第二百四十八話
三日後の深夜。
洋館の正門前に、一台の車が停まった。
黒塗りの、装飾を一切排したセダン。ナンバープレートは白紙で、車種も判別できない。
エンジン音は、ほとんど聞こえなかった。
ヘッドライトすら点けていない。月明かりだけを頼りに、この山道を登ってきたのだ。
後部座席のドアが開き、夕日紅が降り立った。
「——お待たせいたしました」
彼女は、深く一礼した。
三日前と同じ、濃紺の戦闘服。腰には、あの陽炎の刀。
だが、その物腰は、あの夜とは明らかに違っていた。
背筋の角度も、声の低さも、目線の置き方も。刃を突きつけてきた刺客ではなく、賓客を迎える侍従のそれだった。
「三神零様。羽衣緋雪様。……お迎えに上がりました」
零は、しばらくその姿を見つめていた。
夜風が、束ねた黒髪の先を揺らしている。
この日のために、零は私服の上からあのベージュのコートを羽織っていた。ドレスで行くべきか迷ったが、結局やめた。今の自分がどちらの顔で会うべきなのか、答えが出なかったからだ。
「……様、ね」
「はい。……先日の非礼を、改めてお詫びいたします」
夕日紅は、頭を下げたまま続けた。
「殿下より、厳しく叱責を受けました。『客人に刃を向けるとは何事か』と」
その言葉に、緋雪の眉が僅かに動いた。
三日前、この少女に一太刀で武器を砕かれた記憶は、まだ彼女の中で生々しい。
あれから毎晩、彼女は自室であの瞬間を反芻していた。何が見えなかったのか、どうすれば反応できたのか。
答えは、出ていない。
握りしめた指先に、あの鏡のように滑らかな断面の感触が、今も残っている気がした。
「……行きましょう」
零は、静かに告げた。
車が走り出した後、車内に会話はなかった。
革張りの座席は驚くほど柔らかく、振動もほとんど伝わってこない。
運転席と後部座席の間には、磨りガラスの仕切りが下ろされていた。運転している者の顔は、最後まで見えなかった。
窓の外を、冬の山道が流れていく。
やがて高速道路に乗り、街の明かりが増え、そして——再び暗くなった。
どこを走っているのか、零には見当がつかなかった。
車窓のガラスは、外からは覗けない仕様になっている。景色は見えるが、標識の類は一切目に入らないよう、巧妙に経路が選ばれていた。
隣に座る緋雪は、ずっと窓の外を睨んでいた。
いざという時の退路を、頭の中で必死に組み立てているのだろう。膝の上の拳が、一度も緩まなかった。
走行時間は、およそ一時間半。
そして、車は静かに停止した。
降り立った先は、地下駐車場だった。
巨大な空間だが、車は一台も停まっていない。
コンクリートの壁と、無機質な照明。それ以外に、何もない。
靴音が、やけに大きく反響した。天井の高さも奥行きも、ただの駐車場にしては不自然なほど広い。
「こちらです」
夕日紅に先導され、二人は奥のエレベーターへと向かった。
扉が閉まり、上昇が始まる。
階数表示はなく、どこまで上がっているのかも分からない。
零は、静かに緋雪の手を握った。
彼女の指先は、僅かに冷たかった。
零が握ると、緋雪は一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから、ほんの少しだけ力を込めて握り返してきた。
エレベーターが止まり、扉が開く。
そこに広がっていたのは——和洋折衷の、広大な広間だった。
天井は高く、格子状の梁が走っている。
床は磨き上げられた木材。壁の一面は、障子を模した意匠のガラス張りで、その向こうには手入れの行き届いた庭園が広がっていた。
夜の闇の中、庭園の灯籠だけが柔らかく光を放っている。
苔むした石の間を、細い水の流れが縫っていた。冬だというのに、どこからか微かに梅の香りがする。
そして、その広間には——十数名の人間が、整然と並んでいた。
零は、思わず足を止めた。
三つの集団に、はっきりと分かれている。
向かって左。
濃紺の戦闘服を纏った、四名の少女たち。夕日紅と同じ意匠である。
いずれも武装しており、その佇まいには隙がない。
腰の得物は様々だった。刀、槍、弓。だが、どれもが持ち主の身体の一部のように、自然にそこに収まっている。
中央奥。
黒を基調とした、動きやすそうな軽装の三名。
武器らしきものは見当たらないが、その目は絶えず周囲を観測している。
零たちが広間に足を踏み入れてから、三人の視線は一度も同じ場所に留まっていなかった。
そして右。
白衣に近い、機能的な作業着の四名。
手元には端末を抱え、こちらを興味深そうに——いや、あからさまに研究対象を見る目で眺めている。
「——ご紹介いたします」
夕日紅が、静かに告げた。
「左手が、戦闘部隊『叢雲』。わたくしを含め、五名が所属しております」
四名の少女たちが、一斉に頭を下げた。
「中央が、偵察・内偵・護衛を担う『八咫』」
黒装束の三名が、無言のまま一礼する。
「右手が、情報解析および作戦管制を担う『勾玉』」
白衣の四名が、それぞれ端末を抱えたまま会釈した。
そのうち一人が、目を輝かせて身を乗り出しかけ、隣の同僚に肘で制されていた。
肘で突かれた方は、それでも名残惜しそうに、零の手元と髪の先を交互に見つめている。
「……以上、三部隊十二名。皇太子殿下直属、特務魔法少女部隊の全員です」
叢雲、八咫、勾玉。
剣と、鏡と、玉。
この国で最も古い三つの宝の名を、彼女たちは背負っていた。
零は、その光景を呆然と見つめていた。
(……これが、全員?)
協会も白百合も、数百名規模の組織である。
それに比べれば、十二名など小さすぎる。
だが。
(……この中の一人に、緋雪さんが一瞬でやられた)
零の背筋に、冷たいものが走った。
(つまり、この十二人は)
その先は、考えるまでもなかった。
量ではなく、質。数百の兵ではなく、一国を相手取れる十二の刃。
「……零くん」
緋雪が、緊張した声で囁いた。
「あの、黒い服の三人。……魔力が、ほとんど感じられないわ」
「……ええ」
「でも、確実に強い。……それだけは、分かる」
白百合のトップエースの勘が、そう告げている。
魔力の強弱では測れない何か。長い年月をかけて研ぎ澄まされた、静かな殺気のようなもの。
その時。
広間の奥の襖が、静かに開いた。
「——よく来てくれた」
現れたのは、一人の青年だった。
年の頃は、二十代の半ばだろうか。
仕立ての良い、しかし華美ではない濃紺のスーツ。短く整えられた黒髪。
そして、驚くほど穏やかな目をしていた。
威圧感は、どこにもなかった。
だが、その場の空気が、彼を中心にゆっくりと整えられていくのが分かった。
その姿を認めた瞬間、広間の者たちが一斉に膝を折った。
夕日紅もまた、深く頭を垂れる。
「……頭を上げてくれ。客人の前だ」
青年は、静かにそう告げた。
そして、零と緋雪の前まで歩み寄り——自ら、頭を下げた。
「初めまして。……桐宮隆嗣という」
零は、思わず息を呑んだ。
(……皇太子殿下が、頭を下げた)
テレビの向こうで、式典の壇上に立っていた人。
その人が今、自分に向かって、深々と腰を折っている。
「まずは、詫びさせてほしい」
隆嗣は、頭を下げたまま続けた。
「三日前、私の部下が君たちに無礼を働いた。……刃を向けたと聞いている。私の教育が至らなかった」
「……いえ、そんな」
「それから、もう一つ」
彼は、ようやく顔を上げた。
「この三週間、君を放置したことについても」
零の思考が、止まった。
「……放置?」
「ああ」
隆嗣は、静かに頷いた。
「我々は、君の状況を最初から把握していた。装置が起動した瞬間から、すべて」
「……なぜ、すぐに動かなかったのですか」
緋雪が、堪えきれずに問うた。
その声には、明確な怒りが滲んでいた。
「零くんは、三週間も家に帰れずにいます。学校にも行けず、家族にも会えず。……知っていたのなら、なぜ」
皇太子に向けるには、あまりにも鋭い声だった。
広間の空気が、一瞬だけ張り詰める。叢雲の少女の一人が、僅かに腰を浮かせかけた。
隆嗣は、それを片手で制した。
「……その通りだ」
隆嗣は、静かに目を伏せた。
「弁解の余地はない。……だが、理由はある」
彼は、二人に席を勧めた。
広間の中央に置かれた、低い座卓。
一枚板の天板には、長い年月を経た木目が静かに浮かんでいる。
三人が向かい合って座ると、勾玉の隊員の一人が茶を運んできた。
湯呑みから立ち上る湯気が、灯籠の光を柔らかく滲ませた。
「……理由を、聞かせてください」
零は、静かに問うた。
「君を監視していたのは、我々だけではなかったからだ」
隆嗣は、湯呑みを手に取りながら答えた。
「協会の技術顧問——あの装置を作った男が、君の動向を追っていた。……我々が動けば、それは奴に察知される」
「……それで、泳がせていたと」
「そうだ」
彼は、正直に認めた。
「君を餌にした。……そう言われても、反論はできない」
零は、しばらく黙っていた。
怒りは、不思議と湧いてこなかった。
三週間。確かに苦しかった。家族に嘘をつき、学校を捨て、鏡の中の見慣れぬ顔と向き合い続けた。
だが——
(……この人は、嘘をつかなかった)
言い訳をしようと思えば、いくらでもできたはずだ。
「発見が遅れた」「調査に時間がかかった」と言えば、零には確かめる術がない。
それをせず、この青年は「君を餌にした」と自分の口で言った。
この国で最も高い場所にいる人間の一人が、自分の過ちを、飾らずに差し出している。
それは、零がこれまで見てきたどんな大人とも違う振る舞いだった。
「……それで、成果は」
零は、静かに問うた。
「あったのですか」
「あった」
隆嗣は、即答した。
「男の潜伏先を、三日前に特定した。……八咫が、現在も監視を継続している」
その言葉に、緋雪が目を見開いた。
「……見つけたのですか。福音の鐘が八百人動員しても見つけられなかった男を」
「八咫の索敵は、魔力にも通信網にも依存しない」
隆嗣は、中央に控える黒装束の三名を一瞥した。
「彼女たちは、人の『気配』そのものを追う。……古い技術だが、現代の探知網が想定していない手法だ」
黒装束の一人が、静かに会釈した。
その動作すら、ほとんど音を立てなかった。
衣擦れの音も、床の軋みも。そこに人がいることを、目以外のすべての感覚が否定していた。
「……殿下」
零は、姿勢を正した。
「本題を、お聞かせください」
「ああ」
隆嗣は、湯呑みを置いた。
「単刀直入に言おう。……君の変身を解除する方法は、存在する」
零の心臓が、大きく跳ねた。
膝の上で重ねた手が、勝手に震え始める。
それを悟られないよう、零は指先に力を込めた。
「……本当に」
「ああ。そして、その方法を持っているのは、この国で我々だけだ」
隆嗣は、静かに語り始めた。
「十一年前の『厄災』。あの時、この国の魔法少女は、想像を絶する損耗を強いられた」
零の指が、僅かに震えた。
「そして、最も深刻だったのは——魔力の暴走だ」
「……暴走?」
「ああ。極限状態に置かれた魔法少女の中に、自らの魔力を制御できなくなる者が出た。……味方を巻き込み、街を破壊し、そして自壊する」
隆嗣の声が、僅かに沈んだ。
「それを止めるには、当時は殺すしかなかった」
広間に、重い沈黙が落ちた。
庭の水音だけが、細く、途切れずに響いている。
「だから、皇室は研究を要請した」
隆嗣は、静かに続けた。
「暴走した魔法少女を、殺さずに止める技術を。……具体的には、変身そのものを強制的に解除する術式を」
零は、息を呑んだ。
「それが……ダインスレイブの、原型」
「そうだ」
「でも、それは」
零は、混乱した。
「私を縛っているのは、変身を『解除できなくする』装置です。……逆では」
「その通りだ」
隆嗣は、静かに頷いた。
「原型技術は、変身を『解除する』ためのものだった。……あの男は、それを反転させたのだ」
零の思考が、猛烈な速度で回転した。
鍵を開けるための道具を、鍵穴を埋めるための道具に作り替える。
同じ構造を、逆向きに組み直す。
「……つまり」
「ああ」
隆嗣は、まっすぐに零を見つめた。
「反転されたものであれば——元に戻すこともできる」
「……!」
「原型技術の設計図は、皇室の管理下にある。国防委員会に移管されたのは、その一部だけだ。……最も重要な、解除プロトコルの原本は、今も我々が保管している」
彼は、静かに続けた。
「あの男は、原型の断片から装置を作った。……だが、原本を知る者からすれば、その構造は透けて見える」
零は、しばらく言葉を失っていた。
三週間。
星監の技術班が、福音の浄化術者が、緋雪が、由鶴が。
誰一人として辿り着けなかった答えが——目の前にあった。
「……本当に、戻れるのですか」
彼女の声は、掠れていた。
「戻せる」
隆嗣は、断言した。
「ただし、条件がある」
「……条件」
「装置そのものが必要だ」
彼は、静かに続けた。
「君に使われた装置は、自壊した。……残骸からでは、術式の個体差を特定できない」
「個体差、ですか」
「ああ。あの手の術式は、対象ごとに微細な調整が施される。……逆算するには、同型の未使用品が必要だ」
隆嗣は、目を細めた。
「そして、それを持っているのは——あの男だけだ」
零は、静かに息を吐いた。
(……そういうことか)
答えは、目の前にある。
だが、そこに辿り着くには——あの男を捕らえなければならない。
「……つまり、私は」
「ああ」
隆嗣は、静かに頷いた。
「君自身に、動いてもらう必要がある」
「……なぜ、私が」
零は、静かに問うた。
「あなた方の部隊は、十二名。しかも、羽衣緋雪を一瞬で無力化するほどの実力者たちです」
彼女は、広間に並ぶ面々を見渡した。
「あの男を捕らえるだけなら、私は必要ないのでは」
隆嗣は、しばらく答えなかった。
湯呑みの縁を、親指でゆっくりとなぞっている。
言葉を選んでいるのではなく、言葉にすることの重さを量っているようだった。
やがて、彼は静かに口を開いた。
「……我々は、公には動けない」
「え?」
「正確には、動けば終わる」
「皇室が、直属の武力を保有している」
隆嗣は、自嘲するように呟いた。
「この事実が公になれば、どうなると思う」
零は、答えられなかった。
「憲法上、皇室は政治的権能を持たない。……それは、武力についても同じだ」
彼は、静かに続けた。
「叢雲も、八咫も、勾玉も。公式には存在しない。……存在してはならないのだ」
「……」
「だからこそ、我々は表に出られない。……あの男を捕らえるという、ただそれだけの行動すら、我々にとっては国家の根幹を揺るがす行為になる」
広間に並ぶ十二名は、誰一人として表情を変えなかった。
自分たちが「存在してはならない」と語られることに、とうに慣れきっているかのように。
零は、しばらく沈黙していた。
そして、静かに問うた。
「……では、なぜこの部隊は存在するのですか」
その問いに、隆嗣の表情が変わった。
僅かな、しかし確かな痛みが、そこに浮かんでいた。
「……十一年前」
彼は、静かに答えた。
「私は、十四歳だった」
「あの日、私は東京にいた。……『厄災』の、最前線に近い場所に」
隆嗣は、湯呑みを見つめたまま続けた。
「本来、避難しているはずだった。だが、警護の判断が遅れ、私は逃げ遅れた」
「……」
「そして、一人の魔法少女に助けられた」
零の心臓が、跳ねた。
「彼女は、私を庇って戦った。……そして、別の誰かを庇って死んだ」
隆嗣は、顔を上げた。
「名前も聞けなかった。……ただ、白銀の髪が印象的だった、ということだけを覚えている」
零は、静かに息を呑んだ。
(……白銀の、髪)
十一年前。『厄災』。
同じ日、同じ炎の中で。
燃える街。雨の匂い。自分を庇って倒れた、あの背中。
風に流れる、白銀の髪。
(……凛音さん)
確証はない。あの日、あの炎の中で命を落とした魔法少女は、一人ではなかった。
だが、零の胸の奥で、何かが静かに共鳴していた。
自分は、あの人の名前を知っている。顔も、声も、最後に見せた笑顔も、今も覚えている。
この人は——その名前を聞くことすら、できなかったのだ。
零は、喉まで出かかった名前を、そっと飲み込んだ。
「その後、私は父に願い出た」
隆嗣は、静かに続けた。
「魔法少女が、こんな風に使い潰される国であってはならないと。……誰かを守って死ぬのが当たり前であってはならないと」
「……」
「そして、作られたのがこの部隊だ」
彼は、広間に並ぶ十二名を見渡した。
「表に出られない。功績も残らない。……だが、誰にも守られなかった者を守るために、この十二人はここにいる」
零は、しばらく言葉を失っていた。
やがて、彼女は静かに問うた。
「……殿下」
「ああ」
「私を、助けてくださるのですか」
「そのつもりだ」
隆嗣は、即答した。
「君は、この十一年間、誰にも知られずにこの国を守ってきた。……協会にも、政府にも、一度も助けを求めずに」
彼は、静かに続けた。
「そんな人間が、変身が解けないというだけで、家に帰れずにいる」
隆嗣の声に、初めて感情が滲んだ。
「……それを放置する国など、守る価値がない」
零は、しばらくその顔を見つめていた。
そして、静かに頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「礼はいい」
「いえ」
零は、顔を上げた。
その紫水晶の瞳には、涙が滲んでいた。
「三週間ぶりです。……『助ける』と言ってもらえたのは」
広間に、静かな沈黙が落ちた。
隣で、緋雪がそっと零の袖を握った。
何も言わず、ただ、そこにいることを伝えるように。
やがて、隆嗣が静かに告げた。
「……作戦の詳細を詰めよう」
彼は、勾玉の隊員たちに視線を送った。
「男の潜伏先は、都内の廃ビル。護衛として、旧国防委員会の残党が十数名」
白衣の隊員が、端末を操作して立体映像を投影した。
座卓の上に、青白い光で編まれた建物の模型が浮かび上がる。
八階建ての古い雑居ビル。各階の間取り、階段の位置、搬入口の幅。窓の一枚一枚までが、驚くほど精緻に再現されていた。
「装置の未使用品は、確認できているだけで三基。……そのうち一基を無傷で確保できれば、解除は可能だ」
「一つ、よろしいでしょうか」
緋雪が、静かに手を挙げた。
「なんだろう」
「私も、同行させていただけますか」
隆嗣は、しばらく彼女を見つめていた。
「……羽衣緋雪。白百合の盾、氷のトップエース」
「はい」
「君は、三日前に紅に敗れている」
緋雪の肩が、僅かに強張った。
「……はい」
「それでも、行くのか」
「行きます」
彼女は、迷いなく答えた。
「私は、この三週間、何もできませんでした」
緋雪は、静かに続けた。
「零くんの隣にいることしか。……食事を作って、髪の結び方を教えて、それだけでした」
彼女は、拳を握りしめた。
「でも、それでも隣にいると約束したんです。……だから、行きます」
隆嗣は、しばらく無言だった。
やがて、彼は静かに微笑んだ。
「……いい目をしている」
「……え?」
「紅」
隆嗣は、背後に控える夕日紅を呼んだ。
「彼女に、稽古をつけてやれ。決行までの二日で、できる限り」
「……よろしいのですか」
「ああ。……どうせ、止めても来るだろう」
夕日紅は、静かに緋雪へと向き直った。
「羽衣緋雪様」
「……はい」
「明朝五時、こちらの道場にお越しください」
彼女は、初めて——僅かに口の端を上げた。
「三日前の続きを、いたしましょう」
緋雪は、まっすぐにその琥珀色の瞳を見返した。
「……望むところです」
その夜。
零と緋雪は、桐宮の邸宅に一泊することになった。
用意された客間の窓からは、灯籠の灯る庭園が見下ろせる。
布団は二組、並べて敷かれていた。枕元には湯冷ましの入った水差しと、小さな一輪挿し。白い椿が、一輪だけ活けられている。
「……信じても、いいのかしら」
緋雪が、窓辺で静かに呟いた。
「分からないわ」
零は、正直に答えた。
「でも」
彼女は、庭園の闇を見つめた。
「あの人、嘘をつかなかった」
「……ええ」
「『君を餌にした』って、自分から言ったわ。……普通、言わないでしょう」
零は、静かに微笑んだ。
「……賭けてみる価値は、あると思うの」
窓ガラスに、並んだ二人の姿が薄く映っている。
ベージュのコートを脱いだ、白いブラウスの少女と、銀髪の少女。
あと二日。
それが過ぎれば、この姿とも別れられるかもしれない。
冬の月が、静かに庭園を照らしていた。




