第二百五十二話
桐宮邸の朝は、静かに始まった。
障子越しに差し込む光が、畳の上にうっすらと縞模様を描いている。
零は、布団の中で目を開けたまま、しばらく天井を見つめていた。
昨夜、どれだけ泣いたのか、自分でもよく覚えていない。
気づけば、隣の布団で緋雪がまだ眠っていた。目元には、うっすらと泣き腫らした跡が残っている。付き添って、一緒に泣いてくれたのだろう。
(……早く帰ってこい、か)
姉の言葉を、零は胸の中で何度も繰り返していた。
怒られる覚悟はできていた。心配させた分だけ、叱られてもいいと思っていた。
だが返ってきたのは、たった一言だった。それだけで、十分だった。
零は、静かに布団を抜け出した。
このまま横になっていても、頭の中がぐるぐると同じ場所を回るだけだ。
こういう時、自分が何をすべきか、零はよく知っていた。
台所に立つこと。
それだけが、変わらない、零にとっての落ち着き方だった。
廊下は、まだ薄暗い。
冷たい板張りの感触を素足で踏みしめながら、零は厨房を探して歩いた。
桐宮邸ほどの屋敷なら、厨房も相応の広さがあるはずだと当たりをつけていたが、実際に辿り着いた場所は予想を超えていた。
業務用と見紛うほどの、広々としたステンレスの調理台。
壁一面に並んだ鍋と包丁は、どれも使い込まれながらも丁寧に手入れされている。
朝の仕込みのためだろう、隅の作業台には既に下拵えの野菜が並んでいた。
「——あの、すみません」
零は、奥で仕込みをしていた料理人らしき人物に声をかけた。
白い調理服を着た初老の男性が、驚いたように振り返る。
「これは……お客様が、こんな朝早くに」
「少しだけ、台所を借りてもいいですか」
零は、静かに頭を下げた。
「お世話になったお礼に、何か作りたくて」
料理人は、しばらく目を丸くしていた。
それから、深々と頭を下げた。
「……もちろんです。何なりと」
零は、袖をまくり、備え付けの割烹着を借りた。
まな板の前に立った瞬間、不思議と肩の力が抜けるのを感じた。
包丁を握る手だけは、どんな姿になっても、変わらず自分のものだった。
だしを取り、味噌を溶き、根菜を刻む。
いつもより細い指先に、まだ完全には慣れていない。だが、手順そのものは身体が覚えていた。
三十分ほど経った頃。
「——三神様?」
厨房の入り口から、遠慮がちな声がかかった。
振り返ると、「怨嗟の表情の練習」を指導してくれた勾玉の隊員が、扉の隙間からこちらを覗いていた。
「……何をなさっているのですか」
「朝食を作っているの。皆さんの分も、良かったらと思って」
「……全員の、分ですか」
隊員は、しばらく硬直していた。
それから、弾かれたように身を翻し、廊下の奥へと駆けていった。
何やら早口で誰かに報告している声が、遠くから漏れ聞こえてくる。
しばらくして。
厨房の入り口に、複数の人影が並んだ。
叢雲の戦闘服を纏った少女が三人。八咫の黒装束が二人。そして勾玉の白衣が、先ほどの一人を含めて四人。
誰もが、扉の陰から様子を窺うようにして、じっとこちらを見つめている。
昨夜、命懸けの潜入作戦を成功させた精鋭たちである。
その全員が、朝の厨房の前で、遠足前の子供のような顔をしていた。
「……あの」
零は、思わず苦笑した。
「入っても、大丈夫よ。危なくはないから」
その一言で、堰を切ったように全員がなだれ込んできた。
「お手伝いいたします」
叢雲の一人が、真剣な顔で名乗り出た。
刀を振るう時と同じ、迷いのない足取りで調理台の前に立つ。
「……何を、すればよろしいでしょうか」
「じゃあ、この大根を千切りにしてもらえる?」
「……承知いたしました」
少女は、包丁を握った。
構えは、見事だった。剣士としての基礎が、そのまま包丁の持ち方にも表れている。
だが、いざ大根に刃を入れた瞬間——
ゴキッ。
大根が、真っ二つに叩き割られた。
「……」
「……あの」
零は、静かに声をかけた。
「もう少し、優しく」
「優しく……ですか」
「そう。これは、敵じゃないから」
少女は、しばらく大根の残骸を見つめていた。
その表情には、明らかな困惑が浮かんでいる。剣なら誰よりも精密に扱えるのに、なぜ野菜一つが思い通りにならないのか、理解できないようだった。
別の一人が、味噌汁の味見を任された。
一口すすった瞬間、彼女は目を見開き、そのまま何も言わずに立ち尽くした。
「……どう?」
「……美味しいです」
彼女は、掠れた声で答えた。
「こんなに温かい味噌汁を飲んだのは……久しぶりで」
その一言に、周囲の何人かが、そっと視線を逸らした。
任務のために各地を転々とし、温かい家庭の食事とは無縁の生活を送ってきた者ばかりなのだろう。
零は、それ以上何も聞かなかった。ただ、味噌汁のおかわりを、こっそりと鍋の傍に多めに置いておいた。
八咫の一人——連絡係を務めていた、あの物静かな女性も、厨房の隅で黙々と卵を割っていた。
役人を演じていた時とは違い、今は簡素な作業着姿である。
「……手つき、慣れていますね」
零が声をかけると、彼女は僅かに目を細めた。
「……昔、家族に作っていましたので」
それ以上は語らず、彼女は静かに卵を割り続けた。
その横顔に、零はそれ以上踏み込まなかった。
「——あら、賑やかね」
厨房の入り口から、緋雪がひょっこりと顔を出した。
寝癖を軽く手で押さえながら、眠そうな目でその光景を見渡す。
「零くん、いつの間にこんな大所帯を」
「気づいたら、こうなってたの」
「ふふ。……手伝うわ」
緋雪は、手早く袖をまくると、零の隣に並んだ。
二人の呼吸は、この一ヶ月ですっかり馴染んでいる。互いの動きを読みながら、鍋と鍋の間を無駄なく行き来する様子は、まるで長年連れ添った台所のパートナーのようだった。
「——零くん」
鰤に照りを付けながら、緋雪が小声で囁いた。
「体調、大丈夫?」
「……うん、今日はましみたい」
「無理しないでね。温かいもの、たくさん食べるのよ」
「……緋雪さんの方が、お母さんみたいね」
「うるさいわね」
緋雪は、頬を赤らめながら、零の脇腹を軽くつついた。
それだけのやり取りに、隣で見ていた叢雲の一人が、なぜか感激したように胸を押さえていた。
やがて、広間の座卓に、朝食が並べられた。
焼き魚、根菜の煮物、出汁の効いた味噌汁、ふっくらと炊いた白米。
十二名の精鋭と、隆嗣と、零と緋雪。総勢十四名が、一つの食卓を囲んだ。
「——いただこう」
隆嗣の一言で、静かに箸が動き始めた。
最初は、誰もが遠慮がちだった。
だが、一口食べた瞬間、それぞれの表情がわずかに緩んでいくのが分かった。
普段は喜怒哀楽を表に出さない八咫の面々でさえ、味噌汁の椀を持つ手つきが、どこか名残惜しそうだった。
「……美味い」
隆嗣が、静かに呟いた。
「屋敷の料理人にも劣らない。……いや、それ以上かもしれないな」
「お世辞は結構です」
「世辞ではない」
彼は、まっすぐに零を見た。
「本気で、そう思っている」
零は、少しだけ照れくさくなって視線を逸らした。
食事が進む中、隆嗣が改めて口を開いた。
「……今後の方針を、確認しておきたい」
食卓が、静かになった。
「解析には、最短で三日。その間、君たちにはこの邸で過ごしてもらう。……白百合への説明は、殿下——いや、私の名で維持する。協会側にも、これ以上詮索が及ばぬよう手を打つ」
「……家族には」
零が、静かに問うた。
「これ以上の接触は、控える。……先方から不審に思われるほどの頻度で動けば、逆に危うい」
隆嗣は、静かに続けた。
「だが、必要とあれば、いつでも動かせる。……それだけは、約束しよう」
零は、静かに頷いた。
三日という期限が、少しだけ現実味を帯びてくるのを感じた。
食事が終わりかけた頃、勾玉の隊員の一人が、静かに広間へと入ってきた。
その表情に、先ほどまでの朝食の温もりは残っていなかった。
「——殿下。ご報告があります」
「……聞こう」
「椎葉の尋問記録から、新たな事実が判明しました」
彼女は、端末を差し出した。
「男は、単独で動いていたわけではないようです」
零の箸が、止まった。
「……どういうこと」
「装置の一部部材が、国内では調達不可能な合金で構成されていました」
隊員は、淡々と続けた。
「解析の結果、その合金の流通経路を辿ったところ——旧国防委員会の残党、あるいは、それに類する何者かとの接触痕跡が確認されました」
広間に、重い沈黙が落ちた。
「……つまり」
隆嗣が、静かに問うた。
「椎葉は、駒の一つに過ぎなかった、ということか」
「その可能性が高いかと」
隊員は、頭を下げた。
「装置の設計図そのものが、既に第三者へ渡っている恐れもあります」
零は、しばらく言葉を失っていた。
三日で終わる。そう信じかけていた足元が、少しだけ揺らいだ気がした。
だが。
「……分かった」
隆嗣は、静かに立ち上がった。
「引き続き、調査を進めろ。……ただし」
彼は、零へと視線を向けた。
「解除の作業そのものは、予定通り進める。……三神零を、これ以上待たせるわけにはいかない」
その言葉に、零は静かに頭を下げた。
「……ありがとうございます」
同じ頃。
白百合の盾・情報班解析室。
新実由鶴は、モニターに映る技術部門の人事記録を、なおも睨み続けていた。
協力者と思われる技術顧問の名は判明した。だが、その男一人の周辺だけを洗っても、組織の全貌は見えてこない。
「……由鶴さん」
画面の向こうで、周防凛花が静かに告げた。
「協会内部で、もう一人。……技術顧問と頻繁に接触していた人物のリストが上がってきました」
「……何人?」
「三人です」
由鶴は、静かに目を細めた。
「……根は、まだ深そうね」
「はい」
凛花の声には、確かな緊張があった。
「これは、想像以上に大きな話かもしれません」
窓の外では、冬の朝日が、白百合の本部を静かに照らし始めていた。
その夜。
桐宮邸の庭園を、零は緋雪と並んで歩いていた。
昼間の騒がしさが嘘のように、辺りは静まり返っている。
灯籠の灯りが、二人の影を石畳の上に長く伸ばしていた。
「……三日、か」
零は、夜空を見上げながら呟いた。
「思ったより、長い夜になりそうね」
「……不安?」
「少しだけ」
零は、素直に答えた。
「でも」
彼女は、緋雪の手にそっと触れた。
「隣に、緋雪さんがいてくれるから」
緋雪は、しばらく黙っていた。
それから、静かに手を握り返した。
「……帰りましょう、絶対に」
「うん」
零は、静かに微笑んだ。
姉の言葉が、まだ胸の奥で温かく灯っていた。
早く帰ってこい。それだけの一言が、今の零を支えていた。
冬の月が、二人の頭上を静かに照らしていた。
残された時間は、あと二日だった。




