第二百五十四話
零は、夜明け前に目を覚ました。
隣の布団では、緋雪が静かな寝息を立てている。昨夜、布団の隙間から握ってくれた手は、眠っている間にほどけていた。
障子の向こうは、まだ藍色だった。庭のどこかで、鳥が一羽だけ鳴いている。
(……眠れるわけ、ないわよね)
今日、一度きりの解除が行われる。
失敗すれば、術式は固着する。二度と、元の身体には戻れない。
考えないようにすればするほど、その一文だけが頭の中で繰り返される。
零は、音を立てないように布団を抜け出した。
こういう朝に、自分が向かう場所は決まっている。
厨房には、すでに明かりが灯っていた。
「……あら」
調理台の前に、濃紺の戦闘服を着た少女が一人立っていた。
二日前、大根を真っ二つに叩き割った叢雲の少女である。
まな板の上には、不揃いな大根の千切りが小山を作っていた。
太いもの、細いもの、途中で繋がったままのもの。だが、少なくとも叩き割られてはいない。
「み、三神様……!」
少女は、包丁を握ったまま硬直した。
「こ、これは、その。……敵ではないものを、優しく斬る練習を」
「毎朝、してたの?」
「……二日だけです」
零は、小さく吹き出した。
割烹着を借りて袖をまくり、少女の隣に並ぶ。
「包丁は、押すんじゃなくて、引くの。……刀と同じじゃないかしら」
「刀と、同じ」
少女の目が、僅かに見開かれた。
構えが、僅かに変わる。肩の力が抜け、手首だけが動いた。
次の一太刀は、驚くほど細く、まっすぐだった。
「……切れました」
「ええ。上手よ」
二人は、並んで朝食の支度を始めた。
出汁を取り、味噌を溶き、卵を焼く。四週間、この細い指で繰り返してきた手順だった。
包丁の音と、湯の沸く音。それ以外に、厨房には何もなかった。
三十分ほど経った頃。
「——三神様」
厨房の入り口から、白衣の隊員が顔を出した。
あの「怨嗟の表情」を指導した、真顔の隊員である。手には、計測用の端末を抱えていた。
「おはよう。……朝食なら、もうすぐできるわ」
「いえ。そうではなく」
彼女は、端末の画面をこちらに向けた。
零の手首には、昨日から計測用のバンドが巻かれたままになっている。
「厨房に入られてから、三十一分。……三神様の波形が、一度も乱れておりません」
「……え」
画面に映る線は、湖面のように静かだった。
昨日の訓練では、三十秒と保たなかったものである。
痛みが消えたわけではない。ただ、どこか遠くに置かれていた。
「……三神様。昨日の三十秒は、何だったのでしょうか」
「……さあ」
零は、困ったように笑った。
「台所だと、落ち着くのよ」
隊員は、真顔のまま、しばらく味噌汁の鍋を見つめていた。
何かを書き込もうとして、端末を構え、そのまま下ろす。
報告書に書ける言葉が、見つからなかったのだろう。
午前中の訓練は、方法を変えて行われた。
零は、緋雪の氷を両手で包んだまま、目を閉じる。
そして、頭の中で三神家の台所に立つ。
昆布を水に浸す。火にかけて、沸く直前に引き上げる。鰹節を入れて、火を止める。
玲奈の好きな豆腐と、父さんの好きな油揚げ。母さんのために、少しだけ塩を控える。
「——一分」
隊員の声が、遠くに聞こえた。
「二分。……二分半」
その時、下腹部の奥で、痛みが大きく波打った。
掌の中で、氷がぱきりと音を立てる。
「……乱れました。二分四十秒です」
零は、目を開けた。
額には汗が滲み、掌の氷は水になって指の間から落ちていた。
「……届かないわね」
「はい」
隊員は、正直に答えた。
そして、背後に立つ隆嗣へと振り返る。
「殿下。四分には届いておりません。……ですが、これ以上はお待ちできません」
「理由は」
「三神様の身体の変化が、進んでおります。解除を先に延ばすほど、術式が身体に馴染み、固着の危険が高まります」
隆嗣は、しばらく零の顔を見つめていた。
急かすでも、止めるでもない。ただ、答えを待つ目だった。
「……三神零。君の判断を聞きたい」
零は、濡れた掌を握りしめた。
二分四十秒。四分まで、一分二十秒足りない。
だが、明日になれば、その差はもっと開いているかもしれない。
「やります、殿下」
隆嗣は、静かに頷いた。
「正午に、始めよう」
正午。
勾玉の作戦室の奥には、術式陣が描かれた円形の部屋があった。
床一面に刻まれた光の線が、皇室保管の原本と同じ紋様を描いている。
十一年前、暴走した魔法少女を殺さずに止めるために引かれた線である。それが今、一人の少年を元に戻すために光っていた。
立ち会うのは、隆嗣と夕日紅、そして勾玉の四名。
叢雲と八咫は、邸の外で警戒に当たっていた。
零は、白いブラウスに緋雪のカーディガンを羽織ったまま、陣の中央に座った。
左手首のリングを外し、台の上にそっと置く。
四週間、自分を守ってくれた赤い光が、静かに鈍く瞬いた。
緋雪が、零の正面に膝をついた。
右手に、掌ほどの氷の板を生み出す。
「零くん。……手を」
「……うん」
零は、緋雪の手ごと、その氷を両手で包み込んだ。
冷たさと、温もり。昨日と同じ感触だった。
「術式、起動します」
隊員の声とともに、床の線が一斉に光を放った。
身体の奥に、何かが流れ込んでくる。自分の魔力と正反対の向きに回る、冷たい渦だった。
「——計測開始」
零は、目を閉じた。
昆布を水に浸す。
火にかけて、沸く直前に引き上げる。
「一分」
鰹節を入れて、火を止める。
黄金色の出汁が、静かに澄んでいく。
「二分」
豆腐を掌に乗せて、賽の目に切る。
油揚げは、細く——
その時。
下腹部の奥で、今日一番の痛みが弾けた。
「……っ」
掌の中で、氷にひびが走った。
「波形、乱れます!」
隊員の声が、鋭く響いた。
逆位相の渦が、ずれ始める。身体の奥で、何かが軋んだ。
(……だめ、引きずられる)
その時。
「零くん」
緋雪の声が、すぐ近くで聞こえた。
静かで、少しも揺らいでいない声だった。
「玲奈さんの卵焼き、甘めよね。……卵、何個?」
零は、目を閉じたまま答えた。
「……三つ」
「お砂糖は?」
「……大さじ、一」
「それから?」
「……塩を、ひとつまみ。玲奈は、甘すぎると怒るから」
三神家の台所が、瞼の裏に浮かんだ。
換気扇の音。背中越しに「お兄ちゃん、まだ?」と急かす声。卵焼き器を返す、自分の手。
痛みは、消えていなかった。
だが、それはただの痛みだった。魔力の流れとは、別のところにあった。
「……波形、戻りました」
隊員の声が、僅かに震えた。
「三分。……三分半」
掌の中の氷は、ひびだらけだった。
それでも、砕けてはいない。
「三分五十秒」
緋雪の手が、ぎゅっと強く握り返してきた。
「——四分」
その瞬間。
零の全身から、闇色の魔力がほどけていった。
背中まで伸びた黒髪が、光の粒になって散っていく。
指が、手首が、肩が、ゆっくりと形を変えていく。
身体の奥に四週間居座っていた冷たい何かが、音もなく抜け落ちていった。
光が、静かに収まる。
「……終わった、の……かしら」
零は、ゆっくりと目を開けた。
そして、自分の口から出た声に、固まった。
低い。
四週間、一度も聞いていなかった声だった。
「……いや」
零は、喉に手を当てて、言い直した。
「終わった、のか」
掌の中では、ひびだらけの氷が、まだ形を保っていた。
それを包む自分の手は、骨ばっていて、見慣れた大きさだった。
「……術式、完了。固着反応、なし」
隊員が、端末から顔を上げた。
真顔が、ほんの少しだけ崩れていた。
「解除、成功です」
零は、しばらく動けなかった。
下腹部に手を当てる。あれほど居座っていた鈍い痛みが、嘘のように消えていた。
「……痛く、ない」
「……よかったわね。本当に」
緋雪が、なぜか目を逸らしながら言った。
そして次の瞬間、その蒼い瞳から、ぼろぼろと涙が零れ落ちた。
「零くん……っ!」
緋雪は、そのまま零に抱きついた。
四週間、ずっと隣にいてくれた腕だった。零も、その背中にそっと手を回す。
三秒後。
緋雪の動きが、完全に止まった。
腕の中の身体が、自分より一回り大きいことに、ようやく気づいたらしい。
視線の高さも、肩の幅も、何もかもが昨日までと違っていた。
「…………」
「……緋雪さん?」
「きゃあああっ!?」
緋雪は、真っ赤になって零を突き飛ばした。
零は、術式陣の上に尻もちをついた。
「な、なんで突き飛ばすの」
「だ、だって、男の子じゃない!」
「最初から男だよ!」
「そ、それはそうだけど! 四週間、ずっと女の子だったんだもの!」
その時、ぷつん、と小さな音がした。
零の胸元で、白いブラウスのボタンが一つ、弾け飛んでいた。
細い身体に合わせたブラウスは、肩も袖も、今にも裂けそうなほど張り詰めている。
「……」
「……」
緋雪は、両手で顔を覆った。
零は、無言でカーディガンの前を掻き合わせた。
「三神様。こちらを」
白衣の隊員が、真顔のまま紙袋を差し出した。
中には、男物の紺色のジャージが一式入っていた。
「……用意、してたんですか」
「成功を前提に計画を立てるのが、勾玉の仕事ですので」
着替えてみると、ジャージは驚くほど身体に合っていた。
採寸をされた覚えは、一度もない。
「……なんで、サイズがぴったりなんですか」
「八咫の資料にございました」
隊員は、それ以上答えなかった。
着替えを終えた後、経過観察として一度だけ試験が行われた。
変身し、そして解除する。
闇色の魔力が身体を包み、長い黒髪がふわりと広がる。
零は、息を止めて、変身を解いた。
光がほどけ、ジャージ姿の少年が、そこに立っていた。
「……戻れる」
「はい。正常です」
隊員は、端末を確認しながら告げた。
「ただし、再固着の兆候がないか、念のため一晩観察させていただきます。……ご帰宅は、明日に」
「……分かりました」
隆嗣が、零の前に歩み寄った。
しばらく何も言わずに、その顔を見つめる。
初めて会った時から、この人は零を「特S級」とも「ゴースト」とも呼ばなかった。
「……おかえり、三神零」
それだけだった。
零は、深く頭を下げた。言葉は、何も出てこなかった。
「三神様」
夕日紅が、台の上のリングを両手で差し出した。
「こちらも、お忘れなく」
「……ありがとうございます」
零は、赤いリングを受け取り、左手首に嵌め直した。
少しだけ、きつくなっていた。
夕方。
客間に戻った零は、四週間ぶりにスマートフォンの電源を入れた。
八咫からは、今日に限って使用して構わないと許可が出ている。
画面が点いた瞬間、通知の音が止まらなくなった。
着信、百十二件。そのほとんどが、姉ちゃんからだった。
玲奈からのメッセージが、数え切れないほど並んでいる。
『お兄ちゃん、どこ』
『お兄ちゃんのご飯たべたい』
『かえってきて』
零は、しばらく画面をスクロールできなかった。
日付が進むにつれて、文面が短くなっていく。
最後の数日は、返事を期待しているというより、ただ送り続けているだけのように見えた。
緋雪が、隣で黙って座っていた。
何を書けばいいのか、ずっと考えていた。
謝りたいことも、説明したいことも、山ほどある。
だが、それは帰ってから、正座して言えばいい。
零は、家族のグループに、一行だけ打ち込んだ。
『明日、帰る。』
送信ボタンを押す指は、元の大きさに戻っていた。
同じ頃。
三神家の食卓には、スーパーの惣菜が並んでいた。
奈々美が早番の帰りに買ってきた、コロッケと肉じゃがである。
「……まあ、たまにはこういうのもいいわよね」
奈々美は、そう言って笑った。
この四週間、何度同じ言葉を口にしたか、本人も数えていなかった。
料亭顔負けと言われる腕を持ちながら、この家の母は、息子が消えてからほとんど台所に立てずにいた。
包丁を握ると、どうしても隣に立っていた背中を探してしまう。それが、怖かったのだ。
五郎は、背広を椅子の背に掛けたまま、缶ビールのプルタブを引いた。
ぷしゅ、と軽い音がする。
昨日の昼休み、一人で役所に電話をかけたことは、まだ奈々美には話していない。
その時。
テーブルの上で、四台のスマートフォンが同時に鳴った。
「……」
四人は、顔を見合わせた。
最初に画面を見たのは、玲奈だった。
「……お兄ちゃん」
玲奈の声が、震えた。
「お兄ちゃんから! 『明日、帰る』って!」
ごとん、と音がした。
五郎の手から、缶ビールが滑り落ちていた。
「あ、あなた! ビール!」
「お、おう、すまん」
五郎は、慌てて布巾でテーブルを拭いた。
その手が、僅かに震えていた。
「……ほら見ろ」
彼は、拭きながら、ぼそりと呟いた。
「あいつは、帰ってくるって言っただろう」
「言ってないわよ、あなた」
「言った。……心の中で」
奈々美は、泣き笑いの顔で夫の肩を叩いた。
それから、エプロンを手に取って、四週間ぶりに冷蔵庫の扉を開けた。
「じゃあ明日は、あの子の好きなもの、作って待ってなきゃね。……腕が鈍ってないといいけど」
「お母さん、それ絶対鈍ってないやつ」
玲奈が、涙を拭きながら笑った。
「でも、卵焼きは駄目だからね! あれはお兄ちゃんに焼いてもらうの! 甘いやつ!」
「はいはい」
澪は、ずっと黙っていた。
スマートフォンの画面を、じっと見つめている。
たった一行。句点まで、あの弟らしかった。
やがて、澪は無言で立ち上がった。
リビングの隅から座布団を一枚取り、玄関へと歩いていく。
そして、上がり框の手前に、それをきっちりと置いた。
「……お姉ちゃん、それ何?」
「正座用」
澪は、真顔で答えた。
「……帰ってきたら、まずここ」
五郎が、ビールの缶を拾い上げながら頷いた。
「それは許可する」
「あなた、何の話?」
「いや、こっちの話だ」
澪は、玄関の座布団を見下ろしたまま、小さく鼻をすすった。
その横顔を、五郎だけが黙って見ていた。
その夜。
桐宮邸の廊下を、隆嗣は夕日紅と並んで歩いていた。
「……殿下。椎葉の供述について、ご報告が」
「聞こう」
「白百合の情報班が洗い出している、技術顧問と接触のあった三名。……そのうち一名の名が、椎葉の供述と一致いたしました」
隆嗣の足が、止まった。
「設計図の流出先は」
「依然として、掴めておりません」
隆嗣は、しばらく庭の灯籠を見つめていた。
客間の障子の向こうから、微かに笑い声が漏れてくる。少年の声と、少女の声だった。
四週間ぶりに、あの声の高さが元に戻っている。
「……紅」
「はい」
「三神零には、明日だけは、何も知らせるな」
夕日紅は、静かに頭を下げた。
「……かしこまりました」
冬の月が、桐宮邸の庭を静かに照らしていた。
変身が解けなくなってから、三十一日。
三神零は、ようやく自分の身体に帰ってきた。




