第二百五十話
午後十一時五十分。
都内、旧倉庫街の一角。
その廃ビルは、周囲の雑居ビル群の中に埋もれるように建っていた。
八階建て。灰色の外壁は雨染みで黒ずみ、窓という窓が内側から板で塞がれている。
電気は通っていないはずだった。だが、地下から漏れる僅かな排気の熱が、冬の夜気の中で微かに揺らいでいる。
錆びたシャッター。剥がれかけたテナント募集の張り紙。
かつては運送会社の事務所だったらしい看板の文字は、とうに色褪せて読めなくなっていた。
その建物から二ブロック離れた路地裏に、二つの影が潜んでいた。
室外機の低い唸りと、どこか遠くを走る車の音。
都会の夜は、真夜中でも完全には眠らない。
『——各員、最終確認』
耳に挿した小型の通信機から、勾玉の管制官の声が流れた。
抑揚のない、しかし極めて明瞭な声である。
『八咫一番、屋上配置完了』
『八咫二番、東区画封鎖完了。民間人ゼロ』
『八咫三番、西区画封鎖完了』
次々と、報告が返っていく。
『叢雲、下水道内待機中。地下侵入口まで、二十七メートル』
夕日紅の声だった。
『……三神様。羽衣様。聞こえておりますか』
「……ええ」
零は、静かに答えた。
自分の吐く息が、白く夜に溶けていく。
指先が冷たいのは、寒さのせいだけではなかった。
『対象の位置を報告します。技術顧問、五階南側の執務室に在室。……過去二時間、移動なし』
管制官は、淡々と続けた。
『護衛、確認できるだけで十四名。うち、ダインスレイブ携行型を装備している者が六名』
「……六人」
『はい。ただし、こちらへの対応は不可能かと』
零は、僅かに眉をひそめた。
「……どういうこと」
『相手は、あなたを単独の襲撃者だと認識します。ゴーストという規格外の存在に対し、六名のダインスレイブは——数として、まったく足りません』
零は、静かに息を吐いた。
その通りだった。
ダインスレイブは確かに厄介な兵器である。だが、それは「魔力を切断する」という一点に特化した道具に過ぎない。
広範囲の炎も、空間ごと押し潰す重力も、一本の剣で斬り裂けるものではない。
隠密たちとの戦いで、零はそれを嫌というほど知っていた。
あの刃は、正面から向かってくる魔法には強い。だが、空間そのものを覆う力には、斬るべき「点」がない。
(……だからこそ、相手は焦る)
零は、廃ビルを見上げた。
(そして、装置を破壊しようとする)
その前に、終わらせなければならない。
「……零くん」
隣で、緋雪が静かに声をかけた。
彼女は、白百合の制服ではなく、桐宮邸で借りた黒い装束を纏っていた。
顔の下半分は布で覆われ、銀髪も黒い頭巾の下に押し込まれている。
白百合のトップエースが、この現場にいたと知られるわけにはいかない。
布越しに覗く蒼い瞳だけが、夜の暗がりの中で静かに光っていた。
袖口から覗く手首には、まだ稽古の痣が青く残っている。
「……無理は、しないでね」
「ええ」
「それと」
緋雪は、零の袖をそっと掴んだ。
「……終わったら、一緒に帰りましょう」
零は、しばらくその目を見つめていた。
そして、静かに微笑んだ。
「……ええ。帰りましょう」
帰る。
洋館か、桐宮邸か、それとも——三神家の台所か。
どこへ帰るのかは、今夜の結果が決める。
『——作戦開始まで、十秒』
管制官の声が、静かに告げた。
『九、八、七——』
零は、深く息を吸い込んだ。
全身に、闇色の魔力が満ちていく。
私服の布地がほどけるように闇に溶け、漆黒のゴシックドレスが身体を包み込んだ。
(……奈緒)
彼女は、静かに目を閉じた。
(あの白い部屋を、思い出せ)
壁一面の落書き。震える線。
『じゃあ、わたしは、だれ?』
『三、二、一——』
『作戦開始』
次の瞬間。
——ズドォォォォォンッ!!!
廃ビルの外壁が、轟音とともに砕け散った。
二階から三階にかけての壁面が、目に見えない巨大な手に握り潰されたように内側へと陥没する。
コンクリートの破片が宙を舞い、粉塵が夜空へと立ち上った。
だが、それは一撃で終わらなかった。
——ドォンッ。
——ドォンッ。
——ドォンッ。
一秒ごとに、外壁が階層を上げながら崩落していく。
零は、あえて一度に破壊しなかった。
段階的に。音が長く続くように。周囲の誰もが、何事かと窓を開けるように。
訓練で叩き込まれた通りの手順である。
周囲の雑居ビルの窓に、一つ、また一つと明かりが灯っていく。
遠くで、犬が吠え始めた。
そして——
「……灰燼に帰しなさい」
彼女が腕を振るった瞬間、ビルの正面が紅蓮の炎に包まれた。
夜空が、赤く染まった。
その炎は、遠く数キロ先からも視認できるほどの規模だった。
周囲の建物には一切引火せず、ただ廃ビルの正面だけを、劇的に、これ以上ないほど派手に焼き上げている。
熱は、ほとんど外へ漏れていない。
見た目だけを極限まで膨らませ、破壊の範囲は一枚の壁の厚みに収める。二日間、勾玉の訓練室で繰り返した精密な制御だった。
零は、その炎の前に静かに降り立った。
漆黒のゴシックドレス。夜風に躍る長い黒髪。
そして——紫水晶の瞳に宿る、冷たい怒り。
監視カメラのレンズが、その姿を捉えた。
五階、南側執務室。
「——なっ、なんだ!?」
モニターの前で、白髪混じりの男が椅子から跳ね上がった。
協会の技術顧問。名を、椎葉という。
六十代半ば。痩身。金縁の眼鏡の奥に、神経質そうな目が光っている。
執務室といっても、元は倉庫の事務所を改装しただけの狭い部屋だった。
壁際には書類の束が積み上げられ、机の上には冷めきったコーヒーの紙コップが三つ並んでいる。
四週間に及ぶ逃亡生活が、部屋の隅々にまで澱のように溜まっていた。
「ゴースト……!? なぜ、ここが」
彼の手が、震えた。
モニターの中で、漆黒の少女が燃え盛る炎を背に、こちらを見上げている。
まるで、レンズの向こうの自分を、正確に見据えているかのように。
「……くそっ、報復のつもりか」
椎葉は、額の汗を拭った。
「装置一つで、そこまで執念深くなるか。……いや、当然か」
彼は、通信機を掴んだ。
「全員、正面へ回れ! ダインスレイブ装備の者を最前列に!」
『し、しかし顧問! あれは特S級です! 六名程度では』
「食い止めるだけでいい!」
椎葉は、叫んだ。
「時間を稼げ! その間に、私は資料を——」
『——対象、全護衛を正面へ集中。地下警備、ゼロになりました』
管制官の声が、通信網に流れた。
『叢雲、侵入を開始してください』
『……了解』
夕日紅の声が、短く応じた。
廃ビル正面。
零の前に、十四名の武装した男たちが展開していた。
うち六名が、漆黒の刃——ダインスレイブを構えている。
残りの八名は、自動小銃を肩に当てていた。
どの顔にも、恐怖が張り付いている。目の前の少女が何者なのか、彼らは嫌というほど知っていた。
「撃てぇっ!」
銃声が、夜に響いた。
だが、その弾丸はすべて、零の周囲三メートルで静止した。
重力場に捕らわれ、空中で潰れ、地面に落ちる。
からん、からん、と。
潰れた鉛の粒が、乾いた音を立ててアスファルトの上を転がった。
「……邪魔よ」
零が、静かに手を振るった。
次の瞬間、十四名全員が地面に叩き伏せられた。
骨は折れていない。内臓も傷つけていない。
ただ、指一本動かせないだけ。
訓練通りの、精密な出力調整である。
「……ぐ、あ」
「な、なんだこれは……!」
ダインスレイブの刃が、持ち主の手を離れて地面に縫い止められる。
魔力を斬るための剣も、振るう腕が動かなければ、ただの黒い鉄の板に過ぎなかった。
だが、零はそこで止まらなかった。
彼女は、彼らの上を悠然と歩き、ビルの内部へと足を踏み入れた。
そして——その時。
零は、下腹部に奇妙な感覚を覚えた。
(……?)
鈍い、重たい痛み。
筋肉痛とも、打撲とも違う。身体の内側から、じわりと締め付けられるような、不快な鈍痛。
(なに、これ)
彼女は、一瞬だけ足を止めた。
だが、痛み自体は大したものではなかった。我慢できないほどではない。
戦闘に支障が出るレベルでは、明らかになかった。
(……疲労かしら)
零は、そう判断した。
(四週間近く、変身しっぱなしだものね。……無理もないわ)
彼女は、再び歩き出した。
同時刻、地下二階。
叢雲五名が、旧機械室の扉の前に到達していた。
下水道から続く点検口を抜けた先。
湿った空気と、錆と黴の匂いが淀んでいる。天井からは、ぽつり、ぽつりと水滴が落ちていた。
厚さ十センチの鋼鉄製。
だが、夕日紅が陽炎の刀を一閃させると、その扉は音もなく崩れ落ちた。
断面は、鏡のように滑らかだった。
「……確保します」
彼女たちは、室内へと踏み込んだ。
室内には、大型の保管庫が据えられていた。
叢雲の一人が、慣れた手つきで電子錠を解除する。
十数秒後、重い音を立てて扉が開いた。
冷気が、白い靄となって流れ出してくる。
内部は、精密機器を保管するための低温に保たれていた。
その内部を確認した瞬間——
「…………」
夕日紅の動きが、止まった。
保管庫の中には、緩衝材に包まれた小型の装置が収められていた。
零を縛っているものと、まったく同じ形状。
だが。
収められているのは——二基だけだった。
三つ目の窪みは、空になっている。
緩衝材には、確かに何かが収められていた痕跡だけが残されていた。
窪みの縁に、指の跡がうっすらと残っている。
慌てて掴み出したのだろう。緩衝材の一部が、無造作に千切れていた。
『……管制。叢雲より報告』
夕日紅は、静かに通信機へと告げた。
『装置、二基のみ確認。……一基が、欠けております』
通信網に、僅かな沈黙が落ちた。
『……確認します。八咫の内偵記録では、三基でした』
管制官の声が、初めて僅かに硬くなった。
『最終確認は、四十八時間前。……その間に、移送された可能性があります』
「……つまり」
零が、静かに問うた。
「どこかへ、持ち出されたということね」
『……はい』
零は、階段を上りながら、静かに息を吐いた。
剥き出しのコンクリートの階段。手すりは錆びて赤茶け、踊り場には割れた蛍光灯の破片が散らばっている。
ドレスの裾が、その破片を踏むたびに微かな音を立てた。
(……余裕がなくなったわね)
三基あれば、一基くらいは確保できると思っていた。
だが、二基しかない。
しかも、椎葉が追い詰められれば、迷わず破壊するだろう。
(一基でも残れば、私は戻れる。……でも、二基とも壊されたら)
その先は、考えたくなかった。
『……三神様』
管制官の声が、通信機に流れた。
『作戦計画を、一部修正します』
『当初、あなたには正面での陽動のみをお願いしておりました』
管制官は、淡々と続けた。
『ですが、装置が二基しかない以上、確保の確実性を最優先します』
「……つまり」
『あなたには、五階へ直行していただきます』
零は、階段の踊り場で足を止めた。
「……対象を、私が押さえるということ?」
『はい。叢雲は装置の搬出を優先。……あなたが対象の身柄を確保してください』
「……作戦の秘匿は」
『問題ありません』
管制官は、即答した。
『ゴーストが単独で潜入し、対象を捕らえた。……それが、外部から見える絵です』
「……なるほど」
『ただし、一つだけ』
彼女の声が、僅かに緊張した。
『対象は、必ず三基目の装置を持っています』
零の呼吸が、止まった。
『四十八時間以内に移送されたのであれば、行き先は二つです』
管制官は、淡々と分析した。
『外部の協力者へ渡したか——あるいは、自分の手元に置いたか』
「……どちらだと思う」
『後者です』
彼女は、断言した。
『あの男は、極めて臆病です。この四週間、誰にも尻尾を掴ませずに逃げ延びてきた人間が、最も重要な保険を手放すとは考えにくい』
「……つまり」
『はい。……対象は、あなたを縛る装置を、今まさに懐に持っております』
零は、静かに階段を駆け上がり始めた。
二階。三階。四階。
足音が、コンクリートの壁に反響して幾重にも重なる。
上の階から、誰かが慌ただしく走り回る物音が聞こえてきた。
その途中、再び下腹部に鈍い痛みが走った。
(……っ)
先ほどより、少しだけ強い。
だが、動けないほどではない。歯を食いしばれば、無視できる程度だった。
(……後でいいわ)
零は、痛みを意識から追い出した。
(今は、それどころじゃない)
五階、南側執務室。
零が扉を吹き飛ばして踏み込んだ時。
椎葉は、机の引き出しを漁っていた。
床には、書類が雪崩のように散乱している。
シュレッダーに押し込まれかけた紙束が、途中で詰まって口からはみ出していた。
「——っ!?」
男は、弾かれたように振り返った。
その顔から、血の気が完全に引いていく。
「ば、馬鹿な。……もう五階だと? 護衛は十四人いたはずだ!」
「全員、殺してはいないから、安心なさい」
零は、静かに告げた。
椎葉の目が、恐怖に見開かれた。
そして——その手が、上着の内ポケットへと伸びた。
「……動かないで」
零が、鋭く告げた。
「その中身、分かっているわ。……出しなさい」
「……っ」
男の手が、止まる。
「出さないのなら、こちらから取るだけよ」
椎葉は、しばらく硬直していた。
額から、大粒の汗が一筋、金縁の眼鏡の縁を伝って流れ落ちる。
やがて——彼は、震える手で内ポケットから小型の装置を取り出した。
零を縛っているものと、まったく同じ形状。
三基目。
「……これが、欲しいのだろう」
椎葉の声が、震えた。
「だが、渡すと思うか」
彼は、その装置を高く掲げた。
「これを壊せば、貴様は永遠に戻れん。……交渉といこうじゃないか」
零は、しばらく無言だった。
(……予想通りね)
彼女は、静かに思考を巡らせた。
(ここで焦れば、あの男は装置を壊す。……なら)
あの手が振り下ろされるまで、一秒もかからない。
重力で押さえつけても、握り潰す力が残れば終わりだ。
ここで必要なのは、力ではなく時間だった。
「……交渉に、応じるわ」
零は、静かに告げた。
「なんだと?」
「条件を言いなさい。……あなたが何を望むのか」
椎葉の顔に、僅かな余裕が戻った。
「……賢明だな、私の要求は、三つだ。一つ、私をこの建物から安全に出すこと、二つ、国外への逃亡を手助けすること」
彼は、引きつった笑みを浮かべた。
「……ええ」
「そして三つ——」
その時。
——スッ。
椎葉の背後の空間が、音もなく歪んだ。
「え」
男が、掲げていた手を見た時。
そこには、何もなかった。
装置が、消えている。
「……なっ」
振り返った椎葉の首筋に、陽炎の刀が添えられていた。
いつの間にか、そこに夕日紅が立っている。
彼女の左手には——奪い取った三基目の装置が、しっかりと握られていた。
「……確保いたしました」
彼女は、淡々と告げた。
「対象の身柄も、こちらで拘束します」
椎葉は、完全に硬直していた。
「い、いつから……!?」
「二分前から、そこにおりました」
夕日紅は、無表情のまま答えた。
「あなたが最初の要求を口にした時点で、既に背後に」
「馬鹿な! 気配など、一切——」
「気配を消すのが、我々の仕事ですので」
椎葉の膝から、力が抜けた。
男は、散乱した書類の上に、崩れるように座り込んだ。
『——確保確認。全部隊、撤収を開始してください』
管制官の声が、通信網に流れた。
作戦開始から、十七分。
『協会初動部隊、到着まで残り四分。……八咫の誘導に従って、速やかに離脱を』
零は、静かに息を吐いた。
(……終わった)
その瞬間、全身から力が抜けそうになった。
だが。
(……っ)
再び、下腹部に鈍い痛みが走った。
「……三神様?」
夕日紅が、僅かに首を傾げた。
「……なんでもないわ、少し、疲れただけ」
零は、静かに首を振った。
「……そうですか」
夕日紅は、それ以上追及しなかった。
だが、その琥珀色の瞳が、ほんの一瞬だけ——零の様子を注意深く観察していた。
撤収は、驚くほど円滑だった。
八咫の誘導により、全部隊が三方向に分散して離脱。
協会の初動部隊が到着した時、廃ビルには気絶した護衛たちと、燃え尽きた外壁だけが残されていた。
技術顧問・椎葉の姿は、どこにもなかった。
遠くから、サイレンの音が幾重にも重なって近づいてくる。
赤色灯の光が雑居ビルの壁を舐める頃には、路地裏の二つの影も、下水道の五つの影も、すべて夜の中に溶けていた。
そして翌朝、報道はこう伝えることになる。
『ゴーストが都内の廃ビルを襲撃。関係者十四名が負傷、うち死者はなし』
叢雲の名も、八咫の名も、勾玉の名も。
どこにも、残らなかった。
午前一時過ぎ。
桐宮邸の一室。
零は、椅子に腰を下ろしたまま、じっと下腹部を押さえていた。
ドレスはすでに解き、白いブラウスに着替えている。
だが、腹の奥の鈍い痛みだけは、着替えても消えなかった。
「……零くん?」
緋雪が、心配そうに顔を覗き込む。
黒い装束の頭巾はもう外していた。銀髪が、少し乱れたまま肩に落ちている。
「大丈夫? さっきから、様子がおかしいわ」
「……ええ。平気よ」
零は、静かに答えた。
「ただ、少し……お腹が、痛くて」
「お腹?」
「うん。……なんていうか、内側から締め付けられるような」
その瞬間。
緋雪の動きが、完全に止まった。
「……零くん」
「なに?」
「それ、いつから」
「戦闘の途中から。……一時間くらい前かしら」
緋雪の顔から、みるみる血の気が引いていく。
「……あの」
「なに? どうしたの」
「……その、確認したいことがあるのだけれど」
緋雪は、しばらく言葉を探していた。
膝の上で、指先がせわしなく組み替えられている。
任務の報告なら一言で済ませる人が、ここまで言い淀むのは珍しかった。
そして、意を決したように口を開いた。
「……零くん。あなた、変身してから四週間近くよね」
「ええ」
「……この身体で、四週間近く」
「……そうね」
緋雪の頬が、みるみる赤くなっていく。
「……あの、ね」
彼女は、視線を斜め下に固定した。
「女の子の身体って、そういう周期があるのよ」
零は、しばらくその言葉の意味を理解できなかった。
数秒後。
「…………え」
零の思考が、完全に停止した。
「え、待って。……待って、緋雪さん、それって、その」
「ええ」
「……嘘でしょう」
「……おそらくね」
零は、両手で顔を覆った。
四週間近く。
この身体で生活し、髪を結び、服を着て、食事を作り、買い物に行き。
そのすべてに、なんとか慣れてきたつもりだった。
だが——
(……そこまでは、考えてなかった)
保健体育の教科書で、知識としては知っていた。
姉と妹が、月に何日か顔色を悪くしていることにも、なんとなく気づいていた。
そういう日は、夕飯に鉄分の多いものを出すようにしていた。
それが、自分の身に起きる日が来るとは、夢にも思わなかった。
「……三神零」
彼は、掠れた声で呟いた。
「十六歳。……人生最大の危機かもしれないわ」
「あぁ、その……大丈夫よ、私が、全部教えるから」
緋雪が、必死に落ち着いた声を保ちながら告げた。
その声は僅かに上擦っていたが、握ってくれた手は、しっかりと温かかった。
その夜。
桐宮邸の廊下では。
「……紅」
隆嗣が、静かに問うた。
「彼女いや、彼の様子は」
「……作戦中、三度ほど動きが鈍られました」
夕日紅は、淡々と答えた。
「戦闘に支障が出るほどではございませんでしたが」
「原因は」
「……申し上げにくいのですが」
彼女は、僅かに視線を逸らした。
「おそらく、生理的なものかと」
「……ああ」
隆嗣は、一瞬で理解した。
そして、深く息を吐いた。
変身が、姿を変えるだけのものなら、まだよかった。
だが、身体がその形のまま「生きて」いるのなら——時間が経つほど、戻るべき場所は遠くなる。
「……勾玉に伝えろ。解析を、最優先で急がせるように」
「かしこまりました」
冬の夜が、静かに更けていく。
三基目の装置は、確保された。
解除への道は、確かに開かれた。
だが——零の身体は、彼の意思とは無関係に、着実に「その形」として機能し始めていた。
残された時間が、どれほどあるのか。
それを知る者は、まだ誰もいなかった。




