↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
未登録の魔法少女  作者: 浅川


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
251/408

第二百五十一話

 作戦決行から、一夜明けた朝。

 三神家のリビングには、重い沈黙が満ちていた。

 カーテンの隙間から、冬の薄い朝日が差し込んでいる。

 台所のコンロには、誰も火を点けていなかった。この家の朝に、味噌汁の匂いがしなくなって、もうどれくらい経つだろう。


 三神澪は、ダイニングテーブルに肘をつき、スマートフォンの画面を睨みつけている。


 昨夜から、何十回と同じ操作を繰り返していた。

 緋雪への発信。応答なし。白百合の本部への問い合わせ。「羽衣隊員は休暇中」という定型文。


 そして、弟への発信。

 こちらは、もう四週間近く、電源すら入っていない。


 耳に当てるたびに流れる、無機質な自動音声。


「電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため——」


 その続きを、澪はもう最後まで聞かなくなっていた。


(……期限なんて、とうに過ぎてる)


 澪は、静かに拳を握りしめた。

 テーブルの隅には、昨夜書き殴ったメモが置かれていた。

 白百合本部の住所。会長室の直通番号。そして、最寄りの警察署の名前。


「お姉ちゃん」


 階段を降りてきた玲奈が、不安げに声をかけた。

 寝癖のついた髪を手で押さえながら、パジャマの上にカーディガンを羽織っている。

 目の下には、うっすらと隈が浮いていた。昨夜もあまり眠れなかったのだろう。


「……お兄ちゃん、帰ってこなかったね」


「……ええ」


「緋雪さんも、連絡つかないんでしょ」


「……ええ」


 玲奈は、しばらく姉の背中を見つめていた。

 そして、静かに隣の椅子に腰を下ろした。

 椅子の脚が、フローリングを擦る音がやけに大きく響く。

 五人掛けのテーブルの一席が空いているだけで、この家はこんなにも静かになるのだと、二人とも知ってしまっていた。


「……私、昨日ずっと考えてたんだけどさ」


「なに」


「お兄ちゃん、もしかしたら」


 彼女の声が、震えた。


「もう、いないんじゃないかって」


 澪の手が、止まった。

 スマートフォンの画面が、ふっと暗くなる。

 黒い画面に、自分の強張った顔が映り込んでいた。


「……玲奈」


「だって、おかしいよ」


 玲奈の目に、涙が滲んでいた。


「もうすぐ一ヶ月だよ。一回も電話ないし、メッセージもないし。……お兄ちゃんが、そんなことすると思う?」


「……思わない」


「でしょ。……じゃあ、なんで」


 玲奈は、テーブルに突っ伏した。


「なんで、連絡くれないの」


 くぐもった声が、テーブルの木目に吸い込まれていく。

 澪は、しばらく妹の背中を見つめていた。

 小さな肩が、小刻みに震えている。

 普段は生意気な口ばかり叩く妹が、こんなふうに泣くのを見るのは、いつ以来だろう。

 そして、静かに立ち上がった。


「……玲奈。私、今日動くわ」


「え?」


「昨日言った通り、白百合の本部に行く」


 澪は、椅子の背に掛けていた上着に手を伸ばした。


「会長に、直接会う。……緋雪ちゃんがどこにいるのか、白百合が本当に何も知らないのか。全部、聞き出すわ」


「お姉ちゃん、それって」


「門前払いされても、座り込んででも会う」


 彼女は、静かに告げた。


「それでも何も分からなかったら、その時は……警察に、捜索願を出す」


 捜索願。

 口にした瞬間、その言葉の重さが、胸の奥にずしりと落ちてきた。

 それは、弟が「行方不明者」になるということだった。

 その時。


 ——ピンポーン。


 玄関のチャイムが、静かに鳴った。

 澪の動きが、止まる。

 二人は、顔を見合わせた。


「……こんな朝早くに?」


 時刻は、午前八時前である。

 母の奈々美は、すでに出勤していた。


 宅配便にしては早すぎる。近所の誰かが訪ねてくる時間でもない。

 澪は、警戒しながら玄関へと向かった。

 廊下の冷たい床板が、素足の裏に張り付くようだった。

 ドアノブに手をかける直前、彼女は無意識のうちに、体内の魔力をいつでも練れるように整えていた。

 扉を開けると、そこに一人の女性が立っていた。


 年の頃は、二十代後半だろうか。


 紺のスーツに、飾り気のない黒いパンプス。

 髪は後ろで一つにまとめられ、化粧も最小限。

 手には、使い込まれた黒い革の鞄を提げている。

 どこにでもいそうな、役所の職員といった風体である。


 だが。


(……なに、この人)


 澪の背筋に、奇妙な感覚が走った。

 魔力を、まったく感じない。

 それ自体は、珍しいことではない。世の中の大半は一般人であり、魔力など持っていない。

 だが、この女性は——違った。


「気配」が、ないのである。


 目の前に立っているのに、そこに人がいるという感覚が、驚くほど希薄だった。

 視線を外せば、そのまま存在を忘れてしまいそうなほどに。

 足音も、呼吸の音も、衣擦れの音すら聞こえない。

 冬の朝の冷気の中で、彼女の吐く息だけが、かろうじてそこに人がいることを証明していた。

 白百合の魔法少女として、幾度も修羅場をくぐってきた勘が、静かに警鐘を鳴らしていた。


「——おはようございます」


 女性は、静かに頭を下げた。

 角度も、速さも、教本に載っているような完璧なお辞儀だった。


「突然の訪問、失礼いたします。三神澪様で、お間違いないでしょうか」


「……ええ。そうですけど」


「わたくし、こういう者です」


 彼女は、内ポケットから一枚の名刺を取り出した。

 澪は、それを受け取った。

 厚手の上質な紙。角の一つにまで、折れも汚れもない。


『宮内庁 総務課 特別事業室 主査』


 そして、その下に記された名前。


「……宮内庁?」


 澪は、思わずその名刺を二度見した。

 宮内庁。

 言うまでもなく、皇室に関する事務を司る国の機関である。

 白百合の盾にも、魔法少女協会にも、まったく関わりのない組織だ。

 ニュースの中でしか聞いたことのない名前が、自分の家の玄関先に立っている。その現実味のなさに、澪はしばらく言葉を失った。


「……あの、何かの間違いでは」


「いえ、お間違いございません」


 女性は、静かに首を振った。


「本日は、弟様の件でお伺いいたしました」


 澪の心臓が、跳ねた。


「……零のこと?」


「はい。三神零様。……ご心配をおかけしております」


 玄関先で話す内容ではない、と女性は言った。

 澪は、迷った末に彼女をリビングへと通した。

 玲奈も、恐る恐るテーブルに着く。

 泣き腫らした目元を慌てて袖で拭い、来客の顔をじっと見つめていた。

 女性は、勧められた椅子に浅く腰掛けた。

 背筋は一分の隙もなく伸び、鞄は膝の上に揃えて置かれている。


「……で、零はどこにいるんですか」


 澪は、単刀直入に切り出した。


「お答えできません」


 女性は、あっさりと答えた。


「……は?」


「正確には、お答えする権限がございません」


 澪の眉が、吊り上がった。


「ちょっと待ってください。それじゃあ何しに来たんですか」


「ご報告に参りました」


 女性は、淡々と続けた。


「弟様は、現在、宮内庁が主管する特別事業に参加されております。……羽衣緋雪様も、同様です」


「特別事業……?」


「はい。……事業の内容につきましては、守秘義務により一切開示できません」


「そんな話、信じられるわけないでしょう」


 澪は、思わず身を乗り出した。

 テーブルの上の湯呑みが、かたりと揺れる。


「宮内庁が、なんでうちの弟に。……あの子、ただの高校生ですよ」


「その点につきましても、お答えできません」


「答えられないことばっかりじゃない」


「……申し訳ございません」


 女性は、深く頭を下げた。


「ですが、これだけはお伝えできます」


 彼女は、顔を上げた。


「弟様は、無事です」


 その一言に、澪の動きが止まった。

 四週間近く、誰の口からも聞けなかった言葉だった。

 緋雪の「無事だ」は、嘘をつくときの目で言われた気がしていた。だが、目の前の女性の声には、揺らぎが一つもなかった。


「……無事」


「はい。健康状態に問題はなく、危険な状況にも置かれておりません」


「……本当に?」


「はい」


 女性は、迷いなく答えた。


「昨日の時点で、直接確認しております」


 澪は、しばらく黙り込んだ。

 そして、静かに問うた。


「……いつ、帰ってくるんですか」


「三日から、五日ほどかと」


 女性は、初めて具体的な数字を口にした。


「……三日から、五日」


「はい。事業の進捗によって前後いたしますが、それ以上は要しません」


「それも、答えられないんじゃなかったんですか」


「期間につきましては、開示の許可を得ております」


 彼女は、静かに続けた。


「ご家族が、これ以上ご心配なさらないように、と」


 澪は、しばらくその女性を見つめていた。


(……信じていいの、これ)


 彼女の頭の中で、いくつもの疑問が渦を巻いていた。

 宮内庁。特別事業。守秘義務。

 あまりにも唐突で、あまりにも現実味がない。

 詐欺の手口にしては、あまりに何も求めてこない。

 金の話も、署名の話も、一つも出てこない。ただ「無事だ」と伝え、答えられないことには答えられないと頭を下げるだけ。


 だが。


(……この人、嘘をついてる感じがしない)


 澪の勘が、そう告げていた。

 目を逸らさない。言葉を選ばない。答えられないことは、正直に答えられないと言う。


「……一つ、聞いてもいいですか」


「どうぞ」


「零は、自分の意思でそこにいるんですか」


 澪は、まっすぐに女性を見つめた。


「無理やり連れて行かれたんじゃなくて。……あの子が、自分で決めたことなんですか」


 その問いに、女性は僅かに目を細めた。


「……ええ」


 彼女は、静かに答えた。


「弟様は、ご自身の意思で参加なさっています。……むしろ、こちらが頭を下げてお願いした立場です」


「……頭を下げた?」


「はい」


 女性は、静かに頷いた。


「弟様がいなければ、成立しない事業でしたので」


 澪は、しばらく言葉を失っていた。

 自分の弟。台所に立ち、弁当を作り、妹の好みに合わせて味付けを変える、あの平凡な高校生。

 朝は誰よりも早く起きて、家族の分の味噌汁を温めている、あの弟。

 その弟に、国の機関が頭を下げたという。


(……なにやってんのよ、零)


 怒りとも、呆れともつかない感情が、胸の奥で渦を巻く。

 だが、その底のほうで、張り詰めていた何かが、ほんの少しだけ緩み始めているのも分かった。


「あの」


 それまで黙っていた玲奈が、恐る恐る手を挙げた。


「はい」


「お兄ちゃん、ちゃんとご飯食べてますか」


 女性の動きが、僅かに止まった。

 完璧だった姿勢に、ほんの一瞬、想定外の問いを受けた人間らしい間が生まれる。


「……ご飯、ですか」


「はい。」


 玲奈は、真剣な顔で続けた。


「おに……兄はちゃんと料理できていますか?」


 女性は、しばらく無言だった。

 そして——ほんの僅かに、表情を和らげた。

 彼女は、静かに答えた。


「昨晩は、少々体調不良でしたが、今日は鰤の煮付けと、根菜の煮物を作っておられました」


「……え」


「普段はご一緒された羽衣様と一緒に作られているようですが……大変、丁寧に作られていました」


 玲奈の目が、大きく見開かれた。


「え?緋雪さんが……?」


「はい。……弟様が羽衣様に教えながら、仲良くよく作っておられましたよ」


 玲奈は、しばらくその言葉を噛み締めていた。

 そして、ぽろりと涙を零した。


「……よかった」


「玲奈」


「だって、お兄ちゃん」


 彼女は、袖で目元を拭った。


「ちゃんと、ご飯作ってるんだ」


 それだけのことが、玲奈にはどうしようもなく嬉しかった。

 澪は、静かに妹の背中に手を置いた。

 女性は、静かに立ち上がった。


「……お伝えすべきことは、以上です」


「あの」


 澪が、慌てて呼び止めた。


「なんでしょう」


「零に、伝えてもらえますか」


 彼女は、静かに告げた。


「『早く帰ってこい』って。……それだけでいいので」


 言いたいことは、山ほどあった。

 どこで何をしているのか。なぜ一言も連絡を寄越さないのか。どれだけ心配したと思っているのか。

 だが、今この人に託せる言葉は、それだけで十分だった。残りは、帰ってきてから本人に直接ぶつければいい。

 女性は、深く頭を下げた。


「……承りました。必ず、お伝えいたします」


 玄関先で見送る際。

 澪は、最後にもう一つだけ尋ねた。


「……あなた、本当に宮内庁の人なんですか」


 その問いに、女性は僅かに首を傾げた。


「名刺に、そう書いてございますが」


「そうですけど」


 澪は、じっとその顔を見つめた。


「……なんか、役人っぽくないんですよね。動きが」


 廊下を歩く足運び。靴を履く時の重心の置き方。扉の外に出る前に、一瞬だけ通りの左右を確かめた視線。

 どれも、書類仕事をする人間のものではなかった。

 女性は、しばらく無言だった。

 そして、静かに微笑んだ。


「……よく、言われます」


 女性が去った後。

 澪は、玄関先でしばらく立ち尽くしていた。

 彼女が歩き去った方向を見つめる。

 だが——その姿は、すでにどこにもなかった。

 通りには、朝の通勤で人がまばらに歩いているだけである。

 ゴミ出しをする近所の主婦。自転車で駅へ急ぐ学生。コートの襟を立てたサラリーマン。

 その中に、紺のスーツの背中は一つも見当たらなかった。


(……消えた)


 澪は、静かに息を呑んだ。


(いや、違う。……見失った)


 この自分が、目を離したのはほんの数秒だった。

 その数秒で、あの女性は完全に街の中へ溶けてしまったのだ。

 手の中の名刺だけが、今の出来事が夢ではなかったことを告げていた。


 同じ頃。


 三神家から三ブロック離れた路地裏。

 八咫の隊員——先ほどまで「宮内庁の主査」であった女性は、静かに通信機を起動していた。

 スーツの襟元を僅かに緩める。

 ほんの数十分前まで纏っていた「役人」の空気が、それだけで跡形もなく消えていた。


「——八咫二番より、管制へ。ご家族への接触、完了いたしました」


『……反応は』


「当初は警戒されておりましたが、最終的にはご納得いただけたかと」


 彼女は、淡々と報告した。


「長女様は、本日、白百合の会長へ直談判に向かわれる予定でした。場合によっては、捜索願の提出もお考えだったようです。……間に合いました」


『上出来です』


 管制官の声が、僅かに和らいだ。


『白百合の姫嶋会長には、今朝方、殿下より直々に通達が届いております』


「……内容は」


『羽衣様の不在は、「皇族の極秘研修への参加」として処理。三神零様も、その協力者として同行中である、と。……長女様が本部を訪ねられても、会長のほうで話は収まるはずです』


「会長は、それで納得されるでしょうか」


『納得されなくとも、飲み込まれるでしょう』


 管制官は、淡々と続けた。


『皇族の名で出された通達を、白百合の会長が詮索なさることはありません。……あの方は、そういう線引きのできる方です』


『……一つ、確認します。名刺は』


「実在する部署のものを使用いたしました。照会されても、問題ございません」


『それと、余計なことは話していませんね』


「……はい」


 女性は、僅かに言い淀んだ。


『……何かありましたか』


「いえ。ただ」


 彼女は、静かに続けた。


「妹様から、『兄はちゃんとご飯を作っているか』とご質問を受けまして」


『……それで』


「昨晩の献立を、お答えいたしました」


 通信の向こうで、短い沈黙が落ちた。


『……それは、機密には該当しませんね』


「はい。そう判断いたしました」


 路地裏を、冷たい風が吹き抜けていく。

 女性は通信を切ると、雑踏の中へと静かに歩き出した。


 その日の午後。

 桐宮邸、勾玉の作戦室。

 壁一面のモニターには、昨夜の作戦の記録と、確保した装置の解析データが並んで映し出されていた。

 端末を叩く乾いた音が、途切れることなく部屋を満たしている。

 零は、部屋の隅の椅子に腰を下ろしていた。


 白いブラウスの上に、緋雪から借りた厚手のカーディガンを羽織っている。

 膝の上には、緋雪が朝一番に用意してくれた湯たんぽが置かれていた。下腹部の鈍い痛みは、昨夜よりはいくらかましになっている。


「——三神様。ご報告がございます」


 白衣の隊員が、静かに告げた。


「なにかしら」


「本日午前、八咫二番がご家族と接触いたしました」


 零の動きが、完全に止まった。


「……家族?」


「はい。宮内庁の職員として、ご家族に三神様のご無事をお伝えしております」


 零は、しばらく言葉を失っていた。

 膝の上の湯たんぽを握る手に、力がこもる。


「……勝手に、そんなことを」


「事前にご相談すべきでした。……申し訳ございません」


 隊員は、深く頭を下げた。


「ですが、緊急を要しました。……お姉様が、本日、白百合の会長に直談判し、場合によっては警察に捜索願を出されるおつもりでしたので」


「……姉ちゃんが」


「はい」


 零の背筋に、冷たいものが走った。


(……そうか。期限なんて、とっくに過ぎてたんだ)


 白百合の会長が動けば、協会にも話が届く。警察が動けば、「三神零」という名前が行方不明者として記録に残る。

 そうなれば、この四週間、緋雪が必死に守ってきたものが、すべて崩れていたかもしれない。


 そして、もう一つ。


「……緋雪さんの立場は」


 零は、掠れた声で問うた。


「白百合を、四週間近くも空けさせてしまったわ。……会長に、なんて説明すれば」


「そちらも、ご心配には及びません」


 隊員は、静かに答えた。


「今朝、殿下から白百合の姫嶋会長へ、直々に通達が出ております。羽衣様の不在は『皇族の極秘研修への参加』として処理されました。三神様は、その協力者として同行中という扱いです」


「……研修」


「はい。羽衣様がご家族に説明された『研修』を、そのまま正式なものにいたしました」


 隊員は、淡々と続けた。


「お姉様が本部を訪ねられても、会長のほうで話は収まるかと」


 零は、小さく息を吐いた。

 緋雪が咄嗟についた嘘。

 それが今、皇族の名によって、誰にも暴けない「事実」に書き換えられていた。


(……殿下が、そこまで)


 膝の上の湯たんぽの温もりが、少しだけ深く染み込んでくる気がした。


「……家族は、なんて」


 零は、静かに問うた。


「当初は、強く警戒されておりました」


 隊員は、淡々と報告した。


「宮内庁が高校生に関わる理由が理解できない、と。……当然のご反応です」


「……ええ」


「ですが、最終的にはご納得いただけました」


「……納得?」


「はい。……お姉様は、こう仰ったそうです」


 彼女は、記録を読み上げた。


『零に、伝えてもらえますか。「早く帰ってこい」って。……それだけでいいので』


 零は、しばらくその言葉を噛み締めていた。

 記録を読み上げる隊員の声は、どこまでも平坦だった。

 だが、その平坦な声の向こうに、零は確かに姉の声を聞いた気がした。ぶっきらぼうで、少し怒っていて、それでいて誰よりも心配している、あの声を。


 やがて、彼女は静かに顔を覆った。


「……姉ちゃん」


「三神様?」


「……ごめんなさい。少しだけ」


 零は、震える声で告げた。


「……少しだけ、時間をください」


 隊員は、静かに一礼して部屋を出ていった。

 扉が閉まると同時に、端末の音も遠ざかる。

 作戦室には、零一人だけが残された。

 一人になった部屋で。

 零は、しばらく動けずにいた。


(……怒られると思ってた)


 四週間近く、何の連絡もせず消えた弟。

 緋雪さんに嘘の説明を背負わせたまま、期限すら守れなかった。

 姉が激怒しているであろうことは、想像に難くなかった。

 帰ったら、まず玄関で正座させられるだろう。

 槍の石突きで床を叩きながら、夜が明けるまで説教されるに違いない。そう、覚悟していた。


 だが。


(『早く帰ってこい』……それだけ、か)


 零の目から、涙が零れ落ちた。

 一滴、また一滴と、カーディガンの袖に染みを作っていく。

 この身体になってから、涙もろくなった気がする。それが身体のせいなのか、心のせいなのか、今の零には分からなかった。

 しばらくして。

 扉が静かにノックされた。


「……零くん?」


 緋雪が、顔を覗かせた。


「大丈夫? 勾玉の人から、話は聞いたわ」


「……ええ」


「お姉さんのこと」


「……うん」


 零は、涙を拭いながら頷いた。

 緋雪は何も言わずに部屋へ入ってくると、零の隣に椅子を引き寄せて座った。

 そして、冷めかけていた湯たんぽを、そっと新しいものと取り替えた。


 その日の夕方。


 勾玉の作戦室には、解析結果の第一報が届いていた。


「——三基目の装置、内部構造の解析が完了いたしました」


 白衣の隊員が、立体映像を投影しながら報告した。

 宙に浮かび上がったのは、幾重にも折り重なった光の回路だった。

 その一部が赤く明滅し、別の場所に投影された古い術式図——皇室が十一年間保管してきた原本と、一本ずつ線で結ばれていく。


「皇室保管の原本との照合も、七割方終わっております」


「……それで」


 零が、静かに問うた。


「解除は、できるの」


「可能です」


 隊員は、迷いなく答えた。

 その一言に、隣に立つ緋雪が小さく息を呑んだ。


「ただし、逆算に時間を要します。……最短で、三日」


「三日」


「はい。術式の個体差を完全に特定し、逆位相の術式を構築する必要があります」


 彼女は、淡々と続けた。


「一度でも失敗すれば、術式が完全に固着する恐れがあります。……慎重を期すため、三日はいただきたく」


 零は、しばらく黙っていた。

 一度きりの機会。

 失敗すれば、二度と戻れない。

 そして、静かに頷いた。


「……分かったわ」


 三日。


 変身が解けなくなってからの四週間に比べれば、あまりにも短い時間だ。

 だが、その三日の間にも——零の身体は、着実に変化を続けている。

 下腹部の奥で、鈍い痛みがまた小さく疼いた。

 この身体が「この形」で生きていこうとしている証のように。


(……三日後)


 彼女は、静かに窓の外を見つめた。


(三日後には、帰れる)


 帰ったら、まず玄関で姉に叱られよう。

 それから、妹のために夕飯を作ろう。鰤の煮付けは、緋雪さんに負けないくらい丁寧に。


 冬の夕日が、桐宮邸の庭園を茜色に染めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。