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未登録の魔法少女  作者: 浅川


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第二百四十九話

 翌朝、午前五時。


 桐宮邸の敷地の一角に、その道場はあった。


 木造の、驚くほど古い建物である。

 磨き込まれた板張りの床は、長い年月で飴色に変わり、歩くたびに微かな軋みを立てる。

 壁には、使い込まれた木刀と、いくつかの古びた防具が並んでいた。

 神棚の榊だけが青々と瑞々しく、毎朝誰かが欠かさず水を替えていることを物語っている。


 窓から差し込む冬の朝の光が、宙を舞う埃を白く照らしている。


 羽衣緋雪は、その中央に立っていた。


 吐く息が、白い。

 素足の裏から、冷え切った板の冷たさがじわじわと這い上がってくる。

 昨夜はほとんど眠れなかった。目を閉じるたびに、根元から断ち切られた氷の太刀が瞼の裏に浮かんだからだ。


「——お待たせいたしました」


 夕日紅が、静かに入ってきた。


 昨日までの濃紺の戦闘服ではない。簡素な稽古着に、帯を締めただけの姿である。

 腰には、あの陽炎の刀も帯びていなかった。


 代わりに、手には木刀が一振り。


 赤い髪は、後ろで無造作に一つに括られている。

 戦闘服を脱いだ彼女は、驚くほど華奢に見えた。


「……武器は、それだけですか」


「はい」


 夕日紅は、あっさりと答えた。


「あなたは、氷の太刀をお使いください。……遠慮は不要です」


 その言葉に、緋雪の眉が僅かに動いた。


 木刀と、氷の魔法。

 その差は、あまりにも歴然としている。


「……侮っているのですか」


「いいえ」


 夕日紅は、静かに首を振った。


「侮っていれば、わたくしは真剣を持ってきております」


 その意味を理解するのに、緋雪は一瞬の間を要した。

 真剣であれば、加減ができない。——木刀を選んだのは、こちらを傷つけすぎないための配慮なのだ。


 緋雪は、右手に氷の太刀を生成した。


 極低温の冷気が、道場の空気を白く染める。

 板張りの床に、うっすらと霜が降り始めた。

 神棚の榊の葉先が、ぴしりと音を立てて凍りつく。


「……行きます」


「どうぞ」


 緋雪が、地を蹴った。


 三日前と同じ、神速の踏み込み。

 だが今回、彼女は初手から全力を出していた。あの時のような油断は、微塵もない。


 太刀が、真横に閃く。


「——遅いです」


 次の瞬間、緋雪は床に転がっていた。


「……っ、ぁ」


 背中に、冷たい板の感触。

 天井の太い梁が、視界いっぱいに広がっている。


 何が起きたのか、まったく分からなかった。


 足を払われたのか。手首を取られたのか。それとも、木刀で打たれたのか。

 痛みはある。だが、どこを打たれたのかすら判然としない。


 夕日紅は、緋雪の頭上に木刀の切っ先を突きつけていた。


「……一本」


「……」


「もう一度、参りましょう」


 それから、二時間。


 緋雪は、三十七回倒された。


 三十七回とも、彼女は何が起きたのか理解できなかった。


 正面から斬りかかっても、横に回り込んでも、氷の刃を三方から同時に放っても。

 結果は同じだった。気づけば床に転がり、気づけば切っ先が喉元にある。


 息が上がり、汗が滴り、氷の太刀を生成する魔力も残り少なくなった頃。

 彼女は、板張りの床に膝をついたまま、荒い呼吸を繰り返していた。


 床に落ちた汗の雫が、自分の冷気で小さな氷の粒になっていく。


「……なぜ」


 緋雪は、掠れた声で問うた。


「なぜ、見えないんですか」


 夕日紅は、しばらく無言で彼女を見下ろしていた。

 息一つ乱れていない。額には、汗の一滴すら浮かんでいなかった。

 そして、静かに木刀を下ろした。


「……お答えしましょう」


「羽衣様。あなたは、わたくしの『魔力』を見ています」


「……え?」


「魔法少女の戦闘は、魔力の読み合いです」


 夕日紅は、静かに続けた。


「相手の魔力がどこに集中するか。それを読んで、次の一手を予測する。……あなたは、極めて優秀にそれをこなしておられます」


 彼女は、緋雪の前に片膝をついた。


「だからこそ、わたくしの動きが見えない」


「……どういう意味ですか」


「わたくしは、攻撃の瞬間まで魔力を練りません」


 緋雪の目が、大きく見開かれた。


「……そんなことが」


「叢雲の基礎技術です」


 夕日紅は、淡々と答えた。


「魔力に頼らず、身体の運用だけで初動を完了させる。魔力を通すのは、刃が相手に触れる、その一瞬だけ」


 彼女は、木刀を軽く振ってみせた。

 その動作には、確かに一切の魔力反応がない。

 ただの人間が、ただ木の棒を振っただけ。

 だが、その「ただの一振り」の速さを、緋雪の目は追えなかった。


「……つまり」


「はい。あなたが『魔力の高まり』を感知した時には、既に斬られております」


 緋雪は、しばらく言葉を失っていた。


 彼女は、五年以上魔法少女として戦ってきた。

 特級魔獣を屠り、裏社会の暗殺者を退け、白百合の頂点に立った。


 その戦い方のすべてが——魔力の読み合いを前提としていた。

 敵の魔力の揺らぎを読み、先回りして刃を置く。

 それは、彼女が血の滲むような訓練で磨き上げてきた、誇りそのものだった。


「……では、どうすれば」


「目で、見てください」


 夕日紅は、静かに答えた。


「魔力ではなく、身体を。肩の動き、足の位置、重心の移動。……人間が動く時、必ず出る予兆を」


 彼女は、立ち上がった。


「魔法少女になる前、あなたはそうしていたはずです」


 その言葉に、緋雪は静かに息を呑んだ。


(……魔法少女に、なる前)


 覚醒したのは、十二歳の時だった。


 それ以前——ただの子供だった頃。

 彼女は、確かに目で世界を見ていた。


 鬼ごっこで、友達がどちらへ逃げるか。

 剣道の稽古で、先生がいつ打ち込んでくるか。

 それを、肩の揺れや、足の運びで読んでいた。


 だが、魔力を得てからの五年で、その感覚は完全に上書きされていた。

 魔力という便利すぎる感覚器に、彼女は依存しきっていたのだ。


「……なるほど」


 緋雪は、ゆっくりと立ち上がった。

 膝が笑っている。だが、構わなかった。

 汗で張り付いた髪を、乱暴にかき上げる。


「もう一本、お願いします」


「……ええ」


 夕日紅は、僅かに目を細めた。

 その琥珀色の瞳に、ほんの一瞬だけ、何かを認めるような色が浮かんだ。


 同じ頃。


 桐宮邸の地下、勾玉の作戦室。

 三神零は、極めて奇妙な状況に置かれていた。


「——では、もう一度お願いします」


 白衣の隊員が、端末を構えながら告げた。


 部屋の中央には、簡易的な訓練用の空間が設けられている。

 壁も床も特殊な素材で覆われ、魔力の反応を計測できるようになっていた。

 天井には無数のセンサーが蜂の巣のように並び、壁際のモニターには、零の魔力の波形がリアルタイムで描き出されている。


「三神様。先ほどの破砕魔法ですが、規模が小さすぎます」


「……小さい?」


「はい。あの程度では、通報が遅れます」


 零は、思わず眉をひそめた。

 勾玉の要求は、極めて明確だった。

 零は、廃ビルの正面で「暴れなければならない」。

 しかもそれは、周囲三ブロックの人間が全員振り返る規模でなければならない。

 ゴーストが報復に来た——あの男にそう思わせ、護衛の目を正面に集める。

 その隙に、別動隊が裏から装置を押さえる。作戦の骨子は、それだけだった。


 だが。


「……あの、一つ確認したいのだけれど」


 零は、慎重に問うた。


「周囲の建物には、被害を出さないのよね?」


「はい。当然です」


「民間人にも、怪我をさせない」


「もちろんです」


「でも、派手に暴れる」


「はい」


 零は、深く息を吐いた。


「……矛盾していない?」


「しておりません」


 白衣の隊員は、真顔で答えた。


「派手さと破壊力は、別の指標です」


 零は、これまでの十一年間、常に「被害を最小限に抑える」ことを最優先にしてきた。


 魔獣を倒す時も、敵対勢力を無力化する時も。

 いかに静かに、いかに目立たず、いかに誰も傷つけずに終わらせるか。


 それが、彼の戦い方だった。


 ガラス一枚、街路樹一本であっても、壊せば誰かが困る。

 修理代を払うのは、その建物の持ち主であり、この街で暮らす誰かなのだ。


 その真逆を要求されているのである。


「……もっと、こう。轟音を立ててください」


 隊員は、淡々と指示を出した。


「重力魔法で外壁を破砕する際、一気に崩すのではなく、段階的に。……音が長く続く方が、注目を集めます」


「……段階的に」


「はい。それから、炎の色も重要です。青白い炎より、紅蓮の方が遠目に映えます」


「映える」


「はい」


 零は、頭を抱えたくなった。

 特S級の魔法を、「映え」の観点から添削される日が来るとは思わなかった。

 だが、最も困難だったのは、別のことだった。


「——三神様。表情が、足りません」


「……表情?」


「はい」


 隊員は、映像を再生してみせた。

 そこには、訓練空間で魔法を放つ零の姿が映っている。


「ご覧ください。この時のあなたの顔、明らかに『申し訳なさそう』です」


「……え」


「壁を壊しながら、眉が下がっています。……これでは、報復に来たようには見えません」


 零は、映像を見つめて固まった。

 確かに、そこに映る自分は——壁に対して謝っているような顔をしていた。


 崩れていく訓練用の壁を見つめる、困り果てた少女の顔。

 どう見ても、最強の死神の表情ではなかった。


「あの男は、映像であなたを確認します」


 隊員は、淡々と続けた。


「その時、あなたが怒り狂っているように見えなければ、作戦は成立しません」


「……怒り狂う」


「はい。……もっと、こう。怨嗟を込めてください」


「怨嗟」


「はい」


 零は、しばらく黙り込んだ。

 そして、恐る恐る尋ねた。


「……どうやって?」


「……」


 白衣の隊員は、初めて言葉に詰まった。

 結局、その日の午後は「怨嗟の表情の練習」に費やされた。

 勾玉の隊員四名が総出で指導に当たったが、成果は芳しくなかった。


「三神様。もう一度、睨んでみてください」


「……こう?」


「……いえ、それは『困っている顔』です」


「じゃあ、こう」


「……『納得していない顔』ですね」


「……」


 隊員の一人が、参考資料として古い時代劇の悪役の映像を流し始めた。

 別の一人は、鏡を持ってきて零の前に据えた。

 三人目は、ひたすら端末に「怨嗟とは」と打ち込んで検索していた。


 零は、心底困り果てていた。


(……そもそも、俺は誰かを恨んだことがあるのか)


 考えてみれば、なかった。


 御子柴に対しても、あの技術顧問に対しても。

 零が抱いていたのは怒りであって、恨みではない。誰かを憎み、傷つけたいと願ったことは、ただの一度もなかった。


 怒りは、誰かを守るための炎だった。

 恨みは、誰かを焼くための炎だ。

 自分が知っているのは、前者だけだった。


「……一つ、提案があります」


 しばらくして、隊員の一人が静かに手を挙げた。


「なにかしら」


「怒りを作るのではなく、思い出していただくのはいかがでしょう」


「……思い出す?」


「はい」


 彼女は、端末を閉じた。


「あなたが最も許せないと感じたことを。……それを、思い浮かべながら魔法を放ってください」


 零は、しばらく考え込んだ。


 目を閉じる。


 脳裏に浮かんだのは、白い部屋の光景だった。

 壁一面に描かれた、何百枚もの拙い落書き。

 泣いている小さな男の子。黒髪の女性。


 同じ構図が、何度も、何度も。

 色の足りないクレヨンで、震える線で、壁の端から端まで。


 そして、その下に刻まれた文字。


『じゃあ、わたしは、だれ?』


 番号で呼ばれ、名前を持たず、誰かの記憶の欠片だけを抱えて、白い部屋に閉じ込められていた少女。

 その少女を作り、使い、捨てようとした者たち。

 零の中で、静かに何かが燃え上がった。


 次の瞬間。


 訓練空間全体が、闇色の魔力に呑み込まれた。

 壁が軋み、床がひび割れ、計測機器が一斉に警告音を発する。

 天井のセンサーが次々と火花を散らし、モニターの波形が画面の外へと振り切れた。

 白衣の隊員たちが、慌てて後退した。


「——っ!? 出力が、限界値を」


「計測不能! 振り切れました!」


 その中心で。


 零は、静かに佇んでいた。


 紫水晶の瞳には、これまで誰も見たことのない、冷たい光が宿っている。


 怒鳴りも、叫びもしない。

 ただ静かに、底の見えない暗さだけがそこにあった。


 やがて、彼女は静かに魔力を収めた。

 警告音が、一つ、また一つと止んでいく。

 作戦室に、焦げたセンサーの匂いだけが残った。


「……今のは」


「はい」


 隊員が、震える手で端末を確認した。


「……完璧でした」


 彼女は、深く息を吐いた。


「ただ、一つだけ申し上げます」


「……なにかしら」


「本番では、少し抑えてください。……あれでは、ビルごと消えます」


 二日目の朝。


 道場では、再び緋雪と夕日紅が向かい合っていた。


 緋雪の身体は、昨日の稽古で作った痣で覆われている。

 腕にも、脇腹にも、太腿にも。稽古着の袖口から覗く手首は、青紫に変色していた。


 だが、その目は昨日より明らかに違っていた。


「……行きます」


 彼女は、氷の太刀を構えた。


 そして——魔力探知を、意図的に切った。


 視界が、急激に狭くなる。

 魔力という便利な感覚器を手放した瞬間、緋雪は自分がどれほどそれに依存していたかを思い知った。


 相手がどこにいるのか。次に何をするのか。

 その予測が、一切立たない。


 まるで、目隠しをされたまま崖の縁に立たされたような心細さだった。


 あるのは、ただ目に映る情報だけ。


(……肩)


 緋雪は、必死に目を凝らした。

 夕日紅の稽古着の襟元。そこから覗く首筋。肩の線。

 一呼吸ごとに、布地が僅かに上下している。


(右肩が、一ミリ下がった)


 夕日紅が、動いた。

 木刀が、真下から跳ね上がるように迫る。


「——っ!」


 緋雪は、咄嗟に身を捻った。


 木刀の切っ先が、彼女の頬をかすめ、髪を数本切り落として通過した。


 はらはらと、銀色の髪が板張りの床に落ちる。

 初めて。

 初めて、当たらなかった。

 夕日紅の動きが、僅かに止まった。


「……見えましたか」


「……ええ」


 緋雪は、荒い息を吐きながら答えた。


「肩です。……右肩が、動く直前に下がった」


「その通りです」


 夕日紅は、静かに頷いた。

 そして——初めて、明確に微笑んだ。


 硬い氷が、陽の光で一瞬だけ緩むような、そんな笑みだった。


「一日で、そこまで辿り着かれるとは。……さすがは、白百合のトップエースですね」


 その日の稽古は、日没まで続いた。

 昼食は、道場の縁側で握り飯を二つ。

 それを食べ終えるなり、緋雪は再び木刀の前に立った。

 最終的に、緋雪は夕日紅の攻撃を三度回避することに成功した。


 三度だけ。

 あとの四十二回は、変わらず床に転がされた。

 だが、それでも。


「……羽衣様」


 稽古を終えた道場で、夕日紅は静かに告げた。

 窓の外は、すでに茜色から藍色へと変わりつつあった。


「あなたは、明日の作戦において、わたくしの刃を三度防げます」


「……それだけですか」


「それだけ、ではありません」


 彼女は、静かに首を振った。


「三度あれば、三人守れます」


 緋雪は、しばらくその言葉を噛みしめていた。


 三度。

 たった三度。けれど、それは零の背中に届く刃を、三度逸らせるということだ。


 その夜。


 零と緋雪は、客間で最後の確認をしていた。

 決行は、翌日の深夜零時。

 座卓の上には、勾玉から渡された廃ビルの見取り図が広げられている。

 進入経路、合流地点、撤退路。そのすべてに、赤と青の線が細かく書き込まれていた。


「……緋雪さん。身体は大丈夫?」


「痣だらけよ」


 緋雪は、苦笑しながら答えた。

 袖をまくってみせると、腕には大小いくつもの青痣が浮かんでいた。


「でも、平気。……久しぶりに、何かを掴んだ気がするわ」


「……そう」


 零は、静かに微笑んだ。

 そして、そっと手を伸ばし、痣の一つに触れた。

 緋雪が、少しだけくすぐったそうに肩をすくめる。


「私も、ちょっと変な訓練をしたわ」


「変な訓練?」


「……怨嗟の表情の練習」


「……なに、それ」


 緋雪は、しばらく零の顔を見つめた。

 それから、堪えきれずに吹き出した。


「ちょっと、やってみせて」


「嫌よ」


「いいじゃない。一回だけ」


「……絶対に、嫌」


 その頃。


 三神家のリビング。

 三神澪は、カレンダーを睨みつけていた。

 緋雪が「延長」を告げた日から、もうすぐ二週間。

 あの休憩室で「あと一週間は待つ」と宣言した期限は、とうに過ぎていた。


(……零、帰ってこない)


 澪は、静かに拳を握りしめた。


 期限の翌日、彼女は宣言通りに動いた。

 羽衣家の実家の所在を探し、白百合の記録を洗い、緋雪の立ち寄り先を片端から当たった。


 だが、何も出てこなかった。

 羽衣家がかつて所有していたという屋敷の場所は、どの記録にも残っていなかった。まるで、地図の上から丁寧に消されているかのように。


 そして二日前から——緋雪とも、完全に連絡が取れなくなっていた。


 白百合の本部にもいない。マンションにもいない。任務の記録もない。


(……緋雪ちゃんまで、消えた)


 テーブルの上のスマートフォンは、何度確認しても通知一つ来ていない。

 送ったメッセージには、既読すら付かなかった。


「お姉ちゃん」


 リビングの入り口から、玲奈が静かに声をかけた。


 パジャマの上からカーディガンを羽織り、両手でマグカップを包んでいる。

 中身のホットミルクは、とっくに冷めているようだった。


「……お兄ちゃん、いつ帰ってくるの」


「……」


「延長の一週間も、もうとっくに過ぎてるよ」


「……そうね」


 澪は、答えられなかった。

 玲奈は、しばらく姉の背中を見つめていた。

 そして、静かに問うた。


「……お兄ちゃん、何かあったの?」


 澪は、しばらく沈黙していた。

 壁の時計の秒針だけが、やけに大きく響いている。

 やがて、彼女は静かに振り返った。


「……玲奈。正直に言うわ」


「うん」


「私も、分からない」


 澪は、まっすぐに妹を見つめた。


「でも、一つだけ確かなことがある。……緋雪ちゃんは、『零は無事だ』って言った」


「……うん」


「あの子が嘘をつくとしたら、それは誰かを守るためよ。……絶対に、自分のためじゃない」


 彼女は、静かに続けた。


「だから、私は信じる。……でも」


 澪の目が、鋭く光った。


「明日、白百合の会長に直談判する。……それでも駄目なら、どんな手を使ってでも探し出す」


 玲奈は、しばらく姉の顔を見つめていた。


 そして、冷めたマグカップを握りしめたまま、小さく頷いた。


「……私も、行く」


 同じ頃。


 桐宮邸の庭園。


 零は、一人で灯籠の間を歩いていた。


 冬の夜気が、頬を刺すように冷たい。

 池の水面には、細い月が揺れていた。


 足元の玉砂利が、踏むたびに小さく鳴る。

 昼間は気づかなかったが、池には錦鯉が何匹も沈んでいた。冬の冷たい水の底で、ほとんど動かずにじっと春を待っている。


(……明日)


 彼女は、静かに息を吐いた。


(明日で、終わる)


 成功すれば、元に戻れる。

 失敗すれば——おそらく、二度と戻れない。


 三基しかない装置。そのすべてを破壊されれば、それで終わりだ。


 玲奈の卵焼き。澪の寝癖。母の笑い声。

 それらすべてが、明日の一夜に懸かっている。


「……眠れないか」


 背後から、声がした。

 振り返ると、隆嗣が立っていた。

 彼もまた、コートを羽織っただけの軽装である。


「……殿下」


「散歩だ。……気にしないでくれ」


 彼は、零の隣に並び、池を見つめた。

 しばらく、二人は無言だった。

 水面の月が、風に揺れては、また元の形に戻る。


「……一つ、聞いてもよろしいですか」


 やがて、零が静かに問うた。


「ああ」


「なぜ、私を信用なさるのですか」


 零は、月の映る水面を見つめたまま続けた。


「私は、正体を隠し続けてきた人間です。国家に敵と呼ばれ、裏社会に神と崇められている。……信用する理由が、どこにもないはずです」


 隆嗣は、しばらく答えなかった。

 やがて、彼は静かに口を開いた。


「……君は、十一年間、一度も人を殺していない」


 零の呼吸が、止まった。


「我々は、君の行動記録をすべて追っている」


 隆嗣は、静かに続けた。


「魔獣の討伐が、二千三百件以上。裏社会との衝突が、四百件以上。政府との交戦が、数十件」


 彼は、まっすぐに零を見つめた。


「その中で、君が殺した人間は——ゼロだ」


「……」


「これを、信用する理由と呼ばずして、何と呼ぶ」


 零は、しばらく言葉を失っていた。

 やがて、彼女は静かに首を振った。


「……別に、立派な理由があるわけじゃないんです」


「ほう」


「ただ、怖いだけなんです」


 零は、池の水面を見つめた。


「一度でも殺したら、二度目からは簡単になる気がして。……そうなった時、自分が何になるのか分からなくて」


 彼女は、静かに息を吐いた。


「だから、線を引いているだけです。……臆病なだけなんですよ」


 隆嗣は、しばらく無言だった。

 やがて、彼は静かに笑った。


「……臆病、か」


「はい」


「ならば、この国には臆病者が足りないな」


 彼は、夜空を見上げた。


「勇敢な者は、いくらでもいた。……大義のために人を使い捨て、必要な犠牲だと言い切る勇敢な者が」


 隆嗣の声に、静かな苦味が滲んだ。


「私は、そういう連中を十一年見てきた」


 会議室の円卓で。記者会見の壇上で。

 綺麗な言葉で、誰かの命を数字に変えていく者たちを。

 彼は、零へと向き直った。


「三神零」


「はい」


「明日、君は汚名を着る。……報道は君を悪と呼び、世論は君を憎むだろう」


 隆嗣は、静かに頭を下げた。


「だが、これだけは覚えていてくれ」


「……」


「この国の誰かは——君が何をしたのか、知っている」


 零は、しばらくその姿を見つめていた。

 皇太子が、夜の庭で、自分に頭を下げている。

 三日前までは想像もしなかった光景だった。

 そして、静かに微笑んだ。


「……ありがとうございます」


 冬の月が、静かに池の水面を照らしていた。

 決行まで、あと一日。

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