第二百五十一話
作戦決行から、一夜明けた朝。
三神家のリビングには、重い沈黙が満ちていた。
カーテンの隙間から、冬の薄い朝日が差し込んでいる。
台所のコンロには、誰も火を点けていなかった。この家の朝に、味噌汁の匂いがしなくなって、もうどれくらい経つだろう。
三神澪は、ダイニングテーブルに肘をつき、スマートフォンの画面を睨みつけている。
昨夜から、何十回と同じ操作を繰り返していた。
緋雪への発信。応答なし。白百合の本部への問い合わせ。「羽衣隊員は休暇中」という定型文。
そして、弟への発信。
こちらは、もう四週間近く、電源すら入っていない。
耳に当てるたびに流れる、無機質な自動音声。
「電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため——」
その続きを、澪はもう最後まで聞かなくなっていた。
(……期限なんて、とうに過ぎてる)
澪は、静かに拳を握りしめた。
テーブルの隅には、昨夜書き殴ったメモが置かれていた。
白百合本部の住所。会長室の直通番号。そして、最寄りの警察署の名前。
「お姉ちゃん」
階段を降りてきた玲奈が、不安げに声をかけた。
寝癖のついた髪を手で押さえながら、パジャマの上にカーディガンを羽織っている。
目の下には、うっすらと隈が浮いていた。昨夜もあまり眠れなかったのだろう。
「……お兄ちゃん、帰ってこなかったね」
「……ええ」
「緋雪さんも、連絡つかないんでしょ」
「……ええ」
玲奈は、しばらく姉の背中を見つめていた。
そして、静かに隣の椅子に腰を下ろした。
椅子の脚が、フローリングを擦る音がやけに大きく響く。
五人掛けのテーブルの一席が空いているだけで、この家はこんなにも静かになるのだと、二人とも知ってしまっていた。
「……私、昨日ずっと考えてたんだけどさ」
「なに」
「お兄ちゃん、もしかしたら」
彼女の声が、震えた。
「もう、いないんじゃないかって」
澪の手が、止まった。
スマートフォンの画面が、ふっと暗くなる。
黒い画面に、自分の強張った顔が映り込んでいた。
「……玲奈」
「だって、おかしいよ」
玲奈の目に、涙が滲んでいた。
「もうすぐ一ヶ月だよ。一回も電話ないし、メッセージもないし。……お兄ちゃんが、そんなことすると思う?」
「……思わない」
「でしょ。……じゃあ、なんで」
玲奈は、テーブルに突っ伏した。
「なんで、連絡くれないの」
くぐもった声が、テーブルの木目に吸い込まれていく。
澪は、しばらく妹の背中を見つめていた。
小さな肩が、小刻みに震えている。
普段は生意気な口ばかり叩く妹が、こんなふうに泣くのを見るのは、いつ以来だろう。
そして、静かに立ち上がった。
「……玲奈。私、今日動くわ」
「え?」
「昨日言った通り、白百合の本部に行く」
澪は、椅子の背に掛けていた上着に手を伸ばした。
「会長に、直接会う。……緋雪ちゃんがどこにいるのか、白百合が本当に何も知らないのか。全部、聞き出すわ」
「お姉ちゃん、それって」
「門前払いされても、座り込んででも会う」
彼女は、静かに告げた。
「それでも何も分からなかったら、その時は……警察に、捜索願を出す」
捜索願。
口にした瞬間、その言葉の重さが、胸の奥にずしりと落ちてきた。
それは、弟が「行方不明者」になるということだった。
その時。
——ピンポーン。
玄関のチャイムが、静かに鳴った。
澪の動きが、止まる。
二人は、顔を見合わせた。
「……こんな朝早くに?」
時刻は、午前八時前である。
母の奈々美は、すでに出勤していた。
宅配便にしては早すぎる。近所の誰かが訪ねてくる時間でもない。
澪は、警戒しながら玄関へと向かった。
廊下の冷たい床板が、素足の裏に張り付くようだった。
ドアノブに手をかける直前、彼女は無意識のうちに、体内の魔力をいつでも練れるように整えていた。
扉を開けると、そこに一人の女性が立っていた。
年の頃は、二十代後半だろうか。
紺のスーツに、飾り気のない黒いパンプス。
髪は後ろで一つにまとめられ、化粧も最小限。
手には、使い込まれた黒い革の鞄を提げている。
どこにでもいそうな、役所の職員といった風体である。
だが。
(……なに、この人)
澪の背筋に、奇妙な感覚が走った。
魔力を、まったく感じない。
それ自体は、珍しいことではない。世の中の大半は一般人であり、魔力など持っていない。
だが、この女性は——違った。
「気配」が、ないのである。
目の前に立っているのに、そこに人がいるという感覚が、驚くほど希薄だった。
視線を外せば、そのまま存在を忘れてしまいそうなほどに。
足音も、呼吸の音も、衣擦れの音すら聞こえない。
冬の朝の冷気の中で、彼女の吐く息だけが、かろうじてそこに人がいることを証明していた。
白百合の魔法少女として、幾度も修羅場をくぐってきた勘が、静かに警鐘を鳴らしていた。
「——おはようございます」
女性は、静かに頭を下げた。
角度も、速さも、教本に載っているような完璧なお辞儀だった。
「突然の訪問、失礼いたします。三神澪様で、お間違いないでしょうか」
「……ええ。そうですけど」
「わたくし、こういう者です」
彼女は、内ポケットから一枚の名刺を取り出した。
澪は、それを受け取った。
厚手の上質な紙。角の一つにまで、折れも汚れもない。
『宮内庁 総務課 特別事業室 主査』
そして、その下に記された名前。
「……宮内庁?」
澪は、思わずその名刺を二度見した。
宮内庁。
言うまでもなく、皇室に関する事務を司る国の機関である。
白百合の盾にも、魔法少女協会にも、まったく関わりのない組織だ。
ニュースの中でしか聞いたことのない名前が、自分の家の玄関先に立っている。その現実味のなさに、澪はしばらく言葉を失った。
「……あの、何かの間違いでは」
「いえ、お間違いございません」
女性は、静かに首を振った。
「本日は、弟様の件でお伺いいたしました」
澪の心臓が、跳ねた。
「……零のこと?」
「はい。三神零様。……ご心配をおかけしております」
玄関先で話す内容ではない、と女性は言った。
澪は、迷った末に彼女をリビングへと通した。
玲奈も、恐る恐るテーブルに着く。
泣き腫らした目元を慌てて袖で拭い、来客の顔をじっと見つめていた。
女性は、勧められた椅子に浅く腰掛けた。
背筋は一分の隙もなく伸び、鞄は膝の上に揃えて置かれている。
「……で、零はどこにいるんですか」
澪は、単刀直入に切り出した。
「お答えできません」
女性は、あっさりと答えた。
「……は?」
「正確には、お答えする権限がございません」
澪の眉が、吊り上がった。
「ちょっと待ってください。それじゃあ何しに来たんですか」
「ご報告に参りました」
女性は、淡々と続けた。
「弟様は、現在、宮内庁が主管する特別事業に参加されております。……羽衣緋雪様も、同様です」
「特別事業……?」
「はい。……事業の内容につきましては、守秘義務により一切開示できません」
「そんな話、信じられるわけないでしょう」
澪は、思わず身を乗り出した。
テーブルの上の湯呑みが、かたりと揺れる。
「宮内庁が、なんでうちの弟に。……あの子、ただの高校生ですよ」
「その点につきましても、お答えできません」
「答えられないことばっかりじゃない」
「……申し訳ございません」
女性は、深く頭を下げた。
「ですが、これだけはお伝えできます」
彼女は、顔を上げた。
「弟様は、無事です」
その一言に、澪の動きが止まった。
四週間近く、誰の口からも聞けなかった言葉だった。
緋雪の「無事だ」は、嘘をつくときの目で言われた気がしていた。だが、目の前の女性の声には、揺らぎが一つもなかった。
「……無事」
「はい。健康状態に問題はなく、危険な状況にも置かれておりません」
「……本当に?」
「はい」
女性は、迷いなく答えた。
「昨日の時点で、直接確認しております」
澪は、しばらく黙り込んだ。
そして、静かに問うた。
「……いつ、帰ってくるんですか」
「三日から、五日ほどかと」
女性は、初めて具体的な数字を口にした。
「……三日から、五日」
「はい。事業の進捗によって前後いたしますが、それ以上は要しません」
「それも、答えられないんじゃなかったんですか」
「期間につきましては、開示の許可を得ております」
彼女は、静かに続けた。
「ご家族が、これ以上ご心配なさらないように、と」
澪は、しばらくその女性を見つめていた。
(……信じていいの、これ)
彼女の頭の中で、いくつもの疑問が渦を巻いていた。
宮内庁。特別事業。守秘義務。
あまりにも唐突で、あまりにも現実味がない。
詐欺の手口にしては、あまりに何も求めてこない。
金の話も、署名の話も、一つも出てこない。ただ「無事だ」と伝え、答えられないことには答えられないと頭を下げるだけ。
だが。
(……この人、嘘をついてる感じがしない)
澪の勘が、そう告げていた。
目を逸らさない。言葉を選ばない。答えられないことは、正直に答えられないと言う。
「……一つ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「零は、自分の意思でそこにいるんですか」
澪は、まっすぐに女性を見つめた。
「無理やり連れて行かれたんじゃなくて。……あの子が、自分で決めたことなんですか」
その問いに、女性は僅かに目を細めた。
「……ええ」
彼女は、静かに答えた。
「弟様は、ご自身の意思で参加なさっています。……むしろ、こちらが頭を下げてお願いした立場です」
「……頭を下げた?」
「はい」
女性は、静かに頷いた。
「弟様がいなければ、成立しない事業でしたので」
澪は、しばらく言葉を失っていた。
自分の弟。台所に立ち、弁当を作り、妹の好みに合わせて味付けを変える、あの平凡な高校生。
朝は誰よりも早く起きて、家族の分の味噌汁を温めている、あの弟。
その弟に、国の機関が頭を下げたという。
(……なにやってんのよ、零)
怒りとも、呆れともつかない感情が、胸の奥で渦を巻く。
だが、その底のほうで、張り詰めていた何かが、ほんの少しだけ緩み始めているのも分かった。
「あの」
それまで黙っていた玲奈が、恐る恐る手を挙げた。
「はい」
「お兄ちゃん、ちゃんとご飯食べてますか」
女性の動きが、僅かに止まった。
完璧だった姿勢に、ほんの一瞬、想定外の問いを受けた人間らしい間が生まれる。
「……ご飯、ですか」
「はい。」
玲奈は、真剣な顔で続けた。
「おに……兄はちゃんと料理できていますか?」
女性は、しばらく無言だった。
そして——ほんの僅かに、表情を和らげた。
彼女は、静かに答えた。
「昨晩は、少々体調不良でしたが、今日は鰤の煮付けと、根菜の煮物を作っておられました」
「……え」
「普段はご一緒された羽衣様と一緒に作られているようですが……大変、丁寧に作られていました」
玲奈の目が、大きく見開かれた。
「え?緋雪さんが……?」
「はい。……弟様が羽衣様に教えながら、仲良くよく作っておられましたよ」
玲奈は、しばらくその言葉を噛み締めていた。
そして、ぽろりと涙を零した。
「……よかった」
「玲奈」
「だって、お兄ちゃん」
彼女は、袖で目元を拭った。
「ちゃんと、ご飯作ってるんだ」
それだけのことが、玲奈にはどうしようもなく嬉しかった。
澪は、静かに妹の背中に手を置いた。
女性は、静かに立ち上がった。
「……お伝えすべきことは、以上です」
「あの」
澪が、慌てて呼び止めた。
「なんでしょう」
「零に、伝えてもらえますか」
彼女は、静かに告げた。
「『早く帰ってこい』って。……それだけでいいので」
言いたいことは、山ほどあった。
どこで何をしているのか。なぜ一言も連絡を寄越さないのか。どれだけ心配したと思っているのか。
だが、今この人に託せる言葉は、それだけで十分だった。残りは、帰ってきてから本人に直接ぶつければいい。
女性は、深く頭を下げた。
「……承りました。必ず、お伝えいたします」
玄関先で見送る際。
澪は、最後にもう一つだけ尋ねた。
「……あなた、本当に宮内庁の人なんですか」
その問いに、女性は僅かに首を傾げた。
「名刺に、そう書いてございますが」
「そうですけど」
澪は、じっとその顔を見つめた。
「……なんか、役人っぽくないんですよね。動きが」
廊下を歩く足運び。靴を履く時の重心の置き方。扉の外に出る前に、一瞬だけ通りの左右を確かめた視線。
どれも、書類仕事をする人間のものではなかった。
女性は、しばらく無言だった。
そして、静かに微笑んだ。
「……よく、言われます」
女性が去った後。
澪は、玄関先でしばらく立ち尽くしていた。
彼女が歩き去った方向を見つめる。
だが——その姿は、すでにどこにもなかった。
通りには、朝の通勤で人がまばらに歩いているだけである。
ゴミ出しをする近所の主婦。自転車で駅へ急ぐ学生。コートの襟を立てたサラリーマン。
その中に、紺のスーツの背中は一つも見当たらなかった。
(……消えた)
澪は、静かに息を呑んだ。
(いや、違う。……見失った)
この自分が、目を離したのはほんの数秒だった。
その数秒で、あの女性は完全に街の中へ溶けてしまったのだ。
手の中の名刺だけが、今の出来事が夢ではなかったことを告げていた。
同じ頃。
三神家から三ブロック離れた路地裏。
八咫の隊員——先ほどまで「宮内庁の主査」であった女性は、静かに通信機を起動していた。
スーツの襟元を僅かに緩める。
ほんの数十分前まで纏っていた「役人」の空気が、それだけで跡形もなく消えていた。
「——八咫二番より、管制へ。ご家族への接触、完了いたしました」
『……反応は』
「当初は警戒されておりましたが、最終的にはご納得いただけたかと」
彼女は、淡々と報告した。
「長女様は、本日、白百合の会長へ直談判に向かわれる予定でした。場合によっては、捜索願の提出もお考えだったようです。……間に合いました」
『上出来です』
管制官の声が、僅かに和らいだ。
『白百合の姫嶋会長には、今朝方、殿下より直々に通達が届いております』
「……内容は」
『羽衣様の不在は、「皇族の極秘研修への参加」として処理。三神零様も、その協力者として同行中である、と。……長女様が本部を訪ねられても、会長のほうで話は収まるはずです』
「会長は、それで納得されるでしょうか」
『納得されなくとも、飲み込まれるでしょう』
管制官は、淡々と続けた。
『皇族の名で出された通達を、白百合の会長が詮索なさることはありません。……あの方は、そういう線引きのできる方です』
『……一つ、確認します。名刺は』
「実在する部署のものを使用いたしました。照会されても、問題ございません」
『それと、余計なことは話していませんね』
「……はい」
女性は、僅かに言い淀んだ。
『……何かありましたか』
「いえ。ただ」
彼女は、静かに続けた。
「妹様から、『兄はちゃんとご飯を作っているか』とご質問を受けまして」
『……それで』
「昨晩の献立を、お答えいたしました」
通信の向こうで、短い沈黙が落ちた。
『……それは、機密には該当しませんね』
「はい。そう判断いたしました」
路地裏を、冷たい風が吹き抜けていく。
女性は通信を切ると、雑踏の中へと静かに歩き出した。
その日の午後。
桐宮邸、勾玉の作戦室。
壁一面のモニターには、昨夜の作戦の記録と、確保した装置の解析データが並んで映し出されていた。
端末を叩く乾いた音が、途切れることなく部屋を満たしている。
零は、部屋の隅の椅子に腰を下ろしていた。
白いブラウスの上に、緋雪から借りた厚手のカーディガンを羽織っている。
膝の上には、緋雪が朝一番に用意してくれた湯たんぽが置かれていた。下腹部の鈍い痛みは、昨夜よりはいくらかましになっている。
「——三神様。ご報告がございます」
白衣の隊員が、静かに告げた。
「なにかしら」
「本日午前、八咫二番がご家族と接触いたしました」
零の動きが、完全に止まった。
「……家族?」
「はい。宮内庁の職員として、ご家族に三神様のご無事をお伝えしております」
零は、しばらく言葉を失っていた。
膝の上の湯たんぽを握る手に、力がこもる。
「……勝手に、そんなことを」
「事前にご相談すべきでした。……申し訳ございません」
隊員は、深く頭を下げた。
「ですが、緊急を要しました。……お姉様が、本日、白百合の会長に直談判し、場合によっては警察に捜索願を出されるおつもりでしたので」
「……姉ちゃんが」
「はい」
零の背筋に、冷たいものが走った。
(……そうか。期限なんて、とっくに過ぎてたんだ)
白百合の会長が動けば、協会にも話が届く。警察が動けば、「三神零」という名前が行方不明者として記録に残る。
そうなれば、この四週間、緋雪が必死に守ってきたものが、すべて崩れていたかもしれない。
そして、もう一つ。
「……緋雪さんの立場は」
零は、掠れた声で問うた。
「白百合を、四週間近くも空けさせてしまったわ。……会長に、なんて説明すれば」
「そちらも、ご心配には及びません」
隊員は、静かに答えた。
「今朝、殿下から白百合の姫嶋会長へ、直々に通達が出ております。羽衣様の不在は『皇族の極秘研修への参加』として処理されました。三神様は、その協力者として同行中という扱いです」
「……研修」
「はい。羽衣様がご家族に説明された『研修』を、そのまま正式なものにいたしました」
隊員は、淡々と続けた。
「お姉様が本部を訪ねられても、会長のほうで話は収まるかと」
零は、小さく息を吐いた。
緋雪が咄嗟についた嘘。
それが今、皇族の名によって、誰にも暴けない「事実」に書き換えられていた。
(……殿下が、そこまで)
膝の上の湯たんぽの温もりが、少しだけ深く染み込んでくる気がした。
「……家族は、なんて」
零は、静かに問うた。
「当初は、強く警戒されておりました」
隊員は、淡々と報告した。
「宮内庁が高校生に関わる理由が理解できない、と。……当然のご反応です」
「……ええ」
「ですが、最終的にはご納得いただけました」
「……納得?」
「はい。……お姉様は、こう仰ったそうです」
彼女は、記録を読み上げた。
『零に、伝えてもらえますか。「早く帰ってこい」って。……それだけでいいので』
零は、しばらくその言葉を噛み締めていた。
記録を読み上げる隊員の声は、どこまでも平坦だった。
だが、その平坦な声の向こうに、零は確かに姉の声を聞いた気がした。ぶっきらぼうで、少し怒っていて、それでいて誰よりも心配している、あの声を。
やがて、彼女は静かに顔を覆った。
「……姉ちゃん」
「三神様?」
「……ごめんなさい。少しだけ」
零は、震える声で告げた。
「……少しだけ、時間をください」
隊員は、静かに一礼して部屋を出ていった。
扉が閉まると同時に、端末の音も遠ざかる。
作戦室には、零一人だけが残された。
一人になった部屋で。
零は、しばらく動けずにいた。
(……怒られると思ってた)
四週間近く、何の連絡もせず消えた弟。
緋雪さんに嘘の説明を背負わせたまま、期限すら守れなかった。
姉が激怒しているであろうことは、想像に難くなかった。
帰ったら、まず玄関で正座させられるだろう。
槍の石突きで床を叩きながら、夜が明けるまで説教されるに違いない。そう、覚悟していた。
だが。
(『早く帰ってこい』……それだけ、か)
零の目から、涙が零れ落ちた。
一滴、また一滴と、カーディガンの袖に染みを作っていく。
この身体になってから、涙もろくなった気がする。それが身体のせいなのか、心のせいなのか、今の零には分からなかった。
しばらくして。
扉が静かにノックされた。
「……零くん?」
緋雪が、顔を覗かせた。
「大丈夫? 勾玉の人から、話は聞いたわ」
「……ええ」
「お姉さんのこと」
「……うん」
零は、涙を拭いながら頷いた。
緋雪は何も言わずに部屋へ入ってくると、零の隣に椅子を引き寄せて座った。
そして、冷めかけていた湯たんぽを、そっと新しいものと取り替えた。
その日の夕方。
勾玉の作戦室には、解析結果の第一報が届いていた。
「——三基目の装置、内部構造の解析が完了いたしました」
白衣の隊員が、立体映像を投影しながら報告した。
宙に浮かび上がったのは、幾重にも折り重なった光の回路だった。
その一部が赤く明滅し、別の場所に投影された古い術式図——皇室が十一年間保管してきた原本と、一本ずつ線で結ばれていく。
「皇室保管の原本との照合も、七割方終わっております」
「……それで」
零が、静かに問うた。
「解除は、できるの」
「可能です」
隊員は、迷いなく答えた。
その一言に、隣に立つ緋雪が小さく息を呑んだ。
「ただし、逆算に時間を要します。……最短で、三日」
「三日」
「はい。術式の個体差を完全に特定し、逆位相の術式を構築する必要があります」
彼女は、淡々と続けた。
「一度でも失敗すれば、術式が完全に固着する恐れがあります。……慎重を期すため、三日はいただきたく」
零は、しばらく黙っていた。
一度きりの機会。
失敗すれば、二度と戻れない。
そして、静かに頷いた。
「……分かったわ」
三日。
変身が解けなくなってからの四週間に比べれば、あまりにも短い時間だ。
だが、その三日の間にも——零の身体は、着実に変化を続けている。
下腹部の奥で、鈍い痛みがまた小さく疼いた。
この身体が「この形」で生きていこうとしている証のように。
(……三日後)
彼女は、静かに窓の外を見つめた。
(三日後には、帰れる)
帰ったら、まず玄関で姉に叱られよう。
それから、妹のために夕飯を作ろう。鰤の煮付けは、緋雪さんに負けないくらい丁寧に。
冬の夕日が、桐宮邸の庭園を茜色に染めていた。




