第二百五十三話
二日目の朝は、警告音とともに始まった。
桐宮邸の地下、勾玉の作戦室。
壁一面のモニターには、三基目の装置から抽出された術式が、無数の光の線となって展開されている。その一本一本に、皇室保管の原本との照合結果が色分けされて重なっていた。
緑は一致。黄は誤差の範囲。そして赤は、まだ何も分かっていない領域。
昨日よりも赤は減っている。だが、消えてはいなかった。
零は、部屋の中央に据えられた計測用の椅子に腰を下ろしていた。
両手首と首元には、細い計測用のバンドが巻かれている。膝の上には、緋雪が朝一番に用意してくれた湯たんぽ。昨日よりは、いくらか楽になっていた。
「——照合率、八割二分に到達しました」
白衣の隊員が、端末を見つめたまま告げた。
「逆位相の術式も、骨格は組み上がっております。……ただ、二点ほど確認事項がございます」
「……なにかしら」
「一点目は、そちらです」
隊員は、零の左手首を指した。
そこには、赤い光を鈍く帯びたリングが嵌まっている。
「福音の鐘の幹部から奪取された『魔力励起リング』——いわゆるアンチジャマーですね」
「……ええ。須藤さんから、その、拝借したもの」
拝借、という言い方をした自分に、零は少しだけ苦笑した。
気絶している相手の腕から引き抜いたのだから、どう言い繕っても略奪である。
「解除術式は、逆位相の干渉を対象に流し込むものです。原理としてはジャマーに極めて近い。……そのリングを着けたままでは、術式そのものが相殺されます」
零は、しばらくリングを見つめていた。
「協会の記録には、あなたが『あらゆる魔力干渉を無効化する特異体質』の持ち主だとありましたが」
隊員が、真顔で続けた。
「解析の結果、そのような体質は確認できませんでした。……単に、リングの効果かと」
零は、思わず吹き出した。
「……それ、由鶴さんの推定よ」
「推定、ですか」
「私が結界をすり抜けるのも、ジャマーが効かないのも、全部このリングのおかげ。……それを見た由鶴さんが『ジャマーキラー』なんて名前をつけたの。私に、そんな体質はないわ」
細胞を採取させろと迫られたことも、同意書を突きつけられたことも、すべてはその推定から始まっていた。
あの騒動の正体が、手首に嵌まった一つの指輪だったと知ったら、由鶴はどんな顔をするだろう。
隊員は、端末に何かを書き込んだ。
「協会記録・要訂正」という文字が、ちらりと見えた。
「承知いたしました。では、解除の際はリングを外していただきます。……二点目は、より深刻です」
彼女は、モニターの波形を切り替えた。
「三神様の魔力波形です。……ご覧ください」
画面に映る線は、小刻みに、しかし確実に上下していた。
三日前の作戦記録と並べると、その差は明らかだった。
あの夜の線は、定規で引いたようにまっすぐだった。今の線は、風に揺れる水面のように波打っている。
「四週間の変身固定と、数日前から始まった身体の変化。……その影響で、魔力の出力が安定しておりません」
「……それは、問題なの?」
「解除術式は、逆位相を四分間流し続ける必要があります。その間、対象の波形が乱れれば、逆位相もずれます。……一度でもずれれば、術式は固着します」
作戦室に、沈黙が落ちた。
端末の駆動音だけが、低く続いている。
「……四分間、乱さずにいろ、ということね」
「はい。……リングを外した状態で、です」
隣に立つ緋雪が、堪えきれずに問うた。
「訓練で、どうにかなるものなのですか」
「分かりません」
隊員は、正直に答えた。
「ですが、やっていただくしかございません。……明日までに」
訓練は、その日の午前中から始まった。
場所は、数日前に「怨嗟の表情」の練習をしたのと同じ訓練空間である。
天井のセンサーは、一部が焼け焦げたまま応急処置で繋がれていた。
零が奈緒の白い部屋を思い出した、あの一瞬の出力に耐えきれなかった痕である。
零は、左手首のリングを外し、静かに台の上に置いた。
外した瞬間、身体の奥で何かが僅かに軋んだ気がした。この四週間、一度も外したことのないものだった。
いや、四週間どころではない。福音の鐘との戦い以来、眠る時も、風呂に入る時も、この指輪だけは身体から離さなかった。
台の上の赤い光が、やけに遠くに見える。
「——では、波形を安定させてください。目標は、まず十秒」
勾玉の隊員が、端末を構えた。
零は、目を閉じた。
深く息を吸い、身体の中を巡る魔力の流れを、一定に保とうとする。
だが。
「……乱れました。四秒です」
「……ええ、分かってるわ」
零は、深く息を吐いた。
乱そうとしたわけではない。ただ、勝手に乱れるのだ。
下腹部の鈍い痛みが、一定の間隔で波を作る。その波に合わせて、魔力までもが揺れてしまう。
自分の身体なのに、自分の言うことを聞かない。
この四週間で何度も味わった感覚が、今度は最も困る形で戻ってきていた。
「もう一度お願いします」
二度目。五秒。
三度目。三秒。
十度目を数える頃には、零の額に汗が滲んでいた。
「……三神様。数値を見ながらでは、かえって意識が向きすぎるようです」
隊員は、しばらく端末を見つめていた。
そして、緋雪へと視線を向けた。
「羽衣様。……お力をお借りしてもよろしいでしょうか」
「私が?」
「はい。氷の魔法を、薄く、掌に乗る大きさで。……三神様の魔力が乱れれば、それは砕けます。数字ではなく、手の中の感触で分かるかと」
緋雪は、しばらく零の顔を見つめていた。
零も、緋雪を見つめ返す。
「……やってみましょう」
緋雪は、右手に小さな氷を生成した。
太刀ではない。掌に乗るほどの、薄い氷の板。
極低温の冷気が、訓練空間の空気を白く染める。
「零くん。……手を出して」
「……うん」
零は、両手を差し出した。
緋雪は、その掌の上に、そっと氷の板を乗せた。
三秒。
氷は、砕けた。
魔力の揺らぎに耐えきれず、ただの水滴となって零の掌を濡らす。
「……あ」
「……ね、砕けちゃうでしょ」
零は、困ったように笑った。
緋雪は、しばらくその掌を見つめていた。
そして、静かに言った。
「零くん。……数を数えるのはやめて」
「……」
「私の氷の冷たさだけ、感じて。……それ以外は、何も考えないで」
緋雪は、もう一度氷を作った。
今度は、自分の手で握ったまま、零の両手でその手ごと包み込ませる。
「私の手の温度と、氷の冷たさ。……両方、感じて」
零は、目を閉じた。
緋雪の指の温もり。その中にある、鋭い冷気。
下腹部の痛みが、また波を作る。魔力が、それに引きずられそうになる。
(……違う。痛みは痛み。魔力は魔力)
零は、揺らぎを、そっと撫でるように鎮めた。
引きずられるな。この手の冷たさだけを、感じていろ。
痛みを消そうとするのではない。ただ、そこに置いたまま、触れないでいる。
台所で熱い鍋を持つ時と同じだった。熱いと思った瞬間に落とすのだ。だから、思わない。
冷たさが、掌に沁みた。
氷は、砕けなかった。
「……零くん」
緋雪の声が、震えた。
「今、十秒越えたわ」
零は、目を開けた。
自分の両手の中で、緋雪の手が、小さな氷を握ったまま、確かにそこにあった。
冷たい。指先が痺れるほどに。
だが、その痛みが、今はどうしようもなく嬉しかった。
「……計測、確認しました」
勾玉の隊員が、静かに告げた。
「安定波形、十二秒。……初めてです」
同じ頃。
白百合の盾・本部、最上階。
三神澪は、会長室の前に立っていた。
一昨日、宮内庁を名乗る女性から「三日から五日」と告げられた。
信じることにした。だが、信じたからといって、確かめないでいられるほど、澪は素直な性格ではなかった。
扉の前で、一度だけ深呼吸をする。
「——どうぞ」
扉の向こうから、姫嶋結衣の声がした。
会長室は、飾り気のない部屋だった。壁には日本地図と、魔獣出現記録の一覧が貼られているだけである。
窓の外には、冬の朝の街並みが広がっていた。
「三神澪です。お時間をいただき、ありがとうございます」
「どうぞ、お掛けください。……用件は、羽衣さんのことですね」
結衣は、書類から顔を上げた。
黒髪のポニーテールが、窓からの光を鈍く跳ね返す。
深い青の瞳が、まっすぐに澪を見ていた。
「……はい」
「羽衣さんは、皇族の極秘研修に参加しています。弟さんも、その協力者として同行している。……私がお伝えできるのは、それだけです」
結衣は、静かに告げた。
「一昨日、宮内庁の方が家に来ました」
「ええ。……あの日の朝、私のところにも正式な通達が届いています」
澪は、しばらく結衣の顔を見つめていた。
「……会長は、それで納得されているんですか」
その問いに、結衣は僅かに目を細めた。
「納得、ですか」
彼女は、書類を閉じた。
「三神さん。……皇族の名で出された通達を、私たちが詮索する立場にはありません。それは、白百合の会長であっても同じです」
「……はい」
「ただ」
結衣は、静かに続けた。
「羽衣さんが、自分の意思でそこにいるということだけは、疑っていません。……あの人は、そういう人ですから」
澪は、静かに頭を下げた。
「……失礼しました」
会長室を出た後、澪は廊下でしばらく立ち止まっていた。
(……会長、緋雪ちゃんのことは『疑ってない』って言った。でも、零のことは何も言わなかった)
言葉の選び方が、慎重すぎる。
あの会長が、何も知らないはずがない。だが、知っていて言わないのだと、澪は感じた。
同時に、それ以上踏み込めば、この人の立場まで危うくするのだということも、分かってしまった。
(……いいわ。三日待つ。それで帰ってこなかったら——)
彼女は、拳を握りしめ、エレベーターホールへと歩き出した。
その日の午後。
星監の地下ラボでは、ヴィクトリア・ローゼンベルグが、モニターに映る報道映像を見つめていた。
『ゴーストが都内の廃ビルを襲撃。関係者十四名が負傷』
紫水晶の瞳が、映像の中で燃え上がる紅蓮の炎を、冷ややかに追っている。
「……あの方が、報復のためだけに動くとは思えませんわね」
彼女は、静かに呟いた。
「あれほど派手に、あれほど正確に、誰一人殺さずに。……まるで、誰かに見せるための炎ですわ」
映像を、もう一度巻き戻す。
崩れていく外壁。立ち上る炎。だが、隣のビルには焦げ跡一つない。
これは破壊ではない。演出だ。
部下の一人が、報告書を差し出す。
「技術顧問の行方は、依然として不明です」
「……でしょうね」
ヴィクトリアは、静かに目を閉じた。
「ゴースト様は、わたくしどもの手の届かない場所で、何かを成し遂げようとしていらっしゃる。……それが何なのか、見極める必要がありますわ」
同じ頃。
福音の鐘のアジトでは、ルディア・ロンディニウムが、同じ映像を前に両手を組んでいた。
スーパー『ヤオヨシ』の緑のエプロンは、まだ脱いでいない。
「……神が、動かれたわ」
彼女は、恍惚とした表情で呟いた。
「あの炎は、裁きの炎。……罪ある者を焼き、罪なき者を照らす炎」
背後で、須藤真里が、そっと溜息を吐いた。
その隣で、ルカとリリアが「また始まった」という顔で、黙々と明日の品出しの準備を続けていた。
「……ねえリリア。神様って、なんで廃ビルなんか燃やすの」
「知らない。……手、動かして」
その夜。
三神家の玄関の扉が、静かに開いた。
「……ただいま」
父・五郎である。
背広の肩が、少し湿っていた。外は、細かい雨が降り始めているらしい。
リビングのテーブルには、澪が一人で座っていた。
玲奈は、もう二階で眠っている。奈々美も、明日が早番だと言って先に床についていた。
「……お父さん。遅かったね」
「ああ。……少し、寄り道してな」
五郎は、鞄を置き、テーブルの向かいに腰を下ろした。
いつもなら、帰宅するなり冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出す父である。だが、今日はそれをしなかった。
「澪。……あの名刺、まだあるか」
「……え?」
「宮内庁の、あの女の人の」
澪は、財布から名刺を取り出した。
五郎は、それを受け取ると、老眼鏡をかけてじっと見つめた。
「……昼休みにな。この部署に、電話してみたんだ」
「……お父さんが?」
「ああ。総務課の特別事業室。……実在する部署だったよ。担当者の名前を出したら、『その者は現在、外部業務に出ております』と言われた」
五郎は、名刺をテーブルに置いた。
「嘘は、ついてないらしい」
澪は、しばらく父の顔を見つめていた。
豪快で、呑気で、休日はバーベキューのことしか考えていない父。
河原で魔獣が出た時でさえ、真っ先に「すげえな!」と拍手をしていた父である。
その父が、昼休みに一人で役所に電話をかけていたのだ。
「……お父さん、何も言わなかったじゃない」
「言えるかよ」
五郎は、苦笑した。
「母さんの前で『零がどこにいるか分からん』なんて顔をしたら、あの人が倒れちまう。……だから、お前と同じで、黙って動いてた」
「……」
「澪。父さんはな」
彼は、静かに続けた。
「零のことを、信じてる。あいつは、理由もなく家を空けるような子じゃない。……ただ、帰ってきたら」
五郎の目が、僅かに光った。
「一発だけ、殴っていいか。……いや、殴らん。抱きしめるだけにしとく」
澪は、しばらく黙っていた。
それから、小さく笑った。
「……私は、正座させる」
「それは許可する」
二人は、静かに笑い合った。
テーブルの上の名刺だけが、雨音の中で、静かに二人を見上げていた。
桐宮邸、訓練空間。
夕方までに、零は緋雪の氷を三十秒間、砕かずに保持できるようになっていた。
「……三十秒」
勾玉の隊員が、端末を見つめながら呟いた。
「必要な時間は、四分。……まだ、足りません」
「……そう」
零は、息を切らしながら答えた。
掌は、氷の冷たさで真っ赤になっている。指先の感覚は、とうに麻痺していた。
緋雪の手も、同じように赤い。半日、一度も離さずに氷を握り続けていたのだ。
「ですが」
隊員は、静かに続けた。
「今朝は、四秒も保ちませんでした。……三十秒まで伸びたのなら、明日には四分に届くかと」
「……根拠は?」
「三神様が、諦めておられないからです」
零は、しばらくその隊員の顔を見つめていた。
数日前まで「怨嗟の表情」を教え込もうとしていた、あの真顔の隊員である。
時代劇の悪役の映像を延々と流し、「怨嗟とは」を端末で検索していた、あの人だ。
その真顔のまま、彼女はこう続けた。
「明日、実行可能と判断いたします。……ただし、当日も朝から訓練を続けていただきます」
「……分かったわ」
その夜。
客間の布団の中で、零は天井を見つめていた。
隣の布団から、緋雪の静かな声がした。
「……零くん。起きてる?」
「……うん」
「……戻ったら、まず何をしたい?」
零は、しばらく考えていた。
「……姉ちゃんに、叱られる」
「え?」
「玄関で正座して、夜が明けるまで説教されるの。……たぶん、槍の石突きで床を叩きながら」
緋雪は、小さく吹き出した。
「それ、したいことなの?」
「うん」
零は、静かに答えた。
「叱られるってことは、帰ったってことだから」
緋雪は、しばらく黙っていた。
「……それから?」
「玲奈に、卵焼きを焼く。……甘めのやつ。あの子、疲れてる日は甘いのがいいって言うから」
「……ええ」
「それから、父さんと母さんに……」
零の声が、そこで途切れた。
何をどう話すのか。四週間の空白を、どんな言葉で埋めるのか。
考えようとするたびに、思考は同じ場所で行き止まりになる。
布団の中で、彼女は静かに目を閉じていた。
「……緋雪さん」
「なに?」
「……明日、ちゃんと四分、頑張るわ」
「ええ」
緋雪の手が、布団の隙間から伸びてきて、零の手を握った。
氷で赤くなった指先を、温かい掌が、そっと包み込んだ。
「……一緒に、頑張りましょう」
冬の月が、障子越しに淡く客間を照らしていた。
残された時間は、あと一日。




