分かってる」


「……ごめん」


「いい」


 澪は、それ以上追及しなかった。

 だが、その目には、まだ何か言いたそうな光があった。

 宮内庁。皇族の極秘研修。白百合の会長の、慎重すぎる言葉選び。

 どれ一つとして、この弟と結びつかない。それでも、今日は聞かないと決めていた。

 食後、皿を運びながら、澪が零に耳打ちした。


「……今度は、ちゃんと連絡してよね」


「……うん」


 零は、静かに頷いた。


「約束する」


 澪は、それだけで満足したように頷き、キッチンへと去っていった。


 夕方。

 零は、自室の鏡の前に立っていた。

 低い声。骨ばった手。見慣れた自分の輪郭。


「……戻れたんだ、ちゃんと」


 四週間、鏡の中にいたのは別人だった。

 今、そこに映っているのは、間違いなく自分だった。

 それなのに、鏡に向かって髪を直そうとする手だけが、まだ癖のように動きかける。

 机の上には、学校からのプリントが山になっていた。

 欠席連絡の返信、進路希望調査、溜まりに溜まった課題。

 スマートフォンには、稔からのメッセージが数十件、未読のまま並んでいる。


『マホクロの新パック、当たったぞ』


『生存確認しろ』


『マジでどこいんの』


 零は、しばらくその画面を見つめてから、返信を打った。


『生きてる。色々あって、しばらく連絡できなかった。明日、学校行くから』


 既読は、すぐについた。


『は? 四週間だぞ? 色々って何?』


『まさか彼女できたとかそういうオチじゃないよな』


 零は、その一文に、指を止めた。

 あながち、間違ってもいない気がした。


『……それは、また今度話す』


『絶対おかしいだろその間』


『まあいいや、明日絶対来いよ。新パック開ける約束してただろ』


 零は、小さく笑って画面を閉じた。

 明日からの学校生活を思うと、正直、気が重かった。

 四週間分の課題。担任の説教。クラスメイトの詮索。

 だが同時に、その重さが、今はどこか懐かしかった。


 同じ頃。


 白百合の盾、会長室。

 緋雪は、姫嶋結衣の前に立っていた。


「羽衣です。……ただいま戻りました」


「お帰りなさい」


 結衣は、書類から顔を上げずに答えた。


「研修の成果は」


「……多くを、学ばせていただきました」


 緋雪は、それだけ答えた。

 嘘は、一つも言っていない。二日間で三十七回倒された稽古を、そう呼ぶこともできる。

 結衣は、その言い方に、僅かに目を細めた。


「そう」


 それ以上、何も聞かなかった。

 書類に視線を戻した会長の横顔からは、何を察しているのかも読み取れない。

 それが、この人の優しさなのだと、緋雪は知っていた。

 情報班解析室では、新実由鶴が一人、モニターに向かっていた。

 画面には、協会の技術部門の人事記録が映し出されている。


「……三神くんが戻ったのは、良かった」


 彼女は、誰にともなく呟いた。

 だが、その指は止まらなかった。


「でも」


 画面の中、名前の一つに、赤い線が引かれる。


「この件、まだ終わってない」


 窓の外は、すでに夜だった。

 都内、魔法少女協会本部ビル。

 技術部門のフロアだけが、深夜になっても、明かりを落とさずにいた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。